最後の戦のお話(10)
最後の扉の向こうは、聖堂であった。
高い天井は西洋建築の髄を凝らし、荘厳にして雄大な絵巻物となっていた。
弧を描く天井に、多数の色を用いて描かれた物語は、聖書の一節を模したもの。
人が神の園から追われた事や、最初に人間を殺した人間の事や、硫黄の雨が降った街の事などが、精緻な筆遣いを以て鮮やかに表現されている。
この聖堂を訪れるものは、それらの物語に見下ろされながら、固い床を歩く事になる。
床の感触は――石畳のようだった。
有り得ぬ構造だ。
日の本の城の最上階に、このような空間が有る筈など無い。
そもそも、天井の高さが異常――これだけの高さがあれば、外観から分かる程、天守閣だけが不釣り合いに大きく膨れ上がる筈なのだ。
異界――そう、異界である。
エリザベートの魔力により、常世と切り離された異界の聖堂。
壁も、遠い。
遥か東、大帝国の本土まで出向いたとて、これ程の広さの聖堂が、果たしてどれ程にあるだろうか。
壁は皆、一様に、白い。
凹凸の形状や装飾品などで見栄えを整えながらも、壁は、白の他に色を持たない。
そこから少しだけ上に目を向けると、ステンドグラスが列を為していた。
空の色を模した青と、光を模した黄色が、本物の光にすかされて、床に色合いの絨毯を敷いている。それを踏みつけ、桜と村雨は、真っ直ぐに歩いた。
広い聖堂であった。
みっしりと人を詰め込んだら、数百の――或いは千人近い人間さえ、此処に収まるのではないだろうか。
今は、たった三人だけであった。
残る一人が、聖堂の奥で祈りを捧げながら、二人の足音が近付くのを待っていた。
〝大聖女〟エリザベートの、小さな背中であった。
修道女の慎ましい服を着ながら、フードだけは、視界を広く取る為に被らないエリザベートは、背に神々しいばかりの金髪を垂らしている。
聖職者に神々しいという形容を用いるのは、本来ならば適当でないのだろう。
聖職者は、神に仕える者であり、神ではないのだ。
だがエリザベートは、神の教えを元に立った存在でありながら、神に仕える事を捨てた女だ。だから、神々しいという形容が、寧ろ似合いに見えた。
加えるに、エリザベートの祈りは、神に向けられていなかった。
エリザベートが祈りを捧げる先には、十字架も、殉教者も、何もない。ただ一枚、雄大に描かれた絵が飾られているばかりである。
それは、雲を貫き遥か天空まで届く、巨大な塔の絵であった。
雲の下、世界は雷雨に満たされ、人は雷に当てられて、塔から落ちて行く――だが、雲の上に突き出した塔の頂上から、人間達が石を投げ、雲を追い散らそうとしている、そんな絵だ。
雲の下の世界では、ひとびとは雷雨に嘆き、苦しみ悶えながら燃えている。
雲の上の世界では、ひとびとは希望に満ちた面持ちで、雲を――
いや、神を、追い散らしている。
「視よ、民は一つにして皆一つの言語を用う」
エリザベートの後ろに立ち、桜が創世記を諳んじた。
十一章。
バベルの塔の、物語である。
「……神は人に知恵を与えようとせず、知恵を得た人間同士が分かりあう為の言語を奪いました。世界には何千もの言葉があり、その全てを知って、全ての人間と分かりあう事の出来るものはいません」
「私も、どうもな、この話は気に入らなかった。天まで手を伸ばして何が悪いのだ、何故、言葉を別った。神というのはなんとも自己中心的で、身勝手な奴だと思ったものだった」
「その憤りは、正しいのです」
「腹を立ててなどおらんわ」
「いいえ、怒りではなく憤りです。間違っているものを、それは間違っているのだと感じられる心でしょうか」
「神とやらのやった事は、間違っているのか?」
エリザベートは、すうっと静かに立ち上がって、桜と村雨の居る方へ振り返った。
彼女の立つところは、教会の祭壇のように高くなってはいない、他の床と高さの変わらぬ場所であった。
振り向いたエリザベートは、泣き晴らした赤い目で、柔らかい笑みを見せて、
「私は、そう思っています」
信者達へ説く時と同じ、慈愛に満ちた声を、しんと静まり返った聖堂の中に響かせた。
「神は、人を別つべきではなかった。言葉と心を同じくする一つの集団のままに、正しく導くべきでした。神が本当に全知全能の、そして善性の存在であるなら、それが出来た筈なのです。しかしそうしない事は、貴女なら分かっているでしょう、雪月 桜さん」
「……地の上に人を創りしことを悔いて心に憂え給えり、か」
同じく、創世記。
六章。
『ノアの箱舟』の物語――熱心教徒でなくとも知るだろう、地を〝やりなおした〟物語の一節である。
