御旗のお話(1)
塀というものには、どの程度の力があるのだろうか。
実際の所、市中に存在する建物に塀が備わっていた所で、防御の力というものは決して大きくないだろう。
乗り越えようと思うのなら、容易く乗り越えられる。破壊する手段とて、幾らでも見つけられる。
だが、塀が有るという事は即ち、これより先を見る事はならぬという警告である。
例え〝超える事が出来る〟者であろうと、塀があるならば、それを〝超えようとは思わない〟から、塀とは内外を隔てるしきりとして機能する。
まして、塀に付加価値が有れば、尚更である。
同じ高さの塀であったとしても、内にあるのが只の平野であるか、或いは宝物倉であるかによって、塀を超えるという行為の意味は変わる。
その視点で言うならば――この夜、村雨が乗り越えた塀は、日の本で最も尊く、最も〝超えてはならぬ〟ものであった。
「今なら間に合うよ、どうする?」
塀を乗り越えて向こう側に立った村雨は、未だに路上に留まっている部下達に言った。
震えは幾分か収まったのだろうが、それでもまだ、常程の力は声に戻っていない。
恐怖――では無い。〝畏れ〟である。
自分がしでかしている事が、どれ程に恐ろしい事であるかを知っており、それを部下にまで強制できぬと判断した、小刻みに震える声であった。
「……此処まで来て、あんた一人行かせて失敗して、私達が売られない保障も無いでしょうが」
「あれ、私って信用無い?」
「世界中の全部があんたを信用しても、私だけは信用してやんない」
そう言いながら、塀の上によじ登ったのは、ルドヴィカ・シュルツであった。
この国の外で生まれ、この国の外の価値観で育ち、未だこの国に馴染まぬとは言えど、何が禁忌であるかを知る程度には、日の本に馴染み始めた頃合いのルドヴィカである。顔は青ざめたままで、村雨にぶつける憎まれ口も覇気が無い。
「どうせ乗りかかった船よ、このまま沈没してやるわ! 死なば諸共道連れじゃーい!」
「……その開き直り、悪くないね。うん」
塀を乗り越え、その内側に立つ。これでルドヴィカも共犯者である。
それ以上を待つ必要は無かった。村雨とルドヴィカが並んで歩き出せば、その後方には部下達が十二人、一人も欠けず二筋の縦列を作って付き従う。
「それじゃ、行こうか。運悪く失敗した時は、えーと……皆で比叡山に逃げ込もう!」
「……娘になんて言おうかなー……とほほ」
部下の一人、蛇上 離解――名は生来の物だが、姓は己で付けたものらしい――が、肩を落としつつ、縦列の中から一人先へ進み出た。
村雨もルドヴィカも追い越し、早足で歩いて行く蛇上――その名の通り、蛇の亜人である彼は、手近に見える建物へ、真っ直ぐに歩いて行った。
ちなみに、であるが――村雨達が襲撃をしかけたこの建築物、いや建築物群に関して、述べる。
幾つもの建物を、広範囲に渡って伸びる塀が取り囲み、塀の内側には木々が配置されて、風避けや日避け、或いは外よりの視線を遮る役を果たしている。
主としての役目を持つ建築物は、塀から幾分か離れた中央に集中しており、それを遠巻きに、幾つかの小さな建物が囲んでいる――大雑把に言うと、そんな具合となる。
村雨達が乗り越えたのは、東側の塀である。其処から真っ直ぐに進むと、幾つかの小屋が有るが、其処はどうも衛兵の詰所のようであった。蛇上が向かったのは、その中の一つである。
小屋には大きな窓が四方に設けられ、そこから方々に、松明の火が漏れ出している。そこへ蛇上は、ふらふらと歩いて近づき――
「おい、おーうい、おーい兵隊さん、おーい」
なんとも気安く、中の衛兵に呼び掛けた。
「……! 何や――」
衛兵は、三人居た。その内の一人、最も窓に近かった一人が、小屋の中から蛇上の襟を掴み、残り二人は咄嗟に槍を掴む。
すると、蛇上の口から、透明な霧のようなものが、しゅうと吹きだして、襟を掴んだ衛兵の顔に吹き付けられた。衛兵は咄嗟に顔を背けたが、霧を避け切る事は出来ず、幾らかを吸いこんでしまい――
