死戦(10)
金属が強く弾かれて、くわんくわんとうねる音がした。
雪の上に落ちて突き刺さったのは、紫色の毒々しい刀身――の、刃先。
上から五寸ばかりが折れ――いや、斬られて落ちた。
「……え?」
狭霧 蒼空は、丈の詰められた刀を、普段の眠たげな顔から少し大きく目を開けて見ていた。
瞬きを何度か繰り返したのは、その光景を信じ難かった為か。だが、幾度繰り返したとて、厳然たる結果は覆らない。
二人の女剣客の戦いは、雪月桜の勝利となった。
「なんと、よもやっ……!」
遠巻きに見ていた波之大江三鬼は、驚嘆に言葉を失う。
おおよそ剣を振るう者の中で、狭霧蒼空に勝るつわものなどおらぬと、三鬼は信じていたからだ。
例え凶鳥〝黒八咫〟であろうと、あの大天才に勝る筈は無い、と。それが覆ったのである。
ましてや蒼空が振るう刀は、〝大聖女〟エリザベートから齎された呪刀であった。
その名を、『蛇咬』と呼ぶ。
エリザベートの〝牙〟の一つを削り出し、研ぎ澄ませて作り上げた、強度も切れ味も尋常から逸脱する名刀。刀身に刻まれた呪いは、斬り付けられた者の身を蝕み、戦おうと力を振るえば、その身に激痛が及ぶようにしてしまう。
ただ一度、掠り傷だけでも与えれば、それで勝負は決する程の、凶悪な呪いの刀であった。
「ち……首は落とし損ねたか」
然し雪月桜の右手に有るのは、これも尋常の刀では無かった。
『言喰』。
八龍権現を称するあやかし、八重の――恐らくは、これが本体。九十九神の一種とも呼べようか。
大妖二つの呪い比べで勝ったは、蛇の牙では無く、龍の牙であったのだ。
そして――振るう者を比べて、勝ったのは雪月桜。
剣技のみならば勝る蒼空とて、〝戦い〟全ての経験では、桜に遠く及ばずであった。
かろうじて蒼空は、首を狙う桜の剣閃から、後方へ一歩だけ逃れていた。
だが――その時、蒼空は目を瞑っていた。
迫る刀を恐れて目を瞑り、敵を斬る為の刀で必死に己の首を守り、どうにか生き延びたのである。
才覚のみを言うならば、桜に数段も勝る大天才であるが故、ただの一度も、負けばかりか僅かの苦戦さえ知らずに生きてきた蒼空である。己が守勢に追いやられた時の対応など、何も知らぬのだ。
その頬に、一筋の切り傷が有った。
桜の、幾百と振るわれたか分からぬ剣を防ぐ中で、皮膚の厚みよりほんの少しだけ深く切り込まれた傷であった。
血がつつっと頬を伝って、顎から服の裾に落ち――
「…………っあ、あ……?」
蒼空は、折れた刀を取り落とした手で血を拭った。
その指を、まじまじと見る。
見慣れた赤ではあったが、それが自分から流れるなど、蒼空には思いもよらぬ事であった。
これは自分が斬った相手が染まる色で、自分が染まる色では無い筈だ。
手当をすれば、直ぐにでも塞がるその小さな傷は、生まれてより怪我を知らぬ蒼空には、あまりに大きな痛みであった。丸く大きな目から、じわっと涙が滲み出した。
「……ぁぅ……っふ、ぇ……っ、ぅう、うあっ、うううーっ……!」
そして、蒼空は、戦場の中心で〝泣き出した〟。
棒立ちになって、少し上を向いて目を瞑り、両手は固く握りしめ、まるで幼い子供がするようなやり方で、ぎゃんぎゃんと泣き叫んだのである。
頬の血が涙と混ざって薄まったが、それが分からぬ程、顔を赤く染めて蒼空は泣き声を上げた。
「あー! あー! あーーー!」
「な……?」
さしもの雪月桜も呆気に取られ、即座の追撃を忘れた。
――これではまるで、自分が悪いようではないか。
確かに狭霧蒼空は、過去に類を見ぬ強敵であり、また戦いの前の目の強さは、心を躍らせる程であった。
