御旗のお話(9)
夢も見ぬ深い眠りから、雪月桜は目覚めた。
見上げているのは、比叡山中にある本堂の天井。背には、平素に用いていた煎餅蒲団とは違い、賓客に用いるものか、柔らかい蒲団の感触を覚える。
体を起こすと、自分が真っ白い襦袢を着ている事に気付く。晒も、髪を結んだ紐も解かれている。
枕元には掛台が二つ置かれている。
一つには脇差『灰狼』と、呪切りの太刀『言喰』が。
もう一つには黒太刀『斬城黒鴉』が、鞘に塵一つも無く鎮座していた。
立ち上がり、両手をひゅるりと、刀に見立てて振り回す。筋、腱、骨、五体の一切が思うように動く。
風圧に靡いた三尺の黒髪は、根元から毛先まで手櫛を通せるような、元の艶めかしさを取り戻している。
雪月桜の、万全の姿であった。
「起きたんだ」
「おう」
襖を足で開け、村雨が本堂に入ってくる。
盆の上に、白米を山盛りにした茶碗と、湯気の立つ味噌汁を入れた椀、小皿には漬物と、何か獣の干し肉を数切れと――朝食とも昼食ともつかぬ時間帯であるが、それを運んで来たのであった。
寝起きの食としては中々に豪勢で、籠城中の粗食に慣れた桜には、染みる程に美味と感じる飯であった。
それから着替えを始めた。
襦袢を脱ぎ、裸形となった桜の胴に、村雨が晒を巻きつけてゆく。
腹の上に幾重にも、臓腑を守る鎧として、硬く硬く巻きつけ、背の側で一度結ぶ。それから、残った布で胸を、やや強く圧し潰すように巻き留めた。
晒に軽く爪を立て、爪の硬さを腹に感じぬようになってから、黒の小袖を纏い、袴を穿く。
脇差も、太刀までも佩くのではなく帯に差して、黒太刀を背負う。
何れも一つと欠けてはならぬ、桜の〝正装〟である。
「私は、どれだけ寝ていた?」
「丸一日とちょっと」
「そんなにもか……道理で力が有り余っている」
「そんなに?」
力瘤を誇示するように腕を曲げてみせる桜が、あんまり子供染みて見えて、思わず村雨は吹き出しそうになる。
「おお。疑うなら、今からでも閨で教えてやろうか?」
「馬鹿」
然し、その次に続く戯れを聞けば、村雨は顔を赤らめながら、桜の胸を拳で叩く。軽く細やかな音で、痛みもない拳である。
「……ほんっとうにこういう所は直らないんだから……山に籠ったのに、お念仏の一つも唱えなかったの?」
「生憎私は洗礼を受けた身でな。大体にしてその程度で掻き消える程、安い煩悩なぞ持ち合わせておらんわ。刀、美酒、美食、歌舞音曲に閨房、全て望むだけ味わってこそ、この命ではないか」
「はぁー……ったくもう、まったくもう……」
全く、何も変わっていない、と。呆れたようにも、また懐かしむようにも、村雨は小さく首を振った。放言ぶりは頭痛の種だが、その頭痛さえが懐かしく思えた。
然し――変わったものとて、有る。
それは、桜自身の変化でもあるだろうし、表に出さぬそれを嗅ぎ分けられるようになった、村雨の変化でもあるのだろう。かかと高笑いする桜の頭を捕まえ、顔を自分の方へと向かせて、村雨は問うた。
「……〝刀〟は、本当に楽しめた?」
「……いいや」
真っ直ぐに射抜いて来る目を見れば、桜も戯れに逃げられない。目を伏せ、素直に答えた。
「私は……戦とは、楽しめるものだと思っていた。それまでの争い事は、必ず私が勝っていたからだ。ところが驚いた事に、本物の戦というものは、私がどれだけ一人勝ちしてもまるで意味の無いものでな。私が何人も斬り殺している間に、別な所で何人も殺されていたよ」
「――――」
「飯は日に日に不味くなるし、昨日見た顔を今日も見られるとは限らん。屍体を投げ込まれた時は、鼻がたちまち駄目になった。砲撃は――これはどうにもならんと諦めた。
夜も心安らかには眠れん、娯楽も無い、一人寝は寒いし寂しいしで、何一つ良い事など無かったぞ」
桜は、己が辛かった事ばかりを語る。
だが――桜は結局、比叡の山に入る前に持っていたものは、何一つ失っていないのだ。
失ったものは悉く、自分の所有物ではない『赤の他人』に属するものばかり。
何も変わらぬように見える桜に、たった一つ変わったものがあるとすれば――気紛れでなく芯から、他者の苦しみを嘆くようになった事であった。
「なあ、村雨。楽しくない事をやるのは、自分から選んだとしても、嫌なものだなぁ」
「うん、うん」
「戦とは、嫌なものだなぁ」
何事も無いように零す愚痴に、村雨が返すのも、ただの相槌だけ。慰めの言葉も無い。
