宴のお話(2)
陰鬱たる牢の隅、虚ろな目のままで横たわる少女――それが狭霧紅野であると、狩野はにわかに信じられなかった。
自分より幾つも年少でありながら、何千という命を背負って、実の父親に槍を向けたのが、狭霧紅野だ。華やかさは無いが強く、真っ直ぐな、つや消しの黒鉄の如き少女であった。
それが、見る影も無く折られている――狩野は、怒りとも呼べぬ感情の燻りに、握り拳を震わせた。
彼女の身に何が起こったのか、真実を狩野は知らぬし、だから誰にこの感情をぶつけて良いのかも分からない。然し激情が生むひりつく熱さは、間違いの無い真実であった。
「副隊長、僕だ! この僕が助けに来た、さあ立ち上がるんだ!」
己の想いに潰されぬよう、狩野は声を張り上げながら、鉄格子に拳を打ち付けた。がん、と鈍い音がしたが、それは牢の闇に溶け、たちまちに霧散してしまった。
紅野は応えない。
壁を向き、横たわり、ただ呼吸を繰り返している。
狩野の声が聞こえているのか、聞こえていないのかも定かではないが――いや、聞こえてはいるのだろう。然しその声が、心を揺さぶる事は無い。
――興味が無いのか。
紅野の気性は、狩野が最も理解している。
自分を、五体全て道具と認識し、目的達成の為に〝使い潰す〟少女だ。彼女に、〝道具は大切にしろ〟と説いたところで、心にどれ程響くだろうか――それよりは、
「僕達は勝った、比叡山の民草は解放された、君の成果だ!」
――こう言えば、動くか。
狩野の読みは当たり、紅野はまた寝返りを打って、牢の外の狩野へ、憔悴した顔を向けた。
捕らえられて日はそう過ぎていないが、顔色が白く、目の下の隈を目立たせている。眠りも喰いもせず、ただ呼吸を続けるだけの在り方が、表情に浮かび上がっているのだ。
それでも、紅野は、唇を動かした。
数日使っていなかった喉が、声の出し方を思い出すまで暫し掛かったが、
「……そ、か。勝った、のか」
か細く、だが自分の言葉を噛み締める声であった。
「そうだ、勝ったんだ! 大陸の十字教徒が、拝柱教を教敵と認めた! 新型の銃を持った援軍が数百と、それに、錦の御旗――正義が、僕達に味方した!」
「はっ……遅いよ、あいつら……」
端から、己らの力だけで、比叡山の包囲網を解ける筈は無い――それは紅野こそが、最も深く理解していた事だ。その打破の為、国内に居る十字教徒の、本国でもそれなりの力のあるものに働きかけていたのだが、返書が届く事は無かった。比叡山の防壁と、包囲網の分厚さが為である。
だが、届いていた――救援の要請は届けられ、そして派兵された援軍の到着まで、比叡山は落城を免れた。
「よかった……」
紅野は、疲れ果てた目を腕で覆い、長く嘆息するように息を吐いた。余人なら見落とすだろう口元の微笑は、蒼空さえ差し置いて、狩野だけが見出していた。
道具の本懐は、目的を果たす事。比叡山の死守という目的を果たしたと聞いて、紅野は僅かの安息を手に入れ、
「じゃあ、もう私は要らないな」
少しだけ明瞭になった声で、他人事のように、そう言った。
「要らない、だって……?」
「ああ。包囲が解けて、官軍の名も得て、国外からの援軍も得て……そうなりゃ、私みたいな小賢しい指揮官はいらない。これからやるのは戦争じゃなくて政治、攻防じゃなく復興だろ? だったら私の出る幕は無いし……」
「………………」
「疲れたんだ、もう」
微笑を浮かべたまま、紅野は語り続ける。掠れた声も、喉が力を取り戻し、はっきりと聞き取れる声になり始めたというのに、紅野が零す言葉は、希望ではなく、弱音だった。
狩野には、彼女の心が痛い程に分かった。
隣に立ちながら、重圧を幾らかでも引き受けながら、彼女が背負うものはまるで軽くならないと、肌で感じながら戦って来た。だからこそ、紅野の見せる弱音が、己を苛む針にも思われるのだ。
