最初のお話(2)
「あーびっくりした! びっくりした! 本気でびっくりしたー……!」
階段を逃げるように駆け降りた村雨は、ここまで抑えていた思いをそのまま言葉にして吐き出した。今もまだ、あの艶やかな絵が目の前をチラついている気がしている。首を強く左右に振って、雑念を振り落とそうとした。
「はっは、そうなるわなぁ。たまーに来るのよ、ああいうお客人はよ」
「ああいうって、その……女の人に会いに来る、女の人?」
「おう、そういうお客人。いやぁ、男なら陰間茶屋にでも行きゃいいんだろうがねぇ、そりゃ女好きの女は困るだろうよ」
何があったか察しているぞと言わんばかりの表情で、宿の客引きの男が、村雨の肩をばしばしと叩く。直接的な言葉を避けようとしている村雨に対し、客引きの男はあけすけもいいところだ。
「ここはデカい宿だし、何より置いてる女の数が多い。そうなりゃ中には変わった趣味の奴もいてなあ、その手のお客人達にゃ喜ばれるって訳なのよ。
……んだが、あのお客人は別格だ! まーさか男客に混じって真正面から来るたあ思わなかったぜ、大概はコソコソ隠れるように来るってのによぉ?」
「……あー、そうなんだ」
客引きの男の陽気さを適当に受け流しながら、さもありなんと内心では首を縦に振っていた。あの女性、いや我が雇い主にそのような慎みや恥じらい、後ろめたさという概念は存在しないのだろうと、村雨は短時間の邂逅で確信していたのだ。
「ま、着替えて降りてきて飯食って……あっという間だろうさ。嬢ちゃん、昼飯は?」
「お蕎麦食べてきたから大丈夫、ありがと」
「そうかい、んじゃ適当なところに掛けて―――ああ駄目だ、表から見えないところに掛けときな。うちの宿の女と間違われる」
「私、そんな派手な格好してないけど?」
派手ではないが地味でもない。開国以来、僅かにだが浸透し始めた洋服を、村雨は着ている。
「地味な田舎娘風、っての好む旦那方もいるのよ。ついでに言うと、外国女は大人気だ」
「……ご忠告感謝します」
男の勧めに従って、通りから見えない奥まった位置の畳に腰掛ける。
ふう、と一息、胸に手をやった。拍動は、未だに平常の三割増しの速さで、一回一回の強さも段違いだ。
自分の常識がいかに狭かったか、これまでの雇い主がいかに真っ当な人間だったかを、村雨は思い知らされていた。少なくとも、上下とも服を着て待ってくれているだけで、今の雇い主よりは上等だろう。牛や豚の肉を確かめるように手足を掴まれたのも、当たり前だが初めての経験だ。
にも関わらず、恐怖や嫌悪といった負の感情が起こらないのは、やはり驚愕で頭が塗りつぶされているからだった。岡場所がそういう行為に及ぶ場所だとは知っているし、行為自体をふとした拍子に見てしまった事もある。書物を読み漁るのは好きな部類で、同性間での交愛についての記述より、知識だけは得ていた。
それらの要素を全て流してしまう程に、濡れ羽烏の髪の女は生身の体温を感じさせた。遊女の髪を梳く指、薄い笑みしか映さなかったかんばせ、汗に濡れた肌。自分の目で見なければきっと、女の体がああも熱い、火のようなものだとは知らなかったに違いない。
だが、村雨を何よりも驚かせたのは、それを知った自分が彼女に目を奪われ、しばし言葉を失う程に心を飛ばしてしまったという事だった。
恐怖で身を縛られた訳ではない。何らかの魔術的要素で、目を離せなくなった訳でもない。敢えて理由を求めるならば、それは自分自身に終始するだろうと、村雨自身が分かっている。分かっているからこそ、何故そうなったのかが分からないのだ。
両目を手で覆えば、暗転した視界に映るのは、唇同士が重ねあわされたあの一瞬。呼吸を阻害され苦しみながら喜悦に浸る遊女の声が、未だに耳にこびりついている。
