血と満月のお話(4)
夜が明ける前に市中見回りの者達の手で、化け物二体の死骸は回収された。喉だけを的確に突かれた一体は、事態の収拾の為に首を河原に晒された。もう一体は、首から上があまりに無残な状況であった為、速やかに焼却処分とされた。化け物による殺人は、三名の犠牲者を数えるに留まり、一夜にして収束したのであった。
今、日は東の山から顔を出したばかりである。その光を背に受けて、桜と村雨は、西へと歩き始めていた。
「んー……もう少しちゃんとお別れとかさ、言わなくて良いの?」
「必要有るまい、永久の分かれでもあるまいに。それに、下手に顔を見せると土産をせびられる」
「あはは……神社巡りでもして、お守りでも買って帰る?」
眠ったのは二刻程だが、足取りは軽い。前夜の負傷は大きく響いてはいない様子で、村雨は両手を頭の後ろで重ねている。
「どうするかな、仏教徒に神道の品をくれてやるのはどうかと思うが……良し、十字架にしよう」
「尚更悪いと思う」
日の出と共に動き出す町は、既に賑わいを見せ始めている。人の流れに乗って、二人が向かうのは、東海道五十三次。品川宿の宿から始め、今日は程ヶ谷まで向かうらしい。ゆるりと脇道などして、道端の商店など冷やかして歩いても、日暮れまでには到着するだろう。別に程ヶ谷自体に目的は無いが、気を惹かれる物が有れば、少し長く滞在するのも良いだろう。旅とは自由なものなのだ。
「そう言えば、宿の方はどうする?」
「程ヶ谷だったら、安い宿はいくらでも見つけられると思う。細かい事を気にしなきゃ、十数文も有れば、屋根の下は借りられると思うよ。」
「いや、そうでなくてだな。私が言っているのは、近くに岡場所でもあるか、飯盛り女の質はどうかという話で」
「あんたちょっと黙ってろこのやろー」
桜の脛に爪先蹴りを入れつつ、村雨は背負っている荷物から、幾重にも折りたたまれた紙を取り出す。広げて見せればそこには、五十三次それぞれの地名に対応して、宿の名前が二つか三つは乗せられていた。
「……あのね、こういう風にちゃんと調べてあるの! そこに到着してから宿を探すなんて、時間が掛かって仕方ないでしょうが!」
出立が長引いた事を利用して、『錆釘』の資料から、評判の良い宿は見つけてある――評判の良い、そして宿泊料の安い宿を。ぱらぱらと捲って見せれば、今回は素通りするだろう川崎や神奈川まで、宿の名前が調べあげられていた。長雨などで道中を進む事が出来なかった場合に備えて、だ。
「おお……これは分かりやすいな、ふむ。わざわざ几帳面な事だ」
「旅の前って、普通はこういう風に、泊まる場所を決めておくものじゃないの?」
「知らん。少なくとも私は、その時その時の風任せだった」
「うん……まあ予想はしてたよ、なんとなく。桜って、計画性って言葉と縁が無さそうだもん」
はぁ、と小さな溜息。それも心底あきれ返ったという風情ではない。友人の戯言を皮肉で咎める様な軽い声だ。
えっほえっほと飛脚が走っていく。向かうのは東、桜達とは逆の方角だ。足元が草鞋でなく靴だった事から、おそらくは上方か、近くとも浜松から来たか、というところだろう。異国の空気を纏った飛脚を、村雨は何か、憧憬のような感情を抱いて見送る。
「一人旅かな、あの人?」
「だろうな、あれが生業なのだから。ゆうゆうと周囲の景色を楽しみ、女を楽しむ暇などあるまい。その点我々は――」
おかしな同情の視線を、桜は飛脚の背に向けていた。優越感混じりの表情が、なぜか非常に、村雨の癇に障った。
「そうそう、私との旅の間は女遊び禁止ね。財布は私が預かります」
「――んな、ぁ、んだとぉっ!? そんな、旅の楽しみの八割が……何も吉原と言っているわけではないのだぞ……?」
「あんたの頭はそれしか入っとらんのか! 今の手持ちだと、余計な事に使えるお金が少ないの!」
そう思った理由を、懐具合の寂しさから来るものだと、自分で自分に言い聞かせる。道中の宿代、食費の事を考えれば、豪遊する程の手持ちは確かにないのだ――が、二百文やそこらで買える安遊女なら、幾らか買った所で、然程影響も有るまい。桜の主張も、あまり間違っているわけではないのだ――根本的な部分から間違っている、という問題が有るが。
「とにかく、決定事項! 安全で快適な旅の為にも、無駄遣いは許されません!」
「ぐぅ……ええい、私は雇い主だぞ! 強権発動だ、雇用主命令だ、文句が有るか!」
「うぐっ!? こ、この、どうでもいい場面で余計な事を思い出してくれて……!」