「はい。神は人間を導こうとせず、己を悔やむに留まった――そして、一度は全てを投げ捨てようとさえしたのです。遠く聖書が語る時代から、私達は捨てられた民だった……父と慕うものに水と火で罰せられ、命を奪われ、自ら創り出した栄華さえを奪われる、略奪される民が、私達でした」
エリザベートは、桜の立つ方へ、こおんと高い足音を立てながら歩いた。
その正面に、一度、村雨が進み出る。
近付くなと警告するように、その姿は既に、人狼の本性――灰色の体毛に覆われて、獣の如くに変わっている。
だが桜は、村雨の肩に手をやって、
「こういう時はな、全部ぶつけられた方が良かろう」
村雨を自分の隣に並ばせ、エリザベートが近付いて来るのを待った。
エリザベートは、路端で出会った親友同士が、立ち話に興じるような距離まで近づくと、両手をそれぞれ、桜と村雨の前に差し出した。
宗教画に描かれるような、自然に開かれたままで手の甲を上に向けた、無防備な――
この手を、誰が取っても良い。
この手を取る誰であろうとも、私は赦そう、と。
形だけで告げるような、手の姿であった。
「私は、神の過ちを正す」
「……それは、あなたが神様になるっていう事だよね」
村雨の、棘の有る声に、エリザベートは率直に頷いた。
「世界の全てに私の教えを広め、同じものを信じるもの同士の、全てのいさかいを無くし――悪しき者へは罰を、正しき者へは救いを、人として育った私の目で定め、与える――これは、最初から神として存在した神には、決して出来ない事でしょう。
神は人間を愛していない。神は人間一人の悪性を、全ての人間の咎であるとしながら、一人の人間の善性は、その一人の特性であると決め付ける……何故なのか、村雨さんなら分かるでしょう」
「――――――」
村雨は、返す言葉を見つけながら、それを口にはしなかった。
村雨の嗅覚は、千の言葉を交わすよりも明確に、エリザベートの心を見抜いたからだ。
「不幸にも神は、人間に似ているのです。亜人達の一部を忌み嫌うが為、亜人の全てに憎悪を向ける、この国の老人達に――或いは広い世界の、多数の国々に散らばる、古い考え方を持つ者達に。
元々、好意を持っていない集団の中に、一つの瑕疵を見つけたならば、それを決して赦さない――人が神の被造物である事は、これを以て信ずるに足りますが、だからこそ私は――」
「ようするに、だ」
声に熱を孕み、上擦るほどに激するエリザベートの言葉を、桜が一言で断ち切った。
「お前は、人間も神も、この世界の全て、自分以外は何も信じていないのだろう。たった一つ信じるお前と同じに染めねば、どうしようもない世界だと、頑なに思い込んでいるのだろう。人間全てを愛すると聖人面をしながら、お前の愛とはな、自分が上に立つ事を前提の、見下した愛に過ぎん」
エリザベートが、息を飲む。
桜の言葉が、研ぎ澄まされた剣閃よりも尚鋭く、エリザベートの胸を穿った。
哀れむような、呆れたような、だが、桜はエリザベートを、見下してはいないし、畏れてもいない。
全く対等の立場から諭された。だからエリザベートに、その言葉は突き刺さったのだ。
「私はな、私のような女を抱きたいとは思わん。私の隣に立っていていいのは、うっかりすると私に噛み付いて来かねん狼だけだ。お前の教えに染まって牙を抜かれたら、可愛げまで薄れそうな、物騒な女だ。お前の作る世界には、全く似合わん、良い女だ。お前はこいつを、誰かを殺したくて仕方がない本性まで、共に愛せるか?」
そう言って、桜は、村雨の肩を抱こうとした。
気恥ずかしそうに、その腕をくぐり抜けながら、村雨が言った。
「この人はね、この通りに偉そうだし、道を歩けば美人を探してばっかりだし、金遣いも人使いも荒いし、多分今までに何十人も、何百人も殺してるんだろうけどさ、それでも、私には大事な人なんだ。あなたの作る世界には全く似合わない悪い人だけど……この人をあなたは、自分の世界に受け入れられる?」
「それが、答えだ」
腕から逃げた村雨を手で追いかけながら、桜が言葉を継ぐ。
「自分以外を信じぬお前の世界に、私達のような生き物の居場所は無い。いいや、あまりに多くの生き物が、お前の世界には生きられない。だから私達は、お前を殺しに来た」
「殺す、のですか」
「ああ。お前と私達は相容れない」
決定的な断絶――自分を絶対者と定めたエリザベートの世界は、自分以外を受け入れる土壌が無い。
だからエリザベートは、導こうとした。
全ての人間が自分と同じ思想を持ち、同じ理想を目指して歩むのならば、世界は恒久的に平和であると。
