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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
22/187

偽教のお話(1)

 旅も四日目、桜と村雨は、箱根の関所に差し掛かっていた。

 男が通るのは容易いが、江戸から出る女には厳しいのが関所の常。とはいえ、開国五十年もすれば、諸外国の女性運動家の方々の声も、国内には入ってきた。すっかりモダンな雰囲気に染まってしまった京の都などは、若い学士が気勢を上げて、男女平等を謳い始める始末である。

 そんな訳で、女性二人の旅とは言えど、通行手形さえあれば、関所は容易く通貨出来る筈だったのだ。


「……遅い! 何だこの行列は、どうなっている?」


 だと言うのに、なぜか関所の前には長蛇の列が完成してしまっていた。唯我独尊の桜にしては珍しく、真面目に順番を守ってはいるのだが、苛立ちが明らかに目に見えている。


「なんでだろうねー……ねえ、前の人。何が有ったか分かる?」


「いんにゃ、さっぱりだぁなあ。けんど、さっきから戻ってくるのはいても、関所通った奴は……ああ、まーた戻された」


 村雨は、前に並んでいた男に、列の様子を見て貰っていた。丁度その男はひょろりと背が高く、人の群れを遠くまで見渡せた

 その男の言うとおり、先へ進む事を諦めて山を下りていく者は見受けられるのだが、こちらから向こうへ通過出来た者が見つからない。これだけの行列が出来ていながら、誰一人として、関所を通行する許可が下りていないのだ。


「ううむむむ……このままではらちが明かんな。おい村雨、ちょっと行って鶏の啼き真似をしてこい」


「清少納言の昔より、日の本の関は函谷関より厳しいのでございます。無理に通りたいなら御輿と家をちょうだいよ」


「お前はなんと貪欲な臣下なのだろうなぁ……腕とは言わんが髷を切る程度の忠義を見せんか」


「髷なんかを信じて付いていった結果が伏兵。石亭から教訓を得るべきだと思うね」


 冗談と皮肉のぶつけ合いをしながらも、列は少しずつ進んでいく――が、やはり誰も関所の先へは進まない。戻ってくる人数が次第に増えてきた様な気がして、村雨はぴょんぴょんと跳ねながら、前方を覗き込んだ。


「……何か、人だかりが出来てるね。高札が立ててある、何が書いてるかは……流石に、ここからだと見えない」


「通行止めのお触れ書きか? ……よし、こういう時はだな、見てきた者に聞く方が早かろう」


 そう言うなり桜は、関所を通れず戻ってきた人の群れから一人の女を選んで、肩を掴んで引き寄せる。


「そんな訳でだな、あの高札の中身を教えて欲しいのだが」


「は、はい!? どういうわけですか!? ……いや、はぁ、教えてあげますけれどさ」


 いきなり引き寄せられた女は、あまり動じない性質の様で、驚愕に裏返った声をすぐに戻した。


「今日から通行料を一人につき五両取る、なんてめちゃくちゃが書いてあるんですよぅ。路銀は多めに持ってますけど、それでもちょっと金額が……」


「五両? なんとまあ、暴利な事だな……五朱ならばまだ分かるが」


「それでもちょっと高いよ……って、箱根関所って通行料取られたっけ?」


 およそ一両もあれば、一月の生活は成り立つのである。ただ関を通過するだけで五両も取るのでは、金惜しさに関所破りをする者まで出かねないだろうに。そもそもこの関所、通行量のやりとりなどという面倒な作業、幕府がきっぱりと止めてしまっていた筈なのだが。


「……ふむ、どうする? 素直に払うという選択肢は論外だが」


 女の肩から手を放してやり、まだ律儀に列に並んでいる桜。関所は通らねば西に行けないが、かといって五両など払ってしまえば、これから先の旅は、恐ろしい倹約生活となるだろう。我慢が嫌いな桜は、端からそれを勘定に入れていない。


