最後の戦のお話(12)
圧倒的な破壊――そう呼ぶ他に、どんな術も無い。
物事には、これ以上は有り得ないという限度があり、その道に通ずる者程、どこにその限度があるかも良く知っている。
飛脚が、人の足で出せる速度の限度を知るように。
弓の達者が、狙える的の、距離の限度を知るように。
だから、どのような魔術師とて、この聖堂の有様を見たのなら、それが〝一個の生物〟によって為されたものだとは思うまい。
エリザベートの破壊的魔術は、人知より遥かに逸脱していたのだ。
「どうしました、雪月 桜、村雨」
群体となったエリザベートは、数十の口で、敵の名を呼ぶ。
聖堂に舞う粉塵へ、エリザベートが指を向けると、びょうと強い風が吹き、塵を何処かへ攫っていた。
塵が晴れた、瓦礫の中で――
「死にましたか?」
雪月 桜が、エリザベートに背を向け、床に膝を着いていた。
黒い衣服の至る所に血が滲み、何も言わず、何も答えず――まるで、神に祈りを捧げる巡礼者のように。
その腕が、何かを抱くように丸められている。
それだけでエリザベートには、桜が、光の散弾が迫る中、何をしたのか、手に取るように分かった。
桜は、村雨を庇ったのだ。
避け切れぬ攻撃と見て、村雨の体を胸の内に抱き、自らの背を盾にして、村雨だけを光弾から守った。
代償は、小さくない。
〝大聖女〟エリザベートの、渾身の魔術光弾である。魔術師でない桜が、姿形を保って耐え抜いただけでも奇跡と言えよう。
だが、敵に訪れた奇跡を讃える程、今のエリザベートは、聖女然とした生き物では無かった。
「次は、その身の盾ごと砕きます!」
再び、エリザベート〝達〟の指に集束する、魔力の光。
更には〝本体〟である大蛇までもが、ぐわっと開いた口の中に、同じ光を集めた。
先にも勝る衝撃で、言葉通り、桜の身をも砕かんとする。
きぃぃぃいいいぃぃいぃぃぃっ――
大気が、流動する魔力の余波に耐えかねて悲鳴を上げた、まさにその時――
「砕く、だと?」
桜の体が、ぐらりと傾いて、仰向けに倒れ込んだ。
立ち上がろうとして足が動かず、受け身も取れずに倒れた――エリザベートには、そのように見えた。
事実、その通りであった。
桜は立ち上がれず、そればかりか、今は俯せになる事さえも出来ない。
だが――エリザベートにとって重要なのは、敵の一人が、無力に横たわっている事では無く、
「私の女を、甘く見るなよ」
「何……!?」
その腕の中には、誰も居なかった。
腕の形は明らかに、人間一人分の大きさを、押し込めて抱くような、そんな形だった。
エリザベートの読みは、其処までは当たっていた。
桜に庇われた村雨は、粉塵が晴れた時には、既にその腕の中から抜け出していたのである。
数十対の目が、聖堂全体を見渡さんとした時、エリザベート〝達〟の一人の目に、灰色の影が映り込んだ。
影は、恐ろしく速かった。
見えたと思った時、それを見たエリザベートは、喉笛から血を吹き上げて絶命していたのである。
崩れた柱の陰から躍り出た、村雨であった。
既に村雨は、〝顔を変えて〟いる。
瞳孔は拡大し、眼球の強膜は変色し、歯列は刃のように鋭く。
関節可動域の拡大、心拍数の上昇、血流流増大による全身の筋力向上、感覚の鋭敏化、そして凶暴化――
人狼の全性能が、余す所無く、解放されていた。
ざ、
と音が鳴った時、村雨は、一人の喉を爪で抉りながら、別な一人の首を蹴り折っていた。
しゅっ、
と音が鳴った時には、二人ばかりを瞬く間に投げ倒しながら、手近の一人の喉に噛み付き、体を捻りながら喰い千切る。
村雨は、エリザベート達の群れの中へ、躊躇い無く跳び込んだのである。
数十人の同期が解除される。そうしなければ、一人が投げられた時、全員が床に伏す事になるからだ。
エリザベート〝達〟の何人かが、光の散弾を、村雨目掛けて放つ。
然し村雨は、低い姿勢で、獣の速度で馳せ回る。
如何に大術者とて、エリザベートは戦いを生業とする者では無い。目の前から瞬時に消える村雨の速度を捉えるなど、出来よう筈も無かった。
光の散弾はあらぬ方角に跳び、エリザベート〝達〟自身の体を吹き飛ばす。
一撃だ。
――当たり前だ!
