御旗のお話(4)
どれ程が経過したかというと、まだ然程の時間も過ぎていない。
ほんの少しだけ太陽が傾いて、またほんの少し影が伸びたと、その程度の事である。
場所は大いに異なって、細い通りを三つか四つか、東へと進んだ所であった。
鴨川を挟んで西は、西洋風の街並み。東側は日の本に由来の、背も低い建物の並ぶ、のんびりとした街並みである。
その中を、ぽつんと一人、狭霧蒼空が歩いていた。
「……おかね」
掌に載せているのは、少額の銭――五枚の一文銭である。これで何をするかと言うと、これから餅を買いに行くのだ。
店が何処にあるかは、普段より歩いている街であるので、十分に分かっている。
だが、蒼空は、買い物と名の付く一切を、生まれてこの方、自分で行った事が無かった。
為に、手の上にある金属が、どういうものであるのか、さっぱり理解が及んでいなかった。
「お嬢、なんで俺達はまた」
「しっ、黙って見てる」
そして、己の手を見つめながら歩く蒼空を、十数間ばかり離れて尾行する影が――ぞろぞろと、在った。
先頭に居るのは、村雨。その後に彼女の部下達が続いており、
「また盗みでもしでかすやら、それとも穏便に済むやら。いずれで踏んでいる」
「……いーから黙っててください、もー」
〝男〟も誘拐された立場の自覚が無いのか、村雨の肩越しに、蒼空が歩いて行くのを眺めていた。
如何に離れていようと、この人数では、蒼空には気付かれているだろう。だが彼等はこそこそと、物陰から頭だけを突き出して、蒼空を追いかけているのである。
「このような戯れで、私の心が揺れ動くと思っているのか?」
「………………」
ふと、首を家屋の影に引っ込めながら、〝男〟は村雨に問うた。
村雨は、直ぐに明言は出来なかった。思う事が複雑に絡み合っているからだ。
そもそも今現在、村雨達が何をしているかというと、狭霧蒼空に買い物を学ばせている最中である。
あまりの常識の欠落ぶりに、村雨が業を煮やした形であるが――それに〝男〟を巻き込んだ事にも、幾らかの理由は有るのだ。
「……あなたは、地図に乗らないような小さい道を、歩いた事がありますか?」
村雨は、蒼空から視線を外さぬまま、後方の〝男〟に問う。
「ふうむ、答えに窮するな」
「世界地図がどうこう言ってたけど、そんなの、街で普通に生きてたら、ぜんぜん分からない事だと思います。
あなたがどんなに広い目を持ってたとしても、それを分かり合える人なんて殆ど居ないって」
「解されぬ事も、王には――天上の意思には、また避けられぬ事であろう」
「じゃああなたは、普通に生きてる人達の事を理解してますか?」
二つ目の問いだが、村雨は答えを待たない。隠れている体裁ばかりは繕うように、小さく曇らせた声のまま、〝男〟に問い続ける。
「『幾年か、以前』って言いましたよね。街を、普通に生きてる人の顔を見たのは」
「然り。これで多忙の身故な」
「その以前に、どれくらいのものを見たかは知らないけど……今度はちゃんと見てもらいます。外国がどうとか、百年先がどうとか考えない、今日はどうしようか、明日はどうしようかって考えてる、本当に普通の人の暮らしを」
「その行為を以て、そなたは私に何を伝えたい?」
事が此処へ来て、漸く〝男〟の理解の外へ出たのか、〝男〟はまた、蒼空が歩いて行くのを眺め始めた。村雨が促すまま、見世物の観賞を再開したのである。
「実際に見てみると、なんだろ……色々と、思ってたのと違うって事が、結構ありますよって」
村雨達が見ている中、蒼空は茶屋に辿り着き、掌に載せた銭を差出しながら、手近な店員に焼き餅を要求した。
