宴のお話(3)
本丸の外には、希望が待つ筈だった。然し、狭霧和敬はそれを、存在一つで断ち切る男であった。
彼の持つ刃――大鋸『石長』は、狩野と、それから幾人かの、真新しい血で濡れている。景気付けにか、誰かを切り捨ててから、此処へ来たもののようであった。
「たかだか三人の賊徒にも及ばぬとは、全く役に立たん兵士どもだ」
「……その三人の内の二人は、お前の娘だよ。どういう気分だい、賊徒の親」
「俺の教育が成功した、という証だな。何れも良い玩具に育った」
だが、と狭霧和敬は続けて、大鋸を高々と翳すと、
「玩具風情に、勝手に持ち主の元を離れる権利は無い――俺の娘のくせにまだ分からんのかあっ!!」
あまりに理不尽な怒りを、夜闇も震える程に撒き散らした。
狩野は、槍を杖にして立ち上がろうとし――その前に、紅野と蒼空の双子が進み出る
二人は既に、各々の得物を構えていた。
紅野は、雑兵から奪い取った無銘の槍が、二振り。
蒼空は、紫の刀身を持つ妖刀『蛇咬』。
三つの凶器が、父親の喉元へと向けられていた。
「おお、俺を殺す気か、親不孝者」
「……あんたは私達を、平然と殺すだろ?」
親しみなど一片も無いやりとりの後、僅かの膠着が有って――
ひゅおっ。
音と共に、蒼空が〝消えた〟。
瞬き一つの時間も経ぬ合間に、蒼空は狭霧和敬の背後に現れ――そして、和敬の首から、明らかな致死量の血液が吹き上がる。
だが。
和敬の首に食い込んだ刃は、そのまま、幾ら蒼空が引こうとしても、傷口に噛み止められ、引き抜けぬままであった。
「……!」
「ふん……痛みは消えんのか」
忌々しげに呟いて、和敬は背後へ振り向く。血は流れ続けるが、それが和敬の動きを鈍らせる事は無い。
あまりの異常に反応が遅れた蒼空の、刀を持つ手首を、和敬は両手でがっしりと掴んでいた。
「お前……! それは、エリザベートの!」
「そうだ、あの女の術だ!」
紅野は、父の身に起こった異変に見覚えが有った。
幾度殺そうとも、忽ちに身を復元する不死――〝大聖女〟エリザベートの〝奇跡〟である。それが狭霧和敬の身にも宿っていたのだ。
「……っ!」
蒼空が、掴まれた腕を振り払おうとする――相手が〝本来の〟狭霧和敬であるなら、振り解ける筈だった。
然し、手首に食い込んだ指はまるで剥がれず、そして両足も、地に根を張ったが如く動かない。
逃げられぬ蒼空の顔面目掛け、和敬は額を叩き込んだ。
ごっ。
と、えげつない音がして、蒼空の膝が揺れる。
「りゃあああぁっ!!」
その背後より、紅野が、二槍を携えて突きかかった。
左右の槍でそれぞれ、和敬の肩関節を狙う、腕の動きを殺す突き。傷口の中に槍の柄を残し、再生を阻害する狙いであった。
この突きを和敬は、半身になって片方だけ――右肩を狙ったものだけ躱した。左肩を貫いた槍は、切っ先が反対側の首から突き出す程に深く突き刺さったが、然し和敬の命を奪うには至らず、
「そら、くれてやるぞ!」
「え――っ、がっ!?」
そして和敬は、自由な右手で蒼空の髪を鷲掴むと、紅野目掛けて投げ飛ばした。
人間一個が、矢のような速度で飛ぶ。受け止めた紅野は踏み止まれず、蒼空と縺れるように、地面に倒れ込む。
すかさず、二つ重なった体の上――蒼空の背を、和敬は体重を乗せて踏みつける。
「捕えろ! ……おい、紅野。下手に動けば、妹の首が落ちるぞ」
「ぐっ……こ、このっ……!」
そして、城内の兵に命令を下しながら、手にした大鋸の刃を蒼空の首に当て、皮膚一枚が切れる程度に喰い込ませた。
蒼空は未だに、顎を打たれた衝撃が抜けず、意識が朦朧としたまま――逃げる事も、抗う事も出来ない。
僅かにでも希望を探ろうと、紅野は、視線を横へ走らせた。
視線の先では、膝を斬られて立ち上がれぬ狩野 義濟が、十数人の雑兵の棒に打たれ、縄を掛けられていた。
「後、僅かだった、とでも思ったか?」
嘲りをたんと滲ませて、和敬は紅野を見下ろし、笑った。