「あああああ、もうー……!」
髪をかきむしった。少女の雇い主のものとは違う、短い髪だ。裸体に蛇のごとく絡み付き、暗室に白く肌を浮かび上がらせるような力は、灰色の髪には無い。
「喧しいな、病気持ちか? 困るぞ、肝心な時にそうなられては」
「ひゃあっ!? あ、降りてきてたなら言ってくださいよ……!」
草履を脱ぎすて畳の上に仰向けになった村雨を、いつの間にか近づいてきていた雇い主、雪月 桜が見下ろしていた。
「少し待て、飯を食ってから出る……おうい、白米と肉だけでいい!」
宿の厨房へ、村雨のものよりは何段も低く、だが声量ならば劣らない声が向けられる。事前に用意はしてあったのだろう、程なくして山盛り飯がどんぶり一つと、更に鶏を焼いた肉がでんと一つ乗って、箸と共に出てきた。
かつかつと飯を食う桜の姿を、村雨はまじまじと見ていた。
黒の小袖、黒の袴。模様の一つもない真黒の布を、黒の糸で縫い合わせた、夜ならば顔だけが浮いて見えそうな程の黒。墨が生きている様だ。
座っていても背筋はすうと伸び、箸使いは粗いが持ち方自体は正しい。大口を開けて飯を流し込む様子は、とても美しいとは言い難いが。
袴の帯に刺さるのは大小一組の刀。これもまた、鞘も柄も鍔も黒塗り。意図的に飾りを排除したような、おかしな刀であった。
「……刀?」
「んぐ、ん……ごくん。ああ、珍しいか?」
「うん……です、ね。最近は、脇差一本しか差してない人ばっかりですし」
魔術という学問が民衆に浸透してからというもの、刀はこれまでよりもなお、象徴以外の意味を薄める事となった。
何せ、刀は近づかねば切れないが、魔術は数間離れていようが十分に届き、その気になれば殺傷力も劣らない。切り捨て御免などいう制度は、少なくともこのお江戸の町では風化し、刀を抜けば相応の罰則を受ける世の中になった。そうなれば、腰に邪魔者を二つもぶら下げて歩く理由は薄いのだ。
「二本なくては落ち付かん、それだけの事だ……うむ、ごちそうさま」
空になったどんぶりと皿を、桜は直接厨房まで運んでいった。
その時に村雨は気付いたが、桜は歩く時、頭と肩が一切上下しない。幽霊が追ってくる時など、こんな具合ですすと滑る様にやってくるのだろうか。
「体力に自信は?」
「そこそこなら、ですけど」
「十分だ。今日は徹夜だ、いいな」
未だに活気が薄い岡場所の通りへ、桜はふらりと出ていく。その直ぐ後ろを村雨は、身長差の為にほんの少しだけ、急ぎ足で追いかけた。
「……で、探し物でしたっけ。刀、って?」
「ああ、私のものではないがな。そもそもの話、これを持ちこんだのは……」
道中、何を探さなければならないのかを、村雨は改めて確認する。歩きながら桜が言う事には、以下の通りだった。
町外れに、子を一人抱えた母親が住んでいる。夫は既に亡くなったが、生前は下級武士だったのだそうだ。現在は母親が女手一つで働き、生計を立てているとか。
その家に二日前、盗人が入り込んだらしい。家は酷く荒らされ、その時に、夫の形見だった刀が盗まれてしまったのだとか。
丁度その日は遠地で仕事があり、母子ともども町にまで出ていた事もあって、気付いたのは昨日の昼だという。
「無銘、切れ味は良いらしい。が、このご時世だ、そう人を斬る機会もあるまいな」
「高く売れそうなものなんですか?」
「いいや、二束三文だろう、と言っていたな。そんな上等な刀を持つ様な家なら、ああも貧乏暮らしはしておるまいに……とまあそういうわけで、通りがかった私が取り返してやろうと安請け合いを―――」
「もうちょっと考えて行動してください……」
二日前に盗まれた刀を取り返す、中々難しい話だと村雨は感じた。盗人が仕事をするのは夜だろうから、刀もその時間に盗まれたのだと仮定する。盗品は基本的に、長く手元に置かれる事はない。昨日の朝から昼間に掛けて、もう売却処分されてしまっているのではないか。そう結論付けるのに、時間は掛からない。