エリザベートは歯噛みする。
人体は、この光弾に耐え得る強度で作られていない。
だから、光弾が村雨に直撃すれば、それで殺せる筈なのだ。
だが、当たらない。
いや――当たったとて、本当に死ぬのかも分からない。現に雪月 桜は生きている。
自分が言ったように、同格以上の敵と戦った経験など、エリザベートには無い。それ故に、初撃で殺せなかった相手に対する、二の撃、三の撃を持ち合せていないのだ。
村雨は速度を緩めず、エリザベート〝達〟を次々に殺していく。
全ての攻撃で急所を狙い、確実に人数を減らし――
無論、その死さえ、エリザベートは直ぐに乗り越えて再生する。しかしその度にエリザベートは、死ぬ程の苦痛に襲われるのだ。
死に伴う痛みより恐ろしい、その痛みだけで体が死を選ぶ程の苦痛。
三百年以上を生きて、その痛みも既に何千と繰り返しては来たが、僅かの時間に数十回も殺されるのは、未知の経験であった。
苦痛が思考を麻痺させる。
エリザベート〝達〟が動かぬ中、村雨は返り血の霧の中を馳せ回る。
――このままでは。
エリザベートは、何十年ぶりにか、死の苦痛に恐れを抱いた。
そして、少々の犠牲を払ってでも、村雨を確実に殺さねばならぬと決意する。
数十人のエリザベートは、その中の一人が村雨の牙に屠られた瞬間、その一人を中心に密集した。
蜜蜂が、雀蜂を殺す時のように、数で押し潰して動きを止めたのである。
「ぐぅ、ううっ!」
数十人の圧で抑え込まれながらも、村雨は、手の届く限りの敵へ、爪と牙を向けた。
だが、目を抉ろうが喉を潰そうが、首を逆に捻ろうが、エリザベート〝達〟は村雨を放さない。
その真上に、大蛇の頭が迫った。
エリザベートの〝本体〟たる大蛇は、巨大な口の中に、煌々と光る魔力の塊を呑んでいた。
指から放たれる光の散弾と同質の、然しそれより数段も巨大な魔力光――エリザベートは、村雨を、自らの分身体ごと消し去ろうとしていた。
そこへ。
斬。
――っ!?
大蛇の胴が真っ二つに断ち切られ、高く持ち上げられた首が、二丈程の長さで斬り落とされる。
何時の間にか立ち上がった桜が、黒太刀を振るい、エリザベートの蛇体を両断したのである。
口中に溜め込んだ魔力が霧散し、柔らかな光となって消えて行く刹那――
桜は、明らかに刃が届く筈も無い位置から、エリザベート〝達〟へ向けて、黒太刀を振るった。
躱すまでも無い、決して届かぬ刃。
だが――
ごうっ、と、炎がうねる。
その炎は、桜の振るった刃の道筋を辿るように、真一文字の横薙ぎに、エリザベート〝達〟の幾人かを纏めて、その首を焼き切った。
「と、遠当てまでっ……! まさか、魔術師!?」
「そんな器用なものでは無いわっ!」
そして、桜は、エリザベート〝達〟の群れへ突っ込んで行く。
本来ならこの行為は、暴風雨の夜、滝を遡ろうとするが如き愚行である。
殺しても死に切らぬ、数十の敵の群れ――数十人の体重だけでも、相当の圧が有る。数十人が命を度外視すれば、猛獣とてその動きを止めるのだ。
だが、雪月 桜は、猛獣をも遥かに上回る大怪物である。
最初の接触で、桜は、左肘で頭を庇い、エリザベート〝達〟へぶつかった。
背後の数十人と、正面の桜からの圧で、最初に触れた一人が――
ぱんっ、
と音を立てて、弾け飛んだ。
直ぐにも数十本の手が、桜の腕と言わず脚と言わず絡み付き、床へ引き倒そうとする。
桜は倒れない。そればかりか、速度を緩める事さえ無い。
衝突時の、人ならぬ速度を保ったまま、桜は数十人を引きずり、或いは振り切って、エリザベート〝達〟の群れの中を駆け抜けたのである。
十人以上の肉体をひしゃげさせて、桜は尚、疲れを見せず不敵に笑う。その腕の中には、先程までエリザベート〝達〟に捕らえられていた村雨が在り――
「動けるか!?」
「余裕っ!」
村雨もまた、直ぐに桜の腕から抜け出し、極端な前傾姿勢で、エリザベートの本体へ向かって身構える。
丸く大きな目の中で瞳孔が開き、凄絶な顔をしながら、村雨も笑っている。
いや――牙を見せているだけなのかも知れない。
口を開き、鋭い牙を剥き出しにすると、少なくとも口元だけは、笑うような形になっているのだ。
――何故、笑う。
蛇体の首を斬り落とされたエリザベートは、体を再生させながら、総身に寒気を感じていた。
今は存在しない手足にさえ、幻肢痛の如き寒さが纏わりつくのである。
顎の形が人と同じなら、がちがちと歯を鳴らしていたかも知れない。
それは間違い無く、恐怖の感情であった。
――苦しみの中で、何故、笑う!?
