少し昔のお話(5)
この火刑が、人の手で行われたものであったならば、冴威牙はもっと早くに看破したのだろう。
だが紫は、翼の力に任せて引き上げた油樽を用い、上空から〝城〟の周囲へぐるりと撒き散らしたのである。
油が地に触れて、臭いが冴威牙の鼻に届いてから着火まで、猶予がどれほどにあったか。それこそ冴威牙に許されたのは、吼え、元の子分数人を救おうとするだけの時間であった。
ましてや、酒に酔い、或いは寝入っていた斬波の部下達に至っては――火が〝城〟の壁を蝕んでさえ、気付かぬ者も有った。
〝城〟と称してはいるが、実態は巨大な掘立小屋――壁も屋根も枯れ木で組み上げたような、乾き、薄い材質の建築物である。市井の火事などよりも、よほど迅速に、炎は彼等を飲み込み始めた。
「冴威牙様っ!」
天井を貫いて降り立った紫漣は、檻の格子を掴んで揺さぶる。
然し鍵は、単純な外付けの錠ではなく、内側から大型の獣がぶつかっても開かぬように、相当強靭に作られている。紫漣の力では、格子を歪ませる事さえ出来なかった。
「こっ――の、アマぁっ!!」
「――!」
紫漣の背を襲ったのは、熊越斬波の巨大な拳――宴の最中故か、薙刀を手にしていなかったと見える。
流石の悪党も火に焦ったか、拳の軌道は大回しであり、紫漣は難なくそれを避けた。
「去りなさい! 焼け死にたくなければ!」
相手をしている暇は無いとばかり、紫漣は片目だけの視線を斬波にくれてやった。
成程、如何に熊越斬波が達人であろうと、素手で、空を飛べる紫漣を捉えるのは、容易な事ではあるまい。それまでに火は、この襤褸城を焼き尽くしてしまうだろう。
「ぐっ……! 畜生があああぁっ!!」
怒りを叩き付けたくはあっただろうが、逃げ道を失っては本末転倒。斬波は大声で喚き散らしながら、火の粉を蹴散らし、炎から抜けて行った。
方々から、肉の焦げる臭いがする。
人の悲鳴や怒号――時々は断末魔の叫びまでが聞こえて来る。
炎は愈々、縦に渦を巻いて踊り狂う。
恐らくもう、出口と呼べる出口は無いのだろう。新鮮な空気が流れ込むのは、紫漣が天井に開けた穴だけだった。
「冴威牙様、今、開けて差し上げます……少々だけお待ちを!」
「ばっ……馬鹿、お前、何で戻って来たっ!?」
冴威牙は、紫漣の行動――己を見捨てず、火を放ってまで助けに来た事――を、狂気の沙汰であると感じていた。
自分はこれから死ぬ男である。
その為に舞い戻り、自分の身を危険に晒すなど、真っ当な神経ではない、と。
「とっとと逃げろ! お前、飛べんだろ!」
「ええ、飛べます……だから、こうするんです……!」
紫漣は、冴威牙の檻の格子を掴むと、白翼を広げ、熱風の中で羽ばたかせた。
時折火の粉や、焼け落ちた木片が降り、紫漣の翼を焼く。だが紫漣は気にも留めず、翼を打ち鳴らし、上空へ舞い上がろうとする。
――無理だ。
冴威牙は直ぐにも、紫漣の目論見が実現不可能である事を悟った。
紫漣の翼ならば、冴威牙一人を浮かせるまでは出来るのだろう。だが、冴威牙でさえ破れぬ頑強な檻まで、まとめて浮かせる程の力は無い。
ほんの僅かに檻が浮く――紫漣が力尽き、床に落ちる。然し、直ぐにも立ち上がり、また翼を羽ばたかせる。
業火の中、ろくに空気も吸えないまま、幾度も幾度も、全身の総力を用いて――羽ばたき、倒れを、繰り返す。
周囲の炎が檻を炙り、格子は次第に熱を帯びるが、それでも紫漣は――
「やめろ!」
紫漣の呼吸音に、ひゅうひゅうと隙間風のような音が混ざり始めた時、冴威牙は遂に耐え切れなくなった。
自分が此処で死ぬ事は、もはや受け入れる他に無い。
だが、それに誰かを――特に、同じ〝亜人〟の同胞を、巻き込む事だけは避けたかったのだ。
「もうやめろ、紫漣! 俺の命令だ!」
格子を蹴り付け冴威牙は叫ぶ。命令と言いながら、その声は懇願にも似ていた。