店員は五文の銭を受け取ると、代金に相応しく、焼餅を五つ、竹の葉に包んで渡す。
それを受け取った蒼空は、何やらきょとんとした面持ちで、真っ直ぐに村雨の方へと歩いて来るのであった。
「気付かれておるようだが」
「いーんです! ……ね、どうだった? ちゃんと買えたでしょ?」
村雨は、蒼空の正面に立って、大きく一つ頷きながらそう言った。すると蒼空も、こちらは小さくだが同様に、一つ頷いて返す。
その動作に何か、ひっかかるものを感じ、村雨は蒼空の顔を覗き込んだ。
幼げな風貌で見誤るのだが、近づいてみると蒼空は、村雨より三寸ばかり背が高い。下からぐうと、やや伸びをするように覗き見ると、
「……笑ってたけど……なんで?」
蒼空は、先程の茶屋を指差して、村雨にそう問うのであった。
「なんで、って」
村雨は、一連の光景を眺めていた。それでも始めは、蒼空が何を言っているのか分からなかった。
笑う――何か、蒼空が嘲笑されたような場面が有ったか? 断言できるが、無い。
それに、蒼空の問う様子も、負の感情からでなく、本当にただ、疑問に思ったというような調子なのだ。
「……あっ」
だが、その内に村雨は、一つばかり思い当たる節を見つけた。そして同時に、その考えに至って、ほんの少しだが表情を暗くした。
「蒼空、今まで……食べ物を、勝手に取ってた時はどうだった?」
「……皆、こんな顔だった」
蒼空は、村雨の顔を指差す。丁度、面白くない考えに辿り着き、曇ったばかりの顔である。
ああ、やっぱり――村雨はそう呟いて嘆息した。
「普通はね、笑うの」
「……?」
「何かを売ってて、それをちゃんと買ってもらえたり。お料理をして、それをちゃんと食べてもらえたり。そういう時はね、笑うの」
「笑う……なんで?」
「なんでって、そりゃあ――」
蒼空は、人の、好感情の笑顔を知らぬ少女なのではないか――村雨はそう気付いたのだ。
代価を支払わず、売り物を略奪する――当然ながら、良い想いを抱かれる事は無い。
だが蒼空には、それが普通の在り方だ。だから、食物を受け取る際に、相手が笑顔である経験など無かった。
「そりゃあ、嬉しいからもあるし、お仕事だからっていうのもあるし、そもそもそういうものだからっていうのもあるし……えと、んー……いや、嬉しいからかな、うん」
「嬉しい……」
「そ、嬉しいの。ちゃんとお金を貰えると嬉しいし、貰えないと悲しいの。だから何かを買う時は、ちゃんとお金を払う事!」
「………………」
蒼空は暫しの間、視線を虚空に泳がせながら、耳から入って来た音の群れの処理に追われていた。
村雨は柔らかい言葉を選んで伝えたのだが、実の所、どれ程に蒼空の理解が及んだものであろうか。
まだ金銭の概念さえ、確りと分かっていない蒼空である。
「……ん。おかね、払う」
が――それでも、理解したものが有ったらしい。蒼空は確かに一度、こくんと頷いた。
何を理解したのか――〝嬉しい〟という、ぼんやりとした感情だ。
自分に向けられる表情が、普段の如き暗いものでなく、笑顔であった事が嬉しかったのであろう。表情の薄い蒼空だが、口元がほんの僅か、緩い弧を描いていた。
「良し! んじゃ、それ冷める前に食べよっか!」
ちなみにであるが、蒼空に銭を渡したのは村雨である。
焼き餅の配分は、村雨が三つ、蒼空が二つ。その場に座して喰い始めた。
洛中を歩き周り、程良く減った腹に、その暖かく香ばしき匂いは耐えがたきものであったのか、
「……俺も買ってくるわ」
「あ、私も行きます」
「じゃあ僕も」
村雨の部下達もそれぞれ、ぞろぞろと茶屋へ向かった。