「味方を死なせながら敵を殺すのも、実の親と殺しあうのも、もう疲れた。どうやれば守れるかって昼も夜も無く考えて、それが全部無駄になるのも、もう疲れた。自分が役立たずだって見せつけられながら、それでも頑張るってことも、疲れた……どうせなら私は、もっとはっきり無能に生まれるか、飛び抜けた天才に生まれてりゃ良かったんだ」
人よりは強く――だが、人の域から抜け出せなかった凡人の、本心の吐露であった。
生きる事に倦み、苦しむ事に飽き、もはや死をも厭わない。不要になった道具を、投げ捨てる事を躊躇わぬように。真っ直ぐ伸ばされた救いの手も、今の紅野には、苦痛を長引かせる毒でしかないのだ。
「……早く帰れ。蒼空が居るなら、この城も出られるだろ」
「っ……!」
狩野は、軋みを上げる程に歯噛みし、己の不明を恥じる。
力になる、守ると定めた年下の少女を、此処まで言わせる程に疲弊させ――その上で更に、己は身を気遣われたのだ。
「恥じて顔を伏すのは、僕の為にしかならない」
「……あぁ?」
「けれど、それならそれで良いっ!」
狩野はその場に座すと、額を、床に擦り付ける程も下ろして、
「すまなかったっ! 何も力になれなくて、変わってやれなくて、役に立てなくて……!」
がっ、がっ、と幾度も床を、額と拳で打ちつけながら、絞り出すような声で、紅野に詫びた。
頑強な体が為か、額は傷付かず、寧ろ床板がぎぃぎぃと軋み、小さな木片が飛び散る。それに構わず狩野は、繰り返し、詫びの言葉を続けた。
「……おい、止めろよ、みっともない」
「いいや、こうしなければ気がすまない、こうしなければ二度と君の顔を見られないっ!」
がずっ、と、強く一撃。凹んだ床に額をめり込ませ、ようやく狩野は止まった。だが、顔は上げないままだ。
「本当にすまなかった……二度ともう、君一人を苦しませないから……頼む! 副隊長、僕と一緒に来てくれ。君はまだ生きるべき人だ、生きていいんだ、生きてくれ……!
槍も格技も、学識も、君の力を必要とする場所が無数に有る! 比叡山を守り抜いた経験を、必要とする者が幾らでも居る!」
「……そりゃ、買い被りだよ。もう私に出来る事は無い」
「いや、まだ有る、一つ有るぞ! まだ君が初めてさえいない事だ……!」
紅野はとうとう、牢の外に背を向けて、また床に横たわった。
背後からの声も、聞こえては居るが、応じる為の心は動かない。床板の軋みや、上階からの隙間風と同様の、些事に成り果て――
「それは! この狩野 義濟の妻として、世に光を照らす事だっ!!」
「……は?」
た、筈だった。
然し狩野の愚の程は、常人の域には無かったのである。
「……はあああああぁっ!?」
「何を驚く事があるんだ! 類稀な美青年に美少女、剛勇の士と知勇兼備の将、釣り合いなら取れているだろうっ!」
「いや、違――意味分かんねえよっ!!」
あまりに場を弁えぬ狩野の言葉には、もはや体を起こす気力さえ失っていた紅野が跳ね上がり、鉄格子まで詰め寄ってくる程であった。
拳が届けば、殴りつけていたのかも知れない。
然し殴られたところで、この愚かな男は、口を閉ざしはしなかっただろう。
「意味など必要無いっ! その羚羊が如き四肢も、内に秘める魂の実直なるも、広くは国を救う義心、狭くは民草を見捨てぬ侠心、面貌の傷さえもそのかんばせに有っては、麗しき眉目を飾る化粧と――」
「あー、あー、止めろっ! むず痒い、傷がむず痒くなるっ!」
両手で耳を塞ぎ、長い白髪をばさばさと振り乱し、紅野は美辞麗句を止めさせようとした。無論、無駄な努力であった。
狩野の語彙と呼吸が途切れる頃には、食事不足で白くなっていた顔は、耳まで赤く染まっていた。
「……お前、何時からそんな風に私を見てたんだよ」