だのに、こうして戦いを終えて見れば――そこに居るのは、体だけが育ち、精神は育たぬままの少女である。
自分が凶器を振り回し、分別もつかぬ子供を虐めて泣かせたようだ――僅かにでも、そう思ってしまったのだ。
齢ばかり重ねた大きな子供は、未だに刀を抜いている敵の前で、声を張り上げて泣き続けた。
一方で、周囲に広がる政府軍も、手を打てずにいた。
ついに自軍最強の剣士でさえ、桜には勝てなかった。まして自分達が、どうすればあの怪物に、傷の一つでも負わせる事が出来るのか。
一騎討ちは、初戦は一人と一人の争いだ。だが、数百の兵の心を圧し折るには十分であった。
そして、士気を抉られた彼等は――更に続く〝予想外〟に、酷く脆い姿を見せた。
初め、〝それ〟に気付いたのは白槍隊の、隊列の後方に在る兵士達であった。
喊声も無く、戦場に、比叡山軍でも政府軍でも無い、全く未知の一隊が姿を見せたのである。
人数は、三百程も居るだろうか。殆どが男で、十数人ばかりは女も混ざっている。
彼等は皆、一様に、鎧も兜も身に付けてはいなかった。
彼等の左手には、金属板を幾つも貼り付けたメイスが有り、また右手には、西洋でも最新兵器とされる〝拳銃〟が握られている。
服はくるぶし丈のローブ――アルバと呼ばれるもの。葬儀に列席するかのような、艶の無い黒である。
そして彼等は、首に十字架を下げていた。
それ自体は鈍器にも刃物にもならぬ、小さな、質素な飾り。拝柱教の暗殺者達が持つ短刀も十字を模していたが、それとはまるで趣を異にするものであった。
「撃て」
彼等の先頭に立つ男は、数日剃らずに放置したような無精髭で、左手の甲を擦りながら言った。
「諸君達がこれより犯す全ての罪業はこの私が、父なる神の御前にて間違い無く、全て私の望みであり咎であると証言しよう。一切の憎しみ無く恨み無く、眼前に在る彼等を薙ぎ払いたまえ、アーメン」
三百の銃声が、比叡の山に轟いた。
彼等の右手にある拳銃は、日の本で主流となっている火縄銃よりも高速に、鉛の弾丸を射出した。
それは、鍛え抜かれた精兵達の筋肉も、或いは分厚い鎧でさえも容易く貫き、或る者には死を、或る者には重傷を与えた。
次弾の装填も、恐ろしく速い。親指で金属部品を引く、たった一挙動である。
最後方の一団が倒れた次の瞬間には、十字の一群は再び銃撃を行い、また数十人を負傷、或いは死に至らしめた。
「お――ぉおおおおっ!?」
波之大江三鬼の副将、八重垣久長は、目をひん剥いて叫んだ。その数間手前で、また一人が撃たれて死んだ。
拳銃弾は、遠距離での命中精度は決して高くないが、然し同時に三百もの弾丸が来るとなれば話は別である。どうしても一射で数十は命中する。
この時、彼我の戦力差を最も速く理解し、勝てぬと結論を出したのが、この八重垣であった。
「さっ、三鬼殿! 撤退を!」
「ぬ――然し、蒼空がっ」
「救う暇など有りませぬ!! 抗う手立ても有りませぬっ! 退け、退けえいっ!!」
若き副将は、刀を投げ捨て身を軽くし、真っ先に戦場を、周囲の森目掛けて走り始めていた。
仮に十字の一軍と三鬼達が、正面から向かい合い、同時に攻撃を始めていたのなら、結果は違ったのだろう。
だが、後方から奇襲を仕掛け、初撃で大きく戦力を削った事で、既に戦闘の結果は定まっていた。
「……なんだ、これは」
この異変は、桜にも、やはり不意打ちのようなものであった。
自分が斬らねばならぬと思っていた軍勢が、全く別な方向から切り崩されて行く。
