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最後の戦のお話(15)

 雪月 桜は、暴風をまいて走っていた。

 狭霧 紅野と狭霧 蒼空に追いつこうとしているのだ。

 二人は御所の外へ出た後、追手の気配が迫るのを知るや、跳ぶように駆けて行ってしまった。

 彼女達二人は、道を選ばない。

 壁が有れば駆け上がり、塀が有れば飛び越え、屋根を走り、屋根へ飛び移り、気の向く方へ真っ直ぐに走っていく。

 あれから何十人も、何百人もの兵士達が二人を追った。

 誰も追いつけなかった。

 紅野と蒼空は、兵士達が追いつきそうになると急に速度を上げ、距離が開けば速度を落とし、付かず離れずを保って走る。

 追われる事を楽しんでいる――桜には、そう見えた。

 何故なら二人の顔が、まるで子供のように眩かったからだ。

 調子外れの歌を歌い、道の端に落ちていた木の枝を拾って振り回しながら、連れ立って広場へと向かう子供の――陰りを何一つ持たない輝かしさを、二人は湛えていた。


 ――そんな人間が居るものか!


 その眩さが――桜を突き動かしていた。

 桜は、その超越的な力が故に楽天的だ。万事はなるようになると、多くを悩まずに生きている。

 だが、そんな桜でさえ、信じられぬ事がある。


 ――苦しみを、悲しみを、浴びる程も受けて、


 狭霧 紅野と狭霧 蒼空は、幸福を奪われて生きてきた。

 人間が当然のように甘受するべき幸福を、実の父親に取り上げられて、内側に重大な歪みを幾つも抱えて育った姉妹だ。

 何時も、表情に陰りが有った。

 十数年間に渡って積み上げ続けた陰りだ。

 そんなものが、たった二つや三つの夜で、癒えよう筈も無いのだ。

 人は、他人を欺く事は出来ようと、自分の本心までを偽る事は出来ない。必ず、どれ程に小さな形であれ、人間の心の内は〝顔〟に現れる。


 ――ああも眩く笑っていられるものか!