「忘れた! 最初は同胞として、槍術魔術の技量に惚れた! けれど今では、異性である君に惚れている! 何処で変わったかは分からないが――少なくとも今、僕はそう思っている!」
喚き疲れたか、鉄格子に背を預けて俯く紅野。その傍に、格子越しに狩野は寄り添った。
「君が命を要らぬというなら、君の命を僕にくれ。今度こそ、君一人に重荷を預けたりしない。全ての難事には僕が当たろう、君は後ろで見ていてくれ!」
格子の隙間から、紅野の肩へ回される腕。紅野は弱々しく、手でそれを払いのけようとし――遠慮の無い腕の力に負け、抱き寄せられる。
「……私、今年で十七だぞ。お前、幾つだよ」
「二十六、いや二十七だったかも知れないが、なあに! 君より十年だけ長生きする自信はある!」
「だいたい、なんで私なんだ……他に幾らでも選びようが有るだろ……」
「選んだからこそ、君なんだ!」
「じゃあ選び方が間違ってるんだよ!」
「いいや、それは無いっ! それだけは誓って、絶対に無いと言い切れる!」
ふっ、と、紅野の膝から力が抜ける。狩野の腕は格子の隙間から、彼女が倒れないように抱き支えた。
力強い――だけではない。放さぬと、込められた力が告げている。
「……お前は馬鹿だ! とんだ大馬鹿だ!」
紅野は、その腕に爪を立てた。
血が滲む程に突き立てても、腕は揺るぎもしない。
狩野 義濟という人間が、己の全てを無償で捧げた証が、その腕である。
「ああ、底抜けの馬鹿だ! だが、この馬鹿は、君を心から愛している!」
天地に恥じるところ一つと無く、この愚者は愛を叫ぶのであった。
その時、ひょうっ、と、地下の牢に風が吹いた。途端、牢の鉄格子の上端と下端が、壁面から切り離される。
狭霧 蒼空の剣閃によるものであった。
刀の一振りで、事も無げに鉄格子を切り落とした蒼空は、何時もの放浪と同じ足取りで牢に入り込むと、紅野の右手と、狩野の左手を掴み上げ、手を繋がせた。
「……ん」
「お――おっ? 何だ、君も祝福してくれるのか! 僕達の新しい門出を!」
「そ、蒼空、お前なぁ……」
硬く、がっしりと、指と指を絡めるように繋がせて、更にその二人の手の上から、自分の手でぎゅうぎゅうと圧を掛けて。これで離れぬと、満足気に頷くや――
「……そやーっ」
と、気の抜ける掛け声と共に、思い切り紅野の背中を突き飛ばしたのである。
「っ!? う、お、わあっ!?」
「むっ、むむ――ぅおおおっ!?」
完全に不意を打たれた紅野は鼻から、手を繋いだままで引っ張られた狩野に至っては頭頂部から床へ接触した。
掛け声の脱力ぶりとは裏腹、神域の剣技を生む蒼空の腕は、人間二人を吹っ飛ばすに十分な力を発揮したのである。
「い、ったぁ……何すんだ、お前……ほんと……」
「おんなじ」
赤くなった鼻を抑え、紅野は恨めし気な顔をして――そして蒼空は、彼女には珍しく、屈託無く笑った。
「……えっ?」
「私は、ころばなかった。……その人はころんだ、紅野とおんなじで、ぴったり」
その言葉が意味する所を、双子の姉はたちどころに理解した。
遠く昔、幼い頃――姉と妹と、二人で手を繋ぎ、遊んだ日。紅野が何かに足を引っ掛けて転倒した時、蒼空は腕を引っ張られながらも、器用に身を捩り、両足で着地したのである。
思えばその時が、彼我の才能の差を、双子が理解した日でもあった。それから間もなく、二人が別々に育てられるようになってからも、紅野は、己は妹に才覚で劣っているのだと感じながら生きていた。
「……なんだ。お前も、覚えてたのか」
そんな記憶も、こうして突き付けられれば、懐かしく楽しい思い出に過ぎなかった。
あの時に別たれた道は、決して一つになる事は無いだろう。
だが――十数年を経て妹は、己の代わりに姉の横へ立つべき者を見出し、連れて来た。
