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最後の戦のお話(5)

 ――不覚であった。


 己への怒りを噛み締めながら、波之大江 三鬼は生きていた。

 〝揺鬼火〟の砲弾が直撃し、尚も命を保っている――このような生物は、他に類を見るまい。

 然し、無傷ではない。

 寧ろ、生きて歩ける事が不思議な程の傷を負っている。

 腹の肉がごっそりと抉られ、傷の周りは炭化する程の火傷――寧ろ炭化したが為に、血を流さずに済んだのやも知れない。

 無論、常人なら死んでいる。

 肉が抉られた時点で、まともな人間なら死んでいるのだが、それで生きているのが、この鬼であった。

 三鬼は、砲弾に跳ね飛ばされた後、落下した箇所から真っ直ぐ、二条城を目指していた。

 足を引きずり、傷を抑え、血混じりの息を吐きながらである。

 三鬼の心中に在るのは、ただ己への叱責と、数多の死者への弔意であった。


 ――申し訳が立たぬ。


 自分は、強い。

 己が無敵の存在であるなどという幻想はとうに捨てたが、客観的に見て、自分程の強さを持つ生物など、殆ど居ない。

 相手に武器を持たせて戦えば、この日の本に二人だけ、勝てぬ相手は居る――狭霧 蒼空と、雪月 桜と。

 だが、何も持たぬ一個と一個で向き合って殺し合うなら、その二者にとて勝つだろう。

 鬼とは、無条件の強者である。

 だからこそ、他の誰よりも勝ち続け、己の強さを信じた者達に答えねばならぬのだ。

 それが出来なかったから、波之大江 三鬼は悔いている。

 それが出来なかったから、波之大江 三鬼は己を責めている。


 ――だが、まだ動ける。


 それでも、三鬼は怪物であった。

 確実にその体が、死に近づいていると知りながら、求めたのは治療ではなく、次の戦場であった。


 ――必ず政府軍は、二条城の本丸に攻め込んで来る。


 狭霧和敬によって改築され、支配者の座す城として、より尊大さを増した二条城。

 本丸は高く作り替えられ、その最上階には天守閣を備えた、仰々しさの塊のような城。

 必ずそこに、狭霧軍の総大将――狭霧和敬か、〝大聖女〟エリザベートが居る。

 三鬼は、己の死に場所を、城門の前と定めた。

 幾千、幾万とも分からぬ敵兵が攻め寄せた時、城の前に一人で立ち、殺せる限りの道連れを伴って時間を稼ぐ。その間に、大将たる二人を落ち延びさせれば、己の勝ちである、と。