 だから、桜は駆けるのだ。

 過去を全て忘れたような顔で、遊ぶように走っていく二人が、その実は過去ばかりでなく――

 現在いまも、未来そのさきも、過去から繋がる全てを投げ捨てたように見えたから。

 桜はせめて、二人が投げ捨てたものを拾い、押し付ける為に走る。


 ――許さんぞ。


 そんなものは要らないと、あの二人は言うかも知れない。

 要らないから捨てたのだ、もう望むものは一つしか無いと。

 桜は、二人がそう望むのなら、その望みを踏み躙ってでも、二人を未来そのさきへ連れて行きたいと願った。

 酷く自分本位な〝願い〟――だが、それが桜の本質でも有る。

 自分の望むものは、何としてでも手に入れる、手放さない――その意思が、村雨を繋ぎ止め、〝大聖女〟エリザベートを殺したのだ。

 〝幸せになって欲しい〟などという、愚にも付かない身勝手を押し付ける為に、桜は二人を捕らえようとしていた。

 既に、二人に追い縋る兵士は、誰も残っていなかった。

 洛中を縦横無尽に駆け回る紅野と蒼空が、偶然近くに来た時だけ少し走り、直ぐに見失って足を止める――それが、一介の兵士に出来る全てだった。

 ただ一人、桜だけが、二人を追い続ける。

 二人は、時折背後を顧みて、桜がまだ自分達を追っていると見るや、本当に嬉しそうな顔になるのだ。

 そして、速度を更に増す。

 二人の疾走に限度など存在しないが如く、紅野と蒼空は逃げる速度を増す。

 桜でさえ、その背を見失わぬのでやっとな程だ。

 無尽蔵の体力を誇る心肺に血を送らせ、両足で石畳を蹴り、自らの体を前方へ射出するように、桜は二人を追う。

 だが、二人の姿は遠ざかっていく。


「待てっ!」


 自らの喉から漏れ溢れた音に、哀しげな響きを認めながら、桜は幾度も叫んだ。

 戦場でさえ体験した事が無い程、息が上がり、喉が焼け付いていく。それでも桜は、二人の名を呼ぶ。


「紅野、待てっ! 蒼空、待てっ! 止まれえっ!」


 果たしてその声が、届いたものか、届かぬものか――

 何れにせよ二人は、桜より数十間も先で、二人並んで足を止めた。

 左右幅が十丈も有る大路の真ん中に、紅野は大振りの得物を二つ担いで――鬼の大鉞『怒獄』と、父の形見の大鋸『石長』と――右脚に体重を預けて立っている。

 その隣に蒼空が、妖刀『蛇咬』を、鞘に収めたままで寄り添っている。

 桜と剣を交えた折、二つにへし折れた筈の『蛇咬』であったが、その刀身は既に、何事も無いかのように復元されている。

 二人は、双子らしく、同じ顔で笑って走り出した。

 真っ直ぐ、桜の立つ方へ、である。

 足並みを揃え、矢弾のように、数十間の距離など無きが如く、二人は桜へと迫る。

 蒼空は、刀を抜かない。

 紅野は、得物を肩に担いだまま、前方へ向けようとしない。


 ――許さんぞ、お前達。


 桜も呼応するように、石畳を爆ぜさせて跳んだ。

 三人の距離が、瞬時に消えて行く。

 桜は両手を開き、前方へ突き出して、双子を捕らえようとしていた。

 体の何処かに、小指の一本でも引っかかれば、自分の力なら二人を捕らえられる――桜はそう踏んでいた。

 一方で双子は、未だに武器を桜へ向けようとしなかった。

 二人は、桜を傷付けず、遊ぶように翻弄して、通り過ぎて行こうとしているのだ。


「かあああああぁああぁああぁっっ!!!」


 桜は、獣の如く咆哮して、加速しつつ二人へと迫り――激突の瞬間、双子は左右に別れて跳んだ。

 桜から見て、左手側に紅野が、右手側に蒼空が、それぞれに桜の横をすり抜けようとしていく。


 ――両方は、無理だ。


 桜の腕の長さより僅かに遠く、二人は左右に跳んだ。片方を捕らえようとすれば、もう片方に手が届かない。

 桜は左に跳んで、紅野を追った。

 長柄の得物を担いでいるだけ、僅かに速度が遅く、掴む箇所も多い。

 捕えた。

 思い切り伸ばした左手の、中指の先が、紅野の左手首に引っ掛かる。

 桜は指一本きりで、紅野を一気に引き寄せた。

 違う。紅野が、引かれるに合わせて、桜の方へと跳んだ。


 ――このまま抑え込む。


 桜の右手が、紅野の右袖へ伸びる。紅野は右腕を外へ振って逃れる。

 桜は紅野の左腕を掴んだまま、その腕の側へ回り込み、紅野の顎の下に、右上腕を押し当てた。

 紅野の体が、顎と喉を押されて僅かに反る。倒れぬよう、紅野が咄嗟に、右脚を後ろへ引いた。


「ふんっ!」


 その右脚――右膝の裏に、桜が右の脛を押し当てながら、右上腕で抑えた紅野の顎を、思い切り後ろへ押し込んだ。

 紅野の体が、腰の辺りを軸にして、ぐるりと後ろへ回転する。

 右手に得物を掴んだままでも行える、柔術系の投げ技であった。

 桜はすぐさま、紅野の左手首から手を放し、落下していく紅野の頭部を追い掛けて手を伸ばした。

 落下速度が、自分の見積もりより速い事に気付く。

 思考を経由せぬ、感覚的な察知である。

 背から地面に落ちるよう放った自分の投げに比べ、紅野の頭が下りて行く速度は明らかに速い。

 構わず掴もうとした紅野の頭部は、桜の視界の中で、左側へと不意に抜けて行った。

 紅野は、自分から回ったのだ。

 投げ落とされる瞬間、片脚で跳躍し、桜の投げの勢いに自分の脚力を足して、その場で後方に回転したのである。

 両足から、紅野が着地する。

 着地の瞬間、桜は、紅野の腰を、両腕で抱き締めるように捕えようとした。

 殆ど見えぬ右目が、視界の外で動くものを感じ取った時、桜はその腕を、近づいて来るもう一人を捕える為に外へと開いた。

 見えぬ相手目掛けて振り抜かれる桜の右腕――それを蒼空は、易々と潜り抜けて懐に潜り込む。

 桜は左手で、蒼空の襟を掴む。

 万力の如き握力である。

 だが、蒼空は、それを振り払って逃げようとはしなかった。

 蒼空の左上腕が、桜の喉を押す。

 喉という急所を圧迫され、反射的に桜が体を反らせる。

 然し、其処までだ。強靭な体幹は、足を動かさぬまま、倒れぬように体を支えた。

 すかさず蒼空は、右脛を横へ打ち出すように、桜の両膝裏を打った。


「おっ!?」


