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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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偽教のお話(3)

 風呂場から一刻も早く離れたかったのか、村雨は体が乾き切る前に着替えを済ませていた。

 襲撃者二人との戦い――と言うよりは、一方的な暴行だろうか。早急に片を付けた為か、その音を聞き咎められることは無かったらしい。村雨達以外に殆ど客もいない宿でが、従業員が退屈そうにしていた。


「ねえ、おじさんおじさん、どうして今日はこんな空いてるの?」


「ん? ああ、そうだねぇ……まあ、ちょっと色々と有るんだよ」


 玄関口から入ってすぐ右手の所では、宿の主人と思われる老齢の男が、来ない客を待って座布団に正座していた。余程暇を持て余しているのか、時折はあくびをかみ殺し、滲んだ涙を拭っている。


「偶にはこういう日も有るのさ……ああ、平和だねぇ。お茶飲むかい?」


「ううん、要らない。それよりさ、やっぱりお客さんが来ないのって、あの通行止めのせい?」


 湯のみを持ち上げた老齢の男は、瞬き二つ分だけ動きを止める。それから、何事も無かったかの様に、あまり上等な香りはしない茶を啜った。


「そうかも知れないし、違うかも知れないねぇ。まあお嬢ちゃん、うかつな事は言わないものさ。高札には従ったかい?」


「私の連れが滅茶苦茶な奴でね、字が汚いって読むの拒否してた」


「はっはっは、聞かなかった事にしておくよ」


 座布団の横の床に座る村雨に、男は顔を向けない。全く別な方向を見たまま、茶を啜りながら、飽く迄も預かり知らぬ事と言った風情で言葉を続ける。


「もう何日かしたら、賑やかになるのかもねぇ。だけど、今は駄目なんだ……はーぁ、困った困った。高札を立てた人達が、その内、この宿にも来るかも知れないよ」


「その時には、私達がいたら迷惑になるのかな?」


「うちは宿屋だよ、お客さんを泊めるのがお仕事だ。お客さんが居て迷惑だ、なんて事は言えないねぇ。だけど、その時に偶然出かけたりしてくれてたら、色々と面倒な事が減っていいかなぁ……」


 この男――宿の主人の意図は明白である。高札の内容は苦々しく思っているが、壁に耳あり、はっきり口にする事を憚っているのだ。


「ふうん、そうなんだ……あ、そうだ、おじさん。私達、ちょっと用事が出来ちゃったんだ。それでね、早めに宿を引き上げようと思うの」


「おや、それは残念だね、仕方がない。それじゃあお代の方なんだが……」


「二人で三十文、でいいよね? 布団を使った訳じゃないんだし」


 高札破りの犯人を宿に置いておけば、どんな厄介が舞い込むか分からない。既に舞い込み済みだと知らない宿の主人は、正当の料金を要求しようとする。機先を制したのは村雨であった。


「はっは、怖いお嬢ちゃんだ。うちは銭湯じゃ有りませんよ、お部屋で休みもしなさった。三十文というのは、そりゃお一人様のお値段にもならんでしょう……お二人で八十文かねぇ」


 流石に飯も食わさず布団も貸さずで、真っ当な宿泊料の請求は出来まいと見たか、請求金額を随分と引き下げてくる。どうせこの金額もはったりで、最後は五十文くらいに抑えるつもりなのだろうと、村雨も疑ってはいた。


「んー……ちょっと高いなぁ。それだったら、普通に泊まってちゃんと宿代を払うよ」


「急ぎの用なんじゃなかったのかい?」


「予定は未定って良く言うじゃない」


 やはり、商人というのは難敵である。小さいものであろうが、利益を簡単に手放しはしないのだから。どうやって認めさせたものかと思っていると、ずるずると何か引きずる様な音が聞こえてきた。


「おお、ここに居たか、村雨。出かける準備は良いのか?」


 姿を見せたのは、まだ髪から湯気が立ち上っている桜と、引きずられている襲撃者の男。そして、折れていない方の腕を背中に捩じりあげられた、襲撃者の女であった。

 宿の主人は、にこやかな表情を保ったまま顔を青ざめさせる。宗教団体といさかいを起こすのは損、だからこそ回りくどい言い方までしていたというのに、その配慮を完全に粉砕する奴が出てきたのだから。宿の主人は、手ひどく痛めつけられた二人が、拝柱教の信者だと分かっていた。何せ襲撃前、露天風呂に近付くなと、わざわざ念を押しに来た二人だったのだ。