「何をするにも、高札を立てた人の顔を拝むのが先じゃない?」


「よし、それで行くか」


 綺麗な解決法とは言い難いが、どうせ通れないのなら、列を為す意味もない。周りの非難の視線は気にせず、さっさと前へ進む事にしたのであった。






 さて、高札では有るが、これがどうやら、公的に作られた物には見えない。

 拾い集めた木を組み合わせて作ったような、支柱一つさえ不揃いの不格好な高札には、ミミズがのたうった痕跡の様な文字。


「酷い悪筆だな……まあ、読めん事も無いが。どれどれ……?」


「この関を通らんと欲する者、おのおの五両を置いて行くべし……うん、五両って書いてあるね」


 あまりにも理不尽な要求内容を、桜と村雨は、同じような角度に首を傾げながら読みあげていた。


「こんなもの、誰が素直に頷くのだ?」


「よっぽどのお金持ちでも嫌がると思うけど……」


 実際の所、五両も払って通過していく者は、長蛇の列が半分まで減っても、誰もいないのであった。


「そしてまた、続きの文言がなぁ。支払いを拒む者、我らが救世主の裁きがあると心得よ、聖言至天の塔教団……逆十字でも飾るのか?」


 通行料の金額を示す文章より更に読み進めれば、この悪質な文章の布告者の署名までが有った。桜がその字面から受けた印象では、耶蘇教に唾を吐く集団かの様に思われたのだが、


「それをひっくり返して飾ってる。最近はやりの、新しい切支丹の在り方を説く云々って言ってる集まり。ここ数年で始まったらしいよ」


 そのものずばり、耶蘇教の一派を騙る者達であるらしい。村雨が言うには、以下の通りであった。

 聖言至天の塔教団、俗に『拝柱教』とも言われる集団である。彼らは人里離れた山奥に教会を打ち立て、そこで集団生活を営んでいるらしい。教祖が任命した司祭が、その土地の教会の主。司祭より下の信者は全て平等で、日夜農業に従事し、作物を皆で分け合って生きているとか。

 彼らが外の世界と関わるのは、商品作物を売りさばき、代わりに米を買いあげていく時である。山奥ではやはり、田んぼを作るのは難しい様だ。

 ここまでの内容ならば、ただの農業集団でしか無かっただろう。だが、この様な高札を掲げる集団であるならば、そう大人しい連中では無い。


「……美しい娘はとりわけ神の恩寵に預かっているのだー、とか言ってさ、若い美人ばっかり教祖の所に集めてるんだって――あ、彼らは教祖を救世主って呼んでるんだけど。集められた人達は、そこで特別な訓練を受ける――」


「ふうむ、なんとも羨ましい、いや許しがたい」


 桜は、どこか馬鹿にした様な調子で、その話を聞いていた――羨ましいという部分だけは、多分に本音が漏れているが。


「――黙って聞け。訓練の内容が、人を騙して籠絡する事なんだってさ。で、商人の所とかに派遣して、連鎖的に信者を増やしていってる。『錆釘うち』の調べじゃ、今は信者が五千人とも六千人とも……」


「……そいつらは、本当に耶蘇教の一派なのか?」


 何かを嘲るような笑みを浮かべていた桜が、急に表情を戻して村雨に尋ねた。桜が気まぐれなのは今に始まった事でも無いので、村雨もあまり驚きはしない。


「うん。石から削り出した十字架に祈ってるってさ。彼らの救世主に祈り続ければ、天国へ続く梯子を上る事が出来るって―――」


「っははは……はは、なんだそれは! なんともまあなんとも愉快な教えだな、はっはは……!」


 かと思えば、突然腹を抱えて笑いだしたのには、流石に村雨も、思わず一歩引きさがってしまった。拝柱教の信仰とやらが余程おかしく聞こえた様で、滑稽本を読んでいる時にしか聞かせない様な、侮蔑混じりでは有るが楽しげな声であった。


「あー、おかしい。この国以外では数日で潰れそうな教義だな……まあいい、つまりこの高札、その馬鹿教団のものという事か」


「……えーと、うん。おかしいのはあなたもだと思うけど、うん。そういう事になるね」


 一歩引いた様子だった村雨だが、桜の言葉には同意する。そして、この面倒な状況をどうやって切り抜けたものかと考えていた。

 流石にこの様な事をしていれば、噂は数日で伝わり、幕府から兵でも送られてくるだろう。何もせずとも数日待てば、通過できない事は無い。ならば少々予定を変更して、麓の宿場街で一泊するかと考えていたのだが――


「馬鹿馬鹿しい、さっさと行くぞ」


 ――ひゅう、と風が吹いた様な気がした。高札が四つに切り分けられていた。


「……え、はい?」


 見れば、桜の手は腰の脇差に置かれていた。抜き打ちで一度、引き戻すに合わせて一度、合わせて二度斬り付けたものらしかった。乾いた道の上に、分断された板がカラカラと落ちる。


