最後の戦のお話(6)
冴威牙と紫漣の二人は、二条城の西端で、戦の音を遥か後方に聞きながら、城を抜け出そうとしていた。
冴威牙の鋭敏な嗅覚は、遠くで流れる大量の血の香を捉えている。紫漣が高台から目を凝らせば、どれ程の亡骸が打ち捨てられているかを数えられただろう。
戦は酸鼻を極めている。
その場に、彼等は居なかった。
「……冴威牙様、よろしいのですか」
「ああ」
紫漣は、戦の音に後ろ髪を引かれるよう、何度も振り向きながら問う。然し冴威牙は、もはや戦場に目もくれず、歩いて行くのだ。
「あそこに居て、俺達に先はねぇ」
「ですが、ならば何処になら――」
「どこだって良い、兵部のおっさんの下よりマシだ」
昨夜の宴を経て、冴威牙は確信していた。
狭霧和敬は確かに、まだこの戦に負けたつもりでは無いだろう。寧ろ、此処から巻き返し、勝利を収める策さえ持っているのだろう。
だが――その策の後に生きているのは、狭霧和敬と〝大聖女〟エリザベート、後は和敬の玩具として生き長らえる事を許された幾人か。自分が生き延びるとしたら、その〝玩具〟としての立場であるのだ、と。
仮にこの戦に勝ったのなら、確かに自分は相応の地位を与えられ――狭霧の姓も与えられ、狭霧和敬の娘二人を娶り、高い官職に置かれるだろう。だがその地位は、狭霧和敬という後ろ盾に身を全て預けた、何時倒れるとも分からぬものに過ぎない。
そこに、冴威牙の目指すものは無い。
冴威牙は漠然と、亜人として、人間の上に立つ事を望み、生きてきた。人間を幾人も従え、思う侭に暴虐を働き、望みの幾分かは叶えたように思えていた。然し昨夜、それは全くの思い違いであったと知った。
結局のところ自分は、狭霧和敬の下、彼の意を組んだ玩具として生きていたに過ぎない。
「……紫漣よぅ。俺はなんで、あの時に――」
「冴威牙様……?」
言い掛けた言葉を、飲み込んだ。
――なんであの時に、狭霧和敬を殺そうとしなかったのか。
手酌で酒を注がれる程も近くに居たのだ。喉笛を噛み千切り、狭霧和敬を殺し、自分が二条の城を奪い取っても良かった。
或いはその首を持って政府軍に投降し、政府内で官位を得て上り詰め、やがて頂点に成り代わるという道も有った。
何故、そう出来なかったのか?
――勝てねぇと、思ったからだ。
力でも、外道の度合いでも、狭霧和敬には勝てない。そう確信してしまったからこそ、冴威牙は動けなかったのだ。
波之大江 三鬼や雪月 桜のように、化け物じみた強さの生物は居る。そういう生物に勝てぬ事は、冴威牙はもう、諦めている。
だが、狭霧和敬の強さは、違うのだ。
狂気と理知が混ざり合いながら、己の欲望を全く制御しようとしない、人間らしからぬ意思の強さ――獣以上に獣らしく、殺戮の為だけに生きる生物の恐ろしさ。
そう、恐怖だ。
冴威牙は、狭霧和敬を恐れた――だから彼の下を、離れようと決めたのだ。
思えば、僅かの間に多くを得て、失った。
宿無しの流れ者が、狭霧和敬に取り入って、部下を与えられ、権限を与えられた。人の町で蛮行に耽り、逆らう者を望むまま虐げた。そして、戦場さえ与えられた。
戦場で、与えられた部下を失った。左目を失った。無法を許される権力を失い、また何も持たぬ流れ者になった。
負けた。
冴威牙の心には焼印のように、敗北感が刻み込まれていた。
「……紫漣」
「はい、気付いています」
然し――如何に心が虚ろであったとて、冴威牙も紫漣も、一廉の腕利きである。彼等は既に、自分達へ近づいて来る敵を察知していた。
「一人ずつだ!」
「はいっ!」