「聞けません……!」
炎の中、顔を青褪めさせながら、紫漣は幾度めか、立ち上がった。
前髪を伝った汗が、檻の格子に落ち――じゅう、と弾ける。もはや炎は、鋼の格子を、焼けんばかりに熱していた。
「……! 駄目だ、やめろ、やめっ――」
「っく、ぐううううぅっ……!!」
紫漣は、まるで躊躇い無く、格子を素手で掴み、羽ばたこうとする。
上がらない。
上がる筈も無い。
失われて行く体力、熱に負け力を失う手――もはや鋼の檻は、一寸さえ浮かび上がる事は無い。
「く、ああっ……! ぁ、す、すいません……直ぐ、直ぐにっ」
意思が身体の反射に負け、紫漣は格子から手を離すが――また直ぐに、決して動かぬ檻を掴み、空へ舞い上がろうとする。
周囲の壁は、遂に炎により崩れ始めていた。
「っ、何でだよ!」
「……は」
「何で俺を助けようとする、馬鹿がっ!」
熱風が轟々と、龍の如くに唸る炎の中でも、その冴威牙の咆哮は、確かに紫漣に届いた。
だが――それは、弱音という、彼には最も似つかわしくない叫びでもあった。
「俺は! 裏切られたんだぞ! 子分だと思ってた連中に、俺のもんだと思ってた女に裏切られて、山賊風情にとっ捕まった! そんな男を、手を焼いてまで助ける意味が何処に有んだよ、なぁ!? さっさと一人で飛んで逃げちまえ、俺の死体の横にお前の死体があったら、一人で死ねない臆病者と笑われちまうだろうがっ!!」
格子を幾度も蹴り付け、己の位置からでは見えない天井を指差し、冴威牙は紫漣を追い払おうとする。
とうに其処は、炎の輪が狭まって、紫漣一人で通り抜ける事も難しくなっていたが、紫漣はそれを見て、
「だったら、どうして私を助けたんですかっ!」
青褪めた顔のまま、冴威牙を叱り付けながら、笑ったのである。
「どうして、って――」
「私を助けたのは貴方です! 私に夢を語ったのは貴方です! 私を傍に置いてくださったのは貴方です! 全部、全部貴方の勝手にした事です! だから私は貴方を助けたいんですっ!」
紫漣は、着物の裾を破り、手に巻きつけた。それから胸を押さえ、数度、深く呼吸を繰り返す。
酸素と共に、煙も吸ってしまっているだろう。十全の力は発揮できぬだろうに、それでも、
「人の忠告を聞かなかろうが、無鉄砲だろうが、周りの気持ちが分かっていない鈍い人だろうが――なんだっていいから、黙って私に助けられてください……!」
檻が、浮いた。
一寸や二寸ではなく、膝を越え、肘を越え、頭の高さを越え――紫漣は、翼で檻を持ち上げた。
天井までの高さは、一丈と半ば程。常ならば一息に飛び越える道程は、長く、永く感じられて――
「――あ、っ」
そして――紫漣は力尽きる。
天井付近に渦巻く熱風と煙を、肺に思い切り吸い込んでしまったのだ。
翼が力を失い、檻ごと、また床へと堕ちて、
「さ……冴威牙、さま、すみませ……」
「お、おいっ! 紫漣、起きろ! 逃げろ、おいっ、おいっ!!」
最後まで紫漣は、冴威牙を想い、意識を失った。
床に伏したその背に、ぱらぱらと、焼け焦げた木片と灰が降り積もる。
炎が床を這い、冴威牙と紫漣を、その腹に収めんと燃え広がる。
「馬鹿がっ……大馬鹿だ、お前は……っ!」
冴威牙の頬を、最後の涙が伝った。
それが格子に落ち、じゅうと弾けて散った時――冴威牙は、夜空に咆哮を轟かせた。
奪い取ったねぐらが燃え落ちる様を、熊越 斬波は苦々しげに睨み付けていた。
斬波の子分は、殆どは逃げ延びたが、潰れるまで飲んだ幾人かが、炎に呑まれて焼け死んだ。仲間の死を嘆く斬波ではなかったが、己に属するものが損なわれるという事は、即ち己の損失である。怒気の程は、燃え盛る炎にも劣らなかった。
だが、その怒りを叩きつけるものが無い――火事の元凶は、未だに炎の中に居るのである。
