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御旗のお話(7)

 堀川卿の髪は、一本一本が、彼女の意の侭に動かし得る、手足の如きものである。

 それが、部屋の扉を内側から閉ざし、窓を閉ざし――そして〝男〟に刃を向けていた。

 金糸が暗がりの部屋に、鋼を連れて踊っている。

 誰の介入をも許さぬと、堀川卿は腹を括ったのである。


「狭霧兵部の、討伐とな」


「国家百年の大計を求めるならば、必定、為さねばならぬ事と存じます」


「あの男程に戦に長けた者、謀略に長けた者を、そなたは知っていると言うか」


「いいえ」


「ならば狭霧兵部を除く事は、我が国の力を削ぐ事になりはせぬか」


「いいえ」


 〝男〟は、「ふう」と溜息を吐くと、その場に寝転がろうとした。だが身動ぎをすると、喉元に短刀が近づいて、その動きを阻害するのだ。

 座したまま、前を見据えて聞けと――今、命じる立場にあるのは〝男〟ではなく、堀川卿であった。


「まずは貴方様の、分からぬ事を申し上げましょう。貴方が「醜い」と言ったあの娘に、私が、我等が、如何なる思いを抱いたか」


「ふむ?」


「……哀れと、そう思いました」


「哀れ、か」


 その言葉が、全く知らぬ言葉であるかのように、〝男〟は「あわれ」と、音をそのままに、幾度か繰り返す。

 空虚な響きである。

 音だけは同じ形をしているが、他の誰かから発せられれば鮮やかに胸を締め付ける赤い言葉が、〝男〟が発すれば枯草か藁の色なのだ。


「あれは狭霧蒼空、兵部卿の次女。気狂いと評判で、実際に死屍を連れ来て発した言葉も「直せ」と、道理の分からぬ言葉でありました」


「全く、醜い有様であった。天地、人の理を知らぬ、悍ましい様であった」


「我等はそう思いませぬ。あれは人の理を〝与えられなかった〟、悲しく哀れな幼子の姿でございます」


 堀川卿は、膝でずずいと前へ出る。亜人たる彼女の目は、灯りを閉ざした部屋の中でも、〝男〟の表情の変遷を捉えている。

 今、〝男〟の顔に、鷹揚たる主君の面影は無い。理の通った答えを求める個人の、堅い顔が在るばかりだ。それを見た堀川卿は、奥歯をきりと一度鳴らしてから、次の言葉を選んで続けた。


「始めに一つ。そも人が人と〝成る〟為には、何が必要と考えまするか」


「問答か?」


「否、これは年長者よりの説教にございます」


「ほっ」


 その言葉があまりに意外であったのか、刃を向けられているというに、〝男〟は思わず手を打って前のめりになった。

 常々、敬意に満ちた言葉以外を浴びぬ身。驕慢の質は持たぬといえど、慣れぬ言葉も有ろうものだ。


「虫は生まれたその時に虫、鳥は生まれたその時に鳥、獣は生まれたその時に獣と成ります。然し人は、生まれたその時は、まだ獣に過ぎませぬ。人が人と成るには、人に導かれねばなりませぬ」


「………………」


「貴方が人として育ち、今こうして、私の言葉を解する耳と知恵を持つのは、貴方を育てた人間の恩恵ではございませぬか。いいえ、もっと狭く絞るのならば、貴方に君主としての自覚を、使命感を、気構えを与えたは、貴方の亡きお父上ではありませぬか」


「……嗚呼」


 然りとも否とも言わぬが、〝男〟は呻き声で、堀川卿の問いを肯定した。


「故に、人と成った者は皆、例外無く、誰か人に育てられた恩を受けております。望む事すらなく――人に成らぬ獣に望む理知も無く――与えられた恩が、我等を人として育てました。

 その恩を、十分に与えられずに育ったが、あの狭霧蒼空という娘なのです。命の尊きを知らず、死の悲しきを知らず、また屍が再び動くとさえ思い違うその哀れを、貴方は嘆きもせず、ただ醜いと詰った! それは只人の在り方であり、貴方のお父上が望んだ、主たる者の在り方ではございますまい!」


 愈々堀川卿は、立ち上がって〝男〟に詰め寄り、その爪先が〝男〟の膝に触れるまでも近づいた。

 その口から零れる怒気に、常の怠惰の気配は微塵も無い。厳格の霊が乗り移ったが如き、峻厳たる声の響きである。


「狭霧兵部が作る国とは即ち、あの形なのです。人が人として育たぬ、狂気にさえ至らぬ、幼きが故の過ちに満ちた――貴方の言葉を借りるなら〝醜い〟、我等の言葉を以てするなら〝哀れ〟な国!