冴威牙が背後を振り返り、紫漣が地を蹴って飛び立った瞬間――冴威牙の左腕を鉄の枷が捕え、そして紫漣の背が有った空間を、鎖で繋がれた鎌が通り過ぎる。
冴威牙を捕らえた枷は、長い鎖の先に繋がれていて――その向こうには葛桐が、同じ枷を己の左腕に繋ぎ立っていた。
「……んだこら、イタチかよ」
「手負いの犬か……いい金になりそうだ」
いずれも亜人たる両者は、互いの臭いから戦力の程を探り――険しい顔をした葛桐と裏腹、冴威牙は己の優位を確信し、不敵な笑みを見せた。
その横では女二人が、空と地に分かれて睨み合っていた。
いや――睨み合いという形容もまた違うかも知れない。敵意を撒き散らす紫漣に対し、離堂丸は心底幸せそうに、得物の十連鎌を振り回している。
「羽の有る首は取った事が無い。良いですね、楽しい狩りになりそうです」
「誰が……誰が素直に殺されてやるかっ! 冴威牙様の為、此処で死ねっ……!」
そして――四者はほぼ同時に、それぞれの敵目掛けて動いた。
戦局を左右せぬ、些細な殺し合いが始まった。
獣が二頭、向かい合う。先手を取ったのは冴威牙だった。
地面から矢のように跳ね上がった爪先が、葛桐の腹に突き刺さる。
六尺六寸の長身が、一瞬、確かに浮かび上がった。
「しゃあっ!」
着地を待たず、冴威牙は蹴った。
右脚を鞭のようにしならせ、大きく外側から回し込み、葛桐の左側頭部を殆ど真横から打ち抜いたのである。
獣の皮を乾燥させ、分厚く重ねた脛当てを、冴威牙は身に付けている。その脚で放つ蹴りは、例えるなら丸太で殴り付けるが如き衝撃を生む。
葛桐の体が薙ぎ倒され――地に腕を触れさせる直前、辛うじて踏み留まる。
「おおるぁああっ!」
冴威牙の足が、地面に触れる前に、また舞い上がる。
姿勢を立て直そうとする葛桐の背に、踵が落とされた。
二度、三度、四度。後退し、ようやく右足を地に着けるも、すぐさま次の蹴りを打つ。
その脚へ、葛桐の右手が伸びた。
「おっ――」
のっそりとした立ち姿から、弾かれたよう手が跳ぶ。
しなやかな、柳のような体を持つ葛桐の動きは、静から突然に動へと転ずる、反応の難しいものであった。
然し、速度のみを比べるなら、冴威牙が一枚も二枚も上手。脚を逃し、遠くへ飛んで間合いを取ろうと――
「何処へ行く気だ?」
「ぉ――わっ!?」
葛桐が、二人の手首の枷を繋ぐ鎖を引いた。冴威牙の足は地から浮き、引き寄せられ――出迎えるように、葛桐の膝が腹に深々と刺さる。
「げえっ……!」
その一撃は、これまでの攻防を全て帳消しにする程の重さを誇っていた。
脹脛と大腿が触れるまで脚を畳み、鋭角となった膝が、葛桐のしなるような動きで打ち出され、突き上げるように腹を打ったのだ。
鍛えられた冴威牙の腹筋が、まるで役に立たない。打たれた部位の真下の内臓が、直接に揺さぶられるが如き衝撃であった。
咥内の唾液が糸退く感覚を味わいながら、冴威牙は辛うじて身を起こす――その一瞬後、葛桐の肘が、それまで冴威牙の頭が有った筈の空間を降下して行った。
「ちっ」
舌打ちしながらも、葛桐はまた鎖を引く。そして今度は、自分からも冴威牙へ向けて踏み込んだ。
「っ!」
咄嗟に冴威牙は前蹴りを放ち、接近した葛桐を押し返そうとした。
靴の硬い爪先が、葛桐の腹部を狙う。先に冴威牙が打たれた場所と、全く同一の箇所にそれは突き刺さった。
苦しむ筈だ――或いは内臓が傷つき、血を吐く者とて居よう。
だのに葛桐は、何事も無かったかのように、腹を押し込む冴威牙の蹴り脚を掴んだ。
めぎぃっ。
「おっ……!?」
冴威牙の脛を覆う防具が、葛桐の握力に悲鳴を上げた。こうなればもう、葛桐は獲物を逃がさない。
