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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
品川夏空模様
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血と満月のお話(3)

 夜間の戦闘は、人間相手ならば自分が有利だと、村雨は自負を抱いていた。視覚情報への依存率が高い人間は、光源の極端に少ない夜間では、本来の力を発揮できない。足音さえ気遣えば、全く察知される事なく、背後へ回り込む事も難しくはないのだ。

 だが、どうやら橋の上に立つ化け物は、視覚という点に関しては村雨と同等の性能を誇るらしい。化け物が真正面から突っ込んでくるのを、村雨はすれ違うようにして避け、後方へ回り込もうとする。その動作が見えている様で、化け物はすぐさま背面へ腕を振るい、安全地帯を確保しようとする村雨を牽制するのだ。。

 村雨は化け物の死角へ移動し続ける事で、爪の脅威と対峙せずに済むようにと狙っている。その思惑を化け物は、行動察知即迎撃という反射速度任せの戦法で抑え込む。下手に回り込もうとすると、横腹を爪で抉られかねない。その恐怖に、必然村雨が取る行動は、臆病さが増していく。

 化け物の熊腕が裏拳気味に放たれたのを、村雨は、橋の上に四つ脚で伏せる様にして避ける。爪は自分に向いていなかったが、命中すれば軽く空中に浮かされる様な威力なのは百も承知。回避に成功して直ぐ、次は逆腕の振り下ろしを避ける為、手足全て使って後方に跳躍する。

 間合いの長い相手に対しては懐に飛び込むのが定石だが、この化け物の反応の良さでは、そう易々と潜り込む事は出来そうにない。それでも化け物に勝つ事を望むなら、自分の拳足が、脇差が届く距離にまで近づく必要があった。

 村雨は、その手段を選ぶ事が出来ない。自分の頭より大きい化け物の掌、指の様な長さの爪、腕が振り回される度に顔を叩く風。直撃すれば、自分は一撃で死んでしまうという予感が、ひしひしと押し寄せるのだ。


「ぅ、うぅ……!」


 恐怖に、骨の隋まで凍て付いてしまったかの様な寒気を味わう。やみくもに声を上げ吶喊したがる心を抑え、胴体を狙った化け物の右腕から、やはり後方へ遠ざかり回避する。前へ出られない、出ようとさえ思わない。ただ、橋から押しだされそうになった時だけは、側面へ回り込むようにして、橋上という条件だけは手放すまいとしがみ付く。

 橋の向こうには、転倒した際に投げ出してしまった、襲撃の生き残りの子供がいるのだ。そちらに化け物を向かわせてしまえば、巻き添えを食らわせてしまいかねない。子供一人抱えて逃げ切れる様な相手では無いのだ。ならばせめて、自分だけを気遣えば良い条件で戦いたい。村雨は、化け物の意識が何処かへ向かいそうになる度に、踏みこんで胴体を蹴り飛ばしてやろうとする――結局それは、大木の様な腕に阻まれるのだが。

 化け物の爪は、一撃で村雨を二度は殺し得る。対して村雨の蹴りは、化け物にたたらを踏ませる事すら出来ていない。体重差が倍以上、筋力の差は十倍と見積もって足りるかどうか。数値だけを見るなら、あまりに絶望的だった。


「はぁ、は、ふ……」


 然し、それで諦めてしまえば殺されるのだ。肉体の疲労ではなく、精神が緊張を強いられ続け、息が上がる。口を開いて酸素を取り込みながら、村雨は化け物の姿形から、その生態を推測しようとしていた。

 化け物の胴体と頭部は、人間のものである。ならば内臓も、顎の筋肉も、人間のものと考えられるか。仮にそうなのだとすれば、この化け物は、仕留めた得物――人間をろくに喰う事が出来なかった筈だ。

