灰色の少女と黒い女(上)
――春はあけぼのと、古の文人は言った。
だが、春の夜も中々に良いものだ。
冬より和らいだ冷たさが、程良く身に刺さるのが良い。
程良く湿った、けれども肌に染み付かない冷えた空気を見に纏えば、短い夜を明かして書に耽る事も苦にならない。
瞼が重くなった時は、窓を開け放つ。
風が部屋に運び込むのは、芽生えたばかりの命の匂いと、死んでいく命の匂い。
命が入れ替わり、世界が羽化する季節こそ、春なのだ。
まだ、虫や蛙が鳴くには早いが、夜更かしになった鳥の声などは、木々の葉擦れの音に混ざって聞こえてくる。
何となく、心浮かれる夜。
軽くなった着物を羽織って、踏み固められた土の道を歩いてみれば、明瞭でない空がある。
この、はっきりとしない空がまた、良い。
秋の空は澄み渡り過ぎて、月があんまりにはっきりと見える。春の、朧がかかった空に、丸くなる途中の月が、雲間から顔を出すくらいの夜が良いのだ。
欲を言うならば、冬と春の境目が望ましい。
雲で和らげられた月光を、消えていく最中の雪が受けて、風に舞う花を照らす頃合いだ。
花ならば、桜である。
春の中で最も鮮やかに、そして最も短くその身を誇る、春そのものの色の花。
それは問答無用に、己をこそ主役と定めている、絶対の花でもある。
僅か数日で散るからなのか。
僅か数日で散るからこそなのか。
桜は他の何を省みること無く、自らの美を誇る。
つまり春の美とは、〝留まらぬもの〟であろう。
溶けて逝く雪の――
日々姿を変える月の――
長き冬を経て、短き春の為だけの咲く桜の――
「――それが、私の名の由来だとさ。私の師が、死ぬ前に語った」
「あららら……また縁起の悪い」
夜――桜と村雨は、西へと歩きながら、語らっていた。
桜の頬を伝った涙は拭い取られ、痕も残らずに消えているが、喉を痛めてのざらついた声は癒えていない。
あの後、亡骸を葬った。
抱き合うように果てた二人を引き離す事なく一つ所に埋めて、草木で土の上を覆った。
やがて、獣が掘り起こすか、土に還るか――いずれにせよ、形が無くなって消えていくのだろう。
二人が死んだ事を知る者は、桜と村雨の二人だけ。やがて彼女達――狭霧 紅野と狭霧 蒼空の記憶は、世界から薄れていく。
桜の悲しみも、消えはしないが、やがて薄れていく。悲しみをやり過ごし、踏み越えて、日々を過ごすのが人間なのだ。
さて――また、次の旅を始めた、桜と村雨である。
子供のように泣きじゃくる桜に、村雨があれこれと話しかけている内に、話題が〝昔〟の事になった。
それで桜が語ったのが、先の、人の名にそぐわぬ名の由来である。
「名を与えられたのは、何時だったか……五つか六つか、その辺りだと思う。十五で初めて名の意味を知った時は、流石に師を問い詰めようかと思ったが――」
「しなかったの?」
「私が斬って、死ぬ寸前だった」
「――――――」
「そんな顔をしてくれるな、我が師レナート・リェーズヴィエが望んだのだ。『俺を斬って行け、さもなくば斬る』と」
桜は、遠い故郷の雪原を――生まれ落ちた地ではないが、名も無き子供が『雪月 桜』として育った地を思い描くように、左目だけを細めて空を見上げていた。
日の本の空も、雪原の空も、夜の藍色は変わらぬのだろう。血濡れた過去を懐かしむ桜の表情は、不思議と穏やかであった。
「師はな、ずっと、死にたかったのだろうと思う」
「……そういう気持ち、私には分かんないよ」
村雨は、桜の隣で、俯きながら歩いていた。
足元に落ちた視線は、何を探すでもなく、ただふらふらと揺れている。
二人の行く道は、月明かりに照らされている。
地に芽吹いた若草が、夜風に揺れる姿さえ鮮明であった。
「死にそびれた、と、愚痴るのを聞いた事がある。最も幸せな時に死にそびれて、それから不幸ばかりを積み重ね――何処かで幸福に転ずるかも知れないと期待しながら、落ち続けていたのだと。
……こうも言っていた。私に会えて幸せだったと。だから、ここで死ぬのだと」
「幸せだから、死ぬ……?」