茶と、餅と、道の端に腰掛けて喰らうのは、呑気であるが故に美味である。
てんでに腹を満たして、幸福に浸っている顔の群れの傍ら――
「これ、私にも餅と茶をくれぬか」
「はいはい――って、小判? とんでもない、こら近隣数軒合わせてもつり銭が――」
「あーっとちょっと待ったー! 私が払うからおかまいなくー!」
〝男〟も至極のんびりと、飯を食う輪に混ざるのであった。
それから暫くして、狭霧蒼空は、鴨川の西側――つまりは西洋風の街並みを歩いていた。
懐には、持っては居たが使い方を知らなかった『財布』なるものが収まっている。
無論、銭も有る。
有るどころか、少なからぬ――いや、かなりの金額が、財布の中に納まっている。
蒼空は、金ならば持っていた。ただ、どうして使うものかを、本当にこの日まで知らなかったのだ。
欲しいと思ったものは、父に言えば与えられたし、そも要求する前に、これが必要だろうと判断されたものが準備されていた。
衣服も履物も、腹を満たす食物も、玩具も、不足した事が無い。
それでも、例えば外出中に腹が減ったというような事があれば――蒼空は、店に並ぶ品を、自由に掴んで自分の物にしてきた。
誰も咎めなかったのは、蒼空が、狭霧兵部の娘であるからと、それに尽きる。
少額であれば、狭霧兵部と諍いを起こしたくないと、店が涙を呑んだ。
あまりに金額が大きく、目を瞑っていられないとなった場合、狭霧兵部は意外な程、景気よく代価を支払って来た。
つまり狭霧兵部は、蒼空を徹底的に、金銭のやりとりから遠ざけていたのである。
いや――そればかりではない。
姉の紅野には、史学に戦術、武芸十八般に魔術を加えた十九般、己の持つほぼ全てを与えた。
だのに蒼空には、読み書きさえ教えていない――蒼空は未だに、書物の一つを読み通した事も無いのだ。
狭霧兵部和敬が、気紛れに娶った女に産ませた子は、珍しくも双子であった。同じ顔に、ただ瞳の色だけが異なる二人の赤子を見た時、狭霧兵部はにたりと笑ってこう言った。
「さあて、どちらを壊そうか」
紅野と蒼空は、三つになるまでは、ほぼ平等に育てられた。同じ衣服、同じ食事、同じ環境――乳母まで同じに、である。
だが、三つになった或る時の出来事がきっかけで、狭霧兵部は二人を、異なる育て方で壊そうと決めた。
姉の紅野には、一切の愛情を与えず、代わりに持ちうる全ての技術と知識を。
妹の蒼空には、一切の苦難を与えず、我慢も辛抱も無い生を。
その何れも、虐待である。
然し――より大きく壊れたのは、天分を多く持って生まれた妹であった。
無双の剣技を誇る蒼空は、実は剣術など学んだ事が無い。
父が刀を持つ様、兵士が刀を持つ様を見た、それだけである。
天性の身体能力――いや、〝異能〟の身体操作技術だけで、純粋な剣の技量ならば、日の本の頂点に立っている。
或いは、人としての正常な感性や、知性の〝代償〟なのやも知れない。
然し狭霧蒼空にとって、そういうものは本来、全く無用の長物なのだ。
強いという事は、物欲の全てを満たし得るという事だ。
生きる為に必要なものは全て、蒼空は、自分の力で奪い取る事が出来る。
まして蒼空の後ろには、己が働かずとも全てを与えてくれる、究極の保護者にして最悪の虐待者が居るのだ。
だから、金など必要無かった。必要性を感じる瞬間など、一度も無かった。
今でさえ蒼空に、〝代金は絶対に必要なのだ〟という認識はない。何かを引き換えに何かを得るという概念を、まだ把握していないからだ。
だが――〝そうした方が嬉しい〟とは、分かり始めた。
何故なら、餅の味が違ったのだ。