然もその群を率いていると見える、無精髭の聖職者には〝見覚えが有る〟のだ。
「なんだ、これは!」
桜はもはや、笑いを堪え切れずに居た。
悪鬼も竦む程の笑みを浮かべながら、桜は、眼前で泣き喚く狭霧蒼空を、肩へ担ぎ上げる。
「相も変わらず、人攫いですか」
「相も変わらず、人聞きの悪い」
見えぬ姿から聞こえる声には、軽口を叩いて応じる。短い付き合いでは有ったが、懐かしい声であった。
そして、その戦況の変化を、苦々しげに見つめる者が二人、目玉が三つ有った。
本来四つである筈の目は、一つが高虎眼魔の指で抉り出された後であった。
引き連れていた赤心隊の部下十数人も、半数は死に、残り半数には撤退の指示を与えている。それでも尚、この戦地に未練を残しているのが紫漣であり、左目を抉られた冴威牙であった。
「があ、あ、ぁ……っ、畜生、畜生がっ……!」
「冴威牙様! 退きましょう、冴威牙様っ!!」
二人は、比叡山城を遠巻きにしている森の中から、自軍が三百の銃兵に崩されて行く様を見ていた。
今にも森を飛び出し、その兵達に噛み付かんばかりの形相の冴威牙を、紫漣が縋り付くようにして引き留めている。
戦えば、数十人は殺せるだろう。だが、冴威牙は死ぬ。
銃兵達を、精強さで見たならば、きっと政府軍の並みの兵士とさして変わらない。だが、群れて、良い武器を持っていると、それだけで脅威となる。人外の強さを持つ冴威牙でさえ、殺し尽くせぬ敵となる。
まして冴威牙は傷付いていた。
老剣客、高虎眼魔の最後の特攻は、死を恐れぬ故の大胆さで以て、幾人もを道連れにした。
雑兵に矢を射かけられながら、投石車ばかりを狙って斬り倒し、狙う車が無くなれば、赤羽織を目印に斬り回った。その果てに刀が折れれば、素手で冴威牙に飛び付いた。そして、首を蹴り折られながらも、その指で冴威牙の左目を抉り出したのである。
「あと少しだったんだぞ……九割殺してたんだぞ、あの城を、俺は……!」
負ける要素など、無い筈の戦であった。
兵の数と質で勝り、兵器を揃え、なんら欠けた所の無い軍を預けられた筈だった。
だが――幾つも、冴威牙はしくじった。
狭霧紅野が偽装して城を出た時、それを本物の〝黒八咫〟であると思い込み、兵を動かした事。
伝令を密に放たず――また伝令との信頼も無く――誤報であると気付くまでに時間を要した事。
狭霧兵部を楽しませるべく、城内への苦しみを長引かせようと、兵力を小出しにした事。
自分自身が高虎眼魔を迎え撃ち、結果、片目を失った事も失態である。戦いに手を割かれている間、戦況が変わって行く様を捉えられなかったのも、失態であった。
或いは最大の失態とは、己の特性を理解せぬ事であったかも知れない。
冴威牙は、小さな群れを率いて獲物を追う、天性の猟犬である。主を定め、その下で残虐性を振るう事に於いては、日の本でも指折りの勇将であろう。
「俺は……此処まで、此処までっ! 這い上がって、やっと〝人間並み〟になったんだぞ……!」
だが、王ではない。
大群を率いるには、視野の広さも、経験も不足していた。
天性の嗅覚ばかりで御すには、数千という人間は、あまりに規模が大き過ぎた。
もはやこの戦は、冴威牙の手には無い。敵の総大将は捕虜にしたというが、代わりに包囲網は崩された。
しかも、銃撃による奇襲を仕掛けてきた兵士達は、この国の者達では無い。権威という大きな傘が、何も役に立たぬ風が吹いたのだ。
「ちくしょう、上手く行きそうになりゃあいつもこれだ! てめぇらはそんなに俺が嫌いか! そんなに俺が憎いかよぉっ……!」
