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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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石頭のお話(3)

 江戸の町も夜は早かったが、林の奥の小屋は、輪を掛けて暗くなるのが早い。照明器具というものが、僅かな魚油の灯り程度しかないのだ。食器の片付けさえ終われば、小屋の中で光が有るのは、老人の作業場だけとなってしまう。


「疲れた……そんな疲れてないけど疲れた……」


 日が沈んで暑さは緩和されたが、火炉が唸りを上げる作業場は、日中と変わらない熱気を保つ。その床で村雨は、うつ伏せにぺたんと平たくなっていた。ひたすら小屋の外と中を行ったり来たりして、老人の要求の通りに道具を運び、そして慣れない調理まで。肉体的疲労は薄いのだろうが、精神的疲労が蓄積していたのだ。


「後はもう寝ちまっていいぞ、明日の朝飯はもっとましに作れ」


「あのねぇ……なんで私がそんな小間使いみたいなこと」


「不法滞在」


「分かりました分かりましたー……」


 老人は昼間と変わらず、金属を熱しては叩き続けている。味を占めたのかは分からないが、村雨は朝食の時間も、また下人扱いが決まっているらしい。


「……これだけ働かせたんだから、値引きを前向きに検討してくれても」


「百両だ、まからねえぞ」


 少しでも涼しい床に張り付いたまま、僅かな希望に掛ける村雨。然し老人は、それを一言であっけなく打ち砕く。


「本当にもー……! いいじゃん、少しくらいさあ!」


 骨折り損のくたびれ儲け、今日一日の労働が無意味となった気がして、村雨は非難の声を上げた。手近なところに石でもあれば、投げつけていたかも知れない。


「刀はガキの玩具じゃねえ」


 だが、老人が返す言葉は端的で、重苦しい声から発せられていた。鎚を落ろす間隔がずれ、一度だけ、規則的な音が乱れた。


「……じゃあ、誰になら売るのよ」


「使わねえで、飾っておく奴だ」


 老人の広い背が、こころなしか丸められた様に、村雨には見えた。魔力制御の火炉の光が、月明かりに負けそうな程に弱くなる。


「だぁれとも斬り合わねぇ、何も斬らねぇ。そういう奴になら売ってやる。つまらねえ刀に大金出して拝めばいい。そういう生き方が、人間の身の丈には合ってるだろうよ。刀なんか持つもんじゃねえ、振り回して良い格好しいのガキが使うもんじゃねえ」


「……それは」


「刃物が欲しけりゃ、包丁でも買って帰れ。大根でも人参でもスパスパ切れる、年に一度も砥げば足りる。それで……てめぇでガキ生んで、味噌汁でも飲ませてりゃいいんだよ」


 火勢を失った炉は、鉄を熱するだけの力を得られない。引き延ばす行程が足りず、完成したのは、刃物とも言い難い金属の棒きれだった。老人は苦々しい顔をし、それを部屋の隅へと投げてしまう。


「刀は人斬りの道具だってんだ……あの、くそガキが」


 にわかに立ちあがった老人は、作業場の隅に置いてあった酒壺を掴み、柄杓と合わせて外へ運んでいく。力強い動きだ、彼の年齢を村雨は知らないが、白髪に似合わない怪力と見える。だが然し、今の老人は、己の生業一つを完遂できない程に弱っている――何かが有るのだと、村雨は、その後を追った。

 小屋の縁側に腰掛け、壺から柄杓で酒を掬い、老人は顔に浴びせる様に飲み始めていた。口に入る量より、顔から胸元へ零れる量の方が多い程、荒い飲み方であった。

 村雨は、老人を挟んで、酒壺の反対側に座る。柄杓を老人が手放すまで、口を開く事無く座っていた。酔いが回り赤い顔をし始めた老人が庭先に降りたのを、声で追いかける。


「ガキって……お侍は、元服が済めば刀を下げてもおかしくないでしょう?」


「そういう事じゃねえ、そういう事じゃねえんだよ……とにかく、売らねえぞ。もう、刀を使う奴に、刀は売らねえぞ……」


 喚き散らし、近くに生えていた木を蹴り飛ばし、足取りおぼつかずふらふらと、老人は庭先をさ迷い歩く。それは、自分にしか見えていない誰かに、何かを訴えている様に見えた。一方的な主張である筈なのに、何かを求める声に聞こえたのだ。