「そうは言うがなあ、ああもぎゃんぎゃん泣き喚かれたのでは放っておけんだろう。美人だったし」
「手は出すなよ。 ……あれ、でもちょっと待ってください。謝礼は?」
「茶屋で焼き餅を食う程度の銭なら払いそうだな。まあ気にするな、お前の給金は払うとも」
話を聞く限り、盗難被害者は貧乏らしい。そこから謝礼を受け取るのは、とても期待できそうにない……が、村雨への給金は支払われるという。
「……自腹? 何か恩でも有ったんですか?」
一つ、示しておくべき事がある。『錆釘』の料金は、決して安くない。『錆釘』に支払う紹介料と、雇われた者への時間給と、合わせれば少なくとも一町人では、気軽に数日雇うという事はできないのだ。
「だからな、あれが美人だったからつい、と言っておるだろうが」
「良く分かりました……分かるかー」
得られる礼金は無に近く、出費は高級宿場で一日過ごす程にもなりかねない。あまりにも収支が合わない行動に、村雨は他人事ながらボヤいた。人助けに散財出来るのは金銭の有り余る人間だけだろう。金持ちに妬みを覚えてしまう程度には、この少女もすれているのだった。
「……はーあ、つまり私は、その刀を探せばいいって事ですか?」
「そうだ、だからまず、盗品が流れそうな質屋町へ……」
「行き先変更、その親子の家に案内してください」
ぴたり、桜の足が止まる。
「……何か思いついたのか?」
そもそも何処へ向かうかも口にしていなかったが、桜は質屋を一軒一軒巡り、刀を探すつもりでいたのだろう。それでは効率が悪すぎる。最悪の場合、見つかる前に店の奥へ仕舞い込まれかねない。ほとぼりが冷めるまで隠しておくのは、悪い奴らの常套手段だ。
「思い付くっていうより、基本。盗品探しはこっちの方が早いの」
町の中央から外れ、人の波の薄い方へ。次第に周囲の光景に、田畑が混ざるようになってきた。農耕用の牛の糞の臭い、夏草の匂い、川の水のせせらぎ。大路のせわしなさから切り放された場所である。
盗難被害に遭った家は、確かに裕福である様には見えないが、さりとて極端なぼろ屋でもなかった
「ほれ、あの家だ。戸も何も開け放していては、盗人に入られるのも無理は無いなぁ」
「そうかも知れませんね……ん、家の人には会わなくていいです。この辺りからで」
今は家人が外出中なのか、近づいても誰も出てくる様子がない。村雨は、問題の家の軒先に立つと、何もない地面に目を落とした。
「足跡か? それは無理だと思うが……踏み固められた土だぞ」
「ううん、違う……ええとね、こっちですこっち」
下を向いたまま、何かに引っ張られるように歩いていく村雨。田んぼ道を進んで、細い農道へ。はるばる案内してきて、そこに一分も留まらないという行動に、桜もややめんくらった様子を見せた。
「何をしている、虫でも見つけたか?」
「蟻の巣を掘り返す趣味はないですって……次は、あっちかな。山の方へ進んでるみたい」
農道をしばらく進むと、小さな山が有った。ここから見ても分かるが、針葉樹ばかり生えていて、木の実を取る目的で入る者は少ないだろう。山の向こうに行くなら、平地を歩いてぐるりと回りこんだ方が早い程度の高さは有る。
「ここ、かな……もう少し奥の方」
「おい待て、何処へ行く。歩くのは構わんが目的地を言え」
「貴女が言うかなー、それ。……刀を探すのは無理。盗んだ奴らを探した方がいいですよ」
入る者の少ない山は、道が無いに等しい。だと言うのに村雨は、誰かに案内されているかの様に、木の枝を掻き分け山へ入り込んだ。
「盗んだ奴ら? 誰がやったか分かるのか……いや、複数なのか?」
