血と満月のお話(2)
急の事態故、外出禁止令などは徹底できなかったが、夜の町に人の姿は無かった。若夫婦が怪物に惨殺されたという噂は、数刻で町に染み渡る。誰言うとも無し、戸にはつっかえ棒。日が落ちてからは、僅かな灯りさえ外に漏らす事を避け、息を潜めて布団に身を埋める。
「……静かだな、虫の声が良く届く」
五丈の火の見櫓の上で、桜は目を閉じたまま、眠っている様な顔で呟いた。その声が、しんと静まった夜に響いて返ってくる。
夜は、人間の為の時間ではない。昼行性である事に加え、耳も鼻も、それだけで他者の存在を探れる程に、人間の体は優れた作りをしていない。日の光の下でならば無敵を誇る桜も、この時間帯においては、自らの枷を自覚せざるを得ないのだ。
然し、その傍らに佇む村雨は事情が異なる。優れた暗視能力、聴覚、優秀と呼ぶにも桁の外れた嗅覚、夜に遊ぶ生物には必須の要素を備えている。大きく丸い目の中で、瞳孔が最大限拡張し、星の光と雲間の月光を集めていた。
雲の多い夜だ。日が落ちてから今に至るまで、月はその全容を下天に示そうとしなかった。人の手から町を取り上げ、怪物に譲り渡すべく、柔らかな光の恩恵を遮断しているのだろうか。
「……見つけた、拙い、思ってたより遠い……付いてきて!」
「何、どこに……お、おい」
黒塗りの空が続く。最初に異変を察知したのは、やはり目ではなく鼻だった。村雨は櫓の上から、近くの家屋の屋根まで、四丈を無造作に飛び降りた。火事を避ける為に推奨された瓦屋根が、衝撃に砕け散る。
後を追う桜は、梯子を半ばまで降り、地上から二丈の高さで初めて飛んだ。脚を庇ったのではなく、足元の瓦解を恐れたのである。
屋根から屋根へ、二つの影が駆けていく。目的地へ、弛みの無い一本の線を描くように。
先を行く村雨は、翼を持たぬ身に在りながら、飛翔するが如き走りであった。後を行く桜は、一足毎に足元を爆ぜさせ、身を射出する様にして追随する。
「桜、聞いて。あの臭い、何も無い所にいきなり出てきた」
「……どこからか飛ばされてきた、という事か?」
「分からない。けど……あ、あれ!」
「どれだ、見えん!」
村雨が指差した方角に、桜はまだ、何も発見する事が出来ていない。桜も目は良い方だが、それでも尚、感覚器官の性能に差が有りすぎるのだ。
もしも見えているならば、桜の『代償』の力は、二丁程度の距離から先手を取って仕掛ける事が出来る。だが、桜の目に映る今の町は、墨を染み込ませた半紙も同様である。
言葉を発する事を諦め、僅かな星灯りを頼りに、屋根を足場に馳せ続ける。じれったく、歯痒く、苛立ちばかりが募る
「……やられた、引きずりだして、噛みついてる……」
半丁先の惨劇を、村雨は逸早く目撃し――そして、五秒後にはその現場に辿り着いた。
そこは、昨夜襲われた場所とは別だが、やはり長屋の端であった。戸が力任せに破壊され、へし折れた半分が通りに落ちている。何か大きいものが蠢いているのは分かる、その下に有るのが物なのか人なのか、其処までは見えない。
「っち……気を付けろ、燃やすぞ!」
屋根から降りた桜が最初に行った事は、周囲の地面を目視し、炎の壁を出現させる事だった。
赤々と燃える炎は、暗闇に有っては、半径数間を照らす照明の代わりとなる。村雨は既に捕捉し、自分は接近しても音しか聞こえていない、その存在を見つけ――
「……人、か?」
「臭いが混ざってる、どっちも」
化け物ではあるが、異形と呼ぶ程、人から離れている姿ではない事に気付いた。