嫌だ、嫌だと繰り返す桜の隣で、うん、うんと、桜が飽くまで幾度も幾度も、村雨は頷き続けた。
やがて――桜が憂さを言葉にしてすっかり吐き出してしまった後、村雨はそっと、桜の背を押した。
「それじゃあ、行こうか……終わらせに」
「うむ。全く、こんな面白みの無いものは、さっさと終わらせるに限る!」
力強く言い放ち、桜は障子をぐわっと開いて、縁側から本堂の外に出た。
既に本堂の前には、食い、飲み、眠り、鋭気を存分に取り戻した兵士達が、官兵も民兵も入り混じり、雑然と並んでいた。
彼等は、桜が本堂より現れたを見て――それから、村雨がその後を追って現れたを見て、雑語を挟まぬままにさざめいた。
その眼前で桜は、黒太刀『斬城黒鴉』を抜いた。
刃渡り四尺の黒太刀の、切っ先をすうと空に向ければ、その威容は絶人の域。兵士達は皆、言葉を呑んだ。
「これよりは、誰も――」
彼等に、桜が呼び掛けようとする。それを村雨が、片手を口の前に翳して制した。
桜は粛々と、村雨の制止に従う。
この群れの長は村雨なのだと、認可したのだ。
村雨は完全な人の姿でなく、腕や胸、腹に灰色の体毛を纏う、亜人の本性を表に現している。人と離れた己の姿を、寧ろ誇示するが如き様相であった。
そして、村雨が己の群れに与えたのは、呼び掛けではなく問い掛けであった。
「誰も、不幸になる必要なんか無い。そうだよね?」
思えば――長い戦であった。
実際の期間をこそ思えば、古の戦には、それこそ十数年と続いたものもある。洛中の焼き打ちより始まった内乱は、一年を経ずして終結しようとしているが――それは飽く迄、書に記した墨の後として、後世が定める基準でしかない。
戦に関わってしまった誰もが、苦しみを味わった。その苦痛は、果たして何時晴れるものかも分からぬ、無限地獄にも思える月日であった事だろう。
「戦の前と後を、目を閉じて比べて見たんだ……そうしたら私達って、どう考えても不幸になってるんだよね。色んなものを失くして、沢山の人とお別れをして、新しいものは何にも手に入らない。取り上げられるばっかり。
誰だって、不幸になりたいなんて思ってないのに、そう思ってる同士で戦を起こして、誰も幸せになれなかった。今だって、幸せを取り戻してない人が沢山居る……酷いよね」
殺し合った当人達は、誰か戦を望んでいたのか――?
きっと、戦を生業とする一部の武人を除いては、誰も戦を望みなどしていなかった。
ただ日々を平穏に、何事も無く生きていられるのなら、それが幸せである筈だったのだ。
取り戻せない幸せ――それは、過去となった日常。灰となった建物や、奪われた命や――そういうものが当たり前のように有った、何時かの風景である。
「でも、さ。これ以上、不幸になる人を増やさないくらいの事だったら、私達で出来るんじゃないか、って思うんだ」
村雨は言葉を区切り、兵士達一人一人、端から端までを見渡す。義気に燃えた男が居る。次の言葉を待つ、忠義の士と見える者が居る。
そして、誰に憚る事も無く、涙している者が居る。
嘆く事にさえ、人は力を必要とする。
地獄の針山の上に在りては、涙さえも枯れ、哭声を為す喉も潰れようものだ。僅かなれど平穏を取り返して漸く、彼等は泣く事が出来たのだ。
だから、涙を誇りこそすれ、憚る事は無い。村雨も何時しか、涙を頬に落としながら、拭いもせずに声を張り上げていた。
「私達は、包囲されてた筈の比叡山に集まってる。それは、皆の勝ちが集まったからだと思う。
官兵の皆は、荒れた洛中でも規律を失くさないで、守らなきゃないものを守り切った。動きたい時にじっと耐えるのは、動いて潰されるよりずっと勇気のいる事だよ。
兵士じゃないのに武器を取ってくれた街の皆も、下手に反抗したりしないで今まで我慢してくれた。だけど、逆らわないけど屈服もしないで、兵部卿を許さないって気持ちを弱らせなかった。そうじゃなかったら、もしかしたらなし崩しに、この国が兵部卿の物になってたかも知れない。
それから――比叡山で戦った皆、お年寄りも子供も、お坊さんも……あなた達が一番、誰よりも辛かったと思う。ありがとう、耐えてくれて、まだ戦うって言ってくれて――生きててくれて。
皆、自分のやり方で戦ってくれて……だから私達は、此処に集まれた。だから、もう、我慢なんか必要無い!
