宴のお話(1)
かつて『反政府軍』と呼ばれていた、仏教徒を中心とする集団がある。
彼等は、比叡の山を拠点とし、狭霧兵部和敬が指揮を取る軍勢に抵抗した。
勇戦の甲斐有り、また外部よりの助けも有って、勅命が降りるまで彼等は耐え抜き、遂には自由を勝ち取った。
だが――犠牲は大きかった。
何百と知れぬ罪無き者が、或いは戦傷、或いは病で命を落とした――その中には老剣客、高虎 眼魔も含まれている。
そして、戦いが終わった今もただ一人、囚われの身に堕ちたままの少女――狭霧紅野が居る。
戦はまだ、終わっていないのだ。
然し此処に、勇者が一人在った。
武の力量を見れば、人並みにはあらねど、数百の軍を相手取るには不足。
智の働きを見れば、これも賢人ではあろうが、城に通ずる策を練る程では無い。
だが、勇敢なる事は、彼の所属していた精兵集団、白槍隊に在っても群を抜いていた。
「待っていたまえ、副隊長……!」
彼は夜陰に紛れ、二条の城を遠くに臨み、
「狩野 義濟、この槍に賭けて必ずや、君を救い出して見せようっ!」
槍を掲げ、高らかに誓いを述べるのであった。
さて、彼は此処で何をしているのであろうか。
そもそも彼は、紅野の右腕として比叡山城に籠城し、共に戦った一人であった。
紅野が一人で城を抜け、巨砲〝揺鬼火〟を沈黙させんとした時も、彼は紅野から直接、城を守ってくれと頼み込まれたのである。
だが、そう言われて城に篭っていられる程、彼は大人しい性質でなかったのだ。
追っていると悟られぬ程度の距離を開け、紅野を尾けた彼が見たものは、彼の上官たる少女が、いとも容易く敵の手に捕らえられる姿であった。
この時、彼の胸に去来した思いは――嘆きも焦りも、困惑も無論浮かんだが、最大のものは『義憤』であったのだ。
何か、言葉を交わしていた事は分かる。
会話の内容まで聞き取りは出来ねども、紅野は、泣いていた。
痛みや苦しみで泣くような少女でない事は、傍らで戦った経験から良く知っている。
そんな単純な理由で、彼等には十分だったのだ。
「見ていろ、邪悪の牙城よ! 悪鬼の軍勢、幾千とて、この熱情に勝るものか!」
――と、狩野は己を鼓舞しながら、夜闇に隠れて二条城へ忍び寄っていた。
今の二条城は、政府軍に、遠巻きに包囲されている。
政府軍が一度、攻撃を仕掛けたのだが、狭霧和敬の手によって迎撃された後、包囲網を広く敷いたのだ。奇しくも比叡山城を、狭霧和敬が攻めていた時と良く似た形である。
つまり二条城は現在、昼夜を問わず、攻撃に備えて張りつめている。如何に大きく気を吐こうとも、単身で二条城へ飛び込んで紅野を救出しようなど無理な話である。
重々理解しているからか、先までの威勢は何処へやら、抜足差足、盗人の如しであった。
狩野 義濟が目指すは、二条城の本丸である。
大外を囲む塀を越え、広い中庭を越え、堀を越えた先に、本丸は有る。
叶うならばこの空間を、一息に駆け抜けて行きたいところであろうが、
「ぐっ、ぐぬぬっ……!」
狩野は物陰に身を潜め、行き来する物見の兵士を、恨めしげに睨みつけていた。
予想以上に数が多いのだ。
狭霧和敬の手勢は、言うなれば敗軍。雑兵の類はとうに逃げ出してしまっているかと思いきや、見知った顔がまだ幾つか有る。
「彼等も忠義の士と言うことかっ……!」
その認識は、あまり適切では無い。
むしろ彼等を支えるのは狂信である。
〝大聖女〟エリザベートの教えを頑なに信じ、それ以外の真実を受け入れようとしない、狂信者達――彼等はそもそも、自分達が劣勢にあるという認識さえ無い。エリザベートの元、正しき道を歩む自分達には、必ずや勝利が待っていると信じているのだ。
だから、士気も高い。
敗軍に付き物の倦み、警戒の緩みというものが無い。全ての兵士が、己の出来る全ての事をしようと、爛々と目を光らせているのである。
――こういう敵は、厄介だ。
狩野は、はやる心を押さえつけて機を待った。然し、待てども待てども、本丸正面の防備が緩む様子は無い。
こうなれば堀に飛び込み、城の壁面をよじ登って、灯り取りの窓から忍び込むか――狩野が、そんな算段を立てていた、まさにその時であった。
ぽんっ。
と誰かの手が、狩野の背を叩いた。