その化け物は、瀕死の男の腕に噛みついていた。突如出現した炎に恐れをなしたか、奇妙に長い脚で飛びのく。人の脚と同じ形状では有るが、その長さから身長を逆算しようとしたら、八尺にもなってしまうだろう、長大な脚。
一方で、それを備える胴体は、子供の様に小さかった。なまじ成人男性の頭部を使っているだけに――これが自然に生まれた生命体だと、誰が思うか――細い首が不安定に傾く。
喉の作りが雑なのか、蚊の羽音の様な唸りは聞こえるが、声という程の物は出せていない。噛み千切った肉を飲み込まないのは、その喉の不完全さが故か、人間の内臓を流用した為、生肉を栄養に転化できないからか。
この化け物が、あの夫婦を殺害した事を示す証拠は、化け物の両腕そのものである。肩から先の部品は、小さな胴体に見合わぬ巨大な腕が――いや、ヒグマの前足が備わっていた。
均一性、整合性という概念が、この化け物には備わっていなかった。小さな胴体が摂取できる栄養では、この長い脚も巨大な腕も、養える筈が無い。本来なら今まで生きながらえる事さえ、造形の時点で許されていない化け物だ。
「桜、家の中……子供がいた、怪我はしてない!」
「良し、連れて逃げろ! こいつが何なのかは知らんが……守りながらやりあえるか、算段が付かん……!」
桜が化け物と向かい合い目を光らせている間に、村雨は襲撃を受けた長屋に潜り込んでいた。壁際に立てかけられたちゃぶ台の裏に、小さな男の子が隠れていたのだ。化け物に噛みつかれていたのは、子供の父親だろう。襲撃を受け、咄嗟に子供を隠し、だが逃がすには機を逃したのだ。
桜は、腰の脇差を鞘ごと引き抜き、村雨へと投げつける。万が一の場合はこれで身を守れ、という事だろう。剣術の覚えは無くとも、盾として使うならば、鋼作りの刀身は腕より信頼できる筈だ。
「ひ、ひ……おとうさん、おとうさん!」
「……逃げるよ、何も見ちゃ駄目。目を閉じて、早く!」
子供を抱え上げると、村雨は脇目も振らず、桜を一片たりと気遣う事無く走り出す。桜が勝てるかどうか、などは考える意味の無い事。自分がこの子供を抱いて、無事に逃げ切れるか。それだけが今考えるべき事だと、村雨は思っていた。瀕死の父親から無理に引き離した事を、子供に詫びる余裕は無かった。
音と気配が離れていく。脅威がそこにある存在だけならば、そもそもこうして、子供を連れて走らせる意味もあるまい。桜が勝てば、二人が追われる事は無い。桜が負ければ、子供を逃がしたとしても、どうせ別な誰かが襲われるだけだ。
「ふん……我ながら下らん保険だ」
子供を村雨に押しつけたのは、村雨をこの場から引き離したかっただけだ。断じて子供を気遣ったのではない。僅かにでも首をもたげた、常の桜ならば不要の用心という怯懦。見慣れぬ姿の敵へ向け、刀を抜いて切っ先を突きつける。
「……む、むすこ、は……俺の、ガキは……?」
胸と腹を抉られて瀕死の男は、そこに誰かが居る事だけを知る。かすむ目には、桜も化け物も映っていないのだろう。
「逃げた。私が来るまで良く守った……もう、いいぞ」
「……へへ、へ……」
子の無事を告げられた男の首が、完全に力を失ったのが合図。桜と化け物は、どちらが先とも知れず、間合いを詰めた。
先んじての一撃は、炎の熱と明るさに狂った化け物の、右腕をただ横へ振り払うだけのもの。然しそれこそが、若夫婦の首を一撃にて落とした断頭の斧である。
怪物の力量の程を探る為、桜はまず、受けるのではなく避ける事を選ぶ。左側頭部へ迫った爪を、後方に体をしならせて、鼻の先を通過させた。腕の一振りで煽られた風が、前髪を逆立つ程に持ち上げる。