「……くたばりやがったな」
燃え、崩れる木組みの襤褸小屋を遠目に見ながら、斬波は吐き捨てるように呟いた。
天をも焦がさんばかりの火勢の中、如何なる生き物も、生存出来よう筈は無い――その見立ては正しかった。
いや。
正しい筈、であった。
その時、斬波を始めとする山賊の一党は、おぞましい程に響く咆哮を聞いた。
臓腑を鷲掴みにし、揺さぶるような、吐き気さえ催す雄叫びである。
或いは、骨髄に染み渡り、体内から手足を砕くような、暴力的な絶叫でもある。
例え、その声の主が誰であるかを知らずとも、音だけで、〝それ〟に近づいてはならぬと知らしめる、声。
もはや〝けだもの〟でさえない、魔獣の咆哮であった。
「ぉ――」
熊越 斬波は、近くの子分の手から、愛用の薙刀をひったくるように取った。そして、半ば無意識に炎上する〝城〟へ、薙刀の切っ先を向けた。
焼け、崩れゆく掘立小屋――その天井を、弾丸の如く突き破る影を、斬波は見た。
飛翔では無い、跳躍。
数間の高さに脚力だけで到達し、その影は炎を抜けて来たのだ。
〝それ〟は、ほんの一瞬、翼を広げたようにも見えた。その実は、背負った紫漣の翼が、跳躍した折に風に靡いたものであった。
「るぁう」
と、それが言葉を発したように、斬波には聞こえた。
人の声では無い。
人の姿を失ったからか。
手も足も、人間と同じ形をしていながら、〝それ〟の首は、獰猛な犬の形をしていた。
まるで、人間の首を切り落とし、野犬の首と挿げ替えたような――
――ばけもの。
野生から離れた人間が、それでも生きて行く為に残した機能――直感。異常なものを恐れ、近づかぬようにすることで、己を永らえる為の力。
山賊という、真っ当な人間より数段も獣に近い生の中でさえ目覚めなかった機能が、今、斬波の中に立ち上がる。
熊越 斬波は、初めて怯えを知った。
犬面の怪物は、背に紫漣をおぶったまま、人には感情の読み取れぬ目で、周囲をぐるりと見渡した。斬波や、他にも火から逃げた斬波の子分や、暗闇、木々、そして――斬波に背を向け、もはや炎の中、形を失った小屋の残骸を、瞬きもせずに見つめた。
その背へ、斬波は吠え掛かった。
「ぐっ――ぉおおおおおおおぉおぉおぉぉぉっっ!!!」
巨大な薙刀を振り上げ、無防備に晒された背へと迫り、頭蓋目掛けて刃を振り下ろす。
必死の形相であった。
刃が落ちていく一瞬でさえ、熊越 斬波には、無限に引き伸ばされた時間のようにも感じられた。
死ね。
早く、死ね。
罵声ではなく、懇願を、斬波は幾度も繰り返す。
そして、ついに薙刀の刃が、犬面の怪物の皮膚に届かんかという刹那――
「ぐるぉう」
――〝それ〟は唸り、振り向きざま、斬波へと蹴りを打った。
暴風を撒いて跳ね上がった〝それ〟の右踵は、振り下ろされる薙刀の柄を〝斬り〟飛ばし、
「っ、な――ま、待っ」
その足は地に着かぬままで軌道を変え、爪先を、斬波の喉へと突き刺した。
異音。
肉の内側で骨が砕ける、めぎっ、という不愉快な音。
ただそのひと蹴りで、熊越 斬波は絶命していた。
仰向けに倒れる巨体に、〝それ〟は――獣性の全てを解き放った冴威牙は、もはや興味さえ抱いていないようだった。そしてまた、人には意図が見えぬ目で、己を遠巻きに見ている斬波の子分と――その中に混じる、自分の群れであった者達を見て、
「おう、俺は生きてるぞ」
そう言うと、〝最後の情け〟として、彼等へ向け、両手を広げて見せた。
応じるものは誰も居ない。
遠巻きに武器を構え、震えるばかりである。
「おい、どうした。俺が生きてたんだぞ、嬉しくねえのか……?」
冴威牙は、見覚えのある顔の一つへ向けて、数歩ばかり歩いた。
歩いた距離の倍も、かつての冴威牙の子分は後退しながら、震える手で刀の切っ先を冴威牙へと向ける。
近づく事を、身体の全てで拒否しているのだ。