「じゃあ、さ……なんで、今も刀を作ってるの? 使う為じゃなく、飾る為だけに?」


「……そうだ、わりいか?」


「もったいない、桜ならそう言うんじゃないかな――そのあとに、アホだ馬鹿だと罵詈雑言が続くと思う」


 へっ、と老人が鼻で笑い、赤ら顔を村雨へ向ける。


「あのガキが馬鹿じゃねえか。わざわざ死にに行くような真似しやがって……けっ、捨てちまえ! 捨てちまえ! 刀なんざ捨てちまえ!」


 酔人に特有の、感情の波の起伏の激しさ。どれだけ叫ぼうが、迷惑だと怒鳴りこんでくる隣人もいない。老人は一人だった。


「……桜が、女だからなの?」


 きっと、何年も一人だったのだろうと、村雨は老人の生を推慮する。招かれない客と長々話し込み、食卓を共にする程には、老人も寂しかったのだろう、と。その老人が、こうも刀を持つ事を否定する。村雨にはその理由が、悲しい程単純なものに思えたのだ。


「アハハ……あれを女だって思ったら駄目。もっと別な、良く分からない何かだって思わないと。近いのは……三十過ぎのおじさん?」


「……なんだそりゃ、その例え」


「酒と女の子とつまらない洒落が好きで、年上より年下ばっかり追いかける」


「ぶっ……っはは、そりゃ中年男みてえな奴だなぁ?」


 少しでも笑えればいい、そう思えたから、本人には小突かれそうな例えも持ちだした。酔っ払いの赤ら顔では、楽しんでいるのか馬鹿にしているのか、その辺りが分かり辛いが、声は少し機嫌を直した様に思えた。


「そうなんだよね、身勝手だし我儘だし、いやらしい事ばっかり考えてるし……でもさぁ、凄く楽しそうにしてるんだよ、いつも」


「……へぇ、そいつはいいなぁ」


「やりたい事だけやってるからなのかな。無駄に行動力が有って、人を引きずりまわすのが大好き。他の人の事なんかあんまり考えないで、自分が望んでる事だけは絶対に叶えようとする……迷いなんて、全く無さそう」


 老人がここに居ない誰かへ訴えかけていた様に、村雨はここにいない桜の事を、今も見ている様に語る。真円から少しばかり欠けた月は、これこそが自らに釣り合うものだと、村雨の心を落ち着かせていた。静かな、静かな夜なのだ。


「刀作るの、楽しいんでしょ?」


「……当たり前だろうが」


「じゃあ、斬れる刀を作るのは?」


「もっと好きだ」


「……作った刀が、使われるのは?」


「……………………」


 庭の草の上に、老人は仰向けに横たわる。まだ眠りはしそうにないが、腹を冷やすのもどうだろう。運んでやるかと、村雨が立ち上がる。


「……あの女ぁ、呼んでこい」


 掌を向けてそれを制止し、老人は、一言だけ要求した。

 突然の事に面喰う村雨だが、直ぐにもその表情は、月光が刺し込んだ様に柔らかく明るくなる。


「うん、待ってて。眠っちゃ駄目だよ?」


 とっ、と軽い足音一つ。蓄積していた精神的疲労は、すっかり消え去ってしまっていた。





「呼んだか、老人」


「呼んだよ、ガキ」


 村雨と話し込んでいた場所から、ほんの少しだけ離れた、庭の隅。老人は、土に刺さった板きれ――卒塔婆の前に座っていた。


「……誰の墓だ?」


「女房だ。四十年近くになる」


「そうか」


 祈る様に目を閉じている老人の後ろに、桜は胡坐で座った。憐れみもせず、何かを聞く事もせず、理解したとたった一言、意思を示しただけだった。

 振り向きもせず、立ち上がりもせず、老人はそこにいる。雲が流れ、月が三度姿を隠した頃、絞る様な声がした。


「ガキ……刀ってのは、何の為にある?」


「斬る為だ」


 迷いは無い、思索の時間さえない。物を見るのに使うのは目だと知るに等しく、刀というものの本質を、桜はそう受け止めていた。


「何を斬る」


「全て」


 老人が、肩越しに振り返る。

 太陽の様な、全てを無粋に曝け出す光ではない。慎ましげな月の光が、桜の黒髪を、夜に溶け込ませていた。黒より暗い濡れ羽烏は、氷像が生を持ったかのような冷たい容貌を、瑕疵一つ無く浮かび上がらせる。