 野生の獣ならいざ知らず、人間が大量の血液を摂取したならば、まず確実に嘔吐する。血液には催吐性が有るからだ。その上に、文明圏の人間の胃は、生肉食への適応度が低い。この推測は、噛み千切られてだが喰われていなかった死体の有り様から、当たらずとも遠からずのものだろう。

 ならば、化け物は飢えている筈だ。小さな胴体に長い脚、巨大な腕という不釣り合いさが故に、貯蔵出来る栄養と消費する体力が釣り合っていない筈なのだから。

 体力を削ぐ為には、腹を打つのが有効である。鳩尾や肝臓を強く打てば、呼吸が阻害され、化け物の動きは大きく鈍るに違いない。


「やるしか、ないよね……」


 死が形を為したかのようなあの爪の届く距離へ、自ら踏み込まねばならない事が、恐ろしくてたまらない。択びたくない手段だが、村雨の体力も無限ではない。逃げ回り続けていればいつか速度は落ち、果ては首を飛ばされた骸となるだろう。

 今も鼻先を掠める化け物の腕を、後方へ大きく跳躍し避け、腹を決める。相手が向かってくるより先、自分から走り込み、加速を付ける。軽量の村雨だが、衝突の瞬間まで速度を一切殺さず、体重を一点に全て乗せるなら、大の男さえも悶絶させうる脚力が有る。迎撃する化け物の腕を下へと掻い潜り、硬い靴の爪先で鳩尾を狙い、押しこむ様な渾身の蹴りを放った。

 村雨の技量と身体能力を鑑みて、これ以上は望めない一撃だ。腕を振り抜いた一瞬の空白に割り込んだ蹴りは、確かに化け物の腹へ食い込んだ筈で――手応えの薄さが、信じられなかった。


「――ぇ、しまっ……!?」


「誰が行儀良く見物しているだけだと申し上げました、脳に腐乱の予兆でもございやがりますか?」


 先に、村雨を地面に引き落とした白い糸が、今は束となって、靴と化け物の腹の間に割り込んでいた。柔らかく分厚い糸の束が緩衝材となっていたのだ。

 一撃で体力を削ぎ、反動でまた後方へ避けるという手筈が崩れる。蹴りを放ち流れた体勢のままの村雨に、化け物の爪が、圧倒的な破壊性の塊が襲いかかる。


「――――――っ!!」


 鞘ごと脇差を構え、防ごうとした。脇差ごと、村雨の体が空に浮く。角度の浅い放物線を描いて、五間も吹き飛ばされただろうか。止まったのは勢いの減少の為ではなく、そこに屋敷の塀が有ったからだ。


「かは――ぁ、ぐっ……ぇ」


 背を板張りの塀に強かに打ちつけ、蛙を潰した様な声が漏れる。喉の奥に弁が出来てしまったかの様だ、息を吐き出す事は出来ても、吸い込む事が出来ない。酸素を求めて口を開けると、胃の中身どころか胃袋そのものが逆流しそうな錯覚に襲われる。吐き気を堪える村雨の視界は、涙で滲み、酸欠で歪んだ。

 化け物が橋から離れ、自分が吹き飛ばした獲物へと迫る。子供は何処かへ逃げたか隠れたか、少なくとも化け物の視界の内には居なかったらしい。獲物をどちらにするかと、逡巡する様子は欠片も見受けられなかった。


「えぅ、うぐ……っく、この、こっちに……!」


 来るな、まだ来るな、立ち上がれれば逃げられる、今は駄目だ、来ないで。命令系の言葉が懇願に変わっていくのは、それが例え声に出しておらずとも、心が弱っていく過程を如実に表している。村雨はほんの一瞬、化け物があの子供ではなく自分を狙っている事で、子供に理不尽な怨嗟の念さえ抱いてしまった


「来ないで、来ないでってば! あ、あぁ、何かないの……!?」


 咄嗟には動けない、せめて身を守らねば。先程盾に使った脇差をもう一度翳し――それが既に、元の半分の長さしか無い、ただの鉄屑と化した事を知った。化け物は三間先まで迫っている。