「……嬉しくねぇのかよっ!!」
冴威牙は、自分がもう、彼等の親分どころか、仲間でさえない事を知って、吼えた。
皆が冴威牙を恐れ――彼の無事を喜ぶものなど、誰も居ない。
亜人である冴威牙は、人間である彼等の敵だと、彼等は明確に線を引いたのだ。
敵だから、恐れる。
敵だから、冴威牙が自分達を〝襲わない筈が無い〟と信じ込む。
「……そうかよ」
きっと、元より〝そう〟だったのだ。
如何に近しい間柄だと、冴威牙が思っていたとしても――彼等の側は、明確でないにせよ、彼我の差異を感じ取っていた。
そうでなくては、夕霧の言葉だけで、皆が翻意を示す事は無かっただろう。
そうであったから、彼等は今、冴威牙が生きていた事に怯えている。
冴威牙は元々、ただ一頭で生きていた、それだけだったのだ。
「冴威牙様、冴威牙様、起きてくださいっ」
「ぐ、ぅ……っが、がぁ……!」
永い悪夢――それも、現の時に照らせば、僅かに半日の事である。
畳に横たわって眠っていた冴威牙は、夢にうなされ、唸り声を上げていた。
「……冴威牙様っ!!」
傍らには、遂に冴威牙を裏切る事無く沿い続けた紫漣が居る。
紫漣は、冴威牙の肩を強く揺さぶり、強引に夢から引き剥がした。
「うおっ……、お、っ」
目覚めた冴威牙は、まず周囲を見渡し――自分の居る場所に、命の危険が無い事を確認してから、額の汗を袖で拭った。
畳の上とは言え、敷物も無しに寝ていた冴威牙だが、それで痛むような脆い体では無い。
ただ――失った左目の空洞が、痛み以上に冴威牙を苛み続ける。
己は人と相容れないと、炎の前に悟ったあの夜から、冴威牙は紫漣と二人だけで生きてきた。
自分達二人の他の命は、上へ登る為の踏み台か、腹を満たす為の餌か、力を誇る為の装飾品に過ぎなかった。
二人は、尋常でなく強かった。
だが二人は、何年も、何も得ぬままに生きてきた。
力こそ有れ、平穏の世。力を振るえば賊徒、罪人の類に過ぎぬ時代に、彼等は生まれてしまっていた。
だから、狭霧兵部の子飼となり、戦を与えられた時、彼等の眼前にはきっと、輝かしい未来の絵図面が広がっていたことだろう。
それも既に、半ばは費えた。
残ったものは傷ついた体と、賊軍の汚名ばかりである。
「……紫漣か、何だ」
「兵部卿がお呼びです……それに、酷くうなされていらっしゃったので」
「はっ……もうあのおっさん、兵部卿でも何でもねぇだろ」
権力を縦にし、兵士や人材、兵器を動員出来たのも、官爵があってこそだ。
既に狭霧和敬に、日の本政府の支援は無い。辞令こそまだ下っていないが、兵部卿の官とて、もう取り上げられているだろう。
自分達は、負けたのだ。
冴威牙の野望もまた、費えたのである。
「……で、あのおっさんが、どうしたって」
「宴を開くと仰せです。冴威牙様にも、その……」
「なんだ?」
言いよどむ紫漣に先を促すと、紫漣は幾度か咳払いをしてから、
「……その、戦勝の前祝を兼ねて褒美を授ける、と」
と、歯切れも悪く言った。
「戦勝の褒美ね……絶対にろくでもねぇ事に決まってんな」
冴威牙は、己の首が切り落とされ、皿に乗せられて、宴の参加者に振舞われる光景さえを想像した。
狭霧和敬ならば、その程度の事はする。
敗軍の将を罰するという名目で、己の心を満たす為、殊更に残酷を楽しもうとするだろう。
それならそれで、まだ気が晴れる――冴威牙は、そう考えていた。
己の首を斬らんとする狭霧和敬を逆に殺害し、その首を持って政府側に投降しても良い、とも。生きながらえれば何時かまた、戦の起こる日も来る筈だ――と。
然し、その思惑は、いささかならず〝温い〟。
冴威牙も悪党ではあるが、比類無き悪党を計るには、常識にまだ囚われている。
この時、狭霧和敬は、本心から戦に勝ち、日の本を手中に収める算段で居たのである。