「……あはは、こういう事なんだよねー……だからさ、おじさん。出て行って上げるから、宿代は無かった事にしてくれない?」


 もう、こうなってしまえば聞き分けの良さを発する必要など有るかと、村雨も開き直った。否と答えれば居座るぞ、そういう脅しの意図が言外に含まれていた。


「あっははははは……ひえぇ、敵わん敵わん、参りました。せめてそちらのお二人は、手当の為にも置いていって頂けませんか?」


「こちらの男は構わんぞ。女の方は駄目だ、道案内をさせる」


「では、その様に。勿論お代は頂きませんとも、頂きませんから、あの、早めにお立ちになって下されば幸いです」


 こうなれば儲けより厄介払いだ、保身に走る早さは流石に老練である。平身低頭する宿の主人を背に、桜は早々に玄関口を出ていった。


「ごめんね、ごめんね、でもお金の方があんまりね……じゃ、さようならー!」


 柔らかい表情の中、宿の主人の口元が、歪になっているのを村雨は気付いてしまう。が、旅の恥は掻き捨てとも違うが、どうせもう会わぬ人間だ。自分が何時の間にかずうずうしくなっていた事を、村雨はたっぷりと理解させられたのであった。





 襲撃者の女の腕を捻り上げ、鼻に短刀を突き付けながら、桜は道案内をさせていた。

 目的地は、拝柱教の司祭とやらが居る教会である。殺すつもりで人を送り込んでくるならば、寧ろ自分から出向いて叩き伏せようというのが、桜の魂胆であった。

 村雨としても、襲撃を警戒しながら旅を続けるよりは、安全を確保しておきたい所だ。手を出してくる相手を先に叩く、その方法に異論は無い。敵の本拠地に踏み込むのは賢い手段ではないとも思ったが、然し他のやり方も見つからないのだ。

 どうせ、一宗教団体の狂信者如きで、この化け物も怯え竦む怪物を傷つけられる筈も無い。人格的な面では兎も角、強さという一点に於いては、村雨は桜に絶対の信頼を寄せていた。


「おい、村雨。この方向で間違いは無いのか?」


「んー……そうだね、臭いが残ってる。さっきの男と、そこの人の臭い」


 敵対者の道案内を、完全に信用する訳にはいかない。村雨の嗅覚という裏付けを取って、正しいと断言できる道を辿っていく。

 草木生い茂る山では有るが、何度も人が通った形跡か、はっきりと道が出来ていた。それを辿っていくだけだったから、然程難しい探し物でもない。道を誤る事なく、四半刻に少し足りない程に歩いた頃である。


「あの、あの白い建物です……ほら、その木の向こうに見える……」


「おお、あれか。中々に大きな教会だな、どこからその金を集めたやら」


 案内をさせていた女が指差した方向に、まだ遠くは有るが、白塗りの壁が見えた。桜は片目をつぶり、もう片目だけで、その建物を眺めている。

 日の本にも外国文化が流れ込んでいるとは言え、この箱根の辺りはまだまだ、江戸に風習が近い。ましてや山中ともなれば、その西洋風の建築の違和感は計り知れなかった。緑の中に割り込んだ白は、自然の中に紛れ込んだ不自然と呼びかえても良いものだった。


「このあたりから、人の臭いが混ざり過ぎてるね……うん、何人居るかは分からない。数え切れないくらい。……なんか、金属の臭いが結構強めに混ざってる」


「武装していると?」


「多分。でも……なんだろな、私達と別な方向から続いてる臭いが……武器持ってる人達は、外から来たのかも。どっちにしても、あの建物に臭いは向かってる」


「そうか、ならば当たりだな」


 罠を恐れていないのか、それとも仕掛けている筈がないと高を括っているのか、桜は正面から建物へ近づいていく。いつかの、盗賊の洞窟に赴いた時と同じだ。

 そして、結果論では有るのだが、その行動は成功する。信者も歩きまわる筈の場所に、罠を仕掛けておく様な真似は出来なかったらしい。何者かの襲撃を受ける事も無く、桜は、教会の大扉の前に辿り着いた。

 扉の向こうでは、おそらく指導者であろう立場の者が、大声を張り上げて説教をしている。漏れ聞こえる言葉を聞いて、桜はまたおかしそうに、クスクスと喉の奥から笑うのだった。