積み上げた全てが無為になる。冴威牙は、悔しさか、地団駄を踏んで喚き散らした。悪漢ぶりも見事に吊り上がった右目も、空洞となった左目からも、同じく涙を流して、拳で地面を打ち付けていた。それは間違い無く、敗北者の姿であった。
「冴威牙様……っ」
そういう無様を晒してさえ、冴威牙の隣には、紫漣が居た。
冴威牙と同じに、涙を耐えられず、拭いもせず――背の翼と両腕で、体の全てを使って彼を抱き締めながら、同じ屈辱に身を震わせながら、
「まだ……まだ私達は負けていませんっ! 二条の城があります! 貴方がいますっ!! それにっ――」
紫漣の執心は、献身は揺るぎはしない。
一度、命を預けると定めたからには、例え死してもその決意は揺るぐまい――そういう女であった。
涙で視界を滲ませながらも、紫漣は戦場を睨んでいた。
狭霧兵部は既に、手勢を二条城にまで退かせ始めているだろう。自分達も撤退せざるを得ない。
だが――だが、最後に一度、爪跡だけは残せる。
「〝砲〟を! 揺鬼火を動かせますっ!」
戦場の東、五里。
巨大に過ぎ、何処かへ逃がす事もままならぬ兵器、揺鬼火。
回収が間に合わぬ以上、やがては敵軍に奪われるだろうあの兵器も――今ならば、まだ動かせる。
紫漣は飛び、冴威牙は地上を走った。
射手達が前線の混乱を知り、砲を捨てて逃れる前に――せめて一撃、報いてやろうと。
城壁も半ば打ち崩され、形ばかりとなった城――然しその中には、これまでとは比にならぬ程の熱気が満ちていた。
援軍を、数で見るなら、僅かに三百。
然しその三百は、最新の兵器で武装した、恐れを知らぬ精兵達である。
彼等は、心得の有る者は治療魔術を以て、また魔術を不得手とするものも包帯を手に、城内の負傷兵の治療に当たっていた。
葬儀に赴くような姿をした十字の一群――彼等を率いている男は、まず思い切り深呼吸をして、
「げほっ、うえほっ、ぐえっほっ」
空気に混ざる、血と腐肉と鋼の臭いに咽た。
「……大丈夫か、お前」
「その懸念はお前の後方に立つ者へ向けられるべきであり、私のように生気に満ち溢れた男へ向けるにしては些かに軽んじた問いであるとは思わないかね? 私は至極健康体であり、彼等は酷く苦しんだ後だ。慮るならば彼等の心と肉体をこそ問うべきであって――」
「ああ、いい、そこまでで良い」
咽る背に桜が呼び掛けると、三百の兵を率いる男は、呼吸一度で一息に長台詞を吐いた。
抑揚の利いた、やや芝居がかった言葉のようでもある。が、偽りの類では無く、これがこの男の性情であるのだ。
ハイラム=ミハイル・ルガード。れっきとした聖職者であり――罪人を殺して歩く、一種の殺人鬼でもある。
その名を桜は知らないが、然しこの男の存在は記憶に残っていた。
いや――〝この男を〟覚えていたというよりは、彼に惹かれて旅を離脱した、かつての連れを覚えていたのだ。
「桜、御無沙汰しています」
「おう」
透明化の魔術を解除し、さも当たり前のように桜の後ろに立ったのは、ウルスラであった。
拝柱教の暗殺者として育てられ、桜の誘いに乗って旅に付き従い、共に東海道を歩いた女。如何なる場に在っても、その場の空気に染まらず淡々とした声は、数か月ばかりではまるで変わらぬものであった。
再開を祝するのに、交わした言葉はこればかり。それから、桜が突き出した拳に、ウルスラも自分の拳をぶつけ――行動の意味が理解出来ぬのか、首をかしげる。それを見て桜は、東海道の旅路を思い出し、ぷっと吹き出すように笑った。
その二人の間に、ハイラムが割り込み、踵を合わせて直立する。そして、まるで演説でも始めるかの如く、おごそかに口を開いた。