 未だに三鬼は、己の主は狭霧和敬であると、揺るぎ無い芯を持っている。

 人間として見るに、狭霧和敬は外道である。その事は重々に理解している。

 だが――その外道の手によって、日の本は強く生まれ変われるとも、信じている。

 三鬼の理想は、狭霧和敬が日の本を支配し、日の本が万天の覇者たる存在となったその時、彼が次代に後を託し、平穏無事に息を引き取る事であった。

 無論、その後の世界に、三鬼自身の居場所は、想定していない。

 外道に力を貸し、その享楽の為に人を弑し続けた鬼が、安寧の世に生きる道など無いのだと、三鬼は定めている。

 唯一の心残りは妻子の事であったが、思うより随分早く死が近づいて来た事で、不思議と開き直ったように、彼女達への執着が薄れた。


 ――強い女だ。


 自分が死んでも、妻は必ず娘を立派に育てるだろうと、三鬼は信じていた。

 そして、ならばその為に自分は、この残った命を使い切って、自分の信じる方法で、良き国を作ってやらねばならぬと――


「――我、護国の鬼とならん」


 己に言い聞かせた瞬間、三鬼の脚に力が戻る。

 いや――もはや死に近づいた体が、痛みを忘れさせただけかも知れない。

 何れにせよ、好都合であった。

 本丸の城門は大きく開かれ、その手前には、残り七百程の、拝柱教武装信者達が、死ねとの命を待ちわびている。

 重症を負った三鬼を見てざわめく彼等の隊列を、真ん中から二つに割って、三鬼は城内へと入った。

 何をするのか。

 主に、命を乞うのである。

 主へと預けた命を賜り、それを戦場に捨てる事の、許しを乞うのである。

 そして――城から抜け出すようにと、併せて願う。

 国外まで落ち延び、何処かでまた力を蓄え、再び立ち上がる機を待つように、進言する為に、三鬼は戻ったのだ。

 城内は、柱の軋みが聞こえそうな程に静かだった。

 端の一人に至るまで、逃げ出したか、兵士として戦場に出たか、人の気配が殆ど無かった。

 狭霧和敬はきっと、上階に居るのだろう。

 階段に足を掛けた時、三鬼の耳は、また別の音を捕えた。

 床の下――地下から聞こえる、人の声である。


 ――そうか、ご息女が。


 狭霧和敬が、娘二人を捕え、地下牢へと投げ込んだ事は、三鬼も当然ながら知っていた。

 三鬼は、昇り階段から足を降ろし、地下への階段へと向かった。







 地下牢への階段を下って行く。

 三鬼の巨体では、ぐうと上半身を撓めなければ、頭が天井を擦るような、低い作りの階であった。

 上手く上階から風を取り込めるような創りになっていて、空気は存外に澄んでいる。

 だが、光は無い。

 遥か下の方から光が立ち上って来るが、不規則に揺らめいている所からするに、松明か、蝋燭の灯りであろう。


 ――救わねば。


 死の足音は、先よりも明確に、近くに在る。だが三鬼は、残る命の幾分かを、罪人とされた二人の少女へ捧げんとしていた。

 これも天下の為なのであろうか。

 狭霧和敬とて、永遠に生きる訳では無い。

 寧ろ、狭霧和敬が暴虐の上に築く天下を継ぐ者として、彼の娘達もまた、生き延びねばならないと――


 ――否。


 否、否、否。

 その考えは、己への欺瞞である。

 これから死に逝く身が、壮大に天を想う余裕など無い。

 三鬼はただ、狭霧紅野と狭霧蒼空に、生き延びて欲しいと思っただけであった。

 娘を持つ父として、父に愛されなかった娘達に、せめてこれからは人並みに生きて欲しいと。

 牢から解き放った後、二人がどうするかは、知らぬ。

 父を殺しに向かうやも知れないし、手に手を取って、何処かへ落ち延びて行くのかも知れない。

 そのどれでも、三鬼は、許してやりたいと思った。

 〝そういうこと〟を望むのは、誰にでも許される事なのだと、教える人間の居なかった双子を、せめて自分だけでも許してやりたいと思ったのだ。

 三鬼は誰に咎められる事も無く、階段を下りて行った。

 見張の兵は居なかった――既に必要が無くなったのだろう。

 平時ならば、一足に跳んで降りる事も出来よう階段が、今はやけに長い。

 痛みさえ感じぬようになった体を、横倒しにならぬよう、三鬼はゆっくりと降ろしていく。

 そして――地下牢の階の、一つ上に辿り着いた時、三鬼は異変に気付く。