 代わりの武器を探す。手に何かが触れて、祈る様に拾い上げた。赤ん坊の拳の様な、小さな小さな石だった。そんなものにさえすがる様に、化け物の顔へ石を投げつける。避けようとすらしない、顔の皮膚に傷もつかない。化け物は二間先まで迫っている。


「うぁ……ぁ、助けて、誰か……助けてよぉ……」


 赤の他人を助けようとして、化け物と対峙した筈だった。今は、この状況を脱する事が出来るなら、誰にだろうとすがるだろう。それが例え、身代りという形での救済だろうと、蜘蛛の糸を掴む事に躊躇いはするまい――化け物は、もう一間にまで近づいている。化け物の息遣い、空腹を訴える腹の音さえが、村雨の鋭敏な耳には聞こえていた。


「ひ、いや、ぁ……! やだ……死にたくない、やだ、やだぁっ!」


 恐怖心が意思と意地を完全に押しつぶす。そこへ迫る捕食者を見たくないが為に、目をつぶり頭を抱え、闇雲に立ちあがって走り出そうとした。二歩を行く前に、体がまた浮いた。

 半分だけ残っていた脇差は、今度こそ化け物の爪に完全に粉砕される。村雨は、頭を抱えた腕を、化け物の掌で強打された。先の一撃とは逆方向に吹き飛ばされ、落下地点は川。体を打つ事は無かったが、恐怖による混乱で、腰までしかない深さだというのに溺れかける。


「げほっ、がぼ、ぉご……、っは、はぁ、もうやだ……助けて、桜ぁ……」


 岸に這い上がり、咳きこんで気道の水を吐き出す。強打された左腕は、感覚が無いどころか、指一本を曲げる事さえできない。右腕と脚だけで体を支えるのは、心身とも打ち据えられた村雨には酷く難しかった。

 助けを求める声に、答えるものはいない。月明かりを遮る影の形状は、おおよそ自然には有り得ない化け物のそれ。村雨が岸に上がるのを、化け物はすぐ傍で待っていた――おそらくは、獲物を引きずり上げる手間が省ける故に。

 命乞いが通じる相手ではないと知りながら、村雨は祈る様に化け物を見上げた。確実に獲物の命を奪い取るだろう、巨木の様な右腕が振り上げられている。

 あれが降りてきた時、自分は死ぬのだと、月光を反射する爪を恨めしく睨み――空が鉛色ではなく、暗い濃紺に変わっていた事に気付いた。

 雲の一つもない夜空。満天の星の光の中に、一際大きく、そして異質な光がある。自分自身の力で光る事はなく、他者の光を受け取って輝きながら、その色は本来の物とは異なり――


 化け物の爪が振り下ろされる。川岸の土が抉れ、砂利が弾け飛んだ。爪の下に、本来生まれる筈だった死体は存在しない。化け物は獲物を見失い――己の右肩の上に立つ、灰色の少女の姿を見た。

 死の恐怖におびえ泣いていた少女は、今はもう、全てから切り放された孤高として化け物を踏みつけていた。決して届かないと知りながら、高い空に右手を差し伸べる。

 指の遥か先には、雲の晴れた空の中央、赤々と濡れた満月が浮かんでいた。





 橋の欄干に、一人の少女が腰かけていた。水に濡れた浅黒い肌が、洋風の外套一枚だけで覆われている。靴も何も履いておらず、水滴が素足を伝い、川の水面へ落ちていた。


「……なんの冗談でございやがりますか、糞お嬢様……?」


 その声、その言葉選びのおかしさを聞けば、それが橋の下から聞こえていた少女のものであると知る事が出来ただろう。化け物に与し、村雨への妨害を行った彼女は、今、己の目を疑っていた。

 化け物――『人工亜人』とこの少女は呼ぶ――は、息も絶え絶えの村雨に止めを刺そうとしていた。だが、村雨は、振り下ろされた腕を回避しただけでは飽き足らず、人工亜人に気付かれる事なく、その腕に飛び乗り、肩へ立ったのである。