「――――――っ!!!」
飛び上がらんばかりに肝を潰しながらも、狩野は背後の何者かへと目掛け、振り向かぬままに槍を振るった。
腹か胸を貫く軌道であったが、手応えは無い。代わりに、不意打ちを仕掛けた張本人は、刃を向けられたばかりとは思えぬ程に悠々と、狩野の頭を飛び越え、正面に立ったのである。
「きっ、君はっ……――!?」
ほんの一瞬、狩野は、救いに行くべき当人が、自分の前に現れたかと見紛った。
だが、狭霧紅野が帯びている空気と、〝彼女〟の空気は、色が違う。
紅野が、常に張り詰め、焼け付くような炎であるなら、彼女は緩々と何処までも流れて行く、雲や水のようにつかみどころが無い。兵士の行き交う塀の内側に有って、まるで怖気を見せず、市中を歩くが如き顔である。
「……しーっ」
狭霧 蒼空は――紅野の双子の妹は、子供を窘めるように、指を一本だけ立てていた。
狩野は、襲撃者の正体を知って、尚更に驚愕を深めた様子であった
姉と同じ作りの顔に、少し幼い表情のこの少女を、狩野も良く知っている。
ぼんやりとした居住まいとは裏腹に、剣を持たせれば鬼か修羅か、魔域の剣の使い手――容易く背を取られたのも無理は無い。
そんな少女が、自分を斬るでなく、何か言いたげな顔をしているのだから。
「……こっち」
「あっ……! 待、待つんだ、君っ!」
蒼空は、狩野の袖を掴むと、ぐいと引いて歩き出そうとする。咄嗟に狩野は踏み止まり、逆に蒼空を物陰に引き込み、周囲の目から隠した。
「君、どういうつもりだっ!?」
「…………どう、いう?」
「僕を斬るのではないのかっ!?」
声を極力――彼としては潜めて、問い質す。
狩野は、直情径行ではあるが、愚かでは無い。背後を取りながら、斬りかかろうとしなかった蒼空が、自分に敵対するものでない事くらいは分かっている。
だが、その理由が分からぬのだ。
蒼空は、狭霧和敬の娘であり、彼の持つ駒で最も強力な一枚でもある。狭霧和敬と袂を分かった紅野や、それに与する自分とは、敵対する立場である――筈なのだ。
「紅野と、一緒に居た……?」
蒼空の側も、狩野が誰であるかを認識しているようだ。疑念は色濃くなりながらも、狩野は調子を取り戻すべく、一度、深い呼吸をして、
「あ、ああ……君も知っているだろうっ、白槍隊にその人有りと謳われた僕こそがっ――」
ぴとっ。
と、蒼空の掌が、狩野の口を塞いだ。
「会いに行く、の?」
「……!」
狩野は口を塞がれたまま、がくがくと首を縦に振り、その問いに答えた。それから、そっと蒼空の手を横へ押しのけ、
「会いに行くだけじゃない。……連れて帰るんだ!」
力強く、宣言する。
とうに狩野の目からは、困惑など全て消えていた。
「紅野は、彼女はもう、十分すぎるくらいに苦しんだ……そろそろ彼女は、誰かを助けるんじゃなく、誰かに助けられるべきなんだ! だから僕が! その役目を務める!」
それが狩野の、ともすれば命さえ失いかねない単独行の理由であった。
紅野の力が必要だとか、旗印に据えるだとか、そういう打算は全く無い――僅かに考えた事さえ無いのかも知れない。
友軍と呼応し攻め入れば、成功率は跳ね上がるだろう。
だが、政府軍が動くのを待つより、寸刻でも早く紅野を救いたいと、短絡に、性急に、彼は奔った。
そういう男なのだ。だから紅野は、狩野 義濟を傍らに置いていた。
そして、紅野と血を分けた蒼空もまた、この直情の愚かな男を――
「……ふふっ」
意気や良しと見たか、或いは愉快に思ったか、兎に角、笑った。
常に刀一振りだけを携え、眠たげな目で人を斬るだけの、異形の才。それが普通の少女のように笑った事を、狩野は意外に思ったか、戦時の城中に在りながら、少し気の抜けた顔をした。
だが同時に、
――良く似ている
とも、思った。
双子であるからには当然の事だが、蒼空の笑った顔は、紅野のそれに良く似ていた。
片や、数多の傷を刻まれた顔。片や、不自由無き事を強いられて育った甘い顔。
それでも血を分けた二人は、同じ顔で笑うのだ。
「これ……」
蒼空は、懐から何か、白い布を取り出すと、狩野の頭に、鼻と口元を隠すように巻き付けた。