鉄兜の側近――吉野が其処へ近づいて来て、蒼空と紅野を、折り重なったままに縄で縛り上げる。
それから吉野は、二人の首筋に、一度ずつ針を刺した。
紅野を捕える折に用いた麻薬より、幾らかは薄い――意識は残し、体も動かせぬ事は無い程度にのみ、自由を奪うような代物だ。然し、縄を掛けられた二人には、その程度の薬でも、十分以上に拘束力を発揮した。
「生憎だが俺はな、そういう願望を圧し折るのも大好きなのだ」
揺れる視界に、紅野は、己が引きずられて、何処かへ運ばれて行くのを感じ取った。
狭霧和敬の高笑いを聞きながらも、喉も引き攣り、思うように声が出ないが、
叶うのならば、悔しいと泣きたかった。
二条城の、内庭の一角にて、宴が開かれていた。
遠巻きとは言え、政府軍に包囲された城。その中で反逆者が行うものとはとても思えない程、悠長に用意された宴である。
楽器の数こそは少ないが、優美な音曲が朗々と奏でられている。
戦場の如き陣幕に、飾り布が被せられ、それが松明の灯りで照らされ、絢爛の花の如くに浮かび上がる。
美食を尽くした膳が幾つも並べられ、その前には、狭霧和敬の子飼いの兵や将、更には、彼と通じたが故に政府軍へ戻る事も出来ぬ朝臣などが座していた。
無論、冴威牙や紫漣といった、ならず者崩れの私兵までが居る。此処に居ない者を数えるなら、たった一人、波之大江 三鬼のみ、城外に陣を敷いている為、不在であった。
「よう、時勢を読み損ねた馬鹿ども」
狭霧和敬が彼等へ向けた第一声が、それである。
つい数日前まで、政府軍の指導者であった彼は、今では全く無官の罪人と成り果てた。それでも尚、この男は、未だに上座で膝を崩しているのであった。
「愈々、お前達の死も間近だな。道連れが欲しいか、それとも助かる術が欲しいか?」
自軍の敗戦を心から愉しむように笑いながら、まだ望みがあるかの如き口振りで言うのである。
事実、彼はまだ、己が完全に負けたなどと思っていない。寧ろ、これから勝つ為の手筈を整えているのだ。
「まあ、飲め飲め、大いに食え。今宵は面白い見世物を用意してある」
その中で〝余興〟を味わおうという余裕さえ、彼には有った――己の娘を道具として。
彼は背もたれ替わりに、捕えた娘二人を使っていた。
紅野と蒼空の二人を華々しく着飾らせ、その両腕をお互いの背に回させて、手首を鎖で繋いでいる。あたかも二人が互いを慈しみ、抱擁し合うかの姿での拘束であった。
そして――座に囲まれて広く取られた空間に、槍一振りを持たされた狩野 義濟が、繋がれもせずに投げ出されていた。
こういう光景を見せられれば、何が起こるのか、狭霧和敬の部下にはもう見当が付いている。気紛れな、残酷な座興が繰り広げられるのである。
それを止めようという骨のあるものは――とうに生き残ってなど居ない。
「運んで来い」
ただ唯々諾々と、狭霧和敬の命に従うばかりの兵士達は――この狂宴の場に、年端もいかぬ子供達を引き立てて来た。
「くっ……外道と言えど傑物と思っていたが、ただの無益な外道に堕ちたか、狭霧和敬!」
膝を斬られた狩野は地に座したまま、槍をかざして吠える。
引き立てられた子供達――彼等は皆一様に、薄汚れた服を着て、疲れ果てた顔に怯えの表情を浮かばせていた。何処かより捕え、このような機の為、留め置いたものであろうと伺い知れた。
幼く弱き者への無道に、狩野は怒りを露わにする。然し、怒りが彼の脚に力を与える事は無く、
「何を今更。とうに知れた事を、大仰に喚くな」
狭霧和敬は、狩野の叫びを一笑に付すと、大鋸『石長』を手に立ち上がる。
引き立てられてきた子供達は三十人ばかり、上も十二か十三、下は五か六か――その中で、特に幼い一人を選んで、首を掴んで宙吊りにすると、
「遊戯を始める。こいつらを生かすも殺すも貴様次第だ、狩野 義濟」
宣告しながら、その子供の腹に大鋸を当て――真一文字に引き斬った。
背から断てば、直ぐにも死んだのだろうに、痛みこそあれ直ぐには死なぬ腹――もだえ苦しむ幼き哭声は、地獄の顕現したが如き惨劇である。