「……人じゃねえのか?」


「人も斬るさ、人でなくとも斬る」


「命をか」


「全てを、だ」


 老人の白髪は、夜から切り放された色だった。重ねた年月を窺える皺、積み重ねた鍛練が形を為した筋骨、それらを際立たせる色である。一息にさえ満たない言葉の問答。けっ、と吐き出す様に、老人は笑った。


「なんで、斬るんだ」


「その他を知らんからだ。剣に魅入られ、剣に取り憑かれた……斬る事は、私という存在の本質だ」


「大げさなガキだ、俺の半分も生きてからほざけ」


 笑いはするが、嘲笑いはしない。乾ききってもいないし、陰く湿ってもいない笑いは、老人が燃やす火の様である。ならば、問いは金槌だろうか。熱した鉄を叩き、形を変えようとする為の。


「……人殺しは、ろくな死に方をしねえぞ」


「畳の上で死んでやる。私は百まで生きるとも」


 教訓めいた脅迫は筆、鉄を震わせる事さえ出来はしない。桜の意思を、動かす事は出来ない。


「刀は盾になりゃしねえ」


「矢を斬り落とせばそれで済む」


 自己、他者を問わず、人を守れないのが刀だと、老人は思っていた。守るべき者の敵を斬ればよいと、桜は一言で断じた。


「人間じゃあ、どうしても斬れねえもんがある」


「斬れるさ。私なら、斬れる。お前の刀さえ有れば」


 凄腕の剣客であろうと、天下の名刀と言えど、石灯篭を斬る事さえ難しかった。魔術の普及と共に、刀を打つ技術は飛躍的に進歩したが、しかし岩までは斬れまいと、老人は言う。


「人だろうが獣だろうが鎧だろうが――お前の刀さえ有れば、私は城をも斬って見せる。尋常の刀では駄目だ、一振りで砕けるなまくらでは駄目なのだ。お前の刀を寄こせ、老人」


 刀が自分に追いつけるなら、この世に斬れぬものは無いと、桜は強く信じていた。己が力、己が技への絶対的信仰は、たとえ千の言葉を以て叩きつけたとして、薄紙ほども歪ませる事は適わない。それこそが雪月桜、壊れた人間であった。


「頑固なガキが、よぉ。石頭は、俺の年になってからにしろってんだ……少し、長話に付き合え」


 老人は、ついに折れた。火と共にいた老人は、桜の様に凍りついてはいなかったのだ。

 いや、もしかすれば本当は、熱意や覚悟というものとは全く関係なしに、老人は決めたのかも知れなかった。


「……俺には娘がいてなぁ。十五で嫁に貰われちまったんだが……これがまあ、じゃじゃ馬にしてもひでえのなんの。ガキの頃から刀振り回して、庭に植えた木を切り倒して回ってたよ」


「女傑だな、刀が近くにある環境が良かったのだろう」


「かもな。十四で武者修行だーって飛び出していって、戻ってきた時には優男連れてやがった。伸ばし放題だった髪も、後ろで一本結びに纏めてよ」


「取られたか」


 うるせえ、と苦笑いをしながら、老人は背後の桜に拳骨飛ばす。右手の甲で軽く払い落し、桜は先を促す。


「綺麗な顔しててむかついたんでよ、その優男にもこんなふうに殴りかかった。ぽーんと投げ飛ばされたうえに、落ちる前に軽く受け止められてな、娘にまで笑われた……そうなりゃ男として、認めねえ訳にゃいくめえよ」


「潔い事だ。手放したくなければ、少し粘ってみても良かろうにな」


「……いい加減、好きにさせてやりたかったのかも知れねえな。あいつを産んで直ぐに女房が死んで、俺一人で育てて……途中からは、俺が逆に世話されてる有り様だったからよ」