 牢から聞こえる人の声、人の気配は、二つや三つでは無く――落城寸前の城内には似合わぬ、一種の熱を持っているのだ。

 この熱を例えるなら、駆り立てられた獣の群れ。

 ねぐらを焼かれ、帰る場所を失った獣達が、人の集落目掛けて殺到するような、死に狂う者の発する熱である。

 酒の臭いも無いのに、酔人のような、意味を為さない喚きが聞こえる中に――退廃的な、凶行の臭いがした。

 三鬼の死に掛けた体は、目の前に残った段を全て一跨ぎに飛び降り、地下の最下層に降り立った。

 ずぅん。

 振動は地下牢を揺らし、開け放たれた格子が、ぎぃと悲鳴を上げる。

 その格子の向こうに、赤い羽織を纏った男達が、ぞっとする程醜い笑みを顔へ貼り付けて、十人ばかり群れを成していた。


「……あぁ?」


 彼等は一斉に、格子の外に立つ三鬼へと目を向けたが、それが誰なのかを見ても、何の興味も無いように、それぞれの行為を続けた。

 目が、死人のようだった。

 三鬼は、その目を見た事がある。狭霧和敬が、捕虜へ戯れに、とある薬物を投じた時、その捕虜が見せた目と同じであった。

 阿片よりもう少し性質の悪い、人を壊す薬物とだけ聞いた。

 彼等は、地下牢の床の一角にその薬物を広げ、時折手に掬い取っては、鼻から吸い込んだり、舌で舐め取ったり――


「っは、ああはっ、はっ、はははっ、ははっ、ははっ」


 そして、単調に、乾いた笑いを繰り返していた。

 彼等に意思は有るのか――それさえも定かでは無い。

 だが、何かを望む本能は残っていた。

 彼等は、不気味な笑いを上げながら、床に二人の少女を押さえつけ、かわるがわる二人に――

 暴行、と呼ぶべきか。

 それとも単純に、凌辱と言うべきなのか。

 いや――もっと、彼等の行為は醜かった。

 彼等は、自分達の輪の中では律儀に順番を定めながら、もはや抵抗も出来ぬ二人の少女を、狂った脳が求める欲望の捌け口として〝使っていた〟のだ。

 輪になって座った男達の肩の向こうに、三鬼は、二人の顔を見た。

 蒼空は泣き疲れ、涙の後を頬に残したまま、目を閉じていた。

 紅野はただ、天井の一点をじっと見つめて、時折何か、声に成らない呟きを零したり、小さく笑ったりしていた。

 そして、二人に群がる男達は、時折、それこそ獣のように低く唸り声を上げたかと思うと、急に物分りが良くなって、順を待つ次の男に場を譲るのであった。


「かっ――――」


 その時、三鬼が、何を言おうとしたかは定かでは無い。

 言葉が声に変わる前に、喉の奥で血と絡まり、終に意味を為す事は無かった。

 だが――三鬼の巨躯は、馳せていた。

 瀕死の体を突き動かしたのは、怒りである。

 何への――それも、何とも分からぬままに。

 ただ、確かに言える事は、少女二人を凌辱する男達へ、単純に発した怒りではなかったという事だ。

 その男達を通し、三鬼は万物へ怒り狂っていた。

 或いはその対象に、己さえも含まれていたかも知れない。

 万難も、理不尽も、それを既に溢れる程も備えたものにばかり降り注ぐ、世界の条理というもの丸ごとへ、三鬼は怒りをぶつけていた。

 があぁ。

 怒気を声にすると、そんな音になった。

 意味を成さぬ音と共に振るった腕が、一人の頭蓋を破裂させる。

 白い破片が突き刺さった脳漿を、三鬼は踵で踏み潰し、

 吠えながら、殴った。

 掴み、投げた。

 そのたびに男達は、麻痺した脳に何も感じぬまま、屍に変わっていった。

 そして三鬼もまた、彼等を殺す事に呵責を感じぬまま、感情に任せ、感情が命ずるままに――

 残されたのは、肉塊であった。

 頭を握りつぶされたものや、上半身と下半身が引きちぎられて分けられたもの、背骨が二つに折り畳まれたもの、何れも素手で、過剰な程の力を加えられて殺されている。

 戦場となった二の丸よりも尚、惨状であったが、三鬼はそれらを踏み越え、


「紅野! 蒼空!」


 二人の少女の名を呼んだ。

 紅野は、その名が誰であったかを思い出せないように、天井を見上げたままだった。

 蒼空は、その声が聞こえていないかのように、硬く目を瞑ったままだった。

 二人は、互いの背に腕を回すよう、正面から抱き合わされ、それぞれに手枷で拘束されていた。

 その枷を三鬼は、指先で摘むように破壊し、二人を自由にする。

 