その声を、血飛沫を、心地良さそうに浴びた狭霧和敬は、また別な子供を捕まえ――
「これで、あの男を刺せ」
と言い、子供の手に、短刀を押し付けたのである。
今宵の趣向は、そういうものであった。
「止めろっ! 止めろ――義濟、逃げろっ!」
拘束されたままの紅野が叫び、鎖を引き千切ろうとするが、まだ薬物の抜け切らぬ体では立つ事もままならない。それに目もくれず、狭霧和敬はこう続けた。
「一人、三度だ。三度、狩野 義濟を刺す事が出来たら、生かして帰してやる。……そして当然だが、狩野 義濟にも反撃を許す。俺は公平な男でな」
そして、短刀を持ち震える子供の耳へ、にたりと笑みを貼り付けたままの口を近づけると、
「なあに、子供の力で刺す程度なら死なぬさ。たった三度、腕か脚を刺せば良いだけだ――なぁ?」
と唆して、背を強く叩き、押し出した。
「あのように死にたくは無かろう?」
割られた腹から臓腑を巻き散らし、だがまだ辛うじて息がある幼い体――それを見せられて、幼い子供に、道を選ぶ力など残りはしなかった。
泣き喚きながら、短刀を持ち、駆け寄ってくる子供。狩野 義濟は、逃げろと叫び続ける紅野の声を聞いたが、
「……それは出来ない」
両手を広げて、ただ、刃が届くのを待った。
そして、それが幾度も繰り返された。
最初の刃が突き立った時、狩野は、この痛みは耐えられると、己に確信を抱いた。
腕の肉を浅く抉る刃――これをたった三度繰り返せば、一人、誰とも知らぬ子供の命が助かる。
高い買い物か? そうでないのか?
狩野は、極めて安い買い物だと、認識していた。
狩野 義濟は、直情にして正義心に満ちた男である。
その素性を知らずとも、子供である――弱者であるというだけで、無条件に、彼等を救わねばならないと思っている。何故なら、自分は強いからだ。
強さとは、単純に、肉体の強弱だけを指す指標では無い。
恐怖を前にして踏み止まれるか否か――心根の強弱をも、現すものだ。
これから、己の肉を抉る苦痛が、数十度も繰り返されると約束された。だがそれは、狩野の心を殺すには不足の刃である。
寧ろ狩野は、子供達の心をこそ、案じた。
最初に短刀を握り、狩野の腕を一度抉った子供は、他者を傷つけた事の罪悪感と、噴き出す血の恐怖に、身をすくませてしまったのである。
「どうした、刺して来い!」
すると狩野は、努めて平時の如き底抜けの明るさを取り繕いながら、腕を曲げて力瘤を作り、それをぱぁんと叩いて見せたのである。
「え、あっ……?」
「君の力で三度刺そうが、三百も刺そうが――この狩野 義濟、それで死ぬような男じゃあないっ!」
狼狽する子供の前で、動かぬ脚は胡坐に組み、槍を地に置いて、狩野は堂々と胸を張った。
「で、でもっ……でもっ!」
「何を恐れる事がある! 柄を握って、刃は真っ直ぐに向けて、ただ二度、刺して引くだけだ! それだけで命が助かるというなら、そうしない理由があるかっ!!」
更には、怯えて動かぬ子供を叱咤する。
自分を刺せ、と。自分が助かる為に、他人を傷つけろ、と。本来、それは、決して褒められるべき教えでは無いのだろうが――
「さあっ! 来いっ! ……来るんだっ!!」
「う――うっ、うああああぁっ!!」
有無を言わせぬ迫力、気迫が、狩野の声に込められていた。
更に二度、狩野の腕を抉る刃。痛みはまだ、使命感と昂揚に紛れて薄れていた。
「よーし、良くやった、次っ! 誰でも来い、この僕が受け止めてやろうっ!!」
立つ事も出来ず、武器も持たず、拳足の一つとて振るわぬが――これが狩野 義濟の、最期の戦であった。
「おお、頑張るものだ。どれだけ持つと思うね、どう思う」
「さあ……あと数人、持てば良い方かと」
返り血が浴びる程の至近距離で、狭霧和敬が、惨劇を観賞している。その傍らに立つ側近、吉野が、冷淡に状況を評している。
やっと数人が、狩野の体を抉った。
