最後の戦のお話(7)
歩く。
それも、気忙しく、江戸の町人達のように、ぱたぱたと早足で歩くのではない。
洛中に在るからには、京の流儀に合わせようとでも言うのか――そうではないにせよ、そう思いたくなる程に、ゆったりと歩くのである。
東の門を潜り、道なりに進んだ。
壁を越えたり、高台に登ったり、そういう無粋は無い。
先に行った者達が切り開いた道を、そのままに辿って、歩くのである。
雪月 桜。
村雨。
何時の間にか、戦の渦中の人となっていた。
それを厭わず、寧ろ自ら望んで戦い、その果てに今、此処に居る。
「ふーむ……私達にしては、珍しい」
「何が?」
「洛中に来てからというもの、こうしてのんびりと歩くより、妙にあちらこちらと走り回ってばかりだった気がするのでな」
「あはは、確かに」
朗らかに談笑しながら、二人は歩いた。
砲弾によって破られた東大手門から入り、大量の爆薬で吹き飛ばされた二の丸跡を通る。
黒く焦げた死体や、一度立ち上がってもう一度死んだか、致命傷が一つならず刻まれた死体などが、そこら中に有った。
その先には、波之大江 三鬼率いる白槍隊が、政府軍を迎え撃った、門の前の空間が有る。
死んだばかりの人体が、やはり幾つも倒れていた。
そういう空間を、二人は、平時の事であるかのように通り過ぎて行った。
三鬼ごと砲弾で打ち破った、城内の門を過ぎると、本丸へと続く道に出る。
その道の上を、政府軍が、拝柱教武装信者の軍とぶつかり、真っ直ぐに押し込んでいた。
本丸の、正門までの道は開いている。
桜は刀を抜かぬまま、その道を歩いた。
村雨は拳を構えぬまま、その道を歩いた。
「あっ……師匠!」
門の前には、二人の見知った顔が有った。
松風 左馬――返り血も、当人の血だろうものも混ざり合って、華美な服が、黒めいた赤に染まっている。
「通れ。門は開いていたよ」
「おう、行ってくる」
それから桜は、本丸の正門の前で背後を振り返った。
戦は、まだ続いている。
拝柱教の武装信者は、十倍以上の政府軍に対し、健闘していると言うに足る戦いぶりを見せていた。
彼等は、一度の死では死なない。
三度まで立ち上がり、四度目に殺して、初めて死ぬ。
そして、その四度の死のいずれをも、全く恐れていないようであった。
彼等の奮闘は、果たして何時まで続くだろうか。
長くは続くまい。
桜の見ている前で、拝柱教の信者は、手から砂が零れ落ちるように、留まらず数を減らして行く。
彼等を殺している人間は、様々であった。
何処かの田舎の村で、鍬を持っているのが似合いそうな、顔の四角い男が居た。
つるんと頭を剃り上げた、日頃は念仏など唱えているのだろう僧兵が居た。
髭にも成り切らぬ産毛が鼻の下にうっすらと生えた、子供のような顔の男が居た。
顔の皺が深く、髭も白いものが混ざった、老兵が刀を振るっていた。
手に藍色の染料が浸み込んだ男は、きっと染め物屋なのだろう。
節くれだった手の、体格の良い男は、鳶の職人などしているのが似合いそうだった。
よくよく見れば、西洋人も居る。
大陸の十字教が援軍として送って来た、『ヴェスナ・クラスナ修道会』の修道士や、修道女達であった。
不揃いの装備で、良く動く連中が居る。
『錆釘』の精兵達が、手柄を求めて暴れているのであった。
姿が、明らかに人と違うのは、亜人である。小さな亜人の群れは、村雨が見出して集めた者達で――彼等もまた、村雨の臭いに気付いたか、一層力を振るって勇戦した。
子を持つ父であろう男が居た。
或いは、老いた父を持つ子であろう男が居た。
堅気の者とは見えぬ、鋭い目の男が居た。
荒事などまるで相応しくない、優しい顔の男が居た。
誰もが皆、武器を持ち、人間を殺そうとしている。
なのに彼等は、自分が殺している人間が――嫌いでもないし、恨みがある訳でも無いのだ。
桜と村雨は、今、自分達が潜り抜けて来た戦とは、どういうものであるかを、その目に焼き付けながら――息を整えていた。
ここまでを歩いてきた、僅かな体力の消耗さえを取り返さんと、深く息を吸い、息を吐く。
桜は、両手をぎゅうと、指の骨が軋みを上げるまで握った。
その手に、村雨が触れ、指を開かせ――自分の指を絡ませて、言った。
「行こっか」
「……うむ」
そして二人は、城外の戦いに背を向け、手を繋いだまま、本丸の階段を昇って行った。