店先から無造作に食い物を奪い、一人で喰らいながら歩く時とて、確かに美味は美味である。
だが、店員に笑顔で見送られ、村雨にも笑顔で迎えられ、そうして喰った餅は、日頃から一人で食す飯より余程美味に感じられた。
理由は、まだ分からない。
分からぬが、どうせ喰うのならば、蒼空は不味い飯より、美味い物を喰いたかった。
「……たくさん有る」
然し、胃袋の要領は有限である事を、蒼空は忘れていた。
蒼空には、良く足を運ぶ店がある。西洋風の街並みに相応しく、煉瓦詰みで作られたその店は、煙突から吹き上げる煙まで、周囲の店と香りが違う。
そこでは、獣の肉を焼いている。
串に刺した獣の肉に、京人の好みからすれば強すぎるやも知れぬ味のたれを乗せ、轟々と燃える火で焼きあげた、粗野極まりない料理である。
獣の種類は様々で、野鳥であったり、兎であったり、猪、鹿、潰した馬やら牛やら、なにやらと――兎角、喰えそうなものならば何でもという悪食ぶりである。
昼日中、太陽が頂点から傾き始めた頃合いなど、店の周囲には、肉の油が焼けて溶ける、空腹をくすぐって逃がさない香りが立ち込める。それに釣られて近づけば、じゅう、と脂身が火に落ちて焼ける、心地良い音色を聞く事になるのだ。
一度その音を聞き、その店の肉を喰うと、品が無い味ではあるが、やみつきになると評判であった。
蒼空も、これまではふらりとそこを訪れて、良い具合に焼き上がっている肉に目を付けては、串ごと奪って行ったものだ。だがこの日は、串を手に取る所までは同じだが、店員に代金を渡した。
蒼空は、特別な善行を為した訳では無い。当然の事を行っただけなのだが、店員もまた当然のように、笑顔で代価を受け取った。その後でかぶりついた肉の味は、やはり普段より美味であった。
美味であったのだが――多い。
餅を喰い、一度財布を取りに戻った後、蒼空は初めての買い物を楽しんだ。団子を喰い、茶を飲み、パンとやらも食べたし、砂糖菓子も味わった。その後で鹿肉串を五つもというのは、少女の胃袋には容量過多であったのだ。
一本は喰い終わって、のこり四つを手に持ったまま、蒼空はふらふらと洛中を歩いていた。
行先は未定。目的という目的もないまま道を行くと、次第に背後に気配を感じた。
害意の類では無い――そういうものであれば、鋭敏に嗅ぎ取るのが蒼空である。むしろ、あまりに無防備な気配であったので、蒼空も身構えずに振り返った。
「…………?」
そこに居たのは、小さな子供だった。
三人、恐らく一番年長の者が十二か十三で、十歳程、七歳程と続く三人。背の高さも年齢に比例し、階段のようであった。
彼等は、じっと蒼空を見ていた。
いや、彼女を見ていたのではない。蒼空自身も、目の前にいる人間の視線が何処へ向いているかは読み取れた。
手に持っている、鹿肉の突き刺さった串。
彼等の目は一様に、其処へ注がれていた。
「……欲しい、の?」
そう問うたのも、気紛れであった、
今の満腹の自分では、持っていても手が塞がるばかりである。だからというのでもないが、蒼空は、三人の子供に訊ねた。
すると三人は、互いに顔を見合わせた後、殆ど同時に頷いたのである。
「ん……はい」
蒼空は、手に持っていた串を差出した。
すると子供達は、掻っ攫うようにそれを手に取り、大口を開けて齧り付いたのである。
まるで雪山を火で炙ったかのように、忽ちに鹿肉は、彼等の胃袋に収まった。
どれ程に空腹であったのか――よくよく見れば、みすぼらしい衣服に疲れ切った顔の子供達である。
その表情は、蒼空には見慣れた類のものであった。
負の感情が主となった、影の差した顔。
