石頭のお話(4)
老人と桜が語り合い、そして老人が刀を打つことを決めた、次の朝。
その日、老人は作業場に籠りきりになり、外へ出て来ようとはしなかった。桜もまた、老人の横に立ち、金属の形状が変わっていくのを見つめていた。
二人の間に、言葉などは無かった。ただ、溶かした鉄を霊亀鋼へ加工する作業の折り、血を寄こせと一言だけ、老人が要求したばかりである。桜は無言のまま、短刀で指先に傷を付け、数滴の血を提供した。
火の粉が散り火花が舞い、火炉は老人の魔力を喰らって、屋根をも焦がさんばかりに燃え上がる。作業場の温度は、摂氏四十度を超えていただろう。
「おい、汗」
「おう」
老人の額から汗が零れ落ち、眉にまで届く。桜は手拭いでそれを拭きとる。老人は何事も無かったかの様に、鋼を打ち続ける。
日の出と共に鋼を打ち始めて、今、太陽は中天に達している。老人は手を休める事なく、桜もまた、根を生やしたかのように脚を動かそうとしない。
「ねえ、お昼は食べないの?」
壁の向こうにまで伝わる熱気に負け、薄襦袢一枚だけ引っかける姿になった村雨が、扉の隙間から顔を出す。
「いらねぇ」
老人の答えは、振り下ろされる鎚の音にも似て、短く強い声だった。
「だって……朝も、何も食べてないでしょ?」
村雨は自分の分だけでも朝食を済ませたが、作業場に籠った二人は、今朝から水以外は何も口にしていない。食事の為にその場を離れる事さえ厭うかの様だ。
「日の入りに喰う。その辺りに飯を炊いておけ、五合だ」
「合わせて十合、それ以下では足りんぞ」
備蓄の米が足りるのか。村雨は、そればかりが気がかりであった。
台所の米の量を確認して、夕食にはまだ余裕があると判断した村雨は、朝食の残りの白米で握り飯を作る。自分しか食べないとは思わず、少々米を多く炊き過ぎていたのだ。
前日の失敗を反省し、水分は少なめに。曲げた指に合わせて、炊きあがった米は小さく纏まる。海苔は見つからなかったので、干し肉を外から巻き付けた。塩分を摂取するにはちょうど良いと踏んだのだ。
「はい、せめてこれくらいは食べなさい。体が持たないよ?」
踏み込んだ瞬間に汗が噴き出すような作業場へ、村雨は握り飯を運んでいく。一人頭二個だが、一つが拳の様に大きい為、腹もちは良いだろう。
「……寄こせ」
金属を火炉で熱している間は片手が飽く。左手を伸ばした老人に握り飯を渡してやると、一口で三分の一を飲み込んだ。
「……硬え。米も肉も硬え」
「肉に関しては諦めてよ、私が作ったんじゃないもん。はい、桜にも」
ただ立っているだけの桜は、両手で一個ずつ握り飯を受け取る。口の大きさの違いか、一口で飲み込んだのは四分の一程度で、
「……水が足りんな。芯が残っている」
老人と同じ様な感想を口にするのだった。
太陽が山に差し掛かり、小屋が茜色に染まる頃、作業場の火が消えた。
炎が生む風の音が消えた事を察知して、余熱の残る作業場へ、村雨は脚を踏み入れる。
「どう、なの?」
「ああ……」
桜は、一振りの脇差を掲げて立っていた。刃渡り一尺七寸、総金属製の一振りは、黒塗りの鞘に収まっている。鞘も見る限りは金属製、それ自体が打撃武器として扱えるだろう、完成度の高いものであった。
だが、脇差を掲げながらも、陶酔の声を上げる桜の視線は、たった今完成して金床に置かれた太刀へ注がれていた。
その刀身は四尺、切っ先から根まで全てが漆黒。然し艶消しの黒ではなく、光を当てれば濡れた様に照り返す、艶然とした黒である。緩やかな反りのある刃は肉厚で、きっと並みの刀の倍以上も重いだろう。
柄は桜の手に隠れて見えないが、おそらく桜は今、全力で手を握りこんでいる。柄は軋みもせず歪みもせず、その剛力を完全に受け止めていた。
鞘は、腰に指すのでも吊るすのでもなく、背負っている。留め金を外し蝶番で開く様になった鞘では、居合の様に斬る事は適わないだろう。この長大な太刀はそもそも、抜き打ちという用途を、一切考慮されずに作られていた。
「……美しい」
「だろうよ。俺の遺作にする」
これまでの生に於いて数万回と、数十万回と振るわれてきただろう金槌。己の魂と呼ぶべき道具を、老人は無造作に、部屋の片隅に放り投げる。
「脇差、太刀、共に銘は入れた、『相模玄斎』。号は――まず、脇差は『灰狼』だ」
「名前の由来は良く分からんが、悪くない」
「その内分かる」
部屋の中のものを一つ一つ片付ける事も無く、作業を終えたそのままの乱雑さで、老人は部屋の外へ向かう。手拭いで汗を拭ってしまえば、そこに居たのは刀匠ではなく、燃え尽きた一人の男だった。肉体こそ鍛えられているが、年齢相応に枯れた老人がいるばかりであった。