それから狩野に手招きをし、後に続けと促し――堂々と、本丸へ向かって歩いて行くのである。
「……! 待てっ、そこのお前!」
「おっ……!? いや、あれは……」
無論、直ぐに哨戒の兵士が呼び止めんとしたが、別な兵士が直ぐ、呼び止めた兵士を引き留める。
「兵部卿のご息女だ、あの白い髪」
「えっ? あ、ああ……そうか……」
狭霧 蒼空が猫よりも奔放に、好き勝手に城を出入りするのは、兵士達にも良く知れている事であったらしい――そして蒼空も、自分が何処を歩こうが咎められないと、これまた良く知っていた。
〝供の兵士〟を一人引き連れた蒼空は、本丸の正門を堂々と潜り、城内へと入り込むのであった。
城内は――意外な程に、静かだった。少なくとも狩野は、そう感じた。
戦の中にある城だ。比叡山城で紅野は、始終大声を張り上げていたものである。
だが、こんなものかも知れない、と思い直す。
素人が群れを成した雑軍と違い、将官も兵卒も、全てがその為に鍛え上げられた軍勢――それが収まった城に、不要な音は響かぬのだろう、と。
掃き清められた廊下、磨く事を怠っていない壁、襖――二条城の美しさは何も損なわれぬまま、然し此処はもう、日の本政府の拠点では無い。大悪・狭霧和敬と、それに与する罪人・エリザベートが支配する魔城であった。
白槍隊の一員であった狩野は、城内の構造を知っている。狭霧和敬が、城の形を変えぬまま、地下を掘り広げて、幾つかの階層を増やしているという事も。目的地はその最下層に有る牢獄であった。
「そういえば、聞いてなかった」
階段を降りながら、狩野は唐突に、今は彼の後ろを歩いている蒼空に言った。
「………………?」
「理由だ。君が、僕に手を貸した理由。聞いておかなくては気が済まない」
「……どうして?」
「どうしても! ただ情けを掛けられたのでは男がすたる! 企みの故であればそれを破ろう! 君が善意の持ち主である事を確信したいというのは、欲深い事だろうか!」
兵士の目を気にせずとも良い状況になった為か、些かならず狩野は、平時の調子を取り戻している様子であった。
だが確かに、蒼空はまだ、自分が狩野を助けた理由を口にしていない。
猫の如き気紛れで、という事もあるやも知れない。然し、そう狩野が思えないのは、蒼空の目に、確固たる意思を見たからである。
この少女は間違い無く、自分に手を貸そうとしたのだと、断言するに足る目であった。
「……昔ね」
「昔?」
「遊んだの」
ぽつん、と、水溜りに水滴を落とすような、蒼空の声。小さな声だが、それは確かに波紋になって、狩野の耳から、胸の奥にまで届く。
「ずっと、ずっと、前だけど……手、繋いで、二人で遊んだの……覚えてる。いっぱい遊んだ……多分、朝から夜まで」
蒼空は、思考と同速度の断片的な言葉で、過去を懐かしんでいた。
きっと脳裏に描けるのは、断片的な、どれが真でどれが偽かさえ、あやふやになり始めた記憶であろう。
二人が別たれる前、まだ二つか三つの幼子の頃。
「……楽しかった、から」
それが、理由。
それ以上のものは無い。
それは、狩野と同程度には短絡的な理由であり――だからこそ蒼空は、狩野に手を貸したのだ。
やがて狩野と蒼空は、最下層の牢獄に着いた。
この階層は、太い鉄格子で向こうとこちらが区切られた大部屋になっている。〝向こう〟が牢で、罪人があらば何人だろうが、纏めて放り込むという仕組みだ。
気の荒い罪人を幾人も、仕切の無い空間へ放り込めばどうなるのか――狭霧和敬の嗜好が、設計思想にありありと浮かんだ作りである。
番兵はいない。置く必要が無いからだ。
今、この牢に収められた囚人は、たった一人。枷も掛けられず、縄で縛られる事も無く、そのままに捕えられている。
彼女は、牢の隅で壁を背に、膝を胸に抱き込むような恰好で横たわっていた。
階段を下りてきた足音も、気配も感じ取っているだろう。少し目をやれば、降りてきたのが見知った顔であるとも知れる。
だが彼女は、そうして救いの手に呼応する代わり、
「副隊長!」
己を呼ぶ狩野の声が、まるで聞こえていないかのように、寝返りを打って壁と向き合った。
それが、狭霧 紅野の――実父と実母の手で折られた少女の、今の姿であった。