これまで意識した事は無かったが、そういう顔は蒼空にとって、決して好ましいものでは無かった。
然しその表情は、腹に食物が収まった事で、一気に和らいだのである。
「あ……」
その顔を見た蒼空は、言い知れぬ幸福感に包まれていた。
生まれてより殆ど触れた事の無い、一切の敵意や害意を持たぬ、好意からのみ生まれる顔。
存在さえ知らなかったものが、今は目の前にある。自分に向けて供給されている。
蒼空は、まだ一本残っている鹿肉串を、子供達に手渡そうとした。
「……これもくれるの?」
「ん」
蒼空は頷いたが、今度は子供達が、渡された串をどうするかに悩む番であった。
人数は三人、肉は一つ。誰か一人が喰うのも平等とは言えぬが、三人で正確に分け合うのも難しい。
そうして悩んでいると、道の端から一匹の子犬が走って来て、子供達の中で、一番年少の一人に飛び付いた。
「あっ、たろ!」
「たろ……?」
「こいつの名前!」
子供達に負けず劣らずの、みすぼらしい姿の犬であった。
生来の毛は白いのであろうが、土の色が毛に染みついたか、全体的にうっすらと茶色味を帯びている。
毛並みも、つんと立っているような部分は無く、殆ど全体が、べったりと体にひっつく有様。その上で、痩せこけているのである。
弱い犬なのだとも、見て分かる。
あちこちに噛み傷やら、もしかすれば猫にまで負けているのやも知れないが、鋭い爪で引っ掻かれたような傷までもあるのだ。
「……たろ?」
蒼空は、子犬の名を呼んだ。
見た目はさておき、賢い犬であるらしい。己の名を呼んだ蒼空の方へ顔を向け、彼女の手に何が有るかを見て取ると、尾を振って近づいて来るのだ。
子供達三人の目に、期待の色が浮いている。
蒼空は、何を求められているかを理解し――たろの、子犬の頭に手を伸ばした。
夜――村雨達は、また堀川卿の私室へと舞い戻っていた。
住居は有るのだが、〝男〟を隠しながら、大人数で待機出来る場所となると、此処が最も利便性に長けているのだ。
「……もうなーんも言わん、村雨ちゃんの好きにしぃ」
「黙認ありがとうございます」
「皮肉やけどな?」
「でしょうね」
精一杯、言葉に棘を含ませた堀川卿であったが、声に滲む疲れが、棘より余程強かった。
皮肉を向けられた当の本人、村雨は、堀川卿の後ろに立ち、肩を揉み解している。
せめて罪滅ぼしでもと、按摩の真似事をしているのだが、器用な村雨であるので、案外に具合も良い様子である。
「……その子、狭霧蒼空やね」
「知ってましたか」
「桜さんに一太刀浴びせた、兵部卿の娘――うちが知らん方が大ごとやわぁ」
そうしながら村雨は、日中に何が起こったか、堀川卿に報告していた。
報告とは言っても、考えてみると、随分とのんびりした日であった。
〝男〟を連れて外へ出て、狭霧蒼空に買い物のやり方を教え、餅を喰い、その後はまた街を歩いて戻ってきただけである。
その間、結局〝男〟は、自分の考えを改める旨の言葉を発しなかった。
百年、千年の後の為に、この代の幸福を犠牲にしても、日の本を強国へと押し上げる。その為ならば狭霧兵部の悪行も、目を瞑り、その実務の力を買い上げると。
実際に生きている人間を見せる程度で、揺るぐようなか弱い思想では無かったのだ。
「……悪い事は言わんから、お返しせぇ。何か有ったら、村雨ちゃんの首一つで贖い切れんで」
「あはは……その時は、まぁ、大陸に戻るという事で……」
「取り残されるうちの身にもなって? な?」
手の如く自在に動く毛髪が、村雨の脚に絡み付いてぎりぎりと締め上げている。負傷はしないが、些か痛みを感じる力加減が、堀川卿の感情を示しているようであった。