だがそれは、この世界が、巨大なエリザベートに入れ替わるだけなのだ。
その中に取り込まれたくないと、たったそれだけの反発心――
それとて、人の感情である。
エリザベートが神に対して抱いた〝憤り〟と同じ、人の感情だ。
自分が神を否定するのと同様に、雪月 桜と村雨は、エリザベートを否定したのだ。
「……そうだったのですね、私は」
エリザベートは、自分の手を見た。
美しく、儚い、白く細い指の、小さな手。
傷一つ無い、純粋無垢な手。
だが――その手が、血の海に浸された手である事を、エリザベート自身が、誰よりも良く知っている。
雪月桜が、何十人、何百人という人間を殺したというのなら、エリザベートはその何倍も、何十倍も、もしかすれば何百倍もの人間を殺した。
それが、世界の為であると、心底信じたからだった。
だが、エリザベートの世界とは即ち、肥大化したエリザベートそのものである。
――この手は、我欲に血塗られている。
くく、くくっ。
くくく、くくっ。
エリザベートの肩が、小刻みに震えた。
その姿を、桜は、気が触れたかと思いながら見て――手は自然と、腰の鞘に伸びる。
とめどなく湧き上がる快楽に悶えるように、エリザベートは身をよじる。
その姿から、村雨は、起こしてはならないものが目覚めたのだと知って――両手を床に触れさせ、前傾の姿勢を取った。
既に二人は戦いの中にある。
ただエリザベートだけが、背を丸め、或いは腹を仰け反らせて、高ぶった官能を口から追い出そうとする。だが官能は、体に開いたあらゆる穴からまた潜り込み、何時までもエリザベートを、頂から引き下ろそうとしない。
「自分の事とはまったく、知っているようで何も知らないものです……」
官能の正体は、絶望であった。
自分は上等の存在でなかったという、甘美な絶望――それがエリザベートから、余計なものを削ぎ落としていた。
此処に、自分は、初めて自分を知った。
それが嬉しくてたまらず、エリザベートは喜悦に涙さえ滲ませて、喉を鳴らし続けた。
エリザベートの情熱は、激しかった。
修道服の裾が乱れ、腕や脚や、決して普段は日に当たらぬ部位が、桜と村雨の前に曝け出される。
白い肌をしたエリザベートなら、きっとその腕も脚も白いのだろう、そう思った桜の目を裏切るように――
「……そうか、お前は」
エリザベートの腕には、鱗が浮かび上がっていた。
毒々しい紫色の、硬そうな、分厚い鱗である。
人間が人間であるなら、決して備わっては生まれて来ない筈の、体を守る鎧。
「所詮、私は楽園の蛇。人に知恵を与えんとしたこの舌は、結局は私の為に働いていた……ああ、浅ましい。けれども、もう引き返せないのです」
しゅる、しゅる。
修道服の裾から伸びる、紫色の蛇体。
腕は――無くなった。
脚も――体に吸い込まれるように、消えた。
美しきかんばせも、逆三角形の、毒蛇の頭へと変わり果てた。
高く、高く、二人を遥かに見下ろす位置まで持ち上げられた頭から、ちろちろと長い舌が覗く。
エリザベートは、胴の幅が数尺にも及ぶ、巨大な蛇へと変じたのである。
否――変じたのでは、ない。
寧ろこの、全長十数丈にも及ぶ大蛇の姿こそが、〝大聖女〟エリザベートの本質であった。
「……村雨。お前、知っていただろう」
「まあね……いや、ここまで巨大だとは思わなかったけど」
桜が言ったのは、村雨ならば、その嗅覚でエリザベートの本性を知っていただろうという事である。
実際に村雨は、最初に出会った瞬間から、エリザベートの正体には気付いていた。
「だって、ねえ?」
だが、言う理由も無かったのだ。
村雨が、桜が、エリザベートと戦うのは、その思想が故である。
エリザベートが人間であろうが、亜人であろうが、全く別種の怪物であろうが、とりたてて問題とする事ではない。
「まあ、なぁ」
桜も、自分が聞かなかった事である。それ以上の何を言うでもなく、毒蛇の巨体を見上げて、
「……然し斬るのには難儀するな、うーむ」
言葉とは裏腹、まるで子供が遊び場を前に、飛び跳ねてはしゃぐような顔をした。
「さて、斬るぞ。お前を斬って、私は帰る」
「私は貴女達を倒します。……いいえ、貴女達だけではない。城の外に居る政府の軍勢も! 私に抗う全てを倒し、私は天に至る!」
ざああぁっ。
エリザベートの蛇体が床を走り、高く、毒蛇の頭が上がる。
村雨は、大蛇の広大な口の中に並んだ、刃物の如き牙を前に、
「今のあなたとなら、仲良くなれたかもね」
ほんの少しだけ寂しさを滲ませて、高く跳ねた。