もう誰も苦しませたくない! 誰だって死なせたくない! それくらいの我儘、誰も言わないなら私が言ってやる! 自分の幸せだって、誰かの幸せだって、もう一個だって譲ってやるもんか! 皆が重ねてくれた小さな勝ちに、あと一つだけ大きな勝ちを重ねるまで、絶対に止まってなんかやるもんかっ!!」
最後はもはや、泣き声も半ばまで混じった叫びとなっていたが、村雨の声は確かに、居並ぶ兵士達の隊列の、最後尾にまで響いた。
誰かが同じように、涙しながら空に吠えた。
ぽつぽつと、群れの中に起こった咆哮の衝動は、瞬く間に周囲へ広がる。やがて彼等は声を揃え、一つの群れは一頭の巨大な獣となって、ときの声を上げた。
決して道を違えるまい――狭霧兵部を討伐し、国を安んじるまで、残り僅かな道程を踏み外すまい。不退転の意が、彼等の芯に突き刺さったのであった。
熱狂の渦は、声の限りに吠え、叫び、泣き続ける。それは、抑える事を美徳とされる感情を、思いの侭に解き放つ陶酔を伴って、何時止むとも知れぬままに続いた。
その熱を肌でひしひしと感じながら、然し離れた所から、その様を見ている者が居た。
一人はハイラム=ミハイル・ルガード。遥か西の〝帝国本土〟から命を受け、『ヴェスナ・クラスナ修道会』信徒から成る三百の銃兵を組織し、比叡山包囲軍の側面を突いた男である。
彼の横に並び、村雨達が上げる気炎に手を合わせ拝んでいるのは、紫の袈裟を纏った大男であった。僧形だが、学問より寧ろ僧兵としての技を修めるのが似合いそうな、骨格の頑強な男である。歳は五十と少々であろうか、袈裟の色を鑑みれば、若い部類と言っても良かろう。
「良き熱、良き熱、人は熱を失くしては生きられぬ。消えた火が今一度灯りましたな」
「人を戦に駆り立てるは貧困か空腹か熱狂か、何れにせよその他を顧みる事も出来ない盲目の枷であるとは思うが、然し祈りにも似た熱狂ならば度が過ぎて死ぬという事も無いのは安全無比で誠に結構。――が、よもや座主殿までその熱に浮かされるとは思いませなんだがさて、新たな座主殿は戦の熱を好まれる性質でいらっしゃるか」
「熱とは戦のみ伴うものにあらず。凶事は忌むべきなれど、門徒の瞳に光が戻っております。喜ばずにおれようか!」
一呼吸にて振るうハイラムの長広舌は、些かの翳りも無く健在である。然し〝座主〟と呼ばれた大男は、涼しげな顔でそれを受け流す。
比叡の山の座主は、エリザベートの放った〝蛇〟に毒殺された。この大男は、その空席に新たに任命された僧侶である。
任命には朝廷の認可が必要となるのだが、令を記した書状は、実は堀川卿がしたためたものを先んじてハイラムに渡し、朝廷の事後承諾で有効性を持たせたという代物であった。
何故、僧侶の地位を定めるのに、朝廷よりの沙汰が必要か。それは、日の本に於いてただ一人、比叡の座主のみが『別夜月壁』を起動し、制御し得るからである――と言うより、座主に任命されて秘伝の儀を終える事で、制御の術を得るのである。
拠って今、比叡の山には、例え巨砲〝揺鬼火〟の砲撃であろうと、決して貫けぬ防壁が復活しているのであった。
「……さて、さて、ところで座主殿、私はかねてより疑問に思っていた事があるのだがね」
と、ハイラムは、彼にしては珍しく、短い所で息を継いで、座主に問うた。
「ふむ、迷える子を導くは宗教者の勤め、答えてしんぜよう」
「新たな座主殿は冗談がお好きと見えるが――と、否、否、冗句の巧拙を論じて優越を定める戯れは後の愉しみとしておこう。
……私はこれで狭量な性質と自負していてね、偉大なる枢機卿猊下と我等が父の名に於いてこの任を拝命したまでは良いが、どうしても知らずには居られぬ疑問がある。これを氷解せしめずにこれより先の戦に望んでは、或いは躊躇逡巡が足を引く枷となり、あらぬ場にて不覚の矢に倒れぬとも断じられぬのでね」