「おーい、手形はあるぞー、早く私を通さんかー」


「……だからさぁ、頼むからさぁ、こういう時に何も考えず行動に移すのはさぁ……ほうら、明らかに怪しいもの」


 関所の役人の下へ、通行手形の確認を要求しに行く桜の背を、肩を落としながら見送る村雨。すぐさま役人の一人が青い顔をして、斬り壊された高札の修復を始めた。

 これで面倒事に巻き込まれるのは確定である。こうなればもう、少しでも危険を避ける手立てを講じるべきだ。そう考えた村雨は、高札を直し始めた役人に、話を聞きに向かうのであった。






 同時刻、箱根山中にて。

 刀と短槍で武装した役人達が、一匹の犬を先頭に据えて、森の中を進んでいた。総勢三十人、重い具足を身につけていながら、並みの旅人よりは尚早く斜面を登っていく彼らは、間違いなく訓練を受けた兵士であった。


「どうだ、何か見つかったか?」


「先程からの足跡以外には、何も」


 隊列の中央、最年長の男が、犬を連れた若者に確認する。彼らは先程から、森の中の足跡を追っているのだ。

 武装信者の脅威を振りかざし、天下の往来を防げる拝柱教。彼らを排除する為の部隊は、既に派遣されていたのである。剣術と魔術に長け、屋内戦に特化した兵士三十名は、例え信者達が百名居ようが鎮圧する自信が有った。実績に裏付けされた、揺るぎ無い自信である。

 過去に於いてこの部隊は、打ち捨てられた古砦に立て籠った賊徒の鎮圧に駆り出された事がある。武器弾薬の貯蔵も大量、五十名以上の賊徒の巣へ忍び込んだ彼らは、半刻足らずで任務を完了した。賊徒側の死者八名、負傷者十四名、生存者は全て捕縛。鎮圧部隊側の死傷者は、火縄銃の流れ弾に腿を貫かれた者が一人居ただけであった。


「……気が進まねぇなぁ……」


 部隊を率いる最年長の男――青峰あおみね 儀兵衛ぎへえは、今回の任務を内心苦々しく感じていた。敵が悪逆非道の賊徒であるなら、容赦無く殴り倒して拘束し、引きずって凱旋する事を躊躇わない。だが今日の相手は、宗教という麻薬に毒され洗脳された人間である。

 無知故に、愚かであるが故に道具として扱われる者へ、磨き抜いた力を振るうのは、儀兵衛の好む所では無い。厳めしい顔つきの儀兵衛だが、その本質は善良な男なのだ。


「隊長殿、どうかなさいましたか?」


「いいや、何でもない……それよりな、そろそろ敵さんの手の中だ。結界破りの術を始めろ」


「はっ、了解です」


 特定の範囲への侵入を防ぐ、或いは侵入した事を察知する為の結界術が、もう暫く進んだ場所に張り巡らされている。足跡、犬の鼻を頼って進んできた道は、どうやら紛れも無く、拝柱教の教会へ続いているらしい。


「いいか、女子供は手っ取り早く、催眠魔術の後に拘束。それで眠らない奴は、出来るだけ優しく殴り倒しておけ。司祭って奴を捕まえて、そいつを脅して命令を撤回させる。散開は無し、全員抜刀」


 三十名の兵士が、それぞれ間隔を広げた上で刀を抜いた。ここからは臨戦態勢、愚痴も気軽に吐けない状況下である。




 程良く張りつめた緊張感の中、儀兵衛以下三十名は、結界をするりと潜りぬける。破壊するのではなく、自分が結界の一部であるかのように見せかける偽装で、反応をさせずに通過したのだ。彼らは足音も殺し、枯れ枝一つ踏まないようにして進んでいく。

 すると、木々の向こうに、白い壁が見えた。建築後、数年も経過していないだろう白壁は、この山中に似つかわしいものとは思えない。犬のクロは何を感じたか、尻尾を腹に巻いていた。

 儀兵衛は先頭に進み出て、その建物の全容を視認する。耶蘇教の教会とおぼしき建物の左右に、平屋の居住区域を付けくわえた、洋風の建築。屋根の上には巨大な十字架と、それに立てかけられた梯子の彫刻が有った――間違いない、拝柱教の教会だ。

 信者の歩く空間に罠は仕掛けられまい、つまりは居住区域からの侵入こそ安全であると、儀兵衛は踏んだ。右手で後続の者に合図を送り、音を立てぬようにして、建物の周囲を回りこむ。