自分という存在まで燃やして、老人は――玄斎は、刀を打ったのだろう。数十年に渡って燃え続けた火は、今日この日、芯から灰になった。
「太刀は号して『斬城黒鴉』、城壁だろうが斬れるように作った」
「本当に斬れると思うか?」
「斬れる。使い手がへぼじゃなきゃあな」
「ならば、問題は無いな」
全くだ、と誰かの口癖の様な事を言って、老人は、普段は使われていない居間に出る。ちゃぶ台を引きずり出し、薄っぺらの座布団を並べ、そして料理中の村雨に呼びかけた。
「おい、腹が減った! さっさと作って持ってこい!」
「はーい、ただいまー!」
おかずと呼べるものは、僅かな野菜と干し肉だけ。殆ど炭水化物しかない食事が用意されていく。朝から休まず働いていた玄斎、たち続けていた桜の食欲は、脇で見ている村雨を呆れさせる程であった。
夜。桜はもう、己の刀を抱いて眠ってしまっている。
幸せそうな寝顔だ、覗き込んだ村雨が釣られて笑ってしまう程に。寝ている隙に刀を取り上げようとしても、これでは指一つ外す事が出来ないだろう。
軽く就寝前の運動を終えた村雨は、隣の部屋で、玄斎老人が灯りを灯し、何か作業しているのを見つけた。別段、用事が有るわけでも無いのだが、明日の朝にはここを発つ。少しぐらいは良いだろうと、襖を開けた。
「……なんだ、起きてやがったのか」
「これくらいの時間なら、ね……何してたの?」
老人は机に向かって、何か文章をしたためていた。筆は見るからにぼさぼさで状態が悪く、墨も上等とは言えないのが臭いから分かる。一人で暮らす刀匠には、きっと文字を書く必要など、殆ど無かったのだろう。
「なんでもねえさ、唯の夜更かしだ……そういえばな、ガキ」
「ん?」
「……晩飯は、悪くねえ。だがな、野菜は煮る前に斬るもんだ」
「うぐぅっ……!?」
村雨に背を向けたまま、老人は、もう半ば諦めの混ざった様な口調で指摘した。確かにおかしいと、村雨も思っていたのだ。桜は食事の間、気まずそうに目を逸らしているし、老人は顔に皺を寄せているし。自分で食べてみても、中心が明らかに生だったのは気付いていた。
「はぁ……お前、本っ当に料理向いてねえなあ……嫁の貰い手がねえぞ」
「うぅ……今は男女平等の世の中ですー、料理は男の人がすればいいの!」
「馬鹿野郎。そんな建前、男からすりゃ知ったこっちゃねえんだよ。美味い飯を作れて胸と尻がでかい女ってのが男の好みだと、何十年も昔から決まってんだ」
肩が上下している、玄斎は笑っているのだろう。外から入り込んできた先進的思想を一蹴して、動物的な領域での本音を語る玄斎の言葉は、無意味に重みが有った。
「大体よぉ、平等だっていうなら尚更、お前も出来なきゃ話になるめえ。あれの真似して刀振り回すよりゃ、包丁の持ち方から習った方が……」
「あーもーうるさーい! いいの、料理出来なくてもお嫁に行けなくてもいいのー!」
背を向けている相手に殴りかかる事はしないが、食ってかかる寸前の様相を見せる村雨だが、
「嫁には貰ってやるがお前がうるさい……さっさと眠らんか……」
「あ、ごめん……」
目を擦り擦りしているのだろう桜の声が、隣室から聞こえた。夜間に叫ぶという迷惑行為を取ってしまった事を恥じ入る様に、しゅんと肩を落として小さくなる村雨。
「……ああ、そういう仲か。そりゃ嫁に行けなくても良いわなぁ」
「――っ! だ、誰があんなのと! だいたい女同士だから嫁は向こうも、ってそうじゃなくて、ああもーっ!」
「だから煩いぞ、静かに寝かせろー……」
「あんたも原因の一端だ馬鹿ー!」
結局のところ、声量を控えようという結論に至る事は無かった。こいつら良く似てる、騒ぎ散らす村雨は、心の底からそう思った。
「……っく、はは、はっはは……あー、おかしい連中だ。いいじゃねえか、なあ?」
「何がいいのよ、何が」
玄斎は腹を抱えて笑う。書き物は終わった様で、筆もやはり、無造作に放り出していた。畳が汚れる事など、一切気にしていない。振り返り、大きな手で、村雨の頭をがしと掴んだ。
「賑やかでいいじゃねえか。誰かと飯を食うのも、誰かが隣の部屋で寝てるのも、俺にして見りゃ十五年ぶりだ」
太く頑強な指だ。だが、見た目程の力がない。ここに居るのは、妻も娘も孫も失った、ただの老人だ。生涯を賭した鍛冶の道を、今日限りで完遂と定めた、何も残っていない人間だ。
「……楽しかった?」