「――っ、か、っご、こ、ひゅぅ、ひゅっ」
喉の奥から異音を上げ、胸を抑え、その場に蹲った。
「お――!?」
残り二人の衛兵は、その様を見て、一瞬理解が及ばずに固まった。
そして、それが祟った。蛇上は口をすぼめ、毒霧を、やや距離のある二人目掛けて吹き付けたのである。
神経毒なるものがあるが、蛇上の毒霧は、それを弱めたもの。吸い込めば、死にはしないものの、呼吸困難を引き起こす。
少なくとも、これで動けはしないし、大声も上げられない。それを見て取ったか、後続の皆が、小屋の中へ滑り込んだ。
「で、お嬢。どうするの?」
三人の衛兵を忽ちに無力化した蛇上は、彼等の衣服を剥ぎ取りながら言った。
「……言う前に分かってるくせにー」
「まあね」
村雨は松明を倒し、靴で踏みつけて火を消す。夜目の利く彼等に取っては、寧ろ闇こそが心地良い住処である。
その闇の中で、まずは三人、衛兵の衣服を身に纏った。
敵の中で動くならば、まずは姿から。忍び込む際には基本の術である。
「あと十一着、剥ぎ取って来る?」
「ううん、十着でいい。私はこのままの恰好で……ちょっと皆、集まって」
車座になり、十四人は腰を下ろして頭を寄せ合った。あまり大きな音は出せぬので、蚊の羽音の如き囁き声である。
「目標は此処から西の寝所。だけど、本当に其処にいるかは分からないから……何方向かに別れよう。
私と蛇上さん、阿羅、無尺は北。ルドヴィカ、倫道、阿耶、邪烙、流はこのまま真っ直ぐ。思譲、繕行、奇璃過、杯出、厄は南の道を開けて置いて……人を担いだまま走る事になるだろうから」
十四人を村雨は三つに分けた。自分は足を生かし、やや離れた北の建物へ。ルドヴィカには四人を付けて、一番目標が潜んでいる可能性の高い箇所へ。そして南側へ向かわせる五人は、特に荒事に長けた面々である。
「こっちが見つけたら、私が吠える。ルドヴィカ達が見つけた時は……邪烙、あなたが声を上げて。皆は、どっちかの声が聞こえたら、真っ直ぐに南側へ向かう事」
全員が、緊張に強張った顔のままで頷く。
だが誰も、失敗する事を恐れてはいない――自分達がただの人間に、荒事で負けるとは考えていないのだ。畏れているのは寧ろ、自分達がしでかそうとしている事、そのものである。
「質問は?」
「……お嬢、頭は大丈夫? 幾らなんでも無茶じゃない?」
群れの中で一際若い、村雨と同年代だろう少年――無尺と言う、猫の亜人である――が、体を覆う体毛を逆立てながら言った。
言葉の選びはさておき、他の面々も多かれ少なかれ、似た様な事を考えている。
正気の沙汰ではない――ただの誘拐というならまだしも、いやその時点で十分に発想はおかしいが、更に今回は相手が相手だ。少なくとも、この国に住む大半の者は、思い立ちもしないような案である。
「……正直に言って、自信が無い。確かに頭おかしくなってるかも知れないな、私」
村雨の答えは、殆ど本心そのままであった。
今、こうして部下を巻き込んで渦中に居ても、自分の行動がおかしいとは理解出来ている。だが、そんな理性以上に、優先するものが有るのだ。
「それもこれも、おかしな人に江戸から京まで連れ回されて、あちこちで揉め事に巻き込まれたせいだよ。全くあの人と来たら、東海道の片道だけで二度も命を狙われてるし、京に来てからも休み無く面倒事に首を突っ込んで行くし、今なんか自分から比叡山の軍に加わって、しなくてもいい苦労を背負い込んでるし。そんな人を好きになったら、おかしくなっても仕方がないでしょ」
「……お嬢の惚気とか初めて聞いたかも」
「無尺、うるさい。……あの人の為に、私はこんな事をしてる。他の誰かの為だったり、あなた達の為だったりとか、そんな綺麗な理由じゃないよ。完全に自分の為に、今から首が飛んでもおかしくないような事をするんだから、そりゃあ頭がおかしいに決まってるじゃない」
けど、と、村雨は一度、言葉を区切る。
「そんな馬鹿に従って此処まで来たあなた達だって、十分に〝頭おかしい〟集団でしょ?