 がくん、と桜の腰が落ちる。

 咄嗟に踏み止まりながら、桜は驚愕の表情を浮かべていた。

 蒼空の技は、自分が紅野へ対して用いたものと同じだったからだ。

 いや寧ろ、桜のそれより迅い。

 紅野のように、跳んで姿勢を立て直す暇すら無かった。

 見様見真似の技とは思えぬ程の仕上がり――異常の才である。

 駄目押しとばかり、紅野が桜の肩に手を置き、横を駆け抜けざまに引いた。

 桜の視界に、晴れた空が広がった。

 澄み渡った春の空であった。






 村雨は、風に乗って流れて来る雑多な臭いを嗅ぎ分けていた。

 飯を炊く火の臭い。

 車を運ぶ馬の臭い。

 誰とも知らぬ、多くの人間の臭い。

 街の、生活の臭いが流れている。

 人の社会の中に在る以上、それは当然の事だ。

 もしこの臭いの中の、一つが急に欠けたらどうなるのだろうか。


 ――どうにもならない。


 それが村雨の答えである。

 村雨の鋭敏な嗅覚は、目に見えるものより、耳に聞こえるものより、ずっと多くの情報を、常に受け取り続けている。

 森や山に在れば、どれ程の獣が――

 街や里に在れば、どれ程の人が――

 生まれているのかも、死んで行くのかも、感じ取っている。

 一つの生き物に、命はたった一つしかない。

 だが、そのたった一つの命が失われたとて――森も、街も、営みを止める事は無いのだ。

 森で死んだ獣は、他の獣に食われ、或いは木々が育つ為の養分となり、姿を消す。

 街で人が死んだとて、やがて忘れ去られるだけだ。

 けれども、獣と人とで、違うものがあるとするならば――

 それは、誰かの名を、誰かが遺すか否かではないだろうか。

 獣は、誰の名をも語り継がない。人だけが、言葉として、文字として、かつて在った者を後世に遺す。

 記憶する。

 その行為は、なんと虚しい事であろうか。

 誰かの名を遺したとて、そこに、その人間は居ない。街は変わらず、誰かが生まれて来る前もそうだったように、誰かが居なくなった後も、同じ呼吸を続けて行く。

 だが――益体も無い事では無いのだ。

 例え語り継ぐ事が、虚しい慰めであろうと、無益では無い。

 古人の言に学ぶとか、口伝の知恵に頼るとか、そういう実利の問題ばかりではなく、もっと心情的な部分に、語り継ぐ事の意味は有る。

 それは鮮烈な焼印である。

 心に焼け付く誰かの生が、その人間を動かして生き様を変えて行く、そういう事が有る。

 あのように生きて行きたい。あのように眩く歩みたい。身を焦がす羨望が人の道を定め、歩む人を輝かせる。

 例え死したとて、後に生きる人間の中に、想いは残り継がれて行く。

 村雨もまた、眩さに惹かれて、人の街へと身を投じた生き物であった。

 初めは、人間が羨ましかった。

 自らの欲望に優先する理性を持ち、自らより愛するべき他者を持つ。そんな〝理想化された〟人間を羨み、人の街に降りた。

 案外、人は獣のように我欲的であると知ってからも、羨む代わりに、人間が愛おしくもなった。

 獣のように身勝手に生きている中に、時々、誰かの眩さを追い掛けている姿の輝きを見るのが心地良かった。

 人は、眩い。

 目を光で焼かれ、眩み続けて生きる事は、きっと幸福である筈なのだ。

 だが――今、誰よりも眩く輝きながら、駆け抜けて行く二人が居る。

 誰よりも幸せそうに笑って、唯一無二の愛する者と並んで、人の街を遊び場に、走り回る二人が居る。

 だのに、何故だろうか。

 その二人を見ても、村雨の心は、まるで安寧を嗅ぎ取れずに居た。


 ――桜も、同じだ。


 きっと、先に駆けだした雪月 桜も、似たようなものであろうと――

 何とも分からぬ焦燥に駆られ、動かずには居られなくなって駆けだしたのであろうと、村雨は思っていた。

 焦っている。

 足を止めれば、焦りに押し潰されそうだ。

 誰よりも眩い二つの光に、置き去りにされそうで――

 悲しいのか、

 寂しいのか、

 それとも怖いのかも分からないまま、焦りに任せて走っている。

 向かう先は――知らない。

 村雨は、まず、桜を探していた。

 一人で、あの眩さを追い掛けて行くのは、あまりに辛い事であったのだ。

 桜は大路の真ん中に、仰向けに倒れたままであった。

 一目見て、怪我など何も無いのだと分かっても、村雨は即座に駆け寄った。


「桜――二人は!?」


 名を呼んでも、桜の目は、空を見上げたままで降りて来ない。

 空虚な目だった。

 空を見上げているのに、その目には何も映っていない。村雨の声さえ、聞こえているのかも定かでは無かった。

 桜の視界には、晴れ渡った空と、ゆったりと流れる雲ばかりが映っている。

 村雨は、それを遮るように、覆い被さるように桜の顔を覗き込んだ。


「桜!」


 その時、初めて村雨に気付いたかのように、桜の目が焦点を移し――


「あ――」


 そして桜は、村雨が今まで見た事も無いような顔をした。

 普段は世長けて、老成した感さえ有る桜が、親を見失った迷い子のような顔をして、村雨に縋り付いたのである。


「……あれは、散る為に咲いた花だ」


 掠れて、声にならぬ声であった。

 喉がつかえて、息を吐き出す事にさえ苦しんでいるような、泣きそうな声。

 それが村雨の胸に、棘となって刺さり、小さな痛みになる。


「私では駄目だ、私では追い付けない――お前だけだ、頼む」


 桜の指が、村雨の服の裾を掴む。

 手の重さで外れてしまいそうな程、その指に力は無かった。

 こんなにも雪月 桜という女は弱かっただろうか――そう思ってしまう程に。


「頼む、村雨……お願いだ、あいつらを止めてくれ……!」


「……桜」


 もはや自分では何も出来ぬと知って、無力を嘆きながら哀願する。

 他ならぬ雪月 桜が、そうするのである。

 痛ましい有様である。

 だのに村雨は、己に乞い願う桜の姿が――また、嬉しくもあった。

 そして、自分は何をせねばならぬのか、明確に提示された事が救いであった。


「任せて!」


 村雨は、また走る。

 止めねばならぬ。