〝男〟は部屋のほぼ真ん中に、布団を敷いて横になっている。
街を歩くという程良い運動の為か、夢見も良いのだろう顔で寝息を立てており、虜囚の緊張などまるで感じていない様子であった。
もう暫くすれば、他の面々にも眠気が来るだろう。事実、肩を揉まれている堀川卿など、時折首がかくんと落ちて、そのまま寝てしまいそうな様子さえあった。
蛇上 離解が村雨の横へ、正に蛇の如く静かに歩み寄ったのは、そういう頃合いであった。
「お嬢よ、あの蒼空って子、本当に大丈夫なのかねぇ……」
「……? 大丈夫、って?」
「いや、勘よ。おっさんの勘というか、経験則って言うか……」
蛇上にも、十歳の娘が一人いる。村雨も会った事が有るが、年の割には確りとした、将来が楽しみな才女であった。
その娘を蛇上は、妻に逃げられ、一人で育てて来たという。言うなれば、子供を見るという事に関しては、村雨より一日の長が有った。
「……子供ってもんは、そうそう簡単に良くならんよ。十何年掛けて出来上がったもんを、一日で全部変えられる訳がないんだって」
「後ろ向きだね、蛇上さん」
「まぁ、ねえ……」
村雨が少し鼻をひくつかせると、数刻前のものではあろうが、酒の香がした。
酔いを今まで引きずっているのか、それとも酔いに逃げようとして逃げ切れていないのか――何れにせよ蛇上は、懸念を抱いている。
実を言うと、村雨も、期待はしていたのだ。
自分が接した事で、狭霧蒼空が新しい概念を知って、それで画期的に人間として成長をしないものか――確かに指摘されれば、甘い考えである。
だが少なくとも、今日見ていた限りでは、上手く行っていたのだ。
商品を求めるのには金銭が必要であり、金銭を差出す事で、代償として何かを得られる。そういう〝商取引〟のやり方を、表面をなぞる形であろうと覚えさせた。それで彼女は、これまでより正常な人間になると――村雨は、期待していたのだ。
蛇上の溜息は、静寂の広がり始めた部屋の内に、やたらと良く響いた。そして、その残響を掻き消す音が、少し遠くから近づいてきた。
「ん?」
「おっ」
音とほぼ同時、真っ先に気付いたのは村雨と、犬の亜人である邪烙であった。
今日、昼に出会ったばかりの、あの少女の臭いだ。『錆釘』の事務所には、些か場違いとも思える臭いである。
衣服やら、手足やらに、斬った人間の返り血が浸み込んだ、紛う事なき人殺しの臭い。幼げな風貌と不釣り合いな、死を予感させる臭いに――
「……っ! 構えてっ!」
――真新しい、血の臭いが、僅かに。
ぎい、と扉が開け放たれ、狭霧蒼空が、室内へと入って来る。
彼女は真っ直ぐ、真っ直ぐ村雨の方へと近づいて来ると――あまり上手では無いが、笑った。
その顔を向けられると、自分は心地良くなると知った。
何かを求める際には、代価が必要になるとも知った。
だからなのかも知れない。蒼空は、村雨に頼みごとをしようとして、自分が差しだせる最良のもの――下手くそな笑顔を差出したのである。
「……これ」
だが、彼女が右手に、無造作に掴んでいた〝もの〟は、既に息絶えていた。
口の周りには血をべったりと貼り付けた、みすぼらしい子犬。
首が有らぬ角度に折れ曲がり、前足も一本、骨が突き出す程の傷を追っている子犬の亡骸を、
「これ、直して」
狭霧蒼空は、無垢そのものの瞳で掲げ、ねだった。
呻きを手で塞ぎ、一歩たじろいだ村雨の前で、蒼空は幼子の無邪気さを以て、そう願うのだ。
「……なんと、醜い」
目を覚ましていたか、はたまた眠っていなかったのかは分からぬが――〝男〟はかぶりを振り、嘆くのであった。