存分に舌を走らせたハイラムは、座主の隣に立ったまま、首だけを横へ向けた。そして、穏やかな横顔に向けたのは、罪人を付け狙う狩人の、獲物を見定める目であった。
「仏教とは、なんだ?」
ハイラムは、己が言う通りに、狭量の性質が強い。己が正しいと信じる教義こそ正当のものであるという、考えの凝り固まった部分が有るのだ。
聖書の一般的な解釈より、己の認識を優先するという、或る種近代的な思考でもあるのだが――その彼の知る中に、仏教というものの知識は無い。
知らぬものは、肯定も否定も出来ぬ。果たしてハイラムは、仏教徒とは己の神の敵であるのか、そうでないのかを見定めようとしていた。
抽象的な問い――その意図を、如何様にでも解釈できる。質問者の中にある正解を見つけるのは、極めて難しい形の問い。それを受けた座主は、にかっと唇の端を吊り上げ、顔に皺を幾筋か増やした。
「ならば先にお教え願いたい事が有るが、果たして耶蘇教とは、何か?」
「問いに問いを返すは幾分か卑怯の謗りを免れ得ぬ術とも思う所ではあるが――」
元より、聞くより語るが得手のハイラムである。水を向けられるでもなく、一度言葉を区切って、思い切り息を吸い込んだ。
「我らが偉大なる父とその子とが地上にもたらした唯一絶対の教えにして、地上を生きる全ての人間が規範とすべき道徳集、社会運営を円滑と為す為の滑車。善良なる者の助けとなり悪しき者は罰則を与える根拠であり、善悪を知らぬ中道無垢の赤子をして我らが父の子と育つまでに運ぶ馬車であり、またやがて死す日に死を恐れず残す者を嘆かせぬ慰めでもある。
……が総括すると、〝人が正しく生きる為のもの〟とでも言えば良かろうかね。だから私を含めた修道会の同胞は誰しも、偽の聖女エリザベートの存在を看過出来ぬのだよ」
一呼吸、であった。
彼の心中でこの答えは、決して揺るがぬ鋼の柱として聳え立っている。迷いなど何もない、答えであった。
「なれば御仏の教えは、些かお主には緩やかに過ぎるやも知れぬ、ハイラム殿」
「苛烈は自覚の上だが、私は断食を耐えられる程の胃袋を持ち合わせていないとも」
「身体ではない、心根の事である。そも釈迦牟尼尊者は何不自由無い王族の元に生まれて、不自由が無い身の上に悩み、不自由多き俗世にて悟られた。その教えが転がりに転がって、この日の本へ辿り着いたところ、のんびりした気風に染まって、教えもまたのんびりと緩やかになったものでな」
「――――」
一方でまた、この座主も、己の中に答えを持った人間である。
一つ正しいと信じた道を数十年、一日と止まずに歩み続けた者の言葉は、早口というのではないが、淀みが無かった。
「死ねば仏、という言葉がある。頭髪全て削ぎ落として、日夜念仏三昧の拙僧も、狭霧兵部の如き悪鬼でさえも、死ねば全て隔てなく仏! ……ああいや、本義は違いますがな。落つれば同じ谷川の水というように、拙僧が考えているだけの事。谷川の水はやがて海へ流れてゆくが、何処かから空へ返って、いつかまた雨となって下界に降る――これを輪廻と呼ぶ。この輪から抜け出す事を目的とするのが仏教であるが、然し不思議とこの国の仏教徒は、輪から抜ける事を嫌がる節がある」
「ほう、ほう。教義に背く事が、教徒の望みとは極めて奇妙、珍奇の沙汰」
「いやこれが案外に、奇妙でも不思議でもない。死ねば仏とは即ち、我々凡俗とは異なる世界に旅立ってしまわれるという事で、大層目出度いが寂しいもの。それよりは、幽霊として近くにいるなり、いつか生まれ変わって帰ってくると思うなりした方が、別れの悲しみも癒えるのが早いではないか!