 紅野と蒼空、二人の姉妹が――散る為に咲き誇る事を。






 洛中より北へ駆け抜けて辿り着く、名も無き山の傾斜を登った先に、なだらかな、開けた場が有った。

 周りの木々は若い花を枝に咲かせているのに、そこだけは切り取られたように、赤茶けた土が見えている。

 昔は小屋など有ったのかも知れない。

 切り倒した木の根まで掘り返し、穴を土で埋めて――荒くも整地された、広場のような箇所が有った。

 いつしか、山は春だった。

 空を見上げようとすれば、視界を薄赤色の花が覆う。

 たくさんの花を見に纏って、重くなって項垂れた、枝の体。

 風が吹いて、枝を揺らす。

 ひらりひらりと、花の衣が落ちて来る。

 訪れた春の中、花だけはもう、去っていこうとしているのだ。


「ああ――楽しかった」


 狭霧 紅野は、額の汗を手の甲で拭いながら言った。

 洛中を走り回り、何人も、追って来る者達を振り回し、止まらぬままで山へと駆け込んだのだ。

 時折、びゅうと強くなる風が、紅野の長い白髪を巻き上げて、汗の雫を散らしながら抜けていく。

 傷だらけの顔には満面の笑み。

 良い夢を見て目覚めた朝のような、晴れ渡った、陰の一つとて見えぬ顔であった。


「お前も、楽しかっただろ?」


「……ふふっ」


 隣に、同じ顔をして、狭霧 蒼空が並んでいる。

 品良く口元を隠し、ころころと喉を鳴らすように笑う蒼空は、まるで慎しみ深い淑女のようですらある。

 ひと月も前には、子供のように何も知らず、大声で喚き泣く少女だった。

 今日、この日に至っても尚、雪月桜が語る〝未来〟の概念を、何も理解出来ぬまま、首を傾げたというのに――

 たった一人、血と魂を半分に分け合った紅野の隣で、蒼空は成熟した女の振る舞いをする。


「私達には、誰も追いつけなかった。傷の一つ、汚れのひと匙だって付けられない」


 紅野は、未だに浮かれ遊ぶ心のまま、上ずった声をしていた。

 自分の言葉を聞くのが、嬉しくてたまらないというような、そんな様子であった。


「私達が二人なら、誰よりも強いんだ」


「……うん」


 蒼空が、慎ましく同意する。

 その仕草に、恥じらいさえが見えた。

 今を盛りと咲き誇る花の、清楚な美しさを湛えた――少女の、絶頂の姿であった。

 二人は向かい合い、緩やかに構えた。

 遠く、間合いを取る。

 跳ねるように大きく歩いて、五歩の距離だ。

 ゆらり、と、体を傾けるように――進もうとした蒼空より先、紅野が、近づいて来る気配に気づいた。


「おっ」


 面白いものを見た、という調子の声を一音発し、


「お前が最後かぁ」


 手にする得物とは裏腹の気安さで、乱入者に呼び掛けた。


「……どういう意味かな、それ」


 答えたのは、村雨であった。

 疾走の勢いを数歩で殺し切り、二人から少しばかり離れた所に立つ。

 その身は既に、荒事の為のあらゆる用意を完了していた。

 肥大化した犬歯、ぶ厚く変わった四肢の爪、増大する心拍数、変色する眼球の強膜、四肢や背、首、腹を覆う灰色の体毛――人狼の本性を余さず曝け出した、戦いの為の姿。

 何よりも、眼光が強い。

 己の意思を通そうとする、身勝手な強者の風格が滲み出ている。

 答えによっては、この機能を存分に振るう――そう警告しているのだ。


「死ぬ気でしょう、あなた達」


「ああ」


 村雨が問う。すると、なんとも、吹き抜ける風に乗る花弁のように、重さの無い紅野の言葉が返った。


「駄目、させない」


「駄目か? なんでだ」


「そうして欲しくないって人が居るから……その人に頼まれたから」


「……桜だろ、それ。あいつ、案外おせっかい焼きだよなぁ」


「まあね」


 かっ、と弾くような声で、紅野が笑った。躊躇いの無い、すがすがしい笑声であった。


「気持ちだけ受け取っておくけどさ、村雨。私達はもう、ここから先が無いんだよ」


「……幾らでも、先なんか選べるじゃない。どこへ行くのも、どこへ隠れるのも、あなた達の力なら――」


「違う、違う。私達はどうやら、今日で、自分の命を登り切っちまったみたいなんだ」


 紅野は、同意を求めるように、視線を横へ滑らせる。蒼空はその視線を受けて、紅野と同じ顔で微笑み、頷いた。

 それから紅野は、思い切り体を反らせて、高い空を見上げた。


「これから先、望みってもんが何も無い。びっくりするくらい、この世に、思い残しの一つも無いんだ。

 そりゃそうだよなぁ、元々なんにも持ってないのが私達だったんだ。親父が作った、出来の悪い方の玩具と、出来の良い方の玩具と――手放せない大事なものなんて、一つ残らず取り上げられちまった。後ろ髪を引いてくれるやつが、私達にはもう居ないんだよ」


「……後ろ髪を引く人に、私や桜は成れないの?」


「嬉しい申し出だけど、そりゃ駄目だ……もっと強く引っ張ってくる奴が居る」


 視線を降ろさぬままの紅野へ、村雨は、摺足でにじり寄った。

 隙を見せれば組み付き、絞め落とさんと身構えての、僅かに膝を曲げて力を蓄えた体勢である。

 今ならば、届く。

 だが、地面を蹴ろうとした村雨が、足に力を込めるより速く、その正面に蒼空が立った。

 刀も抜かず拳も作らず、淑やかに、自然体で――

 風に掴まれ、揺らされる白髪に、散り逝く花弁が縺れ合って吹き抜けてゆく。

 その中に蒼空が、何にも染まらぬ白のままで立っている。


「綺麗だろ、私の妹」


「――――――」


 否とは答えられない。

 強い立ち姿だった。

 だが――それ以上に、美しい姿であった。

 少なくとも村雨は、死ぬ為に此処にいる少女の姿に、確かに美を感じていたのだ。

 ただその為だけに在るものの、機能美。

 鋭利な刃が、斬る為の姿をしていて、美しいように。

 死ぬ為だけに在るからこそ、蒼空は――同じ顔をした紅野は、美しいのかもしれなかった。


「私も蒼空も、多分、あの日――親父を殺したあの時が、一番強かった。おとといより昨日、昨日より今日……ちょっとずつさ、自分が、もう戦わなくていいんだって、弱くなっていいんだって妥協していくのが分かるんだ。