「……桜、どうするの?」


「知れたこと、このまま踏み込むのよ。が、暫し待て……おい、ここにはどれだけの人間が居る?」


「はっ、はぃい! 信者が百二十六名、うち戦闘訓練を受けたものが二十五名……と、捕虜が三十名です!」


 すっかり牙を抜かれた女は、軽く鼻を突かれるだけで、聞いていない部分まで事細かく口にする。村雨からすれば、正面突撃などは無茶な話であり――桜からすれば、とてもではないが食い足りない数だ。然しながら、それよりも気になるのは、捕虜という項目である。


「……捕虜? どこから捕まえてきた?」


「あ、朝方で私は関わっていませんが……幕府側の兵、三十人が地下に閉じ込められています……信者の居住区に、攻め込んできたので……」


「三十人を捕虜? え、戦闘訓練受けたの、二十五人って……?」


 村雨は、耳を疑った。宗教団体の行う戦闘訓練というものが、どのような内容なのかは知識がない。だが、まさか幕府の兵士を捕虜にしてしまえる程の戦闘力を持っているのか――兵士というものは、戦う事が仕事だと言うのに。


「桜、ちょっとヤバくない……? 裏側とかに回り込んでさ、いきなり司祭に不意打ちして人質にしちゃうとか……」


「面倒だ、却下」


「やっぱりそうだよねー……はい、分かってました。無駄な質問してすいません」


 いざ突撃となったら、自分は桜の背後に隠れている事にでもしようか。最初から弱気を見せている村雨であった。


「あ、あの……此処まで案内したのですから、その、私は……?」


「おお、そうだな、そうだった。案内御苦労、お役目御免だ」


 この先に不安しか抱えていない村雨に対し、ようやく解放されるという事で、襲撃者の女は安堵の表情を見せた。緊張の糸が緩み、反動で涙すら零す女は、その場を逃げる様に立ち去ろうとして――


「待て、別な仕事だ」


 後ろから、折れていない方の肩を、桜に掴まれた。

 女は、浮遊感を味わった。自分が仰向けに空を見上げていると気付いた。帯と肩を支えに、高く掲げられているのだ。


「ええ、えええ、待ってください、止めて、そんな」


「求むるぞ、さらば与えたまえ。門をたたく者は開かるるなり!」


 脚をばたつかせる抵抗は、何の意味も生まない。桜は女の体を毬か何かの様に、閉ざされた扉へと投げつけたのだった。





「――故にわれらが救世主メシアである大聖女エリザベートは、この国を、神の御心を説く為の拠点としてお選びになったのである。大聖女の悲願である塔の建築が達成された時、我らもまた彼女の導きによって、天の国での永遠の生を得るのである!」


 聖言至天の塔教団司祭、ガルシア太瀬久蔵おおせきゅうぞうは、勤勉という言葉からは程遠い男であった。米問屋の家の二男坊として生まれた彼は、高度な教育を受ける機会を、望めば幾らでも手に入れられた筈だった。然し彼は、自分を磨き価値を高めるという事に、何の利益も見いだせなかったのだ。生まれついて金は有る、欲を張らなければ生きていく事は出来る。周囲の勧めの通りに流されているのは、彼に取って幸福な生き方だったのだ。

 だが、その様な生き方を続けて、報いを受けない筈が無い。業を煮やした親に勘当を受けた彼は、その日に食う物さえ困る有り様と成り下がる。聖言至天の塔教団――拝柱教に出会ったのは、物乞い生活の最中であった。

 最初の印象は、なんと馬鹿な連中が、もっと馬鹿な連中を騙しているのだろう、という物だった。何処かの阿婆擦れ女を崇めれば、死後に良い生活を出来るなど、世迷言もいい所だ、と。然しながら彼は同時に、それを説く司祭の恰幅が良く、そして非常に上質の絹を身に纏っている事にも気付いたのだ。

 馬鹿を騙せば良い暮らしが出来る、久蔵には容易い事だった。嘘を付くのは得意であった上に、久蔵は背が高く、銅鑼の様に大きな声をしていたのだ。胸を張って大声で、借り物の主張を説く。それだけで何時の間にか久蔵は、司祭として信者百人以上の上に立つ暮らしに辿り着いていた。


「この人の世を見るが良い、なんと浅ましく醜い世界だろうか! 貧者は愈々貧し、富者は更なる富を得る。善き人が富むのではないのだ! 然し善良なる我らが天の国に至るならば、悪にして栄えた者を百倍したよりも貴い、真なる反映を得られるのである!」