私は私の為に、どんな手を使っても戦を止める。その結果、誰か他の人が喜ぶんなら、まあ……うん、それはそれで。めでたいと思う。
あなた達は、とりあえず私に従ってくれればいい。上手く戦が終わって英雄にでもなったら、お金は多分、困るくらいには貰えると思うし」
「……もうちょっと天下の為だとか良民の為だとか、そういう大義名分は無いんですか……」
鏨 阿羅――蜘蛛の亜人であるが、隊の内で最も冷静な彼さえが、呆れたような声で口を挟む。
「無い! ……という訳で、馬鹿を上司に選んだのが運の尽き。開き直って頑張ろうか、皆!」
何時しか村雨から、震えはすっかり立ち去っていた。代わりに、すがすがしいばかりの、そして誰にも有無を言わさぬ笑顔で、村雨は部下達を焚きつけた。
この時、彼等は初めて、自分達が上司と選んだ生き物の、本質を見くびっていたと気付いたが――後悔先に立たずとは良くも言ったものである。
他人はさておき、自分の群れは比較的粗雑に扱うのが、村雨という獣の性質であった。
そして村雨は、いち早く小屋を出て行く。否も応も、端っから聞き入れるつもりなど無いのである。
「……ま、やるっきゃねぇよなぁ。もう手ぇ出しちゃったし俺」
諦めが半分――それに荒事を楽しむ狂奔の顔も半分と、入り混じった表情で蛇上は立ち上がる。
なんだかんだと言って、蛇上ばかりでなく、ルドヴィカを除く十二人は、これよりの荒事を期待して目を輝かせていた。
狭霧兵部和敬という人間の、思うように世の中が傾くのも気に入らない。
長く大きな戦が続くより、平和な世の中に暮らしていたい。
そういう考えならば、彼等とて持っているし――その思いに適う方向で、自分達の力を振るう場を与えられたのだ。
それも、人として、ではない。自分達の本性をそのまま示し、使う事を良しとする環境――良しと言う上司の居る環境で。
何時しか皆、浮かべた笑みは引き攣ったものでなく、己等の力を確信する、不適なものへと変わっていた。
なんの事はない。十数頭の獣の群れで、数十とも数百とも分からぬが、人間の群れに一泡吹かせてやろう。そういう意思が確かに、彼等の内に芽生えていたのであった。
彼等は三方に別れ、迅速に馳せる。途中、巡回に歩く衛兵と遭遇などもしたが――声を出される前に意識を失わせ、その衣服を剥ぎ取った。
村雨が、直接自分に付いて来るようにと指名したのは三人。その内、蜘蛛の阿羅は、村雨が小屋を出て直ぐに、その後を追って飛び出した。そして今また、残り二人も、自分達を振り回す長を追っている所である。
「ところで、無尺君」
「……なんだよ、おっさん」
先行する村雨を追い、蛇上と無尺は並んで走っていた。
蛇上が突然に横を向き、無尺に声をかけたが、その時に蛇上が浮かべていたのは、年少者をからかうのが楽しくて仕方がないというような、つまり厄介な年長者のそれである。
どこかむすっとしたような顔で、真っ直ぐに正面だけを見て走る無尺に対し、
「失恋おめでとう、強くなれよ!」
と、立ち止まっていれば背中でも叩いただろう程の馴れ馴れしさで、蛇上は言った。
「……! フーッ!!」
牙も剥き出しに、無尺は唸った。それこそ、夜中に猫同士が争う際、甲高く立てる声によく似ていた。
他の面々に比べて分かり易い理由で、村雨に付き従っていた者も居た、という事であった。