エリザベートにとっての戦いとは、望みを叶える術の一つでありながら、苦しみの道でもある。
激しい痛みを代償に、僅かの勝利を奪い取ったとて、その先には無限遠にも等しき、苦痛で彩られた道程が続いている。
究極、エリザベートは、己のみを信じている。
だから、その自分でさえ耐えられぬだろう苦痛の連続の中、笑って見せる二人が理解出来なかった。
成る程、度し難い存在であろう。
思想と思想、信条と信条がぶつかり、勝てば生きて、負ければ死ぬ。余裕の持ちようなど無い、苦しみの絶頂の中――〝戦うこと〟そのものに、歓びを覚えてしまう生き物など。
だが、そういう生き物が確かに存在して、あまつさえ自分を幾度も――傷付きながら、それに数百倍する速度で殺し続けている。
理解が及ばない。
自分の価値観に、全く沿わないからだ。
恐ろしい。
理解出来ないものは、恐怖である。
再生した大蛇の体も、数十人のエリザベート〝達〟も、目の前にいる小さな生き物二人が恐ろしくて、たまらなかった。
「怖いか、エリザベート」
その時である。
丁度、エリザベートが、自らの恐怖を押さえ込んで、今一度攻勢に移ろうとする、ほんの一瞬前――その時である。
エリザベートの心の揺れ動きを見透かしたように、桜が、良く通る声を発した。
「怖いだろうなぁ。たった一人で高いところにいるから、脚が竦むのだ」
「……なんですって?」
ぞろっ、と沢山のエリザベートの目が、桜へと向いた。
感情が全て同期された数十人――彼女達の目には、ありありと憎悪が浮かんでいる。
見透かされた――
自分の底を覗き見る桜を、エリザベートは憎悪した。
「お前には、支えが何一つ無い。お前自身の力でどうにかなっている時は良いが、お前の力でどうにもならぬ事に出会えば、後は打つ手が無い訳だ。何一つしくじる事の出来ない環境なぞ、私とて恐ろしくてかなわんわ」
桜は、優雅な程に落ち着き払って、数十の視線を受け止める。
「私達が何故、お前の前で笑えるか、知りたいか」
「――――――」
「何、簡単な事だ。お前と向き合うまでに、私はただの一度も刀を抜かず、ほんの数歩さえ走らずに此処まで来たのだ。だから体力が有り余っている――それだけの事だ」
それだけの。
桜は、それが何でも無い事であるように、軽く放り投げるような口振りで言った。
エリザベートを苦しめる不可解の理由は、たったそれだけであると。
――そんな、それだけの筈は。
「まさ――」
「まさかと、思うか? ところが案外、それだけの事が、地味に効くものだ。私と村雨は、お前だけを殺せば良い。それ以外の何を考える必要も、背負う必要も無いのだ。何せ外の連中、私に比べれば弱いにせよ、放っておいたとて簡単に死ぬような奴らでもないのでな。
……まあ、それに、だ。此処で私が何かをしくじったとしても、それを私だけが取り繕う必要も無い訳だ。こんな気が楽な戦ならば、笑わずにいられる筈も有るまいよ」
桜の言葉は、エリザベートには不可解だった。
〝たったそれだけ〟の事で、人がこうも強くなる筈が無い――
それならば、自分とて十分に〝持っている〟筈だ。
自分を慕う、数多の信者兵。
利害の一致により手を組んだ、狭霧和敬と、その手勢。
何か後ろ盾があるだけで強くなれるなら、自分には何百の、何千の味方が――
「違うよ」
村雨が、悲しげな目で告げる。
エリザベートの想いは、もはや言葉にせずとも、困惑を浮かべた眼差しからこぼれ落ちていた。
それを拾って、村雨は言う。
「私達は、二人で此処まで来た。あなたは――たった一人で、私達を待ってた。一番大事な時に、私達は誰かに頼って、あなたは自分だけに頼った――だから、違うんだよ」
村雨の声音には、慈悲の色さえがにじんで――エリザベートの、三百年を生きた魂が、全霊でその目を否定する。
――私を、憐れむな。
他者の不幸を嘆き、憐憫の情を抱き、嘆きと共に赦しを与える――それはかつて、エリザベートの特権であった。
一介の少女が、神から奪い取った、優越の確約。
それが悉く、エリザベートの手から抜け落ちて行く。
まるでエリザベートは、権威という聖衣を剥ぎ取られたようだった。
「もう、やめよう?」
「は……?」
村雨は、些細な事のように提案した。