 先の世代に託す為、今の世代を絶やすと言うのならば、先の世代を育てる〝親〟は、果たして誰が務めるのか! 狭霧兵部の治下に在りては、〝誰も居ない〟と答えましょう! 比叡の山を、仏門を悉く根絶やしにしようと企てるが如く、日の本の良民は悉く、あの男の些細な楽しみの為、殺し尽くされるのだと!」


 ざんっ、と、〝男〟は立ち上がった。

 何を言うでもなく、立ち、堀川卿の顔を、良く見えぬままで見下ろす――固く強張った顔のままで。


「……二つ。あの子犬の家族は、何をしたと思いまするか」


「子犬の家族とは、親犬か」


「いいえ、子犬と共に暮らしていた、痩せた浮浪児達にございます。彼等は掛けた短刀を以て、一騎当千の剣士である狭霧蒼空へ、突きかかろうとしました」


「斬られた、のか」


「止めが入らねば、斬られていたでしょう」


「恐れぬのか」


「恐れをも覆い隠すのが、家族を奪われた者の嘆き。私も子が一人、江戸に逃がしておりますが、我が子に毛ほどの傷をも受けようならば、下手人の命など露草の如く詰み取りましょう。

 仮にお父上が、安らかに病床にて崩御なされたのでなく、誰か悪党の手にかかったとあれば、貴方は赦せまするか」


「……否、であるな」


「左様ならば、民も同じなのです。狭霧兵部の悪行により死んだ、幾千もの良民の――父母兄弟、子孫、朋友、主従、その他形を問わずに関わった多くの者が、狭霧兵部を憎みます。その業を後押しすると言うならば、貴方の御名を以て業を為したも同様となり、衆怨は天にも届きましょう」


「己が悪名を、私は恐れぬ」


「私が恐れるのは、貴方への怨嗟が募り、この世を乱す事のみでございます」


 金髪、金眼、堀川卿の容姿は、日の本に在りては際立った異形である。その両眼がくわっと見開かれると、世から隔絶した感が、常にも増して大きくなる。すると「この世」と国を語るのが、碁盤を上から見下ろすように、ぴたりと嵌るというか、似合うのである。

 先に〝男〟は、史書の中に己が如何に刻まれようと、それは意に介さないと答えた。だが、堀川卿が指摘するのは、〝男〟という個人の事ではなかった。いや寧ろ〝男〟が永代の悪名を被る事など、どうでも良いという風情でさえあった。


「天下は〝狭霧兵部とその傀儡の王〟を共に憎み、やがては反乱の狼煙を上げましょう。……国力が増そうと、海の外に領土を増やそうと、例え世界の全てを版図に収めようと、人の感情までは支配できませぬ。必ず、誰かの憎悪が何時か、狭霧兵部を殺します。その時、狭霧兵部が国の主柱と成っているのなら、この国も共に崩落するまでの事。つまり、国の柱たる貴方が、狭霧兵部を重用してはならぬのです」


「むむ……」


「即ち、貴方が狭霧兵部をこの後も重用すると言うなら、貴方が望む百年の大計は、貴方が安んじようと望む民草の手により崩れ去るのです、お分かりですか」


「………………」


 暫し〝男〟は、立ち上がったその姿勢のまま、少し首を反らせて、天井を睨みつけていた。

 天井には何も無い。だがその向こうには、どれ程とも知れぬ程、広い空が広がっている。それを感じているのである。


「堀川よ」


「はい」


「国とは、なんだ」


 視線が降りぬまま、問いばかりが下りた。問うたばかりの〝男〟の手は、堅く握りしめられ、指の隙間から血が滲んでいた。


「私は父を敬愛している。だから、父が遺したこの国を、私は世界の一等に育て上げたいと、そう思った。私の時代を捨てようとも、未来は必ず、父の望んだ強国が生まれるであろうと」


