最後の戦のお話(9)
――熱い。
紅野の意識は、燃えていた。
体中が熱を帯びている。種類の異なる、多様な熱だ。
四肢の肉から湧き上がって、じんわりと骨や皮膚へ染み込んだ熱がある。
逆に背中の皮膚から、肉を通って骨まで響く、鈍痛となった熱がある。
思考に雲のようにかかる熱。
後頭部と右膝には、皮膚や肉を飛び越えて直接に骨を刺す熱。
腹の内側も、衝撃を叩きつけられた胃袋や腸が、喉へ熱を押し上げている。
――熱いな、こりゃ。
比叡の山で、急ごしらえの城に立て籠っていた時とは、まるで反対だった、
あの時は、寒かった。
薄っぺらな壁と、立てつけの悪い襖の内側で、壁にもたれて座ったまま眠った。
日が昇り切らぬうちに目を覚まし、一日中を、寒風吹き荒ぶ屋外で過ごし、日が落ちてから眠った。
雪と、暗闇。
骨髄までが凍り付く、山の寒さ。
だが――それ以上に冷たく、紅野を凍えさせたものはなんであったか。
それは、死だ。
敵味方を問わず、無数に訪れた死である。
道端の草や、ぶんぶんと煩い羽虫よりも当たり前のように、人の命を奪い去ったものである。
そして、死が訪れたことの咎が己にある――そういう自責の念が、紅野を凍えさせていたのだ。
比叡山で立てこもった者が、累計で三千か四千か――その内、もしかしたら、千人も死んだのではないだろうか。数えてはいないがなんとなく、紅野はそう思っている。
比叡山を囲んだ、狭霧和敬が指揮する軍勢は、どれ程であったか――やはり、二千かそこらは殺しただろうとも、これは数えられなかったが、予想を立てている。
それらの死に、必然性は無かった。
彼等が死ぬことによって、戦が始まる前よりも良い方向へ転んだものは無く、彼等の死を糧に、これから良い方向へ進められるだろうものも無い。
仮に、何か良い方向へ向かったものが有るのなら、それは、彼等が死なずとも得られた成果であった筈だ。
死ぬべき者は、僅かに一人であった。
その一人を殺せぬままに、何千もの人間が死んだ。
その、多くの死の責任の一端が己にある――紅野は、そう思っている。
自分の技量が不足していたから、何千もの人間と共に城に籠って初めて、狭霧和敬と戦えたのだと。
自分がたった一人で、槍の一振りだけを携えて二条城に入り、狭霧和敬の部屋へ押し入り、その首を刎ねる事が出来たのなら、それで良かったのだ、と。
それが出来たやつを、三人は知っている――比叡の戦が始まる前の、狭霧兵部を殺せるいきものならば。
自分の妹なら、狭霧蒼空なら、ぼうっと虚空を見つめながら狭霧和敬の前まで歩いて行って、一呼吸で首を落としただろう。
今、無数の肉塊と骨片となって散らばっている波之大江 三鬼とて、なんの妨げもなく一個と一個で狭霧和敬と向かい合ったなら、苦も無く和敬の肉体を叩き潰していた筈だ。
それから、もう一人――雪月 桜なら、城壁も城門も断ち切って、狭霧和敬の前に立っただろう。そして、軽く酒臭さの混じった息で気障な台詞でも吐きながら、狭霧和敬を唐竹割りにでもしたのだろう
その様を容易に思い描く事が出来て、紅野は熱に浮かされながら、ほんの少し、唇の端を持ち上げた。
紅野は、夢を見ているのであった。
――そういえば、あいつにも叱られたなぁ。
比叡山に籠ってた、最後の一線の前、まだ夜中の内だった。
お前はなんの為に生きている、だったか、そんな事を言われたっけ。
別に向こうは、説教のつもりも何も無かったんだろうけど、私にしてみりゃ、どうしてそれを考えていないんだと、叱られたような気分だったよ。
だってよ、あんたの方は、それを聞かれたら迷わずに答えられますって顔をしてるだろう。
美味い飯の為でもあるだろうし、美味い酒の為でもあるだろうし、美人を見る為でもあるだろうし、誰かと斬り合う為でもあるだろうし、惚れた女の為でもあるだろうし。
そういうのが、すっと出て来る人間っていうのは、多分、好きなものが幾らでもあるような人間なんだろうさ。
私は、多分違うんだ。
ちょっと好きになったものは、だいたい、もう壊れてるか死んでる。
多分これから好きになっていくものも、だいたいが壊れて行くだろうし、死んで行くんだろう。
だから、生きるのにまっとうな理由なんか用意しようとしたら、私みたいなのは生きていけないんだ。
あの時、一応の答えは用意してたんだぞ。
私があの時、死んでなかったのは、私が死んだら、他に比叡山の大将になれるやつが居なかったからと――ついでに言うと、死にたい積極的な理由が無いからだ。
いや、二つ目の方が大きいかも知れないな。
私は、別に死にたいと思わなかったから生きてたし、私しか出来ない事が有ったから、あの場所に生きてた。
けどもなぁ、桜。どうにもその、私しか出来ない事っていうのが、もう無くなった気がするんだよ。
ついでにいうと、死にたい理由っていうのは、どうも、こう、幾つも出来ちまった。
心残りって言ったら、最後に美味い煙草が吸いたかったってくらいでさ。
寒いんだ。
体中に傷や痛みが有って、それが熱になって今にも燃えそうなのに、凄く寒い。
今まで、どれだけ斬られても刺されても、そんなに辛いとは思わなかったけど、この寒さだけは耐えられそうにも無いや。
だから、なぁ、もう誰でもいいや。
誰か、私を許して欲しい。
死にたいんだ、もう。
……あ?