本丸の中は静寂に満ち、また死の臭いに満ちていた。
外の戦いの臭いが流れ込んだものと、本丸の内にて幾つも起こった死が、ぐしゃぐしゃに混ざり合った臭いである。
村雨ばかりでなく、純粋な人間である桜さえが、その臭いを嗅ぎ取っていた。
誰の声もしない空間に、ぎぃ、ぎぃと、木組みの階段が鳴る音ばかり響く。
段を一つ、また一つ昇る度に、二人は戦いの場へと近づいて行く。
戦いとは、何か。
戦いの〝様式〟には、様々なものがある。一個と一個、或いは万と万が、競いあう。
競うものは何か。
力。
知恵。
知識
技。
財力。
信仰。
信念。
存在。
美醜を比べる事さえ、戦いである。
相手の心を奪う、恋路さえ、戦いである。
だがそれは、所詮は戦いの〝様式〟であり、戦いそのものの本質では無い。
ならば戦いの〝本質〟とは何か 。
それを雪月 桜に問うのなら――
それを村雨に問うのなら――
或いは桜ならば、それを愉しみの一つに数える事も有ろう。
村雨であるなら、戦いを厭う心を滲ませ、憂いの一つも見せるだろう。
だが、戦いの究極の〝本質〟は――『手段』ではあるまいか。
雪月 桜は、〝愉しみを得る為〟に、〝己の心に適う為〟に。
村雨は〝人としての平穏を望む為〟に、〝人ならぬものに踏み躙られぬ為〟に。
そして――〝愛する者と共に生きる為〟に、それが叶う世界を手にする為の『手段』として、戦うのである。
此処に於いてこの戦争は、最後に、二つの意思の衝突という構図を為した。
大聖女エリザベートが、〝全ての人類の為〟に望む、エリザベートの絶対的支配による平穏の構築という、一つの思想。
多くの人間が願う、緩やかな世界の規律の中に続く不変の日常を望む、一つの思想。
この二つの相容れぬ思想が、互いを屈服させる『手段』として、戦いを選んだ。
そして、桜と村雨は、〝自分達の為〟に、不変の日常を望む。
だから桜は、村雨は、自分達で終わらせに往くのだ。
言葉にて、信念をぶつけ合う様式は、既に試し、無為であると知った。
二人は、エリザベートに力で打ち勝つ為に――殺す為に、往くのである。
「なあ、村雨」
「ん?」
「怖くは無いか」
「なんで?」
「お前、最初に会った時は、死体の二つや三つで怯えていただろうが。覚えているぞ、どんな顔で泣いていたか」
「あのね……あの時とは色々違うでしょ。……大体、あの時は、桜も確かに怖かったけど――」
この二人の出会いは、あまり良い出会い方とは言えぬやも知れない――こうして戯れ事のように、出会いの日の事を口にするのも珍しい事であった。
喉の奥でくっくっと、壁打ちのような笑い声を出す桜に対し、村雨は遠い目をして、その日の事を思い出す。
「――死体じゃなくて、誰かが死ぬ事だとか、誰かが誰かを殺す事だとか、そういう事が怖かったんだと思うし……今でも怖いよ。誰も死ななくていいんだったら、それが良いに決まってる。どれだけ悪い人間だって、殺さないでどうにかなるって言うんだったら、私は絶対に死なせたくない」
「あの時、私は、あの盗賊達を殺すのに、一片の憐憫の情とて湧かなかった」
桜は、村雨より少し長く生きている分だけ、その日を思い出すのが容易であるように見えた。
常に纏う氷の面貌を少しも崩さず、ただその目には――見える左目も、見えぬ右目も、僅かに陰りを浮かべていた。
「私にとって、誰かを殺すというのは、〝やり方〟の一つに過ぎなかったからだ。殺した方が楽だというなら殺すし、そうでないなら殺さない――私に抗う者の命など、その程度のものだった。それが変わったのは――やはり、お前の為なのだろうな」
「――――――」
「いい格好をな、して見せたかったのだ」
その言葉を口にした時、桜の――顔を作る、人格の内側、根っ子の部分から何かが抜けたような気配がした。
背負っていた荷を下ろし、すっきりとした顔になって、桜は告白を続ける。
「結局のところ、自分が死にかけるまで私は、赤の他人の命なぞどうでも良いと考えていた。お前と洛中までを歩き、夜の灯りに目を輝かせていた時でさえ、それは変わらなかったよ。
だから、もしかするとそれまでの私は、お前を酷く苦しませていたのじゃあないか――そういう事を、時々思った」
「……そんな事無いよ」
「無いか」
「無い。カッコつけでもなんでも、あなたは私の為に変わってくれた――嬉しかった」