 昔日の思い出を懐かしむ老人は、語る事そのものを楽しんでいる様だ。熊が唸るようなごろごろとした音は、どうやら笑い声であるらしかった。


「仲の良い夫婦で、すぐに子供――俺からすりゃ、孫が生まれた。娘によく似た女のガキで、赤ん坊のころからこいつもまた呆れたじゃじゃ馬だ。立って歩くようになった頃にゃあ、落ち枝を拾って父親母親と剣術の真似事をしてたよ」


 こんなふうに、と腕をやたらめったらに振り回す老人。近くに座る桜への配慮が無いのは、酔っているからか、戯れているのか。桜は座ったまま、片手でひょいと捌いていく。


「……だが、娘が連れてきた男は、馬鹿な奴だった。最強の剣客、なんて子供じみた夢を捨てきれねえでよ。俺の刀を見て、これなら大陸でも通用すると思いあがっちまった――娘と二人で、だ」


「お前から見て、腕前の程はどうだったのだ?」


「言っちゃあ悪いが、田舎の道場主って所だったよ。侍はさんざん見てきた、あいつより強い奴だって幾らでも居た……が、娘もあの男も、あんまり無邪気に言うんだよ。俺は最強になる、私はあいつを最強にする、ってな。そんで……三つになった孫を連れて、大陸に渡っちまった。それっきりだ」


「……そうか」


 昔の事と、吹っ切れている様には見えた。表に見える様子の明るさは、酔いを差し引いても、老境の悟りが見えるものだ。だが――その心の奥が、まだ轍になっている事は、桜にも容易に窺い知れた。

 桜は、茶化すような言葉を見つけられなかった。身の程知らずの夢を追いかけた家族の話に感じ入ってしまった、という事ではない。老人の寂しげな様子に同情心を掻きたてられたのでもない。

 もしもこの時に、真実を二人のどちらかが知っていたなら――言い知れぬ哀傷を、自分に説明する事も出来たのだろう。


「生きちゃいるのかも知れねえし、もう死んだかも分からねえ。顔も見せねえで、親不孝の娘に婿だ……ああ、俺は思ったさ。ガキに刀なんか持たせるもんじゃねえってよ。悪い事は言わねえ、刀を置いて家に帰っちまえ、親を泣かすな」


 老人は、本当はもう、諦めさせるつもりは無くなっていた。恐らくだが、この女は諦めないだろう、意地を張りとおすだろうと思っていたからだ。この日出会ったばかりの女の事を、老人は不思議と、芯から理解した気がしていた。


「……親はいない。昔は、両方揃っていた事だけ覚えている。顔も忘れた」


「親無しか、おめえ


「三つか四つの頃、私は一人で大陸の雪原を歩いていた……隠遁していた剣士に拾われ、育てられた。日の本の言葉を話していたから、日の本の名前を与えられた。本当の親の記憶など無い。ただ――」


「……何だ?」


 桜は老人に背を向けて座りなおしていた。老人もまた、振り返ろうとはしなかった。互いに背中を向け、同じ空を見上げ、取り留めも無く話を続ける。きっと、そこに意味などは求めていなかった――会話が続く事さえ、望んでいなかった。


「――おぼろげに、覚えている。誰かが刀を構えて立っていて……その横で私は、木の枝を持って真似をしていた」


 静かな夜であった。人の暮らしから切り放された小屋に、訪れるのは涼やかな風、ただ一人。村雨は就寝し、獣は林に潜み、月を見上げる者は二人しかいない。


「……刀、打ってやる。注文は?」


「刃渡り四尺の太刀、一尺七寸の脇差。柄まで総金属、生涯折れず砕けぬ刃を」


「銘は?」


「任せる」


 やがて、どちらが促すでもなく、自然に二人は立ち上がる。

 桜が戻るのは、あの刀の並ぶ部屋。老人が戻るのは、自らの人生を捧げた作業場。夜が明ければ老人は、要求の通りに刀を打ち始めるだろう。

 恋い焦がれた刀が自分の物となる前夜、桜は、昔の夢を見た。何処とも知れぬ暖かい部屋で、誰とも知れぬ女性の腕に抱かれている夢。

 顔は見えなかったが、羽衣の様に長く柔らかい彼女の黒髪が、確かに桜を包んでいた。

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