「……恐れながらそれは、国を〝領地〟と見、民を〝付属〟と見なすお考えです。やがて入れ替わる民を眼中に置かず、不変である天土こそ、国であるとする」


 何時しか堀川卿は、〝男〟を囲む刃を退かせていた。

 戸も窓も抑え込まず、力の後ろ盾無く、一人と一人として、〝男〟に説いていた。

 何を、か。

 道である。

 幾百幾千の才を束ねる『錆釘』の長は、今、王佐の臣たらんと賢を振るっていた。


「違うのか」


「国とは、人。今、貴方と同じ時に、同じ空の下に生きている、民草の全てが国なのです。貴種も下賤も隔てなく、老若も問わず、一切全て、ただ一人と踏み躙ってはならぬ、貴方の国……お父上が愛された国とは、つまり」


「……そうか」


 膝から〝男〟が崩れ、木板の床の上に、ごつんと堅い音を立てて横たわる。

 助けを求めるでも無く、痛みに呻くでもなく、仰向けになって、見えぬ空を掴むように手を伸ばし――


「我が父が愛したは、山でも川でも無く、人であったか」


「はい」


 その目の縁に一滴、溜まっていた水が零れて落ちる。それが呼び水となったか、暫し〝男〟は動かぬまま、声無き嗚咽を漏らしていた。

 やがて嗚咽が収まり立ち上がった時には、その顔には何か、濁りの抜けた川の如く、すがすがしいものが宿っていた。

 男となった者の顔、であった。


「……礼を言おう、堀川」


「及びませぬ。それよりは」


「分かっておる」


 堀川卿は再び座し、頭を垂れる。五丈敷きの金髪は、彼女の纏う衣の上に織り絡み合い、金糸の被衣を乗せたようであった。

 それから許しを得て、〝男〟の耳に口を寄せると、幾つかの策を囁いた。

 その全てに〝男〟は「良し」と言い、そして日の昇らぬ内に、闇に紛れ、元の住まいへと舞い戻ったのである。

 何時しか、日を跨いでいた。

 1794年2月28日、日の出前の、鳥の目覚めより早くの出来事であった。






 〝男〟と堀川卿の密談は、後世に、史実として語り継がれるものであろう。

 天下の大勢を動かす事件とは、隠密裏に起こり、表層に現れる時は既に完了されている。そして、後日つまびらかとなった時、幾分かの整形を経て、司書に刻まれるのである。

 然しながら、人の流れとは、表に現れるものばかりではない。

 この時、全く平行してもう一つの流れが、洛中に生まれていた。

 それは堅牢の獄より起こったものであった。

 