それにね、と、村雨は言葉を継いでから、暫し口を閉ざした。
陰りは無い。
桜と同じように、何か、自分の心に刺さっていた棘が無くなったような、すっきりとした顔をしていた。
「私が本当に、一番怖かったのは、私なのかも知れない」
「お前自身が?」
「誰かが死んだりするのを見たり、誰かを殺したりするのが大好きな、私。多分私、あなたが人を殺すのを見て――泣きながら、笑ってたと思うんだ」
村雨は、人狼である。
ともすれば純粋な、曲がる事を知らない少女のような顔をしながら、腹の底には強烈な衝動を眠らせている。
強い生き物と戦いたい。
そして、殺したい。
喰いたい――では、ないのだ。
自分の命を永らえる為ではなく、無限に湧き上がる欲求を慰める為だけに、他の命を踏み躙りたいと――そういう生き物だった。
自分の惚れた相手が、実は人死にを見て悦ぶような女であったとして、良い顔をする者も少ないだろう。
だがその、数少ない例外が、雪月 桜であったのだ。
「嫌な言い方だけどさ、破れ鍋に綴じ蓋だよね、私達」
「なるほど、言い得て妙だ」
この言い草には、桜も、口を顔の半分までも開けて笑った。
「どちらも立派な人間とは言えんが、まあ、なんだ。そこそこには抑えも利くようになって、以前よりはよっぽど上等になったものであろうよ。願わくはこのまま、欠品同士で共に生きて行きたいものだ」
「うーむ、言葉にするとなんだか心に刺さるね、欠品扱いは」
そして、村雨も笑う。
二人して顔を見合わせ、静かな城の中、大きな声を上げて笑いあった。
いつの間にか、階段を登り終えていた。
最上階、天守閣には、大きな扉が有った。
雲を貫く巨大な塔に、これまた巨大な蛇が絡みつき、舌で十字を弄ぶ、冒涜的な意匠の扉。
向こうの音は、何も聞こえない。
鋼の扉が、此方側と向こう側を、はっきりと切り分けている――望みを捨てよと罪人に告げる、地獄の門のように。
その扉に手を掛け、桜は言った。
「エリザベートを斬り、殺す」
「――――――」
「お前の本質がどうであれ、理知の部分でお前は、誰かが誰かを殺すような事を嫌っている。だが私は、エリザベートを殺す。そうしなければこれより先、どれ程の人間が殺されるか分からぬからだ。……格好も気にせぬ、好悪も知らぬ。私は今日、おまえの前で人を殺す」
それは――あの日、村雨が桜の前に立ちはだかった時から、無言のままに交わされた約定を破るという宣言であった。
村雨は、繋ぎ絡めた指に、うっすらと滲む汗を感じた。
雪月 桜が、戦いを前に、恐れているのだ。
不思議と村雨は、それで安心した。
桜の恐れの所以が、分かるからである。
戦い、傷付く事を恐れるような女では無いし、自分が〝死ぬ危険がある〟とは知っていても、〝死ぬつもり〟など微塵も無いだろう桜が恐れているのは、今日まで張り通した意地を曲げる事なのだ。
他の何処かならば、やむを得ぬならばと言い訳を付けたとて――村雨の前で、人殺しである自分に戻りたくないと、たったそれだけの見栄。そんなものが崩れるのを、桜は恐れているのだと、村雨は繋いだ指と手の全てで知った。
「じゃあさ、分けようよ」
「ふむ……?」
「エリザベートを――あの人を死なせるのは、あなただけじゃなくて、私も一緒にやるの」
村雨は、鋭い歯列を――咥内の、牙と呼べるまでに変化を終えた歯を剥き出しにして、言った。そうすると村雨の顔は、無邪気で、だが凄絶な笑みとなった。
「それで、その後はもう、私もあなたも、二度と誰も殺さない。どんなに辛くても、苦しくても、相手を死なせていいんだったらどんなにか楽だろうって思うような時が有っても、今日、一日だけ間違った事をした後は、絶対にもう一度は間違わない。どう?」
常の表情を保ったまま、桜はその言葉を聞き終えた。
それから、唇の端が上がり、頬が緩み、目が細まって弧を描いた。
顔に心が滲み出るような変化である。
器に水を注いで行けば、やがて溢れて零れるように、桜の胸に満ちた感情の一切が溢れて、氷の面貌を溶かしたのであった。
破顔しながら、桜は、村雨の腰を抱いて引き寄せ、顎を引いて上を向かせると、その唇を、噛み付くように奪った。
その行為に、淫靡さは無い。
昂揚も陶酔も無く、ただ愛おしさだけで、二人は短い口付けを交わし、
「行くぞ」
「行こう」
目の前の両開きの扉を、不作法に、一人が一枚ずつ、蹴り開けた。