「多分ね、少なくとも四人。男が三人、女が一人、もしかしたらもう少し増えるかも」
「……まるで分からん」
「『臭い』です」
「……ぉ、おう?」
山へ入ってから三分、麓が木々で見えなくなった頃、村雨は地面に両手を着けた。這うのではない、四足歩行だ。手も足と同じ様に使い、村雨は斜面を登っていく。
邂逅の時とは逆に、今度は桜が驚かされた。村雨の手の指は、靴を履いた足と同等以上に、山の斜面を掴んで体を支えている。顔を地面に近づけ、鼻をひくひくと動かし、何かを見つけては四足歩行でそちらへ跳ねて追いかける。
人間の脚は腕の三倍の力を持つというが、それは常に自分自身の体重を支えているからだ。逆に言うならば、脚の三分の一しか力がない腕では、人間はまともに自重を支えて動けない。腕力を鍛えた人間なら、逆立ちで歩く事も出来ようが、獣の真似をするには腕の短さが仇になる。
村雨は、手足の長さの違いを全く苦にしていなかった。腕と脚を完全に連動させて斜面を駆け上がり、立ち止まって臭いを追う時も、体を起こそうとしない。
「……犬か、お前は」
「失礼な、私は人間です……ほら、当たりでしょ?」
脚で生んだ加速を両手で殺す急制動。くるりと前転して立ちあがった村雨は、近くの木を指差した。
「ほう、これは……鉈、だな」
木の実もなければ獣もあまり住まない、だが高さだけは有る、人の訪れない山。だというのに、そこに有った木の枝は、刃物で切断された形跡が有ったのだ。桜は、それが鉈で叩き斬ったもの。つまり、人が通る際に道を作る行為の産物、と判断した。
「多分そうでしょうね、鉄の臭いがする。あの家の周りから続いてた臭いと同じです」
「……農具の臭い、とは考えなかったのか?」
「鉄の臭いが濃すぎる。鉄の上に、別な鉄の臭いがするものを掛けたみたいな臭い……」
「血、か?」
「しかも人の、ね」
周囲を見渡し、斬りおとされた枝を拾う。断面には生木の臭いと、僅かだが鉄の臭いが有った―――らしい。村雨はそう言い、桜は真似をして鼻を近づけたが、何も分からなかった。
「この辺りからは、遠慮なく道を作って歩いてる。隠す気は薄れてるのかな……どうせ誰も入ってこない、って思ってるのかも。……あ、この辺りから向きを変えて……こっち。登りながら、ちょっとずつ水の方に近付いてる」
「水場の臭いまで分かるのか……呆れたものだな」
「苔とか、他の草と臭いが違いますから」
方位磁針も地図もない。村雨は嗅覚だけを頼りに、獣の様に山を渡っていく。やがて、木々の合間から、断崖にぽっかりと口を開けた洞窟が見えてきた。
「……あちゃー、たくさんいそう。少なくとも十二、いや、十三……」
目に見えない盗人を数える村雨は、眉間に皺を寄せている。待ち伏せされてはどうにもならない数だ、正面突破などもっての外。
「どうします? 仕事に出たところで入れ違いに忍び込めば、留守番を締め上げるくらい……」
村雨の計画は、盗みを働いた本人を捕まえ、刀をどうしたのか白状させるという事だった。四人くらいなら、不意を打てば勝てない人数ではない、そういう自信はあった。
が、洞窟という砦に籠られていると、どうしても背後から接近するのに比べ、迎撃される可能性が高くなる。まして人数は、最初に予想していた数の三倍で、こちらはたったの二人。
「……あれ?」
雇い主に意見を求めようと隣を見た村雨は、そこに誰もいない事に気づいた。後ろを振り返る。逃げた訳ではなさそうだ、あの黒い姿は山でも目立つ。
冷や汗が背を伝うのを感じながら、恐る恐る正面に目を向ければ、
「よおーし、なんだか分からんがあそこが拠点か!」
「あ、ちょ、馬鹿ーっ!?」
雪月 桜は自分の存在を全く隠蔽する事なく、がさがさと騒音を立てながら、洞窟へと突っ走っていたのだった。