「……行くぞ」


 三十人が一列になり、居住区通路と屋外を仕切る扉へ向かった。扉を潜った二十九人は通路を進み、一人は気付かれる事なく、扉の外で昏倒していた。






 儀兵衛の部隊の武器は、その作戦の遂行速度である。建物の中へ入り込んだ彼らは、重装備を物ともせずに走る。


「ちっ、思ったより居るなぁ……」


 叫ぼうとした信者の娘の口を手で塞ぎ、催眠魔術で速やかに意識を奪い、手を縛る。幾度も繰り返した一連の動作を、儀兵衛は淀みなく遂行していく。予想以上に数が多い――非武装の信者が、である。武装している者も数人は居たが、あっさりと眠らせて武器を奪った。

 楽な任務だ、もうじき建物左側居住区の制圧は完了する。おそらく最後の一人であろう少年を眠らせ、適当な部屋へ放り込んだ。


「負傷者、居るか?」


「ロ班五名、負傷無し」


「ハ班五名、負傷無し」


「ニ班五名、負傷無し」


 儀兵衛以下三十名は、イからへまでの六班に分かれている。儀兵衛が率いるのはイ班、儀兵衛含めて五名、負傷無しを自分の目で確認した。


「……ホとヘの連中はどうした……?」


「は……突入までは、私の後ろに居たのですが……」


 確認が出来たのは、二十名だけだった。部隊の三分の一にあたる十名が、点呼に応じない。戦力とも呼べない様な信者の鎮圧で、まさかそれだけの数がやられたというのだろうか――先を行く者に、異常の一つも感じさせず。


「……ハ、ニ、両班で前後の視界を確保しながら戻れ。ここから見えないって事は……外か、信者ぶち込んだ部屋の中だ」


 信者達の拘束に手間取っているというなら、後で叱りつけてやらなければないが、それでもいい。五名で前方、五名で後方を確認させながら、左側居住区の部屋を確認させていくと――


「……隊長、ホ班の連中が……!」


 確認に向かったうちの一人が、扉を開けて立ち尽くしていた。儀兵衛はすぐさま駆け寄り、部屋を覗き込む――ホ班五名が、拝柱教信者と同様、意識を失って拘束されていた。


「どういうこった……?」


「隊長、隣の部屋にはヘ班の奴らも……生きてますが、くそ、なんだこりゃ……!?」


 訓練された兵士達だ、混乱して騒ぎたてるような事は無い。だが、その表情に不安が浮かんだ事は、儀兵衛の目にはっきりと見て取れた。もはや、ホ・ヘ両班が、何者かに奇襲を受けた事は明らかなのだから。


「……全員、索敵に集中しろ。ただの信者は放っておけ、何か居るぞ……!」


 部隊全員があらゆる手段で、謎の襲撃者の位置を探る。或る者は蝙蝠を真似た音響探知、或る者は熱源探知、或る者は床を移動する振動の探知。儀兵衛も薄い簡易結界を張り、大きく動く者が居ないかを探り始めた。

 二十人の大の男が、固まったまま動けない。彼らは、自分から向かってくる相手なら、倍の数であろうが恐れずに突っ込んでいける戦士である。だが、見えぬ敵との戦い方など、そもそも儀兵衛でさえが知らないのだ。見えぬ敵とは戦えない、見える様にしなければならない。


「敵影一つ、真上です!」


 呼吸にさえ神経を擦り減らす緊張の中、最初に敵を捕捉したのは、温度差を視認するという索敵魔術を発動していた者だった。儀兵衛は反射的に、手にしていた刀で天井を突き上げる。手応えは無い、それでいい、大まかな居場所さえ分かったのなら。


「『千棘千針』『弾け飛べ』!」


 短詠唱の二連。天井裏で、儀兵衛の刀の切っ先が破裂する。鋭利な金属の塊が砕けて、破片が天井裏の狭い空間で飛散する。大粒の雹が降ってきたかと思うばかりの音が通路に響いた。

 儀兵衛が得意とする、刀一振りと引き換えに、敵に多大な損傷を負わせる破砕魔術。本来は敵の体に刀を突き刺して発動し、肉や臓器をズタズタに引き裂く為の――生け捕りにする為ではなく、完全な殺傷用の技だ。例え負傷者は出ていないにせよ、この敵に対しては殺害を止むを得ず。姿さえ見ていない相手に、儀兵衛はそのような裁定を下していた。