尋常の威力ではないと、桜は風圧から感じた。この爪ならば、漆喰で固められた土蔵の壁すら貫通するだろう。ツキノワグマなどとは確かに比較にもならない怪力である。
だが、姿に似合いの獣の一撃だ。予備動作も見て取れるし、軌道は単調。自分の反射速度と力量なら、回避出来ない理由は無いだろうと桜は見当をつける。空を切った爪が視界の右端へ流れていくのと同時に、桜は自分から見ての左前方、化け物の右腕側に踏み込んだ。この位置は、相手が人間ならば肘を警戒する必要も有るが、熊の腕にそれを恐れる事はあるまい。
腕力が強い相手には、膝か肩を砕くのが常套手段。彼我の腕の長さを鑑みて、桜は化け物の右肩へ、力の出し惜しみをせず、左拳による鉤打ちを放つ。ボクシング――拳闘と呼ばれ、この国ではまだ広く知られてはいない――で言うところのフックと同様の軌道を描いた拳は、これが人間相手であるならば、肩を砕いて腕を殺すだけの威力を備えていた。
化け物の肩に桜の拳が触れ――化け物は、その体を一切破損させる事なく、真横に二間も吹っ飛ぶ。
「……硬いな、その癖に軽い」
相手が本物のヒグマで有ったなら、吹き飛ぶより、肩の骨と筋肉へ損傷を蓄積させる事に、力は振り分けられただろう。だが、この化け物は、胴体は人間の子供で、脚は長いが人間の成人のもの。最終的な体重は、せいぜい二十五貫(約90kg)というところだろう。
更にこの化け物、筋肉の塊であるヒグマの肩から先を、そのままぶら下げているが為に、重心が酷く上に偏っている。桜の馬鹿力で殴られれば、容易く吹き飛んでしまうのだ。ただでさえ、一発や二発では到底壊しきれない強度が、打ちすえた瞬間、するりと手ごたえごと逃げていく。
起き上がらせる前に、桜は一足の低い跳躍で、化け物が吹き飛んだだけの距離を埋めた。最も力が入る形、大上段からの振り下ろしで、座り込んだ形の化け物を、頭蓋から両断せしめんとする。
化け物は、分厚い腕を頭上に掲げ、その一太刀を受け止めた。硬い毛皮、鋼の様に強く密度の高い筋肉は、それが初めての試みであるとは言え、桜の切り降ろしを受けて尚、骨までも刃を通さない。それどころか、神経もまだ無事な様で、突き刺さった刃を押し戻す様に、ぶうんと腕が振り回された。気を抜けば、手から刀の柄が引き抜かれそうだ。
「……頭は人だが、目は獣のそれか」
間合いを一間にまで引き離し、桜は敵の戦力に対する認識を改める。ヒグマの腕が生む破壊力は驚異的だが、この化け物、防御性能も恐ろしく高い。刀身を持たせる事さえ考えなければ、なまくらでの三つ胴(人間の胴体を三つ重ねて両断すること)も容易い桜が、腕の一つも斬り落とせなかったのだ。斬撃から頭を庇うのが間に合うだけの反応速度は、熟練の武術家にさえ匹敵すると、桜は己の経験から評価を付けた。
立ちあがった化け物は、少々の負傷などまるで意に介していないのか、両腕を風車の羽の様に振り回し、桜を叩き潰そうと突っ込んでくる。左腕の牽制の薙ぎ――命中すれば、常人なら頭蓋が西瓜の様に潰れるだろうが――から、それによってねじれた体の反動で、右腕での横一閃。自分の頭より巨大な掌を、後退しながら桜は回避し続けていた。
桜は機を窺う。攻撃の速度は、もう覚えた。次の爪を回避し、まずは先程傷を与えた腕を完全に斬り落とす。しかる後に、防御の薄くなった頭か心臓へ、突きから派生し、胴体の外へ刃を跳ねさせる切り上げで止めを刺す。全ての動作を、瞬き一つの間に二度は完成させられる自信が桜には有った。
刀の切っ先を下げ、あからさまに頭の防御を薄くして、化け物の攻撃を誘う。人の頭蓋に入っているのは獣の脳なのだろうか、疑いもせず化け物は誘いに乗り、桜の左側頭部を今度こそ抉り潰そうと、右手の爪を遠心力任せに振るった。