 幾らか距離が有ったからこそ、一連の動作が見えた。対峙していたのなら、影を目に止める事さえ出来なかったに違いない。それ程までに、村雨の身のこなしは、常軌を逸した速度だった。


 己の肩に乗った小煩い獲物を払い落そうと、人工亜人が、左手の爪で村雨を引き裂こうと狙った。村雨は、最小限の跳躍で爪を回避し――落下に合わせ右手の指を、躊躇い無く人工亜人の両目に突き込んだ。


「――!? ――!? ――――――!!!」


 人差し指が右、中指が左、眼球の下から眼下へ指が潜り込み、引き抜く。正常に機能しない声帯しか持たぬ筈の人工亜人が、苦痛の絶叫で大気を震わせた。


「…………ァハハハ、ハハ」


 村雨の手の中に、目玉が二つ。一つを握りつぶし、もう一つを口に入れて噛み潰した。形状を失った眼球を咀嚼し、更に曳き潰して飲み込み、村雨は冷え切った笑いを上げる。

 人工亜人は、痛みに目を覆う。巨大な両手で顔を覆ってしまった、完全に顔面は攻撃が届かない。これ以上の痛みから逃れる為の緊急避難だろう。

 然し、村雨が次に狙ったのは、顔面では無かった。同じ頭部では有るが――側面、耳だ。左手で拳を作り、小指だけを伸ばし、人工亜人の右耳に突き刺す。本来の耳の直径を強引に破壊して指は進み、鼓膜を爪の先が貫いた。指を引き抜いて、肩から村雨が飛び降り、僅かに遅れて人工亜人の耳から、鮮やかな血が流れ落ちる。


「ギィィ――――ギアアァッ、ギガッ!!!」


 人の顔をしながら、人とは思えない奇声を上げ、人工亜人は腕を振り回す。盲の闇の中でのあてずっぽうは、ただの一撃も、地上に降りた村雨を捉える事は叶わない。

 それどころか村雨は、全ての爪を至近距離から、前髪数本だけに掠らせて避けていた。大きく離れようとせず、張り付く様にしているのは――次の手を、容赦無く打ちこむ為。右手の人差指と中指が、眼球の次に狙ったのは、人工亜人の鼻の穴だった。

 鼻の穴に指を突っ込むと、文字にしただけでは、威力の程が伝わらないかもしれない。だが、鼻の穴の中は粘膜だ。鍛える事など出来ないし、傷つけば只の皮膚とは比べ物にならない痛みが走る。

 それだけではない、鼻は呼吸器だ。傷ついて出血すれば、大きく呼吸は阻害される。それを知っていて村雨は、鼻腔に突き刺さるまで指を押しこみ、爪で粘膜を引き裂きながら指を抜いたのだ。

 転倒し鼻を打った場合などとは比べるべくもない程、大量の出血。人工亜人の鼻の機能は完全に破壊されただろう。


「ハハハ、ハハ――アッハハハハハ、ハハハァ……!」


 空になった眼下から滂沱の涙を流す人工亜人は、左耳だけに、その狂笑を聞いた。音の方角へ腕を振るう、何を捉えた感触も無い。当然だ、その時には既に、村雨は人工亜人の背後に回っていた。

 人工亜人の背後、村雨の口が大きく開かれ、ヒグマそのものの右肩に噛みついた。歯が毛皮に食い込む、腱がぶつぶつと切り裂かれていく。血が噴水の様に噴き上がったと同時、村雨の犬歯が、人工亜人の肩肉を喰い千切った。血管と腱、神経が破壊された様で、巨大な右腕が完全に力を失う。血塗れの肉の塊が、村雨の腹に収められる。


