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灰色の少女と黒い女(中)

 それは、雪月 桜の生、そのものの重さの斬撃であった。

 受ける事など決して叶わぬ、防御ごと切り裂く、問答無用の一撃。

 これまでに桜が、幾本の刀剣を、幾組の甲冑を斬った事だろうか。

 生半の技と得物では、寸刻を防ぐ事さえままならぬのだ。

 ならば、如何すべきか――?

 村雨は、両腕の篭手を頭上で二つ並べ、桜の斬撃を待った。そして、それが自らの防御へ触れる寸前に、深く腰を落としながら踏み込んだ。

 身を沈める事で、振り下ろされる斬撃の相対速度を落としつつ、刃の付け根方向へ動く事で、刀身自体の速度の小さい方へと――つまり、真正面に逃げ込んだのである。

 だが、衝撃の桁は、村雨が知る〝攻撃〟の、あらゆるものよりも巨大な――天災の如きものであった。

 衝撃が篭手を突き抜け、肉を貫き、骨の髄にまで到達する。

 痛覚も触覚も、何もかも遮断する衝撃は、もし目を閉じていたならば、己の腕が消えたと信じたであろう程に際立っていた。


 ――次が来る!


 村雨は、咄嗟に、逃げの手を選んだ。

 後退する村雨の視界の中で、黒太刀『斬城黒鴉』の切っ先が、また高々と掲げられていく。

 刃渡り四尺――桜の腕と併せれば、おおよそ六尺の間合いを誇る化け太刀。

 村雨は二間も間合いを取ったが、それでもまだ不足と思える程、桜の間合いは広かった。

 息を吐き、腕を見る。

 村雨の腕は、何も変わらず、肩の先に繋がっている。

 だが――拳の握りが甘い。

 負傷では無い。衝撃が骨と肉を痺れさせ、思うように動かせないでいるのだ。

 村雨が行った防御の技に、しくじりは何一つ無かった。城壁をも斬る桜の斬撃を受け、自らの体ばかりか、身に着けた篭手さえ斬らせずに耐えたのだ。だというのに、その衝撃だけで両腕が、動きを鈍らせているのである。