捕まえたままに、乱杭の牙が並ぶ口を開き――咄嗟に身を庇った冴威牙の、左前腕に、骨をも砕く葛桐の牙が喰い込んだ。
「がああアアァッ!?」
皮膚と肉が一瞬で立ち切られ、骨がみしみしと軋む。
このまま力が加わり続ければ、やがては破砕されるだろう。
ありえない――と、痛みに吠え狂いながら、冴威牙はそればかりを思った。
犬の亜人たる冴威牙は、己の嗅覚に絶対の自信を持っている。たかが〝イタチ〟が自分を苦しめ、追い詰める筈が無いのだ、と。
冴威牙の不幸は、日の本の外を知らなかった事である。
葛桐は、亜人の父親と人間の母親の間に生まれた混血であり――その父親は、クズリの亜人である。
クズリは、確かにイタチの遠縁のようなものであるが、その何倍も性質が悪い。
強靭な四肢、鎧の如き体毛、体躯から及びもつかぬ程に強烈な顎と牙。自分より巨大な獲物へ臆せず襲い掛かり、実際に仕留めて喰ってしまう凶暴性。それが、葛桐にも備わっている。
冴威牙の苛烈な攻撃は、その実、葛桐の硬い体毛に衝撃を殺され、さして痛みを与えては居なかったのだ。そして、一度葛桐の牙に囚われたからには、もう逃げる術は残されていない。
「ぎあっ、ぐっ、ごおっ……!」
呻きながらも、冴威牙は滅多やたらに拳を振り回し、足を振り回して葛桐を打った。
片腕に噛み付かれ、大きく体を動かせぬままの打撃――体重が乗り切らず、葛桐を打ち倒すには不足の打撃。
加うるに、片目を失ったばかりの冴威牙では、最小の力で倒し得る急所を、的確に狙う事が出来ない。
この、技とも呼べぬ技、噛み付きからは、どうやっても逃れられないと、冴威牙は悟った。
「紫漣っ! 助けろ、俺を、助けろっ!!」
縋る手は一つ、己の忠実なしもべである紫漣に、葛桐の背後を突かせる事であった。
然し、答えは無かった。
代わりに、血の臭いばかりが、慣れ親しんだ臭いと混ざって、むうと冴威牙の鼻を突いた。
振り返る。
翼を鎌で引き裂かれ、地に引きずり落とされた紫漣の背に、離堂丸が馬乗りになり、脇腹と言わず背と言わず、手に持つ草刈り鎌で突き刺し抉っていた。
「しれ――」
暫し冴威牙は、腕の痛みを忘れ、忠臣の惨状に目を奪われた。
離堂丸は、鎌を滅茶苦茶に、子供のように振り回して、紫漣を抉る。
時折、ごつ、ごつんと硬く鳴るのは、狙いも疎かに振り下ろされた鎌の切っ先が、骨を打つ音である。
腕も脚も、殆ど動いていない。腱を斬られているのだ。
それでも紫漣は、まだ生きていた。
地面に這い蹲りながらも、力を振り絞って顎を上げ、霞む視界に冴威牙を収め――
「さい、っ、に……逃げ、て」
ざしゅっ。
反らされ伸びた白い喉を、離堂丸の鎌が掻き斬った。
吹き出す血の量は、意外な程に少ない。
痙攣は直ぐに収まり、有翼の女は、呆気無く亡骸と成り果てた。
「ぅ、ぉお、おっ……」
その間――冴威牙は、動けずに居た。
手首を噛まれ、捕らえられているから――だけではない。
寧ろその時、葛桐の顎の力は、無意識にか、ほんの僅かに緩んでいたのである。
渾身の力で振り払えば、逃れられる筈だった。だのに冴威牙は、動かず、紫漣が息絶えるのを、ただ欠けた杯から水が流れ落ちるのを眺めるように、見ていたのであった。
「……ひっ、ひぃ、ひ――ひっ、ひっははははは、ははははァッ!!」
そして――吠えるでなく、鳴いた。
鳴いてから、高く笑った。
冴威牙は、左腕を、思い切り捻る。
葛桐の牙に、骨まで噛み潰されていた左の手首が、ごりっと音を立てて、取れた。
左腕の枷が、引っかかりを失って落ちる。
それを見届けぬまま、冴威牙は葛桐にも、紫漣の亡骸にも背を向けて走り出していた。