 でも、何時が一番綺麗かで言ったらさ、今日なんだ。一昨日より昨日、昨日より今日、私達はより綺麗になって――明日、明後日、少しずつ、今より駄目になっていく」


「そんな事はっ――!」


「有るよ、間違い無く」


 紅野が言うのは、つまり、役割の事だった。

 自分達はもう役割を終えたと――だからこれ以上、何かをする必要は無くなってしまったのだと。

 役割を失った自分達は、これから、輝きを失っていく。

 二人は、強く、そう信じている。


「結局は誰も、この世は、死にたがる私達を捕まえられなかった。」


「まだ私が居る!」


 喰い下がるように、村雨が吠えた。

 だが、その足は、地に根が生えたように動かない。

 動けないのだ。

 獣の身体が、理性を裏切って、村雨をそこへと留めていた。


「それが答えだよ」


 見透かしたように、紅野が言って、


「……じゃあ、ね」


 蒼空が村雨に、別れを告げて破顔し――

 剣閃。

 紅野が、大鉞の柄で受けた。

 火花が赤い雨と散る。

 血を分けた姉妹の、魂を分けた二人の、究極の自慰行為ころしあい――喘ぐように艶やかな、喜悦の声が響いた。






 一合で、紅野の左腕が飛んだ。

 父の形見である大鋸を振るい、蒼空の首を断たんとしたその時、蒼空の一太刀が、脇の下から潜り込んだのである。

 相手の攻撃の合間に割り込む、絶妙の一瞬を突いた剣撃。

 然し、避けようと思えば、紅野の技量ならば、前腕に酷い傷は受けただろうが、避けられる筈だった。

 なら、何故に紅野の腕が飛んだのか。

 紅野は、避けようとしなかったのだ。

 代わりに、身体を思い切り捻って、左腕にさらなる加速を与え、より速く蒼空の身に、己の得物を届かせんとした。

 踏み込みの勢いで蒼空の身が、頭一つ半ほど下がった。

 為に、蒼空の首を狙った斬撃は、そのままならば上へと抜けて行く筈であった。

 紅野がその軌道を捻じ曲げた。

 左肩を捻り込み、上体を斜めに倒し、加速を損なわぬままで大鋸の向かう先を、本来の到達地点より低く落とした。

 ごきっ、と、音がした。

 その衝突音は、刃物のものではなかった。

 大鋸の刀身は、皮膚と肉の薄い箇所――蒼空の右側頭部にぶち辺り、頭蓋骨に食い込んでいたのである。

 それも、斜めにだ。

 目の横の部位は、他の箇所より骨が脆い。だから、そこだけが砕け、内側に収まるもの――蒼空の右の眼球まで、刃を届かせた。

 このまま鋸を挽けば――いや、たった一度強く〝引く〟だけでも、頭蓋骨に食い込んだ刃が、蒼空の頭部を切り開いただろう。

 然し、その時、蒼空の斬撃が走った。

 刃を仰向けにし、低くから高くへ、最短距離を真っ直ぐに振り上げた剣閃は、紅野の骨を、手応えも無く絶った。その為、頭蓋骨に食い込んだ鋸の刃は、前後に動かされる事は無く、ただ骨を割り、眼球一つを潰すに止まったのである。