……よってこの坊主が思うに仏教とは、正しき者は死後と次の生に於いて報われると説き、それによって生に安らぎを与える――即ち、〝人がよく生きる為のもの〟である」
何本か抜けて足りなくなった歯を見せ、座主はからからと笑った。陽気な音は、己が例え悲哀を背負ったとしても、微塵も零さぬ堤のようであった。
これもまた、一廉の人物である――無条件にそう思わせるだけの力が、座主の声には有った。或いは、信心に対する絶対の確信が、彼の言葉に説得力を与えているのやも知れなかった。
「……私の立場として、輪廻転生は否定すべき思想ではあるのだが――〝よく生きる為〟というのは良いな、上人殿」
「はっはっは、良かろう」
異なる道を歩む二人は、同じ方向を向いて並びながら、それぞれのやり方で朗らかに笑い声を上げた。
或いは穏やかに、或いは劇的に、反狭霧兵部の気勢は高まる。もはや二条の城が陥落するのは時間の問題であると、誰もが思っていた。
そこへ、ざかざかと雪を蹴散らす、不吉な音が割り込む。
修道服の若者が、血相を変えて駆け寄って来たのであった。
「司教――ハイラム司教!」
「……その堅苦しい肩書きを我が名に連ねて呼び立てるとは一体何事か――」
若者の服には、明らかに血の汚れが――それも、まだ真新しい汚れが付着していた。あまりに新しい為か、触れれば指を濡らすような、日光を浴びると鈍く光りつつも、黒くなり始めた血である。
未だに村雨が呼んだ熱気は失せぬまま、若き修道士は、ハイラムと座主の二人だけに告げた。
「二条城攻略に先んじて進軍した、我が修道会の同胞五百……その大半が……!」
堀川卿に率いられ、二条城を包囲した二千の軍が見たものは、この世のものとは思えぬ悍ましい光景であった。
二条城の窓という窓、矢狭間という矢狭間から、人間の部品が釣り下がっているのだ。
解体され、手足の組み合わせも不正確に飾られている亡骸は、『ヴェスナ・クラスナ修道会』が二手――比叡山と、二条城――に分けた内の片方、五百の兵を虐殺したものであった。
生き延びたものは、僅かに数人。その他は殺し尽くされ、飾りに使われなかった亡骸は、進軍を阻む柵のように、城門付近に無造作に積み上げられている。
地獄の形が、其処に有った。
「……俺の愉しみは、これまでとなるか。どう思うね、どう思う」
真新しい頭蓋骨を短刀で削り、盃を作りながら、狭霧兵部は吉野に問う。
この日、吉野は鉄兜を外し、素顔を晒してただ一人、狭霧兵部の側に侍していた。
「なりません。これまでも、この先も、貴方は老いて死ぬまで、誰かを殺し続ける方です。五百の死で満足してくださらない、欲の深い、業の深い――」
「黙れ、差し出がましい」
狭霧兵部は、血と臓腑の匂いに満たされ、この上も無く上機嫌であった。
頭蓋を切り取られた生首を、戯れにぽんと蹴り飛ばすと、中に収まっていた脳漿が飛び散って、それで尚更に興を得る。
「……紅野を呼んで、宴でも開くか」
その思いつきもまた、大層に愉快であったか、狭霧兵部は声を上げて笑い、笑いながらまた叫ぶように言うのだ。
「戦の前の景気付けだ、俺の鋸を持って来い! 酒もだ、飯もだ、出し惜しみはするな! 主賓は俺の娘なのだ、大いに祝うぞ!」
己が遂に朝敵となった事を、この男は知っている。だからこそ、何に遠慮する事も無く、誰をも殺す事が出来ると――それが嬉しくてならぬ。。
狭霧兵部、いや狭霧和敬は、愈々魔王の如き狂相を露わにして、新しい盃に酒を注ぎ始めた。