その非力さが、空虚さが、寂しかった。頭に置かれた手に、村雨は自分の手を重ねる。問うのは、この二日の事だけではない。自分の人生は楽しかったのかと、村雨は聞いたのだ。
「おうよ、俺は良く生きた」
何も無くなった老人は、身の軽さを誇る様に、また笑った。
「じゃなきゃあ、あんな刀ぁ打てるわけねえさ。なあ?」
取り上げられた物、捨てた物、数え切る事などは出来まい。だが、心に焼き付いたものだけは無くならない。形として作り上げたものは、決して消えはしない。正道の白銀の光では無いにせよ、玄斎は、一つの道の極みに辿り着いていたのだ。
「寝ろ、朝飯はいらねえぞ」
「……うん」
灰色の髪がくしゃくしゃと掻きまわされ、玄斎の手が離れていく。一回り小さくなった背に分かれを告げ、村雨は、桜の隣に敷いた布団へ戻った。
「おうい、ガキ」
襖が閉じられる。その向こうから、玄斎が呼んでいる。
「……なんだ、爺」
眠い眠いと言いながら、眠っていなかったのだろう。桜は、起き上がらずに答えた。
「口の悪い奴だ……おう、死ぬんじゃねえぞ」
老人の部屋の灯りが消える。その声も、魚油の煙の様に薄れていく。桜は、小さく笑声を返し就寝した。
その夜、刀匠・龍堂玄斎は息を引き取った。六十八年、満ち足りた人生であった。
「……あれでよかったのかな……?」
「私に聞くな、弔い方など知らんのだ」
翌日、昼。大磯宿までの道のりを、桜と村雨の二人は歩いていた。
早朝、玄斎老人が机にうつ伏せているのを、桜が見つけた。その時には、既に玄斎の体は冷たくなっていた。村雨を起こし、玄斎の死を告げた桜は、普段よりも尚、静かに冷え切っていた。
刀匠の家ゆえに、農具は幾らでも見つかる。桜はそれを使い、庭の墓の隣に、人が一人収まるだけの穴を掘った。村雨には手伝わせず、縁側で座らせているだけだった。
玄斎の亡骸を穴の底に埋め、土を被せ、適当な刀を一振り、その上に刺す。刀匠の墓標ならば刀で良いだろうと桜が決めた事だ。村雨は、何も言わずに従った。
盛り土の上に、壺に残っていた酒を掛け、それでおしまい。念仏を唱える事も、手を合わせる事すら無く、桜はその墓に背を向けた。少しばかり死後の安寧を祈ってから、その後を村雨は追い掛けた。
「本当に、あのままにしておくの?」
「そういう遺言だったからな……全く、死ぬ前夜に遺書を書くとは勘の良い事だ」
玄斎がしたためていた書は、机の上に畳まれていた。曰く、道具は使われてこその道具、放置して盗まれるままに任せろ。食糧は放置しておけば、獣が入り込んで喰らうだろう。
それでも、農具や包丁を買いに来る客の為に、桜もまた、小屋の壁に一筆を残していた。玄斎既死、願而勿忘、刃一切不得不斬、と。鋏も鎌も、全ては何かを斬る為に作られたもの。その用途を果たさせずして、刃を錆び付かせてくれるなと書いたのだ。
「……幾つか貰っていけばよかったのに。短刀とかさ」
「要らんさ、私は最良の物を得た。あれに置いてきた全ては、所詮は残りものに過ぎん」
腰に脇差を差し、長すぎる太刀は背負い、桜はしゃんと背を伸ばして歩いていた。あれだけ執着していた刀も、今の桜にはもう、道の端に落ちた枯れ枝と変わらないものなのだろう。
「大往生という所だな。悲しむ者もなく、本人は満足そうな顔。いやはや、良い死に方だ」
「……桜、本当にそう思う?」
「ああ、思うとも。あの死に顔、お前も見たろうが」
女にしては随分背が高い部類の桜は、見合うだけの歩幅で歩いていく。村雨は、小走りになりながらそれを追い越し、桜の前に立った。
「ううん、違うよ。そうじゃない、だって――」
二人が歩を止める。村雨は、そっと桜の頬に手を伸ばす。
「――泣いてるよ、桜」
「……え?」
白く細く、だが柔らかいとは言えない、旅をする者の手――村雨の指は、水の雫を拭い取っていた。
「そんな筈は、ない。私が、こんなことで泣く、などと……」
自分でさえ、気付いていなかった。触れられ、村雨に教えられて、桜は初めて、自分が涙を流していた事を知る。抑えようとして目を閉じた。瞼の間から涙は止め処無く零れ、目を開ける事が出来なくなった。
「分からん……分からんのだ、私は……わたし、は――」
何故、悲しいのかが分からない。何故、涙が止まらないのかが分からない。自分の情動を説明する言葉も見つけられず、怖い夢に怯えた子供の様に泣き続ける桜。
「……いいんだよ、泣いてもいいの。ここに居るから、桜……」
寄り添う村雨は、桜を座らせて、その頭をそっと胸に抱いていた。
五十三次の八番、大磯宿までは十丁もない道の上。旅に出て三日目の、風が強い日の事だった。