おい、誰だ。そこにいるのは。
……なんだこりゃ。
熱い。
すっげえ熱い。
――熱い!
夢を見ながら、紅野は微笑み、だがその唇を涙で濡らしていた。
そして。
紅野の夢を覚ましたのは、今までにも増して熱い、二つの温度であった。
二つの異なる熱が、紅野の眠りを焼き尽くした。
腹へ覆いかぶさる、重さを伴った熱。
顔を赤々と染める、飛沫となった熱。
「――あっ!?」
跳ね起きた紅野は、腕の中に感じた重みを右腕で抱きながら、左腕と両足で床を駆け、狭霧和敬から距離を取った。
腕の中には、蒼空が居た。
投げ落とされ、意識が朦朧とした紅野へ、狭霧和敬の振るう大鋸が迫った。それへ蒼空が飛び付き、身を挺して庇ったのである。
顔に飛沫いた熱は、蒼空の背中へ大鋸が喰い込み、皮膚と肉を引き裂いて吹き上げた血の飛沫であった。
傷は――深くは無い。
少なくとも、骨まで届くほどではないし、死を招く程の傷でもない。
だが、痛みは有る筈だ。
それも、生まれ落ちてから今まで殆ど怪我さえした事も無い、痛みに耐性の無い蒼空であれば、その苦痛は、大声で泣き喚きたい程であっただろう。
「蒼空!」
それを姉も分かっていた。右腕の中に蒼空を抱き、左手は靴に隠した短刀を引き抜き、目を和敬へ向けたままで呼び掛ける。
その紅野の右腕が、内側からそうっと押しのけられた。
蒼空が、痛みに顔をしかめながらも、紅野の横に立ったのである。
「蒼空!」
もう一度、その名を呼んだ。
すると蒼空は、そっと紅野の右肩を叩いてから、ぎこちなく笑みを作ってみせたのである。
「……まだ、駄目」
優しく窘めるように――或いは、冗談めかしてとがめだてするように、だが、か細く紡がれた声。
その意図するところを理解出来るのは、紅野だけであった。
紅野だけが、唯一、誰にも見透かせない蒼空を、余さず見渡す事が出来る。
蒼空だけが、唯一、そういう紅野の抱えるものを、全部見通す事が出来る。
この地上で何もかも、かけがえの無いものを失い続けた紅野に、最後に残されたのが、蒼空なのだ。
「そっか――」
その一言で、紅野には十分であった。
短刀を右手に移し、刃の切っ先を狭霧和敬へ向ける。
「〝決して砕けるな、決して緩むな、決して曲がるな――〟」
詠唱――短刀の柄が、凍結を始めた。
水よりも透明な、澄み渡った氷が短刀の柄を埋め、それは更に、短刀を延長するように、細く長い氷柱へと変じたのである。
「〝――この一身は捨て難き物〟」
否。
氷柱にあらず。
氷で作られた槍であった。
屋内の戦いに合わせ、柄は六尺。短刀の刃をそのまま穂先に用いた即席の槍。
槍こそが、武芸十八般を修めた紅野の、何よりも得意とする武器である。
それが、狭霧和敬の心臓を、真っ直ぐに睨みつけていた。
「そっか、まだ駄目か」
「……ん」
槍を、紅野が構える横に、刀を正眼に構えて、蒼空が立つ。
紅野の体を、燃えるような熱が突き動かす。
蒼空が、まだ死ぬなと言っている。だから紅野は、死にたいと思うのをやめた。
生きる理由として十分過ぎる程であった。
「じゃ、まずは」
「ん」
二人は、正面の和敬へ顔を向けたまま、目だけを横へ向け、視線を重ねた。
次の瞬間、〝二人とも〟が、消えた。
「――ぬ!?」
頭部を二つに増やした和敬の、四つの眼球でさえが捉えられぬ速度。
次の瞬間、和敬の背後に回った紅野が、氷の槍で、和敬の右の頭を貫いていた。
「そこかァッ!!」
和敬は、背後へ振り返ろうとした。
だが、右の頭を貫通した槍につっかえて、振り向く事が出来ない。
構わず、体を正面に向けたまま、右足を、背後の紅野へ目掛けて振り上げた。
床に触れていた踵が、紅野の両脚の間へと、ぞっとする程の速さで迫る。