「……下手な刃物なら、毛皮も通さぬ程だと言いますのに……うそぉ――」


 欄干に腰掛けた少女は、この戦闘――いや、狩猟。ここに於いて、捕食者と被食者は完全に逆転した――に、介入すら忘れたかのようであった。人工亜人が、正真正銘の化け物が、無残に破壊され喰われていく。驚嘆の言葉を並べ終える前に、次は左肩の肉が食われ、人工亜人の両腕は完全に沈黙した。

 見えず、聞こえず、戦う事も出来ない。生きているだけの肉の塊になった人工亜人へ、村雨の狂爪凶牙が襲いかかる。膝裏を右手人差し指で強く突き、痛みで転倒させ、大腿に噛みつく。食い千切ったのは、僅かに大腿動脈に届かない位置の肉。出血多量で安らかに死ぬには、まだ時間が必要となるだろう。


「――嬲ってやがりますか、あの化け物」


 化け物と、少女は村雨を指してそう呼んだ。既に人工亜人は死を待つだけの餌であり、村雨は嬉々としてそれを破壊する化け物だ。欄干から少女は滑り下り、川の水に溶けるように姿を消す。

 うつ伏せに動けなくなったその首筋に、包丁の様に鋭い犬歯が近づいて――バシッ、と鋭い音が響く。いつの間にか駆けつけていた桜が、村雨の頬を張り飛ばしていた。

 頬への痛み、そこに居ないと思っていた筈の人間が居た事への驚愕。村雨が硬直している間に、桜は短刀を逆手に持ち、人工亜人の後頭部へ振り下ろし、確実に絶命させた。





 狂笑が止む。人工亜人の血に染まった村雨は、己が月より尚赤い事に気付いた。顔を服の袖で拭い、じんと染みる様な痛みのある頬を、手で押さえる。

 視界が暗くなった。何事かと思えば、村雨は桜の胸に抱きしめられていた。べっとりと濡れた顔が、小袖の布に押しつけられ、血の赤が落ちる。水に濡れた体は、夏とは言え夜風に晒せば寒さを感じる。背に回された腕が、暖かく心地よい。


「……殺すな。お前が殺すな、あれも人間だったのだ」


「ぁー……さく、ら……?」


 その声は、村雨の聞き違いではなく、震えていた。過ぎてしまった事に遅れて恐怖を抱き、もしまかり間違えていればと可能性にさえ恐怖する、酷く臆病な声。落ち着き払った普段の様子は、そこには見受けられなかった。


「殺さなければならない、そういう日が来るかも知れん。その時にお前が選んだ道なら、私は幾らでも見届けてやる。だが……これは違うだろう?」


 村雨の体から、異常な陶酔が抜けていく。強者をより強い力で嬲り喰い殺す事の悦び、生物として不必要な領域の殺戮欲求が消えていく。自分が何故ああなったのか、村雨は知っていた。桜が何故、こうして声を震わせているか、村雨は分からなかった。


「頼む、お前は人のままで居てくれ……お前は、人間なのだろう……?」


「……なんで、此処に―――ううん、勝ったんだよね……?」


 ただ、桜があの化け物を仕留め、自分を助けに来た事は理解出来た。もう、あの化け物が誰かを殺しはしないという事、自分も桜も生きているという事が分かった。衣の様に己に被さる桜の黒髪に、村雨はそっと指を通す。血と脂に塗れてはいても、赤みを帯びた艶は、赤い月などより数倍も美しく感じられた。もう、月酔いは醒めていた。


「ごめんね、ありがとう……ごめんね」


「……大馬鹿者、何を捨てても逃げればよかろうに……馬鹿め、この馬鹿」


 桜の指が、村雨の髪を掻き乱す。自分の灰色の髪は長さも無く、桜のそれと比べれば見劣りすると、村雨は常々感じていた。だが今は、こうして指で梳かれていれば、不満など何も見つけられない様な気がした。

 空は再び、鉛色を取り戻していく。月の目から隠れた地上で、村雨は、今暫く桜に抱かれていようと、川辺の草に背を預けた。

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