「ひえー……」


 村雨は、また、拳を高く上げる構えに戻った。

 その両腕が、僅かだが震えている。痺れが抜けぬまま、意思の力で強引に、その位置に留めた構えであった。


「たった一撃なのに……馬鹿力め」


「寧ろ、一撃、良く耐えたものだな」


 そう、良く耐えたと言うべきだ。

 雪月 桜が全力で放った斬撃を、受け止められる者が、日の本にどれ程も居るだろうか――せいぜいが数人というところだろう。

 その内の一人に、村雨が名を連ねた事が、桜は嬉しくてたまらぬようであった。

 桜が踏み込み、また次の斬撃を放った。

 首狙いの、横薙ぎの斬撃であった。

 村雨は、今度は受けない。背を丸めるように頭を沈めて避けた。

 左から迫って来た刀が、右へ逃げて行くのを、頭髪が風に惹かれる感触で見届けながら、村雨は前へ出る。

 桜の腕の内側まで入り込めば、刃は届かぬと踏んだのだ。。

 だが――間合いを半分も詰めたところで、行った黒太刀が向きを変え、村雨の胴を狙って帰って来た。


「っ!!」


 両腕を合わせ、斬撃と垂直に篭手を構えながら、衝突の瞬間、村雨は思い切り左へと飛んだ。

 空中で、村雨の篭手に、黒太刀が追い付き――


 じゃぎいぃっ。


 火花が散った。

 黒太刀と篭手の摩擦で、篭手の表面が削れ、熱を帯び、光と共に弾け散ったのである。


「おお、これも避けたか。どちらかの腕は取ったと思ったが」


「あなたねぇ……平気でそういう事言うんだから」


 僅かにも跳躍が遅れていれば、桜の見立ての通りになっていただろう。

 村雨は普段のような口調を保ったままに、雪月 桜という大怪物と対峙する事の意味を、改めて理解していた。

 桜は、攻め疲れる事が無い。常識的な相手ならば、全力の攻撃を続けていれば、やがて疲労から動きが鈍るが、桜には当てはまらぬのだ。

 だから、防ぐ事さえ許されない。全て避けていくつもりで居なければ、何れは体力を削られた体が、防御動作をしくじり――

 死ぬ。

 その結末を村雨は、当然のように思い描いていた。

 雪月 桜は、自分を殺すだろうか。

 以前ならば村雨は、それは決してあり得ないと断言した。

 今は――そういう事も、有るかも知れないと答えるのだろう。

 戦いだ。互いが互いに、相手を殺し得る技をぶつける。ならば、万が一に死ぬ事も有るだろう。

 村雨はいつの間にか、死生の壁を踏み超えている。だのに、驚きも嘆きも無い上に――


 ――負かしてあげる。


 殺す、殺されないの話では無い――勝つと、村雨は誓っていた。

 そもそも、何故に桜は、村雨へ、こうも躊躇無く刃を向けられるのか。

 それは、村雨が求めたからである。

 否と拒み、刃を持つ手に手を重ね、そっと押し戻したのなら、桜は刃を鞘に収めただろう。そして、二度と村雨に刃を向ける事は無かっただろう。

 だが――それは、交愛の拒絶である。

 生の価値を感じたいと望む桜の、願いを踏み躙る、対話の拒絶である。

 桜は村雨を求めた。幸福の絶頂に有る今よりも、更なる幸福を、更なる愛を――叶わぬというならば、至上の眠りを。

 しかし村雨は、それに応えたばかりではなく、寧ろ、己から桜を求めたのである。

 頑迷な、今の桜のままで良い。その望みを捩じ伏せ、自分が望む形の雪月 桜へ変えてやる、と。精神と肉体の全てを用いて、桜の暴虐を受け止めてみせると、健気に微笑んだのだ。

 だから桜は、躊躇いを持たない。

 桜が抱いた迷いは、村雨によって昇華され、巨大な飢餓感へと転じた。

 己の欲望の全てに、耐えられる女がいる。自分をそのままに肯定して、その上で、一層の激しさを以て、求め返してくる女がそこにいる。

 なんたる淫らな情熱か――桜は、目の前の恋人が、まるで裸体のままに脚を開き、甘い声で己を呼んでいるようにさえ思えた。

 そうなれば、もう躊躇いなど抱けるものか。体の芯を貫いた情動に動かされる桜は、もはや己の理性さえ、枷にもならぬ有様であった。

 村雨を追い、桜が往く。股から頭まで高く抜けるような斬り上げを放った。

 村雨は後方へと跳び、刃から遠ざかる。

 そしてまた、遠間から桜へと踏み込んでいく。

 長大な間合いを利し、桜は迎撃の刃を幾度も振るった。

 首を狙い、脇腹を狙い、頭頂を狙い、股を狙い、何れも一撃必殺の斬撃を、出し惜しむ事なく、存分に振るう。

 村雨は、それを見事に防いでいた。

 桜の斬撃を正面から受け止めては、到底体が持たない。篭手の防御面を斜めに合わせて、受け流しながら、体を大きく動かして刃の軌道から逃げ回る。

 自分が桜の剣に対応出来ている――その事に驚きと喜びを同時に抱きながら、更にまた村雨は、疑念も僅かに残していた。


 ――こんなもんじゃない、筈。


 雪月 桜の技量が、この程度である筈が無い、と。

 自分が無傷のまま、何時までも逃げ続けられる相手ではないと、確信――いや、信頼していたのである。

 果たして、その懸念は現実となった。

 斬撃を防ぎながら逃げ惑う村雨の背に、何か巨大な重量物が触れたのである。


 ――木!?


 巨木であった。

 村雨は桜の剣撃から逃れる内に、知らず知らず、木を背後に置くように追い込まれていたのである。

 後退する脚が止まり、ほんの一瞬、生じた心の空隙。割り込むように桜の黒太刀が、横薙ぎに払われた。

 首でもない。腹でもない。胸を両断する軌道であった。

 長大な刃が、村雨の背後の巨木に食い込んだ時も、桜の腕は止まろうとせず――寧ろ、速度をそのままに腕を振り抜く。

 刃は、水を潜るように、巨木の幹を通り抜けた。

 刃に十分な長ささえあれば、巨木は一刀のもとに斬り倒されていたのだろう――そういう斬撃であった。

 だが、その斬撃の後に、村雨の亡骸は無かった。


「あっぶなぁー……!」


 桜が振り抜いた黒太刀の刀身――横薙ぎに振るった為、刃を寝かせ、腹を上に向けた――その上に、村雨は跳び乗っていたのである。


「ほぉ――懐かしい」


 桜が、長い息を吐いた。

 京への度の途中、島田宿での騒動で、桜と村雨は一度だけ――桜は大いに加減をしていたが、拳を交えた事がある。

 あの時、村雨は、桜が突き出した拳の上に立って見せた。その事を思い出し、懐かしんだのであるが――要求される技量が、天と地ほどに開いている。

 殺意無く放たれた拳と、殺意を以て振り抜かれた刃では、力も速度も危険性も違う。拳は、飛び越え損ねても体を打たれるだけで済むが、刃に対してこの技をしくじれば、死ぬのである。