――どうしてだ、〝俺〟。
逃げながらも笑い続けて、笑いながら――泣いていたのかも知れない。
後方から、自分を追う足音が聞こえていただろうが、それも意識にまでは届いていなかっただろう。
ただ冴威牙は、あらゆるものに背を向けながら、己に問うていた。
「俺は――っはは、はははっ、俺は何処で間違ったァッ!?」
その問いに、意味は無い。
何を間違えたと言うなら――そも、間違えていない事の方が少ないのだ。
与する相手を間違え、成り上がる手段を間違え――逃げ出す機を間違え、本当に守るべきものを間違えた。
力――左手を失い、己の力への確信を失った。
腹心――いや、伴侶とも呼べよう紫漣を失った。
これで本当に、冴威牙には何も無くなったのだ。
がむしゃらに、敵の臭いの少ない方へ、少ない方へと逃げ続ける。そうして辿り着いたのは、自分から離れようと決めた、二条城の本丸であった。
偶然と、戦場とが手を組んで、己に死ねと命じているようにさえ、冴威牙は感じ――また笑いながら、左手首を強く掴んで止血する。
――まだだ。
悪党は往生際が悪い。そして冴威牙とて、大物とは呼べぬながら、一端の悪党気取りである。
――まだ、使えるもんがある。
ふらふらと二条城の城内へ、身を隠しながら侵入する冴威牙の口元には、歪な形の笑みが張り付いている。
涙はいつまでも枯れそうになかったが、もはや冴威牙は、自分がどういう表情をしているかなど、意識する事も出来ていなかった。
二条城の本丸へ、冴威牙は裏手から堀を乗り越え侵入した。
城内にて冴威牙がまず感じ取ったのは、複数個所から漂って来る、強烈な血の臭いであった。
戦場に比べれば、それも薄い。
十か、二十か――五十も死んではいないだろうと、その程度の臭いだ。
だが此処は、狭霧和敬の本陣だ。この城に屍が有るという事は、それだけ追い詰められているのだろうと、冴威牙は認識した。
まだ冴威牙は、城の上階で、狭霧吉野が波之大江三鬼を道連れに、爆ぜて散った事を知らない。
そしてまた冴威牙は、地下の牢で何が起こったかを知らない。
冴威牙は本丸の中を、怯えた獣のように足音を殺して、地下の階段まで辿り着いた。そして日光から逃れるように、その体をするりと階段に踊り込ませ、滑り落ちるように最下層を目指した。
――あれが居れば、まだ俺は。
冴威牙が求めていたのは、狭霧紅野と狭霧蒼空の、双子の姉妹であった。
父親の手に捕らわれ、心を傷つけられ、冴威牙に下げ渡された玩具扱いの娘達。
一度城を抜け出す際、冴威牙は、部下達の気を逸らす為、大量の禁制の薬物と併せ、双子を、好きに使えと言って部下達へくれてやった。
その後の仕打ちがどうであったかは、見てはいないが、予想は付く。
そして――予想の通りになっているなら、冴威牙はそれが、自分に利するものだと踏んだのだ。
狭霧紅野は、かつては比叡山の山城に立てこもり、狭霧和敬の軍を防いだ大将である。現行の政府軍とて、救えるものならば救いたいと――見捨てて不平の声が上がるよりは、彼女の命を守ろうとするだろう。
狭霧蒼空の方は、政府に対して功績は無い。寧ろ、政府軍の兵を幾人も斬り殺した大罪人である。
その何れをも冴威牙は、政府軍に突き出し、己の延命を図ろうとしていたのだ。
それは、酷く短絡的な案であったし、冴威牙自身もその案の、不完全な事を理解していた。
冴威牙自身、政府軍の手に捕らわれれば、首が飛んで然るべき悪党である。ましてや部下達が、紅野と蒼空に向けたであろう仕打ちを考えれば、二人を生かしておけば、まず自分が生きる術は無い、と。
だが――
――口を閉じさせれば良い。