 この攻防が、たったの一合であった。

 く、ああぁぁあぁ――

 紅野が苦痛に呻きながら、義足の左膝を振り上げた。

 刃を振り抜き、伸びた脇腹へ、斜めに突き刺さる、鋼の膝。

 めぎぃっ。

 ふうっ、ぅう――

 蒼空が、押し殺した呻きを、息と共に吐き出す。

 肋が二本、折れていた。

 潰れた目が生んだ死角に慣れぬうちの膝であった。

 更に紅野は、足の裏で――義足の全重量、自分の全体重を乗せて、蒼空の右足を、目一杯に踏付けた。

 ずむっ。

 足を置いていたのが、石畳ではなく地面であった為、その音は少し曇っていた。

 仮に石畳の上で放っていれば、足の甲を砕いただろう打撃――下段踏付け蹴り。

 それでも、蒼空の足をその場に縫い止め、動きを止めるだけの効力は有った。


「おうっ!」


 一声、吠える。

 紅野は、額を、蒼空の顔面に叩きつけに行った。

 蒼空も、額で迎撃した。

 一度の衝突で、双方の額が避け、血が、ぱっと霧のように散る。

 そのまま二人は、裂けた傷を重ねるように、額をぎりぎりと押し付け合い、血塗れの修羅の顔で笑いあった。

 そして――同時に飛び退く。

 蒼空の、刀の間合いよりは少し遠い。

 紅野の、大鉞の間合いよりは少し近い、そんな距離に立って仕切り直しをする。

 紅野は左足から踏み込んだ。

 そして、腰から上をぐうと右に捻り、回転させ――それだけだった。


「……?」


 虚を突かれた蒼空は、刀を顔の右側で立てた、防御の体勢のままで、ぱちぱちと瞬きを繰り返した――右の瞼は眼球が抜けて、少し落ち窪んでいた。

 ところが、驚いたのは蒼空ばかりでは無いのだ。

 動いた紅野自身が、自分の行動を全く理解出来ないというような顔をして、二人の間に広がる何も無い空間を見つめ――


「あっ、もう無いわ」


 未だに血を流し続ける、己の左肩の切断面を見て、ようやく合点が行ったように頷いた。

 つまり紅野は、左手に持った大鋸で、蒼空の死角を突こうとしたのだ。

 ところが、その左手が、腕ごと、もう無いのである。

 たった今、腕を失った事を、すっかり忘れていたのであった。

 その事に気付いた途端、双子のどちらも、大きな声で笑い出した。

 紅野は、残った右腕で、腹を抱えて息苦しそうに。蒼空は、口元に手を当てて隠しながら、目の端に涙を滲ませて。

 笑わぬのは、何もせずに立ち尽くす村雨だけであった。


 ――狂ってる。


 自分の、或いは血を分けた片割れの、腕が落ちた事が、そんなにもおかしいのか――村雨は、そう問いたかった。

 事実、二人が狂気に呑まれている事は、間違いが無いのだ。

 二人は、死ぬ為に戦っている。

 自分が死ぬ事を望みとしながら、それを叶えてくれる相手を、全力で殺そうとしている――それが、村雨には分かるのだ。

 散る為だけに狂い咲いた、二輪の花。

 怖気を感じる程の狂気が、二人の声に浮いていた。

 だが。

 それでも、尚。


 ――綺麗だ。


 二人は、これまでに生きてきたどの瞬間よりも、なお美しく咲いていた。

 命の火を燃え上がらせて、灰と化すまでの時を、至福と定めて味わっていた。

 この火が潰えたならば、二人は果たして、どれだけ生きていられるのだろう。

 五十年――

 これが妥当な数値かも知れない。

 平穏無事に生き、置いて、眠るように死んでいくまでの間、望むなら――どれ程に多くのものを見られるだろう。多くの人間に出会えるだろう。どれだけ広い世界を歩けるだろう。