「これより我等『ヴェスナ・クラスナ修道会』は、枢機卿猊下並びにこの国の政権よりの要請の下、比叡山を本拠とする僧侶民兵一般市民、その他、おおよそ正当な理由無く迫害を受ける全ての人間を守護すべく行動を開始する。よって願わくばこの国に在り神の御心を知る者達は全て――」
「待った。少し待て、待った」
また長々とハイラムが語り始めたのを、桜は適当な所で寸断する。言葉をせき止められたハイラムは、眉根を寄せて、少し拗ねたような顔をした。
「お前達、何故此処に?」
「たった今伝えた通り、我等は遥か帝国本土の枢機卿猊下と――」
「ミハイル」
懲りず、またも同じ調子で話し始めるハイラムの口に、ウルスラが右手を被せ、長口上を止める。薄い表情に、ほんの少し、呆れのようなものも混ざって見えた。
「短く言うと『帝国の十字教は、拝柱教と〝大聖女〟エリザベートを、神の名を騙り悪事を為す〝教敵〟と見なした』……という事です。
私達三百人を先遣隊とし、この国の軍勢と連携を取り、拝柱教と、それに与する狭霧兵部和敬を討伐せよ……という命令だそうでして」
「……なんと」
「お前達が城に籠っている間に、世界は悉く呼吸を続け、変革を繰り返していたのだよ。これぞ天にまします我等が父の思し召しであろうね」
狭霧兵部は権力を以て軍勢を動かし、比叡山を地獄に堕とした。
然し、その権力に対抗する〝軍事力〟が、比叡山に――ひいては仏教徒に与するというのだ。
桜は、政治の事は分からない。
分からぬが、戦いの事であれば良く知っている。
日の本は、独力で世界の国々と戦える程の力が無い。だから狭霧兵部は〝神代兵装〟を欲したのだ。
先遣隊の三百は、ただの三百ではない。これより後、日の本とは規模の違う軍事力が到来するという先触である。
「……つまり、もういいのか」
桜は、城内の雪の上に腰を下ろし、すっかり朝になった空を見上げて言った。
「はい。これ以上、籠城を続ける必要はありません」
その傍らにウルスラは、同じく空を仰いで答える。
「私達の勝ちか?」
「今は、まだ。けれど、やがてそうなるでしょう。……そうなると、貴女は暇になりますか?」
「ありがたい事に、な」
肩に担いでいた荷物――未だに泣き続けている狭霧蒼空も、半ば放り投げるように下ろして、ついに桜は仰向けに寝転がった。腰に差していた脇差の鞘が落ちたが、それを拾う事もしないで――
「長かったなぁ、くそ……」
大の字になり、大きく溜息を吐いた。
期間にすれば、ほんの数ヶ月の事。死んだ誰かも、殆どは顔も知らぬ赤の他人。
だが、雪月桜が、生まれて初めて知った戦争は、ようやくこの日終わりを告げ――
「……っ!」
いいや、終わっていない。その事に桜は気付き、跳ね起きるや太刀を抜いた。
「どうしました、桜」
「砲撃が来る! 叩き落とす!」
軍勢が退いたとは言え、未だに東方五里には、防ぐ手立ての無い巨砲が鎮座している。
次に砲弾が飛来すれば、半壊した城壁が更に崩れ、内側の民兵達を押しつぶしかねない。城壁を貫通した砲弾が地面で跳ねれば、城壁内の家屋がどれだけ倒潰するかも分からない。重傷者を動かせぬ現状、看過出来る攻撃ではないのだ。
桜は太刀を手に、砲弾が飛来するだろう城壁東側へ走ろうとし――二歩と行かず、ウルスラに肩を掴まれた。
「不要です。対処は済んでいます」
「対処だと……?」
「はい」
端的な物言いで、ウルスラは桜を止める。それから言葉は継ぎ足さず、負傷者の治療に当たっている、同胞達の列へと紛れ込んで行く。