生きては居る。だが、何も言葉を発する事は出来ないし、文字を書く事も出来ないし、何も理解できないような――そういう有様にしてしまえば良いのだ、と。
冴威牙は、狭霧和敬が、密輸入した禁制の薬物を用い、人間を生かしたまま、その人格を破壊する様を見た事がある。
そこに、技は必要無い。ただ、人体に有害である薬物を、死なぬ程度の量、投与しただけであった。
そのように二人を壊し、その上で、二人を城から救い出したと言って、政府軍に降る。
それが冴威牙の、追い詰められたこの男の、最後の策であった。
地下牢を目指して階段を駆け降りながら、冴威牙は既に、部下達が皆殺しにされた事にも気付いていた。死臭と、臓腑を撒き散らされた腐臭は、階段の上まで漂っていたからである。
それさえも、好都合であると思った。
下手に口を滑らせる者がいないなら、自分の策は、成る可能性が増す、と。
かつては部下達を、己の群れを構成するものと見做し、兄貴風を吹かせていた男は、もはや面影さえ残さず憔悴していた。
そして冴威牙は、地下牢に降りた。
予想した通り、かつての部下達は無惨に殺されていたが、その血が届かぬ壁際で、少女が二人、身を寄せ合っていた。
すん、と鼻をひくつかせる。それだけで冴威牙は、既に亡き部下達が、この少女二人をどれ程に責め嬲ったか把握していた。
「おい、助けてやろうか?」
発した声は、意に反して震えていたが――それ以上に、人の声を聞いて、蒼空がびくん、と跳ねるように震えた。
姉の体にしがみ付き、顔を姉の胸の中へ押し付け、何も見ないように――怯えた子どもそのものの姿であった。
冴威牙は近づいて蒼空に手を伸ばすが、そうすると蒼空は、手足をぎゅうと縮めて、遮蔽物も無い空間だというのに、身を隠そうと足掻いた。
「外へ出るんだよ」
もう一度、発した声は、少し落ち着きを取り戻していた。
自分よりも何かに怯えた、惨めな存在を見つけたからであった。
弱弱しく怯え竦む体を、担ぎ上げて運び出そうと冴威牙が近づいた時――
すう、と静かに、紅野が立ち上がった。
「お――」
一瞬、冴威牙は後退し、両手を顎の高さにまで上げて身構えた。狭霧紅野が、妹程の怪物では無いにせよ、剣、槍から体術に至るまで一通り、達人の域に在る事を知っていたからである。
「――あははっ」
だが――その懸念を溶かすように、紅野は、笑っていた。
満面の笑み、であった。
幾年も恋い焦がれた待ち人に、とうとう出会う日の少女の顔――
或いは、遠く出稼ぎに出ていた父が帰ったのを、家の外で待ち受け、走り寄る娘の顔――
はっとする程に、その笑みに、邪気が無かった。
人はこんな風に、何も苦しい事など無いのだという風に笑えるのか――そんな事を、冴威牙は思った。
そして、紅野が両腕を広げ、無邪気な笑みのままで歩み寄って来た時、冴威牙は己の中で答えを出した。
もう、この女は、苦しい事なんか何も無いのだ。
老人が、呆けた頭で夢と現の境界を彷徨っているように、この女にはこの世の事が、もう何も分からぬのだ、と。
「よーし、ようし、良い子だ……俺がお前を助けたんだ、良いな?」
冴威牙は、子供に言い聞かせるような口振りをして、紅野を迎えた。
紅野は、真正面から冴威牙の懐へ入って、彼の首に両腕を回し、ぎゅうと抱きついて、
がぶっ。
冴威牙の首を、甘く噛んだ。
「……痛ってえな」
歯に、欠けたものでも有ったのか、軽く噛まれただけだが、僅かに冴威牙の皮膚に傷が付く。放っておけば直ぐに塞がるような傷だ。
姉を体に纏わりつかせたまま、冴威牙は、未だに顔を隠したままの妹の腕を掴もうと――
――おっ?