「もう、これ以上は望めないのだと、師の中で確信が有ったのだろうな。治療を拒んで吹雪の中へ――亡骸がどうなったかは知らん。……思うにあの言葉、生まれてたった一度、男に愛を囁かれたのかも知れん」
「ぶっ」
しんみりと、静かな語り口から、いきなり桜らしくも無い言葉が出た為、村雨は思わず噴き出していた。
その拍子に道の石に躓き、数歩ばかりよたよたと歩いてから、そこで桜の方へと振り返り、笑いを声に残したままで問う。
「たった一度? その顔で?」
「私に男が寄り付くと思うか? 女ならそれこそ選り取り見取り、浜辺の砂を手に掬い取るが如しだったが」
普段は言わぬ事を言った桜への、冷やかし混じりの言葉であったが――然し、桜の返す刀の方が、切れ味は相当に鋭い様子である。
「大陸に居た頃は、美人がやっている宿を渡り歩けば、宿代など無くとも好きに食えたからな。日の本ではどうも、女一人でやっている宿というのは少なかったが、何も宿屋ばかりが寝床では無し、万年床でも壁と屋根が有れば上等なものよ。
やはり、気性を言うのなら大陸より、日の本の女の方が私の好みではあったな。慎ましいと言おうか、恥じらいが有ると言おうか、そのくせにいざとなれば――」
「……むぅ」
村雨は頬を膨らましてそっぽを向いた。
こと、こういう冷やかし合いに関しては、村雨に勝ちの目が出た事は無いのである。
「はは、すまんすまん……今はお前だけだ、昔の事だ」
「むー」
今度は桜が宥める側に回って、二人はまた暫く夜道を歩いた。
朧の掛かった夜であった。
月は、丸くなりもせず、消えもせず、半端な姿で空に有る。
「私は、幸せだ」
桜が、ふいに、歩いていた道を脇に逸れた。
「……どうしたの、いきなり」
村雨は、言葉と行動の双方を問い質しながら、桜が向かう方へ、その後を追って歩いて行く。
桜は、平時より少し遅い程度に、ゆっくりと、何処かへ歩いて行く。
その足運びが――尋常のそれとは違っていた。
両の踵が、一時とて浮かばぬのだ。
ただ歩くのとは違う、小さな歩法の変化を、然し村雨は鋭敏に嗅ぎ取っていた。
「顔も知らぬ父母には、強く生み落して貰った。父母代わりの師に、誰よりも強く育てて貰った。日の本の空気、日の本の街が肌に合っていた。幾人も殺して、幾人も気紛れに掬って、幾人もと擦れ違い――今、お前が傍にいる」
びゅう――
風が吹いた。
桜の向かう方角から、三尺の黒髪をなびかせる程に吹いた春風は、花の色と匂いを満面と湛えていた。
桜の向かった先には、見事な桜の木が有ったのだ。
その木の下に、桜は立った。
手を掲げ、己と同じ名の花が、ひらひらと散って逝く亡骸を、数枚ばかり手に取って――
「――これ以上の幸せが、有るのか?」
その花弁を、拳の中に握り潰した。
刹那、黒が閃いた。
夜の闇、薄紅の花が月光を照り返して彩る仄明るさの中に、純黒の刀身が翻ったのである。
何時しか『斬城黒鴉』が、桜の手の中に有った。
「桜……?」
村雨は、思考に先んじて体を動かしていた。
遠く、数歩の踏み込みを要する距離にまで飛び退いて、右半身を引き、右足に体重を乗せて。
「私は、私が正しいと思い続けて生きてきた。勝ち続けて来たからだ。たった一度、負けた事は有ったが、だが――今日の負けはな、それとも違う。
……紅野は、蒼空は、私が二度と追い付けないところまで逃げた。もう二度と、私があいつらに勝つ事は無い。あいつらの死に涙しながら、私はあの姿を美しいと思った……そう感じてしまったのだ。
自分達を花になぞらえ、その最も美しく咲いた姿だけを残し、散った――これから先のどんな不幸も知らぬまま、幸福の絶頂の中に死んだ。あれは、完璧な死ではないのか?」
ざ――と、周囲の草木が揺らめいた。
風では無い。
鳥や、野の小さな獣や、虫や、数多の生き物が異変を感じ、そこから離れていくざわめきであった。
遥か離れた木に止まる梟さえが、夜鳴きを止める程の――
怒気。
否――殺気。
だのに、その気配には、嘆きの声が伴う。
「なあ村雨、時代は変わるぞ。戦の形も、人の形も、世の在り方は何もかも変わる。その先に私のような、戦いだけが能の生き物が――お前のような、戦いを悦びとする生き物が、生きる隙間があるものか?