男なら睾丸を、女が相手だろうと恥骨を、確実に砕くだろう速度と重量――
紅野は、避けなかった。
蒼空が、和敬の右足を、膝から一刀の元に斬り落としたからである。
「があっ!」
支えを失い、体が横へ傾きながら、和敬は倒れる事が出来ない。未だに頭を、紅野の氷の槍に貫かれたままだからである。
背中を晒した無防備な体へ、蒼空の、神速の斬撃が放たれた。
瞬き程の間に、十数回の、斬。
背骨、腰の骨、大腿も、膝裏も、踵の腱も、そして首も、全てが人体を分断するに足る深さで斬り込まれた。
立ったままの人体が、幾つかの部品に分けられ、ばらばらと崩れる。
床へ落ちて行く和敬の首――
紅野が、蹴った。
左脚、鋼の義足で、川辺の小石をうんと遠くまで飛ばすような恰好で、爪先が胸より上がる程も勢いを付け、蹴ったのだ。
ぐしゃっ。
と、和敬の頭蓋が潰れて跳んで、
ぐしゃっ。
と、壁にぶつかって、骨が割れてはみ出した脳が潰れた。
潰れて床に落ちた和敬の破片――それが直ぐに、小さな蛇となって集まり始める。先に分割された上半身や脚までが同様に、大小様々の蛇となって、元の狭霧和敬の形を作ろうとするのだ。
――させるか。
その蛇を、紅野は踏みまくった。
鋼造りの左足を振り上げ、足の裏で押し抜くように、思いっきり踏みつけた。
槍でも、床を横に薙いで、蛇を真っ二つにしてゆく。
蒼空も蛇を狙い、刀を存分に振るった。
斬られた蛇も、忽ちに再生し、また別な蛇となって寄り集まろうとするのだが――それをも妨げるように、斬撃が繰り出される。
無論、無数に生まれる蛇を、二人で延々殺し続ける事は出来ない。かろうじて刃をかいくぐった蛇達が、部屋の壁際で、狭霧和敬の姿へと変じた。
腕は――たった二本。
脚も――たった二本。
首は――たった一つ。
元の、人間そのものの、狭霧和敬であった。
「かっ――か、はあっ!」
和敬の口から、彼の手へ、塊のような血が零れ落ちる。
口内を切ったり、舌を噛んだり、その程度の出血量では無い。臓腑が潰れて初めて溢れ出す程の、致命的な血であった。
如何に数多の命を喰ったとて、完全な不死ではないのだ。
命を一つしか持っていない人間が、一度死ねばそれで終わるのと同様に、幾つもの命を持った狭霧和敬も、幾度も殺されれば、やがては死ぬ。
そもそもこの邪法は、真っ当な人間に対して用いるべき代物ではない。
生と死を延々と繰り返す間――その人間は、幾度も、死に相当する苦痛を受ける。並みの人間であるならば、二度目の死で、大半が発狂するのだ。
信仰心の鎧を纏った、拝柱教の信者でさえ、四度目の死は精神が耐えられない。狭霧和敬の如く、十数度の死を耐え得る精神を持つ者など、まず居ない。
そして、その狭霧和敬すら――遂に体が、精神より先に、術の苦痛に悲鳴を上げた。
この出血は、先程までのように、死を乗り越えれば再生する類の負傷ではない。
もはや二度と再生する事の無い、死本来の、絶対的な不可逆であった。
「おのれらぁっ!」
然し、血を吐きながらも、この男は狭霧和敬であった。
身を守る術を、何一つ選ばない。両手で大鋸の柄を持ち、並ぶ二人へと斬りかかった。
上段からの斬り降ろし。
大鋸を跳ね上げての、斬り上げ、首刈り、腕削ぎ。
剣技の冴えもまた、絶人の域。この技のみで、数十の雑兵にならば勝る程の技量である。
だが。
こと剣の技量に於いて、狭霧蒼空を上回る生き物は、日の本に存在しない。
「さあぁっ!」
嵐の如き剣閃を、蒼空は全て、髪の毛一筋の間で躱していた。
その合間、和敬が一度大鋸を振るう間に、蒼空は三度の斬撃を放った。
和敬もまた、致命傷と成り得るものだけは避け、防がんとする。
斬。
当たる。
和敬の左手の、指が幾つか落ちた。
和敬は手を止めなかった。