「……湿っぽいなー……」


「風通し悪いですもんねえ」


 明かり取りの窓の他、風の流れる道も無いような牢獄の中、まるで日の下で交わされるが如き呑気な会話が行われていた。

 当事者二人は、はっきりと互いの顔が見える距離にまで近付いている。

 二人を隔てる木組みの格子は厚く、生半の刃では食い込みもせぬ程。とは言え、その内に収まっている囚人に、実はこの牢を破るなど造作も無い事なのだ。

 杉根 智江――本名、ジーナ・ファイネスト。

 日の本にはまだ数少ない〝魔術師〟――要するに、魔術という学問に対する学究の徒、学者である。

 だが、象牙の塔に籠る学者であるならば、彼女が投獄の憂き目に遭う事は無かっただろう。

 ぞっとする程冷たく美しい顔に微笑の仮面を貼り付けながら、腹に潜むのは狂気。かつてはその狂気が赴くまま、数多の人間を切り開き、切り刻み、知的好奇心の贄とした。

 その知識と技術を有用とされて生き永らえているが、首が落ちていたとて、なんら不思議では無い罪人なのだ。


「こんな所でじっとしてると退屈で仕方が無い。ちょっとこっち入って来ません? ほんの一時のお楽しみにぃ……」


「却下」


「ちぇーっ」


 そんな彼女が、言葉で戯れている相手は村雨であった。

 狭霧蒼空が寝付いてから、その足でこの牢獄まで赴いたのである。

 村雨もまた、かつて智江の術策に落ち、危うい目に遭った一人。近づいて来いと手招きされれば、寧ろ警戒を示すように、とんっ、と後方に飛び跳ねて間を空けた。


「元気そうでなにより」


「どーも、人生は何時も愉快なものです。……んで、ご用件は挨拶だけで?」


 雰囲気ばかりは和やかに、智江は村雨に尋ねる。すると村雨は、格子の内から手が伸びてきたとて、僅かに指が届かない位置まで近づき直し、その場に腰を下ろした。


「力を貸して欲しいの」


 話の切り出しは、突然であった。


「……ほう? そりゃまたどういう風の吹き回しで。他の誰でもいざ知らず、よりにもよってこの私?」


「そう、あなた。私が知ってる中で、一番強いけど扱いやすそうな人」


 思わぬ事を言われたと、智江は暫し言葉を止める。

 目を眇めて、少し遠くにある村雨の顔を見るに、冗談を言っているようにも見えず、さりとて緊張も見えない。自分の意思が通ると、確信しているような顔なのだ。


「……中身にもよりますが、聞くだけは聞きましょ」


「中身を選んでもらうつもりはないかなー、『はい』だけ聞かせてもらうつもり」


「そりゃ横暴な」


 会話も、主導権を渡そうとしない意思が見える。

 要求するものを明らかにせず、どうとでも言い換えられる余地を残し、承諾だけを求める――賢いというより、悪どい、善人がやらない類の交渉手段だ。そういう事を、表情を強張らせもせずに実行できる少女であったかと、智江は酷く訝った。


「ふむ……ふむ、分かりました。引き受けましょ、受けましょうとも。但し交換条件くらいは提示させてくださいな、ね?」


「聞くだけは聞いてあげる」


 自分の言葉をそっくり返されて、智江は何とも言い難い渋面を作った。

 然しそこは大悪党。瞬き一つで気を取り直し、直ぐに元通りの微笑を引き戻すと、


「そうですねえ、こういう所じゃあ娯楽が無くて退屈で仕方が無い。村雨ちゃんで一晩たっぷり遊ばせて貰えるなら、お手伝いもやぶさかじゃあありませんがねえ」


 自然に滲むより明らかに色濃く、好色の笑みを唇に載せ、舌を蛇のように蠢かせた。

 村雨はそれを、特に表情も変えずに見ていたが――突然、羽織の内側に縫い付けた袋から取り出したものがある。


「……ん?」


 智江が目をくうと細めて見てみれば、それが胡桃であると分かった。大振りでごつごつした、小石のような強度のある胡桃だ。

 それを村雨は、自分の口に放り込むと――

 がきっ。

 ごりっ。

 ばりっ。

 と、骨の髄から寒気を呼ぶような音が幾度か鳴った。

 鳥が高所より落下させても、滅多に割れない胡桃の殻を、村雨は事もなげに噛み砕いたのであった。


「私、噛み癖酷いらしいけど大丈夫?」


「……うわーお、テリブル」


 荒事の度に相手を殴っていては拉致があかないと、力をひけらかす目的で持ち歩いていた胡桃であったが、狙い通りの効力を発揮した様子である。骨まで噛み折られては堪らぬと怖気付く智江に、村雨は好機と見たか、追い撃ちをかけるようにこう言った。


「この歯で噛まれるのが自分なら、我慢も出来るだろうけど……〝あの子〟はどうかなー?」


「――ぁあ?」


 人には、触れてはならぬ部分が有る。それは弁えている村雨だが、敢えて〝その場所〟へ踏み込んだ。

 案の定、智江は微笑の仮面を瞬時に消し去り、冷たく凍て付いた目となって、村雨の観察を始めた。

 村雨は意識して交代し、可能な限り暗がりに身を紛れ込ませる。寸分の隙とて、この相手に晒すべきでは無いと知っているからである。


「あの子、サーヤって言うんだってね。何処の国の子? 我慢強い方だったりする?」


 提示したのは、智江が右腕と傍に置く、異国の少女の名であった。

 その少女を守る為、桜の太刀を受け、智江は右腕を失っている。片腕と引き換えにする事を躊躇わぬ程、寵愛しているのだ。

 今、その少女は、智江とは別の牢に居る。数日に一度は面会もしているし、必要とあらば助手として呼び寄せる事も有るが――今の智江は、サーヤの所在を知らない。


「あなたが快く協力してくれるなら、あの子も少しは美味しいものを食べられるだろうし、痛い目に遭わなくても済むし――」


「……おい」


 分厚い木組みの格子を、智江の細腕が殴りつけた。

 非力であろう筈の一撃が、牢全体を軋ませる衝撃を生む。魔術による強化としても、その度合いが尋常ではなかった。全力で振るうのならば、この牢は忽ちに打ち破れるのだと、雄弁に語る一撃であった。


「殺しますよ、貴女」


「そしたらあなたが、桜に殺される。二人で幸せに暮らすのと、二人で別々のお墓に入るのと、私だったら絶対に迷わないけどなぁ?