 未知に出会い、既知とする事。

 そこには、計り知れぬほどの喜びがある。

 可能性――「今、自分が持っているどんなものよりも、素晴らしいものがあるかもしれない」――否定されるまで抱き続けられる、夢。

 例え否定されたとて、次を探せば良い。何故なら世界は、無限と言えよう程に広いのだから――

 だが、そういう〝健全な夢〟を抱けるのは、もしかしたら、所謂〝普通〟の人間だけなのではないか。

 狭霧 紅野には、この世にたった一つの願いも無い。

 狭霧 蒼空には、この世にたった一つの願いも無い。

 これから先の生に於いて、何か、本当に些細な一欠片の望みさえ、自分は見つけられないだろうと予感している。

 何故か。

 今までがそうだったからだ。

 狭霧 和敬という稀代の悪漢に〝作られた〟二人は、自分の役割を果たす事以外を求められなかった。

 自虐的なまでに傷付き、やがて壊れていく事を求められていた紅野――

 誰とも意を交わらせぬまま、孤独に生きていく事を求められていた蒼空――

 紅野と蒼空は、道具だった。

 道具は夢を見ない。

 刀が、槍が、矢が、自ら望んで人を殺すのではないように、二人は何かを望み、道具としての役割を果たしていた訳ではない。

 〝あのようになりたい〟という、健全な、当たり前の願いを抱く事さえ思い当たらなかった十七年。その呪縛は二人の魂に、蔦草のように絡み付いて離れない。

 僅かにでも、未来に望みを抱き、生きていて良いと思った事も有った。けれども、その僅かな希望さえが、父の手で踏み躙られた。

 だから紅野と蒼空は、これまでがそうだったように、この世に願いを持たない。

 二人の望みは、死の先にある。

 永遠の安息。

 そこへ、自分達が最も強く、最も美しい姿のままで、辿り着こうというのだ。

 自らの半身の他に、誰の手をも借りず――


 ――まるで、駆け落ちじゃない。


 村雨の声は喉の奥で、息苦しさになって、消える。

 そう、駆け落ちなのだ。

 恋に生き、恋に死ぬ恋人達のように、二人は手に手を取り合って、死出の旅へと走って行く。


「おおおおおおぉっ、しゃあああぁっ!」


 紅野が、右腕だけで大鉞を振るう。

 一丈を優に超える柄の先に、二尺以上の長さの刃を備えた大鉞は、人外の武器である。重量も二十貫はあろうか、紅野より余程重い。

 それを、広く開いた両脚で支え、布旗の如く振り回すのだ。

 触れたものを、断てぬとも砕く、論外の破壊力。

 地面と水平に唸りを上げて、大鉞の刃が、蒼空を両断せんと迫る。


「――やぁっ!」


 蒼空は、真っ向からそれに当たる。

 妖刀『蛇咬』を大上段から、真っ直ぐに振りおろしての迎撃。

 受け止めたのではない、斬ったのだ。大鉞の柄を半ばから斬りおとし、刃を失わせたのである。

 然し、間を置かずに紅野が、切断された大鉞の柄を、槍のように用いて突きを放つ。

 腹を狙う刺突。

 左右への小刻みな跳躍で避けながら、蒼空が前へと出て行く。

 即席の槍の間合いは五尺。その内側へ入った蒼空が、紅野の首目掛けて刀を振るう。

 紅野は身を沈めて斬撃を避けながら、義足で蒼空の右膝を、踏み押すように蹴り付けた。

 蒼空の膝が軋む。

 だが、折れるまではいかない。かろうじての所で蒼空が、右足を半歩だけ引いて躱していた。

 紅野は、そこから更に身を沈める。

 頭が、蒼空の腰より下がるまで屈み、膝に力を込めた。


「おうっ!」


 そこから紅野が、頭を蒼空の腹部へ突き刺すように跳ねた。

 重量と骨の厚みだけで言うならば、頭蓋骨は拳よりよほど危険な凶器となる。それが、骨で守られていない腹部へぶち当たるのだ。

 蒼空の体が、くの字に折れ曲がる。

 だが蒼空は、腹部を打たれながらも、左手で紅野の後頭部を抑え付けていた。

 めしゃっ、

 という音がして、紅野の鼻から血が噴き出す。

 蒼空が、膝を思い切り振り上げて、紅野の顔に叩き込んだのだ。

 たった今、義足の蹴りで負傷したばかりの、右膝であった。


「くおっ……!」


 たたらを踏んで後退する紅野を、蒼空が更に追う。

 紅野が義足の左脚を高く振り上げるも、これは空を切る。

 振り上がった足の爪先が空を向き、落下へ転じるより先、蒼空は刀の刃を寝かせ、紅野の腹へと突き出していた。

 腹の側から背骨を断ち割ろうとする、ど真ん中への、真っ直ぐな突き。


「おっ!?」


 紅野は咄嗟に身を捩ったが、蒼空の剣閃を避けるまでには至らず――右脇腹に妖刀『蛇咬』が、刀身の半ばまで突き刺さっていた。

 その時、蒼空が、恐ろしい顔になって笑った。

 そして、両手でしっかと刀の柄を保持すると、全身を駆動させ、突き刺さったままの刀を、思い切り振り切ろうとしたのである。

 もし成れば、紅野の胴が、腹の中から外へと切り開かれるような、無惨な一閃であるが――それを紅野は、これまた恐ろしい方策で防いで退けた。

 紅野は、前へ出た。

 刀で何かを斬る時は、多かれ少なかれ、刃を引かねばならない。無論、刃を全く動かさぬまま、力任せに対象へ押し当てて切断する事も不可能ではないが、それは極端に効率を落とすやり方だ。

 紅野は、蒼空が刃を引く動作と全く同じ速度で前へ出ながら、更に刃が体の外へ振り抜かれるに合わせ、自分も横へと動いたのである。

 無傷とはいかない。腹部の刺し傷が押し広げられ、ぞっとする程の血が流れ落ちるが――即死では無い。

 紅野には、それで良かった。


「捕まえた……」


 紅野は、即席の槍を捨てた。

 残された右手で、蒼空の左手の上から、『蛇咬』の柄を掴む。

 その手が、凍結を始めた。


「――!」


「お前の足には追い付けないけど……これなら、足の速さは関係無いだろ?」


 狭霧 蒼空は、日の本随一の剣士である。武器術のみを比べるなら、如何に紅野とて相手にはならない。

 だが、狭霧 紅野は、武器術のみならず、格闘術、更には魔術までを修めた、多芸の士である。

 その魔術の中で、特に得手とするは〝凍結〟の術――それを、自らに施したのだ。

 蒼空の手は、ただ紅野に掴まれているだけだ。掴んでいる紅野の手が、永久凍土の大地の如く、固く凍りつき、動かない。


「やりあうかぁっ!」


 紅野が、義足の脛で、蒼空の脇腹を蹴った。

 折れた肋が更に砕ける、悍ましい音がした。

 蒼空が、自由に動かせる右手で、紅野の顔を殴った。

 頬が歯に当たったか、紅野の口から真新しい血がしぶいた。

 紅野が、蒼空の右腕を蹴った。

 骨に罅の入る音は、案外に高い音であった。

 蒼空が、紅野の顎を殴った。

 一瞬だが紅野の膝から力が抜け、がくんと腰が落ちた。

 右大腿を蹴った。

 内出血で脚が利かなくなる。

 喉を殴った。

 気道を血が遡り、呼吸が乱れる。

 回し蹴り。

 蒼空の側頭部をしたたかに打ち据えた。

 四本貫手。

 紅野の喉に血が滲む。

 膝蹴り。

 鉤突き。

 下段蹴り。

 顔面打ち。

 中段前蹴り。

 腹打ち。

 蹴り。

 突き。

 蹴り。

 突き。

 骨が砕け。

 血がしぶき。

 皮膚が破れ。

 肉が避け。

 臓腑が潰れる。

 血反吐を吐く。

 痛みの上に痛みが重なる。

 もはや痛みなど感じなくなる。

 脚が上がらなくなる。

 拳が上がらなくなる。

 上がらない脚で蹴りを放つ。

 上がらない拳で突きを放つ。

 突きを避けられぬまま、喉を打たれる。

 蹴りを避けられぬまま、脇腹を打たれる。

 壊れていく。

 打たれ続けて壊れていく、肉体。

 狂気に呑まれて壊れていく、心。

 いや――壊れているのか?