完全に想定した通りの局面である。左足を前方に滑り込ませながら上半身を低く落とし、爪を頭上に素通りさせる。後は、離れていく腕を追うように、それ以上の速度で刀を振り上げる。毛皮と肉の硬さはもう把握した、容易くそれらは切り裂かれ、化け物骨にまで刃が到達し――
「……!? 馬鹿な、これは……!」
――ギン、と、冷たく鋭い金属音が、桜の鼓膜を打ちすえた。手の中で、刀の柄が砕け散る感触が有る。刀身は化け物の腕に一瞬だけ引っ掛かって、腕の振りに合わせて何処かへ飛ばされた。
間違いは無い、西洋の鎧を斬り付けた時と同じ手ごたえ――いや、それより数倍も分厚い。この化け物は、骨そのものが金属に置き換わっているのだ。桜の全力を以て、分厚い金属塊に叩き付けられた打ち刀は、まず柄が強度の限界に達してしまっていた。
骨まで、肉を切り裂いた。その代償に、刀は完全に潰れた。脇差は村雨に渡してしまい、残る武器は短刀だけだ。
桜が短刀を持った場合、胴から切っ先までは二尺五寸という所だろう。化け物の腕は、爪の先まで三尺を超える。踏みこんで急所を狙うという事は、爪が生む暴風圏に身を曝す事に等しいのだ。
「気に入っていた刀だったのだが……ああ、くそ」
懐から短刀を取り出し右手に構え、鞘は左手に、寸鉄代わりに持つ。気付けば、桜の氷の面貌を、一筋の汗がつうと伝い落ちていた。
村雨は、子供を半ば肩に担ぐ様にして、夜の町を走っていた。
自分一人ならば少々の無茶も利くが、身体強化の術さえ使えない様な子供を連れていては、おいそれと屋根へ飛ぶ訳にもいかない。人間一人の重量は、予想以上に体力の消費を激しくした。
「おとーさんが、おとーさんが……!」
「……大丈夫だからね、大丈夫だから……」
父親が化け物の爪の餌食となったのを、この子供は確かに見てしまった。泣きじゃくり、同じ言葉を繰り返す子供に、村雨は適切な言葉を見つけられない。大丈夫とは何と無責任な響きだろうと、口にしている自分こそが実感していた。
あの父親は、最初の一撃を、なんとか避けようとしたのだろう。爪が浅く体を抉ってしまった為、即死する事が出来なかった。苦しみ悶える姿を、家の中に隠れていた子供は、確かに見ていた筈なのだ。慰めの言葉など、子供の為にならない。罪悪感から逃れたい自分の為の言葉だと、理屈より深い部分で分かっていた。
「……ねえ、聞こえるかな。悪いんだけど……ちょっと、目を閉じてしっかり捕まってくれる?」
右肩に、腰から二つに折る様にして乗せていた子供を、村雨は、左手も使って抱え直す。腕の振りが無くなって、僅かに走行速度が落ちる。子供の方は、村雨の言葉が聞こえていないのか、それに応じる事はない。
ち、と舌打ちをし、奥歯を強く噛み締めた。
村雨が『それ』に気付いたのは、風向きが変わったつい先程。見られている、という漠然とした予感ではない、確かに臭いを察知したのだ。遥か後方で桜と戦っている筈の、あの化け物の臭いを。
そいつはどうやら、川に掛けられた橋の上に立っているらしい。
嫌な位置だ、迂回しようとすれば相当な遠回りになる。桜の事だから少々の時間は、とも思い、また一方で、遮二無二急がなくてはならないという予感も有った。
最終的に村雨は、正面から化け物に突っ込み、頭上を飛び越えて走り抜ける、という手筈を決めた。子供一人抱えていようが、速度が乗っていれば軽く一丈は跳べる。化け物が腕を振り上げても、爪が届かない高さを行ける筈だ。