手が、何故か、届かなかった。
相手が動かずに居て、その腕を掴もうと手を伸ばしたというのに、冴威牙は明らかに目測を誤り、手に空を切らせたのである。
もう一度、手を伸ばす。
手が、蒼空まで届かない。
――何故だ。
腕が、伸び切っていなかった。
肘が、緩い角度で固まって、手の指も僅かに曲げられた形で動かせなくなっていた。
何かがおかしい。
そう気付いて、後ろへ下がろうとした。
脚の関節が正常に働かず、冴威牙は背中から、地下牢の床に倒れ込んでいた。
「……あぁ?」
その言葉を最後に、舌までが痺れ、動かなくなり始めた。
呼吸は出来る――かろうじて、である。
瞼も上下はするのだが、じれったい程に緩やかな速度で、眼球は乾燥した空気に晒しものにされる。だが、目に痛みを覚える事も無い。
仰向けに倒れ、呆然と天井を見る冴威牙。
その視界を、紅野の顔が埋めた。
「あいつらにさ、必死で懇願したんだ。殴らないでくれ、なんでもするからって」
紅野はもう笑っていない。
冴威牙の腹に跨り、胸の辺りに両腕を置いて支えとし、冴威牙の顔を真上から覗きこんでいる。
紅野は、大きく口を開いた。欠けの無い歯列の中に、一本分の空白がある。
かつて紅野が、己の身を捨てるような行為を取った時、波之大江 三鬼に殴られ、折れた歯であった。
その部位に紅野は、特注の差し歯を入れていた。
その差し歯が、冴威牙の首に突き刺さっていた。
「助かったよ。これが口の中で割れてたら、私がこうなってたとこだ」
紅野は、差し歯の内側に、強力な毒薬を仕込んでいた。
無論、小さな差し歯である。構造上、装着者の安全を図る為にも、そう大量の毒を仕込む事は出来ない。
十分な量を投与すれば、人の心臓を止めるに足る毒薬であるが、この差し歯に仕込む事が出来た量であれば、僅かな時間、身の自由を奪う程度のものでしかなかった。
その僅かな時間で、十分だった。
「蒼空」
「……ん」
いつのまにか蒼空は、無惨に潰れた死体の懐を漁ったのか、二振りの短刀を持って、紅野の横に立っていた。
それさえ感じ取れぬ程、冴威牙の耳も鼻も鈍麻していたのであるが、たった一つ、目と思考力だけは無事であった。
蒼空が、短刀を一降り、紅野に手渡した。
紅野はそれを受け取ると、逆手に握り、
「一緒にやるか?」
「ん」
双子は同時に、冴威牙の体へ――急所に〝当てない〟ように、短刀の切っ先を振り下ろした。
どちゃっ、と。
どしゅっ、と。
肉の筋が切れて、骨が打たれて、血がしぶいて、色々な音がした。
――誰か。
冴威牙は、声を出せぬままに吠えた。
――誰か、俺を助けろ。
答えるものは誰も居ない。
手に入れた全ては、一つ残らず失った。
自分は何処で生き方を間違えたのか――その問いを遂に与えられぬまま、数十の斬撃を受け、冴威牙は緩慢に死へ向かった。