殴った自分も悪かった、だから喧嘩をやめようと友人に持ちかけるような――少し、ばつの悪い顔で。
「あなたはもう、〝大聖女〟じゃない……私達に勝ちたくって必死な、ただの人間だもん。もし私達に勝ったって、もうあなたは昔みたいな綺麗な顔で、誰かを教えて回れないと思う。だから、ね……もうやめよ?」
「村雨」
桜が、少し怖い声になる。
だが村雨は、それに怯える事もなく、
「拝柱教なんか捨てちゃってさ、大陸の何処かに逃げて、今度はあの力を――怪我や病気を治す力を、治す為だけに使うの。誰もあなたの事なんか知らなくて、誰もあなたのした事を知らないところで、全然違う人みたいにさ、そしたら――」
「村雨、やめろ」
「――そしたらあなたは、一人じゃなくなる。多分、他の誰かじゃないあなたの為だけに、横に立とうって人が――」
「村雨! 今更こいつは、退けんのだ!」
桜が声を張り上げた。
此処が戦場だろうが、彼方まで届く声。
それでも村雨は、言葉を止めなかった。
「――だって、あなたは……桜に何を言われたって、本当は自分しか信じてなくたって、誰かの為に泣ける人だったじゃない! 私はいろんな人を見てきたよ、悪人も善人も沢山! その中でもあなたは、間違い無く、誰よりも良い人だったんだから……!」
そうだ。例え、その思想の根幹に、人間と神に対する絶対の不信があろうと――
そも、神と人間に怒りを抱いたは、何故か。
それは、神は人間を救わぬと気付いたからだ。
それは、人間は人間を苦しめる生き物だと気付いたからだ。
たった一つ、意のままになる自分だけを信じたは――人間全てへの、純な愛からではなかったか。
――そうか。
今の形がどうであれ、選んだ術がどうであれ、始まりの自分が抱いた感情だけは――それだけは、正しかった。
逆に言うならば、それ以外を全て間違えた。
自分以外の誰をも頼らぬ道を選んでしまった――それが過ちだった。
――私は、一人で勝手に。
裏切られたと思ったからだ。
世界には、自分よりはるかに賢くて、全ての正しい道を知っている人間が居て、問えば響くように、たちどころに迷いを晴らしてくれると、勝手に信じた。
神は、人間を救わぬものだと叫んだのは、そうではないと言ってくれる人間が欲しかったからだ。
人を信じぬ道を歩いたは、それは違うと言ってくれる誰かが欲しかったからだ。
世界に絶望しながら、エリザベートは、自分を教え諭す誰かを待っていた。
三百年を生きても出会えなかった、何よりも待ち望んだ存在――それは今、自分の目の前に、自分を殺す為に。
「……桜さん。村雨さん」
エリザベート〝達〟の中から、一人だけが進み出て、
「今、貴女達が、とても愛しいのです」
涙を一筋、頬に伝わらせながら、いつかの日の慈母の如き微笑みを浮かべた。
それが、終局の知らせとなった。
聖堂が、高い天井も遠い壁も、風化し、砂粒となって何処かへ運ばれていく。
数十人のエリザベート〝達〟が、ただ一人を残し――大蛇さえが、肉も骨も溶け、風化する背景と共に消えていく。
世界が再構築されている。
何時の間にか、桜と村雨は、二条城の天守閣に立っていた。
眼前には、エリザベートがたった一人、信者も共謀者も、何も持たず、ただ一人で立っている。
晴れやかな顔をしていた。
数百年の妄執が、全て破滅した後の、何も残っていない人間の顔。
これ以上、何を失う事も出来ぬ顔。
「……見ろ、村雨。余計な事を言うからこうなる」
「あははー……ごめん。でも、言いたかったんだ」
桜が珍しく、口を尖らせて不平を零した。その手は未だに、黒太刀の柄を、強く握りしめている。
その隣で村雨が、両手足を床に着け、前傾の、猛獣の構えを取っている。
二人は確信していた。
次が、ようやっと、最後だと。
「〝神を畏れるな、戒めより解き放たれよ〟――」
此の期に及んでもエリザベートの詠唱は、神に背く言葉であった。
三百年の歳月を、今から無には出来ない。身に着けた技法の全ては、神の敵たらんとする為の術だ。
それで良かった。
エリザベートは、やっと、安心して〝間違う〟ことが出来る。
お前は正しくないのだ。お前は間違っているのだと、万物への不信を否定するものが居るからこそ――
「――〝我こそ全てを裁く者〟!」
傲慢に、過ちを犯して。
最期の術が、始動する。