村雨自身が半ば忘れていたが、この二人の間柄は、契約関係である。桜が金を出して雇い、村雨はその意向に従って働く。つまり、契約が継続している間、よほどの無茶でも無ければ、村雨は従う義務が有る訳だ。
「……で、でも、実際にお金が……」
「稼ぐ手段など幾らでもあるわ。肝心なのは、旅を快適なものにする事だと、お前自身が言っただろう?」
「ぐぐぐ……うぅ」
実際問題、桜ほど腕が立つのなら、道場破りでもして回れば、旅費に困る事も無いだろう。看板か金かと聞かれれば、武道家の意地、看板を易々とは降ろせない。本当に稼ぐ手段が有るからこそ、これ以上の反論が出来ず、村雨も言葉に詰まり――
「うぅー……あーもう! だったら好きにすればいいでしょー! その代わり、私と宿は別! 朝も自分で起きろ、寝坊禁止!」
――殆どやけになった様にふくれ、足音も荒く、桜を振り切って歩いていこうとする。
「おお、おいおい、待たんか。それでは色々と不便だろうが、合流するだけでも手間が……」
「うるさいうるさい、もう知らない! 好きなだけ遊んでくればいいじゃない!」
慌てた様に脚を早め、桜は村雨の横に並ぶ。だが、村雨は視線を合わせる事もなく、靴の先だけ見て早歩きに進んでいく。
「おーい……」
「………………」
「おーい、返事をしろー」
「………………」
「はぁ……分かった、分かった!」
桜が二度呼びかけて、どちらも返事が無い。三度目は声を掛けるのではなく、ぐいと腕を掴み、村雨を道の脇に引き寄せた。その時に村雨は初めて、あまり早く歩き過ぎて、先を行く荷車に突っ込み掛けていた事に気づく。
「初日の朝からそれでは私が持たんわ……お前の言うとおりにするから機嫌を直せ。な?」
引き寄せられて、村雨はふくれた顔を上げる。じっとりと湿った視線は、桜にある種の重圧を掛けていた。愛想笑いをしながら、眉の端が下がっているのは、困り顔の証だろうか。
「……じゃあ、約束は出来る?」
「神に誓って」
片手を掲げ、異国異教のやり方を倣った様に宣誓する桜。生活態度などを見れば、桜が神など信じていないのは窺える事である。
「信憑性皆無だよねそれ」
「だな、ならば何に誓えば良いのだろう」
大真面目な顔をして祈る相手を探している桜に、村雨も根負けしたのか、二度目の溜息をついた。脚を止め、適当な塀に寄りかかり、まだむすくれながらも桜を見上げる。
「自分と私に誓えばいいじゃない、旅の間は女郎買いはしないって……こんな事、女に対して約束させなきゃないっていうのがおかしいよね?」
「何をいう、同性を愛して悪い理由が有るか。良く言うだろう、ほれ、好きになったものはしょうがないと」
この国の価値観の外で育った村雨からすれば、同性愛というのは、それだけで不自然なものに思えている。悪い理由が有るかと問われれば具体例は無いが、然し良しとする理屈もまだ見つける事は出来ていない。だから、次に口にした言葉は、自分の価値観の変化に、自分でも驚かされるものとなった。
「そこは良いんだけどさー、もう少し一途になれないの? あなた、手当たりしだいって雰囲気だもの……群れを作らない動物は、一夫一妻が普通なんだよ」
「むぅ、一婦一妻か……定住も、道連れの旅も、これまで経験が無いのでなぁ……」
自分が問題にしたのが、桜が劣情を抱く相手が同性である、という点では無かった事。相手を一人と定めない点をのみ、口を酸くして指摘していた事を村雨は気付かされる。これを表には出すまいと、おかしな意地は張り続け――
「江戸には二年居たらしいし……大体、今回の旅は私が一緒じゃない」
「だなぁ、うむ……うん? ほうほう、成程成程……」
「……何よ、急に気味の悪い笑い方して」
我悟れりとばかり、目は平常の通りでありながら、口をぐうと歪めて笑みを見せる桜。村雨の背後から、肩に腕と首を載せるようにして纏わりつき、くすくすと喉を鳴らす。
「いや、お前も一人前に妬いてくれるのだなぁ……いい、可愛らしい事だ」
「ー―っ! 誰が嫉妬なんてしてるかぁっ!」
湯に通された海老の様に、村雨の顔が赤くなる。ひっつかれて暑いのだと、言い訳をする事も出来よう。だが、それだけの理由で無い事は、自分自身が理解している。
「はっはっはっは。さあて、のんびりと行くぞー」
「離れろ、暑い、重いー! っていうか黒服が暖まりすぎて熱い! 夏にこの服装おかしいでしょ!?」
道行く者は、姉妹の戯れの様に見て微笑ましさを感じたか、二人に妙に暖かい目を向けていく。それも気恥かしくて、じたばた暴れる村雨と、可愛い可愛いと繰り返しながら中々離れる様子の無い桜。
ここは東海道五十三次、その一番目、品川宿。川崎宿への道中を三丁進むまで、この騒々しいやり取りは続くのであった。