 善人が救われるなど、有りはしない。賢い奴が得をするのだ。商家に生まれた久蔵は、それを本能の域で知っていた。

 こうして聞こえの良い言葉を並べるだけで、馬鹿は己の善性とやらを示す為に、幾らでも財産を貢ぐだろう。塔の建築費用などと言っていたが、どうせ救世主とやらの放蕩に消えるのだ。幾らか分け前を頂いても、誰も文句は有るまい。上納金から少しずつ抜き取った隠し財産は、実家の米問屋の財とは比較も出来ない、巨大な金額になっていた。


「さあ、我らが神に、そして救世主に祈ろう! 我らの上に救いが降りてくださる様にと!」


 三十になるかならぬかの年齢だが、久蔵は、世の中が楽なものだと思っていた。馬鹿は幾らでも居るから、それを踏み台にし続ければ、自分は決して低い位置に落ちる事がない。


「そして、我らはまた神に誓おう! 我らは唯一無二の教えに従い、また唯一無二の教えを広げていくのだと! 一人でも多くの迷える子羊に、我らが真理を分け与えるのだと!」


 信者達の歓声、拍手を浴び、今日これからの過ごし方を考える。もう、司祭としての退屈な仕事は終わった。ここからは権限を利用し、信者を好きな様に使って、私的な楽しみを満喫する時間だ。久蔵は既に、自室に呼ぶ女性信者を、何人か見繕った所だった。

 門の外より声がする。何処かで聞いたような一節を、自分の好きなように書き変えた冒涜の文句だ。信者達の何人かが異変に気付き、背後の扉を振り返る。人間が、扉を破って飛び込んできた。


「リ、リタ!?」


 久蔵は驚愕する。扉を破って教会に入ってきた――放り込まれたのは、関所を破った者を処分しに向かわせた、リタという腕利きの女だったからだ。久蔵が預けられた武装信者の中で、最も身体能力に優れた一人、それに加えて別な男まで付けてやって、送り出したというのに。

 リタの右腕は、明らかに不自然な方向に曲がっている。骨が折れているのは、医学の素人の久蔵でさえ分かった。

 横たわるリタを大跨ぎにして、一人の女が教会に踏み込んだ。黒衣を纏い、長大な刃を背負い、長い黒髪を翼の様に靡かせる――全てが黒いその女は、ただ一つ赤い口を裂き、凄絶な笑みを顔に張り付けていた。


「――古の人に『偽り誓う勿れ、汝の誓いは主に果たすべし』と云える事有るを汝ら聞けり――然り、然り。お前は神に誓った」


 立ち並ぶ信者の群れが二つに割れる。全ての目が、聖なる場として定められた空間に、穢れを齎すかの黒に囚われていた。


「されど我は汝らに告ぐ、一切誓うな。天を指して誓うな、神の御座なれば也。地を指して誓うな、神の足だいなれば也。エルサレムを指して誓うな、大君の都なれば也。己が頭を指して誓うな、汝頭髪一筋だに白くし、また黒くし能わねば也!」


 然して、その口より矢継ぎ早に繰り出されるは聖句であった。悪魔の様に黒い女は、我こそ預言者の代行たらんと、そこにいる信者達を糾弾している様でさえあった。


「悪魔よ去れ! 儀典を奉じ、偽信を掲げ、善良なる子羊を惑わす蛇よ! その祭壇は貴様の様な邪悪の徒の立つ場では無い!」


「な、何奴、無礼な、名乗れ!」


 指を向けられ、悪魔と謗られた。平時の久蔵であったのなら、慣れ親しんだ詭弁に任せて、逆に黒衣の女を批判したのかも知れない。だが、信用していた部下の敗北と、天雷が如き叱責の前に、平常心を保てなかった。自ら、相手に名乗りを許してしまった。

 女は、背の鞘の金具を外し、長大な太刀を、床に垂直に突き立てる。そして脇差を右手に抜き、真っ直ぐに横に突きだした。信者達がどよめく、動揺が伝染していく。


「――スニェグーラチカ教会『異端審問官』、これより背教の輩に裁きを下す」


 太刀は縦の柱、女の腕は横の柱。その影は十字架を描いていた。楚々たる白壁を四つに裂く、断罪の証を描いていた。


 

 スニェグーラチカ教会とは、大陸に存在する、超穏健派の耶蘇教の小教会である。他宗教にも寛容であり、ましてや他教を弾圧する役人など任命した事は、二百年の歴史に一度たりと無い。

 それは、雪月桜という女が持つ知識と威容を総動員しての、堂々たるはったりであった。

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