「なんだよ……覚えてたんなら、そう言ってくれよ……」
〝あの日〟に心を囚われ、心を苛まれていたのは、自分だけでは無かったのだ。そう知った時、紅野の心の何処かに有った氷塊は、数滴の涙となって溶け、流れ落ちた。
――生き延びてしまうのも、悪くない。
己の生に価値を見出さなかった少女は、今、初めて、生きる事に前向きに成れたのであった。
「行こう。……槍を貸そうか?」
狩野が言い、上階への階段へと歩き出す。
「要らないよ、適当に見繕う」
その直ぐ隣に、紅野が並んだ。
牢に囚われていた間、義足ばかりは残されていたが、他は暗器一つに至るまで全て取り上げられている。だが、元より武器の質には拘らぬ性質である。
「あー、その、なんだ」
既に上階には、侵入者を捉えるべく、兵士達が集まっているだろう。いや、もう直ぐにでも、階段を駆け降りて来るに違いない。
そうなれば、暫くは言葉を交わせない――だから紅野は、先に、
「こっ、……これからも、宜しく頼む……義濟」
己の側近〝だった〟男の、姓では無く、名を呼んだ。
その言葉に狩野が応えるより先、二条城内の兵士は、地下牢へぐわっと雪崩れ込んだのである。
幾度もの戦で淘汰された、狂信を胸に抱く兵――決して、容易な敵ではない。
だがそれ以上に、今、この城から抜け出そうとしている三人の力は、そして気の充実は、絶人の域に有った。
数名の槍や刀を、狩野の槍は器用に防ぎ、石突による打撃で一人一人、着実に沈めて行く。
紅野は徒手であったが、武芸十八般に魔術のしめて武芸十九般を身に着けた武人である。打撃、投げに、得意とする氷結の魔術を用い、敵兵から槍を二振りに刀一振りを奪い取っていた。
そして、やはり蒼空の腕前は、この中に有っても卓越している。
蒼空が少し息を吸ったと見えた瞬間、その姿は掻き消え、離れた位置に現れた時には、数人が地に伏している。何れもが峰打ちで、命は奪っていないが、これで慈悲を与えぬのなら、忽ちに血の海が生まれていた事だろう。
「道を開けたまえ! 君達では僕達と戦いにならない!」
地下牢へ押し入った兵士達を全て打ち倒し、狩野は上階へと駆け上がりながら、まだ立ちはだかろうとする彼等に牽制する。
事実、狭霧紅野と狭霧蒼空の双子が手を組んだ時点で、この日の本に、二人を阻める者など無いのだ。その上に狩野 義濟でさえが、雑兵の十や二十では止められぬ武芸者である。
正に、道に人無きが如し。
足を止めず、ただひたすらに直進し、階段を駆け上がり、彼等は地上階へと出た。
もう直ぐそこには、本丸の正門が有る。
あれを越えれば、身を隠す場所も多い内庭に出る。外塀を乗り越えればもう、城の外だ。
「紅野!」
「なんだ、義濟!」
並び、駆けながら、二人は互いに名を呼んだ。
「幸せになろう!」
「……こっぱずかしい事言うんじゃないっ!」
群がる雑兵を蹴散らし、もう、彼等の道を遮る者は無い。
正門を内側から封鎖していた番兵さえ、彼等の姿を見れば持ち場を放棄する。
かんぬきを、手で取り外すでなく、狩野が槍で真ん中から断ち割った。
遂に、門は開いた。
「よし、やったっ……――」
本丸の外へ、狩野が真っ先に飛び出し――
じゃりっ。
と、硬質なようで湿った、不快な音が――僅かに遅れて激痛が、狩野の両脚を襲った。
「――っぎゃ、あああっ!?」
狩野は、両膝を、皿が削られる程の深さに斬られていた。
鋭利な刃物の一閃では無く――鋸の、細かい刃で、力に任せて引き斬ったのだ。
脚は繋がっているが、殆ど動かせもせぬような有様になった彼の頭を、体重を込めて踏みつけ、
「おい、主賓が着飾るのを怠ってどうする。馬子にも衣装という言葉を知らんのか」
正門の外で待ち構えていた狭霧和敬は、血濡れの大鋸を肩に担ぎ、酷薄に、楽しげに大笑していた。