 早く決めた方が良いよ。私が戻って「駄目だった」って言うか、もしくは私が戻らなかったら……分かるよね?」


 努めて村雨は、声も明るく、時候の挨拶程の深刻さも無く、智江を脅迫していた。

 対する智江は、暫しの沈黙に入る。

 冷え切った顔の内側、どれ程に腸が煮え繰り返っているか、伺い知る術も無いのだが――笑みも無く、戯れるような言葉も発しない智江は、生来の酷薄な顔立ちが、より一層浮き彫りになる。

 その時、空気の流れに変異が生じた。

 人間なら気付かぬだろう微量な〝臭い〟が、牢の外より流れ込み、智江の方へと流れて行くのである。

 魔術行使の――それも、自分の内に在る分だけでなく、外より魔力を掻き集めて発動する、より大きな結果を為すものの予兆である。


「――っ!」


 村雨は咄嗟に〝格子へ近づいた〟。そして、鍵を用いて牢を開け、己が何時でも内側へ飛び込めるようにしたのである。

 己の五体を武器とする村雨が、最も力を発揮するのは、密着に近い至近距離。智江が何か行動を起こす前に、先手を打てる距離にまで、村雨は接近したのであった。

 智江の思考速度は極めて速く、また思考の段階も、常人とは構造を異にする。この時、智江は、眼前の光景を瞬時に分析し――実力行使という手を捨てた。


「あーくそ、とっ捕まえた時にさっさと脱がして楽しんでおけばよかった! 私の馬鹿!」


 ふてくされた子供のように、牢の床に仰向けになった智江は、手足をばたつかせてぎゃあぎゃあと喚き始めた。

 既に微笑の仮面は貼り付け直し、顔だけ見るなら善良な、心優しき女の擬態を再開している。


「……そうしてたら、あなた多分、桜に首斬られてると思うよ」


「貴女が「私は凌辱されました」ってばらさなきゃ大丈夫な予定だったんですうー。大体は泣き寝入りしてくれるから問題ない筈だったんですうー。勿体無えー!」


 さて、そうして下衆な後悔をひとしきり叫んだ後、智江は牢の中で立ち上がり、同じく牢内に入り込んだ村雨と正対する。

 いざ腹を括ってしまえば、当代随一の才人である。既に目の奥では、無数の算段を巡らせているのであろうか、時折視線が空へ泳ぐ。


「して、私は何を」


「ちょっとね、大砲をどうにかして欲しくって」


「……あのね、アイアムアドクター、ノット機械技術者。オーケイ?」


「砲手は人間がやるんでしょ? だから――」


 村雨は、智江に何事か耳打ちする。

 背丈が八寸も違うので、背伸びばかりでは耳元に届かず、智江の頭を掴んで引き寄せるようなやり方であったが――その企みの仔細を聞くと、微笑みは仮面でなく、愉快を覚えたものへと深まった。


「……ようがす、やったりましょ。代わりに約束は、確かに守って頂きますよ」


「快諾ありがとう、約束は守るよ」


 そして村雨は、封書を智江に押し付けて牢を去る。

 屋外に出ても暗さは変わらず、ただ風の有無ばかりが違う。新鮮な空気に触れ深呼吸する村雨に、近づいてくる者があった。


「あのろくでなしを使おうとは、貴女は頭がイカれちまってやがるのでございますか?」


「自覚は多分に。いいから、早く行っちゃって」


 敬語というものを履き違えた独特の口調は、つい先程まで話題に上がっていたサーヤ――智江の助手たる少女のものであった。

 十歳前後だろうかという小柄な体に、日焼けなく生来のものであろう色黒の肌、癖の強い黒髪――村雨とはまた違うが、異国の生まれと分かる外見。少なくとも、日の本の少女で無い事は確かである。

 智江が投降し、語句に囚われるに辺り、彼女もまた、幾分か警戒の緩い牢へと収監され、時折は智江の元に呼び出される身となっていた。

 そんな彼女は、すっかり旅支度を整えた姿であった。

 懐奥には胴巻きを隠しているが、その中には旅費が、明らかに囚人が持つとは思えぬ金額で収まっている。


「うっかり智江に見つかったりしないように、ちゃんと遠くまで行っててね。この手紙持っていけば、宿は『錆釘』で借りられるから」


「至れり尽くせりでございますね……」


 江戸へ厄介払いされるのである。

 小悪党には成れるが、大悪党には成りきれぬ、半端者の村雨であった。

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