「無――」


 無事か、と問おうとした。

 無事である筈が無い。

 昨夜、この牢に捕らわれてから、今に至るまで――恐らくは休まされる事も無く、嬲られ続けたのだ。

 単純な暴力なら、彼女達であれば、耐えられたのかも知れない。

 狭霧和敬はそれを知って、二人を最も苦しめる為に、禽獣へその身を下げ渡した。


「――――――」


 だから、三鬼は、無事かなどとは問えない。

 彼女達を貶めたのは、自分が与し、一身を賭して守った男なのだ。

 なんの咎無くこの世に生まれ落ちた二つの命が、母を奪われ、片割れを奪われ、今また自由と尊厳、自分の手に有って然るべきものを奪われた――

 その全てを命じた男を守護し続けたは、この波之大江 三鬼ではないか。


「――……じきに、敵勢が来よう!」


 三鬼は、それだけを言った。

 敵勢――政府軍が、もう直ぐ、本丸まで攻め寄せる。大罪人の娘とて、一人は比叡山の総大将を務めた身、酷く扱われる事も無いだろう。

 彼等が、お前達を救う。

 自分に許し得る言葉は、それだけだった。

 それだけを言い残して――死にかけた体を、階段の上へ押し上げ始めた。






 手足の全てを使い、巨大な獣が這うように、波之大江 三鬼は階段を上がった。

 三鬼が通った道程には、彼の巨大な腹腔から流れた血が、死への道標を描いていた。






 そこは、日の本の城にありながら、西洋風の洒落た部屋であった。

 汚れ一つ無い絨毯が、日の本の建材で作られた板の上に敷かれた廊下には、引いて開ける扉が幾つか並んでいる。

 二条城本丸、天守閣より一つだけ階を下がった、狭霧和敬の私邸とも言えよう空間。

 だがそこには、人間が生活しているという気配が、極めて薄い。

 一つには狭霧和敬が、華やかなこの空間よりも、地下に作らせた陰惨な拷問部屋を好み、そこで寝泊まりする事が多いからだ。

 この日は、高台より戦場を見渡す為、狭霧和敬は自ら、品良く飾り立てた一室に陣取っていた。

 三鬼がその部屋の扉を開けた時、狭霧和敬は長椅子に腰掛け、左腿の上に右膝を重ね、窓枠に肘を引っ掛け、頬杖を付いて座っていた。


「死体のような臭いがするぞ。とうとう死ぬのか、鬼殿よ」


 狭霧和敬は、三鬼に一瞥もくれぬまま、窓の外の光景を――遠くに折り重なる、大量の屍を眺めていた。

 その顔が、不敵であった。

 敗戦の最中に在りながら、己の負けを微塵も思わぬような――

 寧ろ、勝ち負けなど、この男の興味の中には無い。

 この男は、むごたらしい死が見られれば、それが敵だろうが味方だろうが、どうでも良いのだ。


「臭いからするに、一刻か、二刻か。いずれにせよ死に体の鬼が、なんの用だ」


 その物言いまで、酷く楽しげであった。

 この男を形容するに、どの言葉を用いるべきか、三鬼は遂に、妥当な答えを見つけられなかった。

 外道――

 適切であろう。だが、一代の英傑でもある。

 たった七百の兵と、守戦に向かぬ城一つだけを残され、二万――或いはその背後に控える数万の軍勢を敵としながら、この男は勝者の顔をしているのだ。


「……お逃げくだされ。ご息女を連れ、遠く、遠くまで――」


 もし――この男が、上手く二条城から落ち延びられたならば。

 三鬼は、瞬間、その光景を夢想した。大陸か、それとも南方の島国か、遠い地で力を蓄えた狭霧和敬が、海を埋め尽くす大船団を連れ、日の本を飲み込む様を――

 此の期に及んで尚、三鬼は、狭霧和敬を、強き国を作る男だと信じていた。

 その信は、死しても揺らぐ事は無いだろう。

 三鬼は、狭霧和敬を信じて命を預けた、その事を誇りながらに死ぬだろう。

 非道を極めた狂人でありながら、そうさせるだけの何かが、この男には有った。

 然し、それは、〝武人〟たる波之大江 三鬼の話である。

 武に生きた男が、己を恥じぬままに死んで行く事と全く矛盾せず、三鬼のもう一つの顔が、最期にずるりと、腹の傷から滲み出た。


「――……貴公の娘御達は、強う育ちましたな」


「あぁ?」


「刀として、槍として、たった一振りで、幾百もの人間を屠る――あれは人ならぬものの強さに御座る。疾く、吉野殿と併せ、手を携えて落ち延びられよ。貴公の後を継ぐ者として、否、貴公の成す天下を納める者として、教え導く事も出来よう」