斬。
和敬の左腕が、肘から先の全て、床に落ちた。
和敬は右手だけで大鋸を振るう。
その右腕へ、
斬――
「っ、紅野、蒼空っ!」
右腕を失った和敬が、娘二人の名を呼んだ。
何を言うのか、娘二人は、聞こうとさえしなかった。
命乞いをする父ではない。
娘の健闘を褒め称える、良く出来た父ではない。
この男が、こういう局面で何かを言おうとするなら、それは間違いなく、自分達を嬲る為の道具として、言葉を放つのである。
聴く耳を持たぬまま、紅野が前へ出る。
蒼空に劣らぬ、人の目に影さえ残さぬ速度である。
同じ体を持って生まれた、違う二つの魂が、同じ技を為して不思議は無い――紅野の速度は、それを雄弁に語っていた。
速度は、足から生まれた。
足から生まれた速度が上体を運び、上体は捩じれて肩を突き出す。
肩から腕へ運ばれる神速。
腕から手へ伝わる神速。
そして――
「はあああああああああぁあああああぁあぁぁっ!!!」
手から、槍へ届く、神速。
紅野の突き出した氷の槍は、確かに、狭霧和敬の心臓を貫いて、背後の壁に縫い止めていた。
突きを放った紅野だけがその時、
ごぶっ、
と、何かが流れ出す音を聞いた。
少し後方に居た蒼空には聞こえない。
もはや耳など働かぬ和敬にも聞こえない。
槍を伝い、和敬の血がごっそりと、紅野の手へと流れてゆく音であった。
再生は、始まらない。
貫かれた肉が修復される気配も、和敬の体が蛇に変じて散らばる気配も、何も無い。
どこにでもいる普通の兵士を殺した時と全く同じ感触が、紅野の手へと返ってくる。
槍を引き抜いた。
和敬は、壁に寄りかかったまま立っていた。
その体が、ゆらあと傾く。
「親父」
「か、……っ、こ、紅野、紅野……っ!」
紅野は、倒れ込んできた和敬の体を抱き留めた。
血を失っただけ、同じ体格の男より軽い体であった。
右腕は、肩から無くなっている。
肘より上だけが残った左腕で、和敬は、紅野の背に触れた。
もし、その腕が、完全なものであったなら――その行為は、抱擁と呼ぶ事が出来ただろう。
あたかも、普通の父親が、幼い娘にしてやるような、純粋な、邪気の無い――
「ふ、ふは、はっは、ははは……!」
嗤う。
そういう夢想、全ての善良なるものを、和敬は嗤う。
世界には、〝悪〟がある。
悪が生まれる要因、過程は様々で、その裏には悲劇があり、不幸があるのだろうと知りながら。
そんなものを何一つ持たず、ただ純粋に、他者の死を好むという特性を持って生まれた男は、人の為す美徳の悉くを嗤う。
「ふん、殺しそびれたかっ……!」
最期まで狭霧和敬は、狭霧和敬のまま、何を悔いる事も無く死んで行った。
「……ばれてるよ、親父」
何時の間にか紅野の左手は、和敬の懐へ潜りこんでいた。
引き抜かれた手の中には、小さな筒のようなものがあった。
紅野の魔術により、小さな氷塊の中に閉じ込められたそれは――
「ほうら、やっぱり」
火薬をたんと詰めた筒であった。
もし、これに火を付けたのなら、狭霧和敬の体は、まともな死体として形を残さず、砕け散っていただろう。
その爆発に巻き込まれたなら、紅野は、生きては居なかっただろう。
狭霧和敬は、そういう男だった。
他の誰かであるのなら、狭霧和敬の、最期の罠で殺されていた。
だが、狭霧紅野は、この罠を、当然であるかのように見抜いた。
そういう父だと知っていたからだ。
紅野は、たった一度だけ見ることが出来た、母の顔を思い出していた。
歳を経た女だけが出来る、美しい顔で笑っていた母。
自分を抱き締めながら、首に針を突き刺してきた母。
「ったく、似たもの夫婦なんだからよ、あんたら……」
紅野は思わず苦笑をもらし、蒼空はそれを見て、小さく首を傾げた。