 寧ろ、出来上がっているのではないか。

 肉体を破壊しあいながら、二人は共に完成されていく。

 何か、とてつもなく恐ろしくて美しいものが、互いを破壊しながら、創り上げられていく。


「ぎぃっ――ああああああぁっ!?」


 紅野が、苦痛に叫んだ。

 蒼空が、左肩の断面に指を突き込み、肉を爪で掻きまわしたのである。

 耐えようと意識するより先、体が退く事を選ぶ激痛。咄嗟に右手の凍結を解き、投げ捨てた即席槍――大鉞の柄を拾い上げ、紅野は飛び退った。

 その脇腹から、ずるりと妖刀『蛇咬』が引き抜かれる。

 紫の刀身を赤黒い血に染めた刀は、この世の物とは思えぬ色に変じている。

 蒼空は、直ぐには追わなかった。

 蒼空の右脚は、骨も腱も殆どが潰れ、殆ど動かす事も出来ぬ有様であった。

 顔も、右半分が潰れている。

 顔の部品がではなく、骨が砕け、輪郭が変形しているのである。

 それでも蒼空は、左半分の顔で、慎ましく、艶やかに微笑んだままであった。


「っ、つうぅ……痛ってえなあ、蒼空」


「紅野だって、ひどい」


 今再び二人は、向き合い、睦言を交わし合う。

 既に二人の体は、引き返せぬ一線を越えた、死の間際に立っている。

 この瞬間から戦いを止めたとしても、二度と元のように生きる事は出来ない、不可逆の損壊。

 だのに二人は、じゃれ合う子供のようであった。

 そして、絶頂の間際の恋人達のようでもあった。

 乱れた息を乱れたままに、その波を重ね、更に乱れて――その先に待つ、格別の時を望む。

 紅野が、五尺の槍を、弓を引くように構えた。

 蒼空が、『蛇咬』を、右肩の上に構えた。

 視線を重ねた二人は、同時に地を蹴って、その身を前へと進めた。

 村雨は、ただ立ち尽くして、それを見ている事しか出来ない。

 何故ならこれは情交だからだ。

 二つの命が、自らの全てを賭して、互いに高め合い、同じ果てへ向かって昇り詰めていく――淫猥で、神聖な、交わいに他ならぬ。

 これは二人の領域である。

 だから村雨は、踏み込む事が出来ない。

 凄絶で、無惨で、悲痛である程に、一つの魂から別たれた二人は、正しく、余す所なく、完全に、また一つへと還る事が出来る――

 村雨は、そう信じた。

 信じさせるだけ、彼女達は美しかった。

 五体をぐしゃぐしゃに損壊させながら、命の片割れを損壊しながら、二人には一欠片の翳りも無く、美しかった。

 とめどなく涙が零れる。

 この美しい時を、何時までも留めておきたいと――願えども、それは叶わぬ事を知っているから。

 直ぐにもこの光が、手の届かないところへ昇っていく事を知っているから。

 だからせめて、この一瞬を、少しでも長く目に焼き付けておきたくて、村雨は涙を幾度も拭っていた。

 終わりに届く。

 紅野の槍が、蒼空の胸を。

 蒼空の刀が、紅野の胸を。

 抱き合うように、刺し貫いた。

 心臓を抉り、背まで突き通し、互いの体を刃で縫い止める、抱擁の如く――


「ねえ」


「……ん?」


 蒼空が、紅野の首を抱いて耳打ちする。

 紅野は穏やかな顔で、言葉の先を促した。


「今度は、私がお姉ちゃん」


 指の力が抜ける。

 触れる体から伝わる鼓動が消えて行く。

 姉の腕の中で、妹は安らかな眠りに落ち、


「ばーか、譲らないよ」


 妹に抱かれたまま、姉は満ち足りた笑みを浮かべて、春の風の中に横たわった。

 散りゆく花の花弁が、二人の体に降り積もる。

 桜色の花々が、流れた血に触れて、彼岸の花の色に染まる。

 静寂が霞んでいく。何時しか途絶えていた、鳥の声が帰って来た。

 そして、足音が一つ――

 村雨は、音の方へと振り返った。


「あ……ぁ、ぁ」


 雪月 桜が、そこにいた。

 桜は、眠るような二つの亡骸へ、ふらふらと、震えるように近づいていく。

 唇が動いた。

 二人の名を呼んだのかも知れない。

 だが、声は出なかった。

 掠れた空気の音が、ひゅう、ひゅうと鳴って、風に掻き消えていくばかりであった。

 亡骸を両腕に掻き抱き、桜はもう一度、声無き声で二人を呼ぶ。穏やかな死に顔が、答えであった。


「ああ、あぁぁ……」


 血と花弁の、異なる赤に座り込んだ桜の背に、村雨が寄り添う。

 頬を伝う涙は、そのままであった。

 村雨の手は、桜の頬に触れ、伝う熱さを拭っていた。


「桜――ごめん」


 村雨は、胸の中に、桜の頭を抱いた。

 悪い夢を見た子供に、母親がそうするように、抱き寄せて、他の何も見えぬように、聞こえぬように――

 雪月 桜は、声を上げて泣いた。

 いつ以来の事か。

 或いは、初めての事か。

 京を訪れてからの、全ての悲しみに嘆く事を、やっと赦されたかのように、大きな声を上げて、村雨の胸の中で泣き続けた。

 命芽生える春の、夕暮れのことであった。

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