私は……分からなくなった。これから先に幸せがあるのか、或いは今が最も幸せなのか……何も、何も分からなく」
「――――――」
村雨は、桜が構えるのを見た。
黒太刀『斬城黒鴉』の柄を両手でがっちりと、自らの筋力で骨を軋ませる程に握り込み、まるで真っ当な剣客のように正面で構えた姿。
風は止んでいるというのに、暴風の如き圧が有る。
眼光一つで人を殺し得る、狂の具現がそこに居た。
「……そっか、分からなくなっちゃったんだ……負け慣れてないから」
だが。
村雨は、困ったように笑って、それから構えを作った。
両腕、篭手に覆われた前腕で、頭を左右から挟むように腕を上げ、両足で小刻みに体を跳ねさせ――
「今まで、勝ち続け来たんだもんね。自分が正しいと思った事を押し付けて、大体、何でも上手く行ってさ。だから私達は一緒に生きて来られたけど――紅野と蒼空は違う」
村雨の構えに、殺意は無かった。
戦う者が備えるべき威圧感が、まるごと抜け落ちたように、穏やかな空気のまま、村雨は構えていた。
けれども、村雨と桜と、何れの表情に余裕が見えるかと言えば――
それは、村雨だった。
「生きてて欲しかったんでしょう、でもそう出来なかった。生きている方が、二人は幸せになれるって信じて、押し付けに行って――もっと幸せな死に方を見ちゃったんだもん。迷うよね、桜なら。
あなた、自分で気付いてるかどうかは分からないけど、大事なものの扱い方が上手くないから……私に触れてる時だって、本当はいっつも、これでいいのかってびくびくしてるでしょう」
村雨の目が、月を見る。
朧の雲に隠された半端の月が、灰色の瞳の中に収められた時、村雨の姿は既に、人と獣の間の形へと変わっていた。
瞳と同じ灰色の体毛が、腕や脚を覆う、人狼の姿に。
「桜、安心して今の自分を信じていいよ」
「今の……?」
構えを僅かにも緩めぬまま、微動だにせず桜は聞き返す。
村雨は、揺らがぬ桜の視線を、柔らかく受け止めて応えた。
「そう。今思ってる事をそのまま――今この瞬間が一番幸せなんだって、思い込んでるそのまんまでいいの。だって私が、もう一度あなたを負かしてあげるから。
……あなたが、あの二人に押し付けようとしてた事……私があなたに押し付けてあげるから」
そして――村雨は、吠えた。
数里に轟き渡る狼の、骨身も凍るような咆哮であった。
村雨と桜の他の、全ての生き物が、逃げる事さえを忘れて動きを止めた。
先とは色の違う静寂が、しん、と腹の底へ染み渡って――
「ああ――私には過ぎた女だ、お前は」
雪月 桜は、修羅の顔になった。
黒髪を、身を覆う黒の衣を、翼の如く羽ばたかせて、低く地を飛び馳せた。
そして、如何なる敵をも二つに断ちきるであろう至上の斬撃を、命よりも愛する少女の頭上へと振り落とす。
行為こそは、違わず殺傷の技であるが――
それは、愛を交わす夜を始める、呼び水の口付けと同義であった。