「本物とは、卓越したものですね……私の思考の、遥か外に在る」
己に言い聞かせるような独り言は、かつての、思考を不得手とするウルスラには似つかわしくないものであった。
――人は、育つものだ。
桜はそう実感しつつも、やはり一番の思案ごとは、城を狙う砲の脅威であり――その直後、五里東の平地で、巨砲〝揺鬼火〟が爆煙を上げた。
技術の粋を束ねた砲と言えど、根幹的な機構は変わらない。
端的に言えば、爆薬が生む衝撃で、質量の大きな物体を飛ばす――それだけの事だ。だがそれだけの為に、ありとあらゆる技術を尽くし、性能の向上を図った。
より大きな衝撃を生む爆薬を。
より激しい衝撃に耐えうる砲身を。
より威力が高まる砲弾の形状、材質を。
砲弾の装填機構を改良し、命中精度を改良し、一切の妥協を許さず作り上げた、人が人であるからこそ扱えた武器である。
その砲身から、尖頭砲弾は、五里西方の比叡山城目掛けて射出された。
着弾までに要する時間は――日の本には馴染みの薄い表現をするならば、十数秒。
存外に長いが、五里の距離である。
爆音すら聞こえぬ遠く離れた箇所より、飛来した砲弾の姿を、雪月桜は、ほんの一瞬ばかり視界に収める事が出来た。
――ああ、無理だ。
始め、桜は、己の刀でこの砲弾を叩き落とそうと考えていた。
然しそのような事、決して叶わぬのだと知る。
この超音速の砲弾の前には、己の身など刀ごと砕け散るだろう――そう、直感的に理解出来た。
これ以降、戦に必要なものは一人の強者でなく、優れた多量の兵器となるのだろう。その流れはきっと変えられない。
個々の人間が、武勇で名を上げる時代は、きっとこの日を以て終わったのだ――そんな感慨さえ、桜は抱いた。
だが――砲弾を認めてから、それが己の頭上を超えて後方の城壁へ向かうまでの、時間にすれば瞬き一つの数分の一程の刹那。不思議と桜は、焦燥と無縁のままでその時を過ごし――砲弾の進路上には、突如、宙に浮かぶ大扉が出現していた。
分厚い、金属の、両開きの扉であった。
虚空に予兆も無く出現したそれは広く開け放たれていて、扉の向こうには、此処ではない何処かの景色が広がっている。
床も壁も天井も真っ白な、火ではない光源に照らされた無機質な空間。
揺鬼火が放った先頭砲弾は、過たず扉を潜り、後方の城壁ではなく、その真白の部屋を衝撃波で蹂躙する。
だが、扉の外には、その衝撃は何も齎さなかった。
城壁をも破砕する砲弾は、ただの扉一枚に、完全に目的を阻害されたのである。
そして扉は、目的を遂げるやまた虚空に消え、その跡には一人の女が空中に〝佇んで〟いた。
「……よーしよしよし、計算perfect。人間よりゃ精密機器のが与し易いってもんですねぇ」
これみよがしに赤い女であった。
火のように赤い髪をなびかせ、赤い外套の右袖をはためかせ、地上より数間の高さに立つ女は、戦場の血生臭さを感じぬかのように、からからと高く笑っていた。
だが女には、そういった陽気な振る舞いでも隠しきれぬ、冷淡な美しさが有った。或る種の〝真っ当でない〟人間だけが持つ、道の外にあるからこその暗い光が、赤い瞳に宿っているのだ。
表情でたぶらかし、瞳で魅入り、舌の毒で侵す――そうしてこの女は、過去、一度は桜の前に立ち塞がった。
「や、や、どーもどーも。あの子は元気にしてます?」
「……何をしに来た、お前は」
桜が太刀を抜いて身構えても、女は恐れる事なく、片手を上げて馴れ馴れしく近づいて行く。
この女の名は、杉根 智江と言う。
過去、幾人とも知れぬ人間を、生物実験に用いて殺した大悪党である。