 血を吐きながら、三鬼は訴えた。

 娘二人を連れて、逃げろ――逃げてくれ、と。

 訴求というよりは、もはや懇願である。

 父と、母と、娘二人、何処かへ逃れてくれと、請い願ったのだ。


「――く、はっ」


 狭霧和敬は、笑った。

 長椅子の上で体を丸め、腹を抱え、涙を流す程、笑った。

 三鬼の前で狭霧和敬は、誰も聞いた事の無いような大声で笑ったのだ。


「鬼殿よ、何を寝惚けたか、それとも死に惚けたか!? 今更忠臣面をして、俺に逃げろと唆すまでは良いが、あの玩具二つを拾って行けと!? あんな底の破れたずた袋胎が二つや三つや、十や二十も集まって、それで納まる程に矮小な天下か!? 十数年も使い古して壊れた道具だ、犬の群れに下げ渡してやった、後は知らん! 役に立つというなら戦の花向けに、野犬の精液に塗れた臓腑をぶちまけるがせいぜいだろうよ!」


 一息に言い放ち、笑い、喉をひゅうと鳴らして息を吸い、また笑う。

 この城へ籠城を決めてから、溜め込んだ衝動を全て吐き出すかのように――

 或いは、二人の娘が生まれてから今まで、溜め続けた思いを吐き出すかのように――

 狭霧和敬は、自分の娘を嘲笑った。

 それからやっと、空気の枯渇で目に滲んだ涙を拭いながら、長椅子の傍に置いた大鋸を手に、すうと静かに立ち上がった。


「……良いか、俺はな、もう〝あんなもの〟はどうでも良いのだ。欲しければ勝手に拾っていけ、だが俺に何を期待する! 獣の反吐より穢れた女が二頭、俺に何の意味が有る? 江戸の外れの枯れ藪で、四文銭で客を取る夜鷹にも劣る女が? 首を落として楽しめば良いか、腹を割って楽しめば良いか――そうだ、胎を割れば犬の子が入っているかもしれんな、それなら少しは面白いぞ! 母子並べてこの窓から吊るし、攻め手の頭に腐肉の汁でも降らせてやれば――」


 ずん。

 部屋が、まるごと揺れた。

 壁のある一面に、三鬼が拳を打ち、廊下が見える程の大穴を開けた音であった。


「――狭霧兵部!!!」


 唇も、歯も、血でどす黒く染めながら、三鬼は、主と定めた男の名を呼び捨てた。

 そして、巨岩の如き拳を、天井を突き破る程に振り被った。


「貴様、それでも人の親かああぁっ!!!」


 その両目から、血の涙が流れていた。

 悲しみでも無い。怒りでも無い。

 悔しいのだ。

 遂に己の切なる願いは、何も叶わぬまま、三鬼は死ぬ。

 大なるは日の本の、より強く、より大きく発展して行く事も――

 小なるはたった一つの家族が、人並みに幸福を掴み生きていく事も――

 そのいずれをも成せる力を持った男は、とうとう最後までその力を、不幸な人間を増やす事にのみ、注ぎ続けた。

 その力を御し、正しき道に震わせる事が出来たのなら――

 それが出来ぬ己の無力が、愚かさが、三鬼は悔しくて、血の涙を流した。

 拳が振り落とされる。

 瀕死とは言え、人間一人、容易く叩き潰す巨拳。

 届かない。

 三鬼の体が、後方に押され、揺らいだのだ。

 三鬼の懐に、狭霧吉野が飛び込んでいた。


「和敬様!」


 吉野は、顔を覆い隠す鉄兜を被っていなかった。

 白髪も、光彩異色の両目も、この女が、あの二人の少女の母なのだと、一目で分かる姿であった。

 だから三鬼は、拳を止めてしまった。

 吉野は、三鬼の胴体にしがみ付き、流れ出る血を全身に浴びながら、肩越しに振り向き、狭霧和敬を見た。

 和敬は長椅子に腰掛け、にいっと笑うと、


「死ね」


 親指を立て、その指を刃に見立て、喉を掻き斬る仕草をした。


「……はいっ!」


 そして――吉野は、手の中に、小さな火を灯した。

 皮膚を焼くのが精一杯の、か弱く小さな火だ。

 その火を吉野は、懐を開いた着物の、胸の中に抱き――


 光。


 衝撃。


 轟音。


 熱風。


 吉野は、爆ぜた。

 懐に抱いた爆薬に火を着け、波之大江 三鬼ごと、己の身を爆破したのであった。

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