「……どうだ?」


 死んでいてくれと願いながら、切っ先の無くなった刀を降ろす。最初に敵を発見した部下に、喉を絞る様に声を出して確認する。


「敵影、動きません。誰か、音は」


「心音、呼吸共に正常、負傷は皆無と見受けられ――あ!」


 負傷は皆無、との報告に、儀兵衛は床を殴り付けたくなる思いだった。金属の破片が高速で飛散、体に深く突き刺さるあの破砕魔術は、至近距離に限り、一発一発が銃弾にも勝る殺傷力を誇るのだ。それが完全に防がれたのか――待った、今の部下の叫びは何だ。無意識に儀兵衛は刀を捨て、背の短槍を低く構えた。

 儀兵衛の頭上、天井が丸く繰り抜かれ、板が落下する。咄嗟の判断で廊下の壁側へ飛びそれを回避した儀兵衛は、天井裏から降り立った敵の姿を、ほんの一瞬だけ視認する事が出来た。

 川を泳ぐ蛇に似ている少女。それが、儀兵衛の受けた印象だった。頭の天辺から脚の先まで、一本の縄の様に起伏の無い体系がそう思わせたのだろうか。それとも床に降り立った瞬間の、体の全てを曲げて音を殺すしなやかさが理由だろうか。

 子供と言うには成熟していて、だが成人と呼ぶには幼い、意思の薄そうな顔。一切の衣服を身に付けず、凶器となる物も手にしていない――僅かな時間で見えたのは、そこまでだった。


「……消え、た……? おい、誰か――」


「居ます、そこに居ま――っぐお……!」


 少女は、瞬き一つの間に姿を消す。移動したのではない。少女はその場に居ながら、完全に誰の目にも見えなくなったのだ。動いていないと伝えようとした兵士が、喉を押さえて崩れ落ちる。


「く……擬態か、ちきしょう!」


 森林ならば草木を、平野でも土を被り、周囲の景色に紛れ込む戦術は存在する。だが、あの蛇の様な少女は、擬態する場所を全く選ばず、そして完全に風景に溶け込みながら動けるようだった。

 次々に儀兵衛の部下が倒れていく。喉か顎を打たれ、一撃で意識を狩り取られた彼らには、余計な負傷は只の一つも無い。慈悲深い蹂躙であった。


「く、ここかぁっ!」


「いっ……馬鹿、俺を殴るな――――げぇっ……!」


 横を通り過ぎた気配を頼りに短槍を振るった兵士もいたが、柄で同僚を殴りつけるだけに留まる。屋内で二十人が一か所に固まれば、こうなるのは予測出来ていた筈だ。奇襲を恐れるあまりに集まってしまった時点で、彼らの数の優位は、同士打ちの危険を増すだけの物でしか無くなっていた。同様の理由で、不可視の敵への対抗策としては常套手段の、広範囲攻撃魔術も選択できない。

 一人、また一人、床に倒れ伏していく。自分が最後の一人となっても、儀兵衛はまだ、この敵を仕留める事を諦めていなかった。


「……『堅壁貫く能ず』」


 狙ってくるのは喉か顎、範囲として考えればかなり狭い。その部位だけに、対衝撃の防御魔術を展開し、待ち構え――顎を、左から右へ打ち抜こうとする衝撃が有った。

 魔術障壁がその一撃を緩和し、意識を保つ事に成功する。それと同時に短槍を、自分の周囲全体を横へ薙ぎ払うように振り抜く。槍の穂先が儀兵衛の右手側を指した瞬間、短槍の柄に、硬い物を強かに打ち据えた手応えを感じた。

 あの感触なら腕か脚の一本は砕いただろう、そう確信した儀兵衛は、姿の見えぬ敵目掛けて、間髪入れず刺突を放った。先の打で居場所は掴んだ。高速の連撃は、習熟した部隊員の誰にも避けられぬ、必殺の技である筈だった。


「んな、んだとぉ……!?」


 槍の穂先が壁を刺す。獲物の鮮血は飛び散らない。逃げられたのかと歯噛みする儀兵衛の首へ、気管と頸動脈を同時に圧迫する手が伸びる。脳への血液供給を断たれた儀兵衛は、沈むように意識を失った。




 廊下に無傷で横たわる二十人の兵士。全てが的確に意識を狩り取られ、指一本動かす事も出来ずにいる。

 天井に開いた穴から彼らを見下ろすのは、あの蛇の様な少女だった。


「……予想以上に練度が高いですね……これは、拠点の移動を進言するべきでしょうか」


 自分が一蹴した兵士達へ高評価を下し、天井裏の暗闇に溶け込んでいく。入れ違いに駆けつけた武装信者が、兵士達を何処かへと引きずり連れ去った。

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