十数箇所の傷口より血を流しながら、未だに狩野は、普段通りの自信に満ちた笑みを崩していなかった。
だが――既に狩野は、己の計算が甘かったと、思い違いを知らされていた。
子供の力とは言え、肉を切り裂かれる苦痛が、もう十数度も訪れた。傷口の全てが、発火したような熱を持ち、一瞬と休まず、痛みを狩野に訴えている。
痛みは、累積する。
先の一度より、次の一度。その次の一度。突き刺される度、体を苛む痛みの総和は、留まる所を知らずに拡大していく。
激痛という言葉も生温い痛みは、果たして、あとどれ程に繰り返されるのか。
「……っ、次っ! さあ、次だ、来いっ……!」
まだ、短刀を握っていない子供は、二十人以上も残っていた。
先の一人が終わり、今度短刀を握ったのは、髪のやけに短い少女であった。恐らくは捕えられた後、戯れにか、斬り乱された髪であろうと見えた。
ざぐっ。
血の油がこびり付き始めた短刀は、始めより些か切れ味が鈍っていたが、狩野の大腿に沈み込んだ。
「ぐっ……!」
思わず苦痛に呻き、咄嗟に狩野は、手で口を塞ぐ。
聞かせてはならない――子供達にも、紅野にも。己が苦しんでいる事を、知らせてはならない。それが自分の勤めだと、痛みに泣く四肢に言い聞かせる。
「さ、さあ……あと、二回っ!!」
二回――では無いのだ。
残り、六十回以上。
確約された痛みは、まだ、まだ長く続く。
だが、痛みは、恐れるべきものではなかった。
狩野が恐れたのは、痛みに負けて道を違える自分であった。
また一度、体に刃が迫る。
皮膚が斬られる瞬間に、まずは小さく鋭い痛みが、先触れとして伝わって来て――直ぐにも、筋肉がぶつぶつと立ち切られる、鈍く熱く、激しい痛みが訪れる。
刃が引き抜かれれば、傷口に、風や汗や、他の傷口から流れた血が流れ込む。そしてまた、呼吸で上下する肩の動きさえ、傷口を震わせ、びりびりと焼かれるが如き苦痛を残す。
その全てを、狩野は、余裕の笑みと共に耐えねばならなかった。
誰に命じられた訳でも無いが、それが己に課した義務。強く育った自分は、まだ育たぬ子供達の枷となってはいけないと、己へ命じるのである。
血が失われ、視界が揺らぎ始めるが、然し目に映ったものが何であるかを見紛う程には、正気を失っていない。
彼の目に見えるのは、安堵のままに立ち尽くす子供の顔、或いは皆が〝それ〟を終えて行くのを見ながら、出来る筈だと自分を奮い立たせる子供の顔、或いは――固く目を閉じ、時折呻くように「やめろ」と声を発するだけになった、紅野の顔であった。
――心配するな。
胸を叩こうとしたが、腕が思うように動かず、声も出ない。だが、狩野は確かに、内心でだが、そう呟いた。
それから――どれ程の時間が過ぎたものであったか。
幾度と無く狩野 義濟は、己の決断を後悔し、迫る短刀を槍で打ち払おうかと、気の迷いを起こした。
その度に、歯を食い縛り、爪を掌に突き立て、己の愚考を罰する。
そうしている内に、爪が何枚か剥がれた。強く噛み合わせた奥歯が、咬力に負けて根から折れた。
然し、合せて九十以上の短刀を身に受けながら――狩野 義濟は、まだ生きていた。
「は……はは、はははっ……っははははは、はっはははははは……!」
笑う。
気がふれたのではない、誇らしいのだ。
無限にも思える程に繰り返した苦痛を、遂に耐え抜いた事――誰とも知らぬ子供達の為に命を賭けようとした、自分の意思を曲げなかった事が、だ。
きっとこの体は、もうすぐ、動きを止める。
然しその前に、確かに自分は、この戦に勝ったのだと――狩野 義濟は、勝利を誇るように笑って、それから槍を杖に〝立ち上がった〟。
「おおっ、見ろ、吉野! 立ったぞ! 馬鹿は凄いな、道理が通らぬ事をする!」
膝を斬られ、多量の血を流し、今にも息絶えんばかりの姿で、狩野は歩いた。
槍を杖にし、距離にすれば僅かに一間も無い所にいる、狭霧和敬へと向かい、歩き、
「……は、は……ぁあああああああぁっ!!」