意図的に、一歩だけ踏み込みを過剰に強くして、足音を響かせる。橋の上に居た化け物が村雨に気付く、この時点で距離は十間前後。自分から突っ込んでくる得物に対し、化け物は迎撃の姿勢を取っている。踵が痛む程に蹴り足を強め、一歩の歩幅を広くする事で、村雨は更に加速する。
化け物の爪が届く三寸先で、村雨は両膝を胸に抱えるように跳躍した。一瞬の差で、既に誰も居なくなった空間を、化け物の爪が通過する。
空中で脚を伸ばし、着地の衝撃に備える。爪先が橋の板に触れた瞬間、足首と膝、股関節を同時に曲げ、衝撃の吸収と加速用意を同時に完了させる。化け物が振り向くより先、村雨は再び、最大加速で走り出そうとして――脚が、何かに引っ張られた。
「ぇ……わ、あっ!?」
激しくつんのめり、顔を庇った両腕と、胸を橋の板に打ちつけた。肩に担いでいた子供は、転倒の勢いで投げ出される。
村雨の右足首には、白い糸の様な物が絡みついていた。おそらく橋の下から伸びてきたのだろうそれは、手拭いの様な頼りなさでありながら、空中の村雨を引きずり落とすだけの強度が有った。
「――――あぶ、あぶな、っ!」
咄嗟に、桜に投げ渡された脇差――洋装の村雨は、走る間は腰のベルトに鞘を差していた――を引き抜いて斬りつける。引っ張り強度は強くとも斬撃には弱いのか、糸はあっけなく切断された。脚を解放された村雨が、転がる様にして後方へ避けた瞬間、振り下ろされた化け物の腕が、橋を叩いて激しく震わせた。
「ちっ、避けやがりましたかこの糞餓鬼め。絶対に殺せたと思いましたのに……」
「……誰さ、あなた」
脇差を鞘に納めて、鞘ごと右手に構える。盾にするならその方が都合が良い。奇襲に対する備えだけ作り、村雨は、橋の下から聞こえる声に誰何する。
「誰か?その様な事を聞いて答えを貰えるような恵まれた立場だと勘違いしてやがるんですか痩せ鼠女?」
恐ろしくはきはきとした発音の、滑舌の良い少女の声だった。地方の出身者に見られる訛りなどが全く存在しない、出生地域を特定できない響きを発している。だが、その彼女の声は、形ばかり用いている敬語よりもむしろ、その中に混ざる悪態が本心であると告げているかの様に、棘のあるものであった。
「この化け物の飼い主? だとしたら……」
「駄質問にお答えは致しません。どうぞ速やかに肉塊となっておくたばりあそばせ……ぶっ殺しなさい、『人工亜人』」
声は聞こえるが臭いは無い、おそらく水中に隠れているのだろう。警戒する必要は有るが、然し、謎の少女の声だけに意識を割く訳にはいかない。問いを一蹴された事も、無意味な会話に気を取られず済んだと見れば好都合、なのだろうか。
今から子供を拾い上げ、逃げ切れるか、村雨は幾つかの状況を想定する。可能性だけは有るが、実現はかなり難しい。化け物に後ろを見せ、子供を抱え上げるまでの間、またあの糸に脚を取られてしまえば危険だ。
先程は化け物が振り向き、倒れている村雨を捕捉するまでの猶予が有った為、糸を斬っての脱出が間に合った。今回は化け物がこちらを向いている。転倒した瞬間、背中をあの爪で抉られかねない。そうなれば村雨の小柄な体が、間違いなく真っ二つに分割されてしまうだろう。
時間を稼ぐ事が、正解に思えた。殺されずに避け続ければ、見回りの同心や岡っ引き達が駆けつけるか、桜が向こうの化け物を仕留めて助けに来るに違いない。その間、自分とあの子供が殺されず、大けがも負わずに居ればいいのだ。
自分で倒そうという考えが最初から無かったのは、村雨も子供と同じ様に、化け物に怯えていたからに他ならなかった。
鉛色の雲は、未だに月と地上を分け隔てていた。