 この難行をやってのけた村雨の頬には、玉のような冷や汗が伝っている。

 村雨とて、楽な手だと選んだ訳では無い。この技こそが最善手であると考え、絶望的なまでの危険と向かい合いながら――この優位を勝ち取ったのである。


「桜、降参する?」


「まさか、そんな勿体無い事を――」


 桜の言葉が終わるより先、村雨は、黒太刀の腹の上を走る。

 歩数は、小さく二歩。桜の右手首を右足で踏み、制動する。

 体全体の速度が、末端に伝達される。

 左足が大きく外側から回しこむように放たれて、桜の頭を横から強かに――

 がごっ、

 と、打った。

 瞬間的に、瞬き一つより短い時間だが、桜の意識が飛ぶ。

 不安定な足場から放ったというのに、恐ろしく重さの乗った蹴りである。

 人狼の、卓越した平衡感覚や、強靭な四肢の筋力を総動員した蹴りは、もはや爪や牙にも引けを取らない、村雨の凶器と化していた。


「りゃああぁっ!!」


 もう一発――同じ個所から、村雨が蹴りを打つ。

 大外に突き出した左足を、斜めに打ち下ろすように、桜の頭蓋へとぶつけた。

 桜の膝が、僅かに揺れた。

 然し、そこまで。桜は、右手のみで黒太刀を保持したまま、左手で村雨の足を捉えに行く。

 村雨は、桜の右手の外側へと踏み込んで、その反撃から逃れた。

 村雨を見ぬままに、桜が右腕を振るうも、村雨は腰を落としてそれを逃れ――

 打つ。

 拳も足も、順序を定めず、その瞬間に最も力を込めて打ち出せる部位を選び、まるで立ち木にでもするように、がむしゃらに打つ。

 一撃一撃が、恐ろしく速い。

 桜は、村雨を正面に置こうと、体の向きを変える。だが、村雨はそれに合わせ、桜の右手側に留まろうと移動し続ける。


「教えた覚えは無かったがな!」


 桜の右目は、殆ど視力が無い。だが、殊更に言うことでもないと当人が思ったが為、他者に口外した事も無いのだ。

 然し村雨は、それを知っているかのように、桜の死角へ留まり続けようとする。


「見れば分かるって!」


 村雨の爪先蹴りが、桜の右脇腹へ喰い込んだ。

 常人ならば、骨が圧し折れるか、内臓に衝撃が届くような、村雨の体格に見合わぬ重い蹴りである。

 桜は、筋力だけで耐えた。

 腹に力を籠め、めり込んでくる靴の爪先を、逆に押し返してしまったのだ。

 岩か石壁を蹴ったような衝撃が、村雨の足に返る――体が押し戻され、桜との間合いが開く。


「やばっ……!」


 瞬時に村雨は、姿勢を低くし、桜の右膝へと組み付いて行った。

 遠い間合いのままでは、黒太刀がまた、防ぎ続けられぬ破壊力で向かって来る。それよりはまだ、膝や肘の間合いが良い。

 桜が、村雨の背へ肘を落とそうとする。

 並みの相手なら受けても良いのだろうが、村雨はこれも、必死で逃げた。

 膝を掴んだ状態から左手を伸ばし、桜の腰の帯を掴み、それに自分の体を引き付けるようにして桜の背後へ回り込み、

 後頭部を、右拳で、全力で打ち抜いたのである。

 鈍い音と共に、桜がよろめき――手の握りが緩んだ。

 好機であった。

 村雨は、背後から桜の右手首を取り、背中側へ捻り上げた。

 桜の右肩を左脚で跨ぎ越え、両大腿の間に桜の右上腕を挟み込み、手首を捻りながら肘を引き延ばす――流れるような動作で、関節を極めた。

 極めながら、桜の親指を掴み、外へ開かせた。

 力では、村雨は桜に敵わない。直ぐにも指は畳み込まれたが、然し、後頭部への打撃による一瞬の緩みが、桜の手から黒太刀『斬城黒鴉』を取り落とさせた。


「ぬ、ぉ――っ」


 桜の右腕は、完全に伸び切っていた。いや寧ろ、通常の動作で伸びる範囲より、ほんの少し広く、肘が開かれていた。

 村雨は、折るつもりだ。

 全身の力を込め、桜の肘を破壊せんと体を反らした。

 みしっ、

 と、一度だけ、鈍い音がした――ような、村雨には、そんな気がした。

 だが、手応えは返らなかった。


「……おお、危ない。少し落ちていたぞ」


 桜は、村雨を腕に絡み付かせたまま、あっさりと腕を、本来の角度に戻していた。

 先の音は、桜自身の筋力が、桜の骨を軋ませた音であった。

 雪月 桜が、身体機能の全てに枷を掛けず動く時の、まだ暖まり切らぬ体が発する悲鳴――駆動音、予兆。

 それが、触れた手を伝わって、村雨に、耳からではなく体内まで、直接響いたものだったのだ。

 右腕を捕えられたまま、桜は、左手で村雨の右足首を掴み――

 ぐんっ。

 刀を鞘から抜くように、右腕から引き剥がした。

 片腕である。

 村雨の、総身から絞り出した膂力に、雪月 桜は、たった一本の腕で勝ってみせるのだ。

 そして、小柄とは言え人間大の生物を、片腕で〝振るった〟。

 遠心力が体を浮かせ、地面と平行にされたまま、村雨は槍か棒のように振り回される。

 村雨は、視界が、とんでもない速度で入れ替わり続けるのを見ながら――次の攻撃を予測し、背を丸め、両腕で頭を覆った。


「そぉ――ぅらあぁっ!!」


 桜は、村雨を投げた。

 半ばまで刃が通り、それでも聳え立っていた桜の巨木へ。

 村雨の体は、まるで破城槌のように叩きつけられ、巨木の幹を圧し折っていた。

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