槍を振り翳し、狭霧和敬の心臓目掛け、思い切り突き出したのである。
その一撃は、届いた。だが、如何なる術か、不死の法を得た狭霧和敬は、僅かにも揺らぐ事無く、棒立ちのままであった。
「殺してやらんぞ、俺は」
惨酷な追い打ちは、刃では無く、言葉である。
「お前が最後の力で暴れようが、俺はお前を殺さん。お前はあの餓鬼共の刃に刺され、あ奴らの手で死ぬのだ。あ奴らは皆、お前を殺した事で命を得たと、これから死ぬまで、己を苛み続けるのだ。
いや然し、良い見世物であったぞ、狩野 義濟! お前がよもや、俺をこれ程に愉しませてくれる忠臣であったとはなぁ!!!」
狩野の最後の望みは、狭霧和敬が言い当てたように、敵の手で死ぬ事であった。それも見透かされ、嘲笑われながら、然し狩野は、どうしようもなく〝狩野 義濟〟であった。
「紅野、すまない……! し、幸せにっ、幸せに生きてくれっ!!」
ひゅう、と風を撒き、翻る槍の穂先。赤々と咲く、血の大輪。
狩野 義濟は己の心臓を、自らの手で貫き、果てたのである。
その凄絶な死を、愉しむは狭霧和敬ばかり。側近の吉野でさえが気取られぬように、そうっと目を背ける程であった。
「あ……ぁ、義濟……ぁ、ぁ、あぁぁ、義濟、おい、義濟……!」
紅野は、鎖で繋がれた両手首を、届かぬと知りながら、血の中へ伏す体へ伸ばした。
微笑みを浮かべた死に顔は、血を失い、白く変わり果て――腕も脚も、傷の無い部位は、一つと無い。
羞恥に頬を染めるような美辞麗句も、余人には笑い飛ばされるばかりの大言壮語も、もう二度と奏でられる事は無い。
己に生きる意味を見出させた男の、無惨な亡骸が、そこに無造作に、落ちていた。
聞く者の耳から浸み、脳裡に毒となり突き刺さるが如き声が、宴の場に響いた。紅野が身を捩り、天を仰ぎ、言葉さえ失って発した、悍ましき咆哮であった。
全ての希望を失った人間の、断末魔の声。
理知ある人ならば、誰をも震わせる叫びを背に、狭霧和敬は輝かしく破顔し、己の座へ戻った。
「余興は終いだ! その屍を片づけろ!」
引きずられ、人であった事さえ忘れられたように扱われる亡骸へ、既に狭霧和敬の興味は抜け落ちていた。
彼の脳裏を占めていたのは、次の惨酷事は何が良いかと、ただそれだけで、
「冴威牙! 先の戦の褒美を取らす!」
「……おう」
次いで呼ばれた名と、褒美という言葉に、満座がざわめいた。
先の戦の結果を見れば、数千の軍勢を動員しながらの大敗である。褒美と称しながら、大将を務めた冴威牙に、罰が与えられるものと、誰もが思っていた。
だが――狭霧和敬は、まだ、己が負けたとは思っていないのだ。
名を呼ばれ、座から進み出た冴威牙の横へ立った狭霧和敬は、妙に浮かれた様子で、冴威牙を上座へと促し
「冴威牙。狭霧の家に、婿に入れ」
「……は!?」
答えを待たず、冴威牙を、自分の隣席へと座らせた。
「俺もそろそろ、孫の顔を見たいと思ってな。だが、どうにも俺の娘は、良い歳にもなって姉妹離れが出来ておらんようだ。引き剥がすのも不憫だろう、どう思うね」
「………………」
さしもの冴威牙も、己の理解を越えた問いである。何も応えられずに居る内に、手に持たされた盃に酒が注がれる。狭霧和敬、手ずからである。
「本妻は紅野にしろ、蒼空は妾でいい。来年には孫の顔を見たい、善処しろ」
その時――冴威牙は漸く、この男が己に何を望み、何を求めているかを悟った。
成程、褒美ではあるのだろう。だがそれ以上に、この処遇は、二人の少女への責め苦であった。
己の血から生まれ、別々に育った少女二人を、決して殺さぬように苦しめる事を、狭霧和敬は望んでいる。
自分はその為の道具であると知った冴威牙は、注がれた酒をぐいと飲み干すと、
「……応よ、親父」
「せいぜい励めよ、婿殿」
顔に浮かぼうとする表情の全てを噛み殺しながら、次の酒を強請り、飲む。
その背後では、抱き合うように繋がれた紅野と蒼空が、吉野の手で軽々と担ぎ上げられ、何処かへと運ばれて行った。




