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死戦(9)

 西側城門外の戦況を、単語一つで表すなら〝地獄〟であった。

 政府軍本陣より最も近い西門前には、二十を超える投石車が並び、人間の屍を、比叡の場内へと投げ込んでいた。

 一体どれ程の死体を用意していれば、これ程の攻勢は続くのか。腐肉から滴る汁が、敷き積もる雪を溶かす程である。

 その惨状の中を、雪月桜が、修羅よりも恐ろしい顔になって吠えていた。


「おおおおおおおおぉぉぉらああぁァァッ!!」


 咆哮と共に、投石車〝が〟飛んだ。

 桜が車軸を鷲掴みにし、力任せに、 他の投石車へと投げ付けたのである。

 人間を百間以上に渡って飛ばす大掛かりな攻城兵器は、まるで家一つが倒壊したかの如き大量の木材片を残し、がらくたへと変わって行く。


「とっ、止め――止めろぉっ!!」


 若き副将、八重垣が部下に命ずるが、誰も好んで桜に近寄ろうとしない。半径数間に踏み込もうものなら、桜が振り回す投石車の残骸に打たれるのだ。

 例えるなら、台風の夜の急流に落ちた獣である。

 上流でへし折れた木々が流れ込み、川底にはごつごつとした岩が幾つも隠れている。流れには耐えられようと、その激突の衝撃には、泳ぎを得手とするカワウソさえ命を落とすだろう。

 まして今の桜は、並ならぬ激昂の中にある。自然は無慈悲に吹き荒れるだけだが、桜の暴は明確に、指向性を持って政府軍を薙ぎ払おうとするのだ。

 立ち塞がった勇敢な兵士も居た。彼は、まるで子供が鞠で遊ぶかのような手軽さで、桜が振り回した投石車の残骸に打ち上げられ、落下前には既に絶命していた。

 逃げようとした者は、大半はその通りに逃げ果せたが――運の悪い幾人かは、鬼の顔をした桜に腕を捕まれ、自らが破壊槌となって別な兵士に叩き付けられた。

 鎧の有無であるとか、防御の成否であるとか、そういうものは何も意味が無い。ただ雪月桜という災害からどれだけ遠ざかれるか――それが、兵士達の生死を定める境界線であった。

 陣形が崩れて行く。

 後方にあるべき弓隊の背後に、前線を守るべき兵士達が逃げ込む。

 混乱の中、それでも戦いを生業とする兵士達は、かろうじて桜に狙いを定め――号令も届かぬので、めいめいに矢を射掛けた。

 無論、そのような抵抗、そよ風にも劣るものである。

 一つとして、桜の身に届いた矢は無かった。届く前に残骸の暴風に巻き込まれ、砕け散るからだ。

 

「かっ、ぁあ、止まらぬか、おのれいっ……!」


 八重垣は兜ごと頭を抱えて呻く。

 若き俊英と謳われた彼だが、知っているのは人間との戦のやり方である。天災と向かい合う方策など知らぬ。


「ぬぅう……っ! ならば、拙者が出て――」


「なりませぬ! 三鬼殿、なりませぬぞ! 貴方の首は、我らとは値打ちが違う!」


 あの暴風と、曲がりなりにも張り合えるのは己しかおるまいと、波之大江三鬼が前へ出ようとし――それを八重垣は引き止める。

 雪月桜と波之大江三鬼が繰り広げた、先の攻防を、八重垣は見ていた。

 何れも人外の域を、更に大きく踏み越えた怪物同士。然し勝ったのは雪月桜である。

 ただの化け物であれば、三鬼が劣る筈は無い。然し桜は、技量までもが超人の域にあり、更に知恵の働く化け物だ。


 ――三鬼殿が切られては、なんとする。


 投石車の十や二十、失ったとて、どうにかなる。然し波之大江三鬼を失えば、補うものは無い。

 せめて三鬼がもう一人居れば、八重垣は嬉々として、上官の出撃を見送ったのだろう。然し、この鬼に並ぶ怪物など、政府軍の中にも残ってはいないのだ。

 豪胆にして実直な上官に、八重垣は十全の信頼を置いている。然しその信頼を通り越して、勝てぬという確信がのさばる程に、眼前で吹き荒れる暴風は凄まじかった。


「っぐ、ぅう……三鬼殿、忌々しいながら此処は、手勢を退き――」


 止むを得ぬ――既に八重垣は、後方の兵士達に身振りで指示を出し始めていた。

 己らの任は、何時でも攻め上がれる距離に留まり、雪月桜という怪物を釘付けにする事――それまでで良い。それ以上は出来ない。

 なんと情けない事だと、八重垣は歯噛みしながら自嘲する。日の本の最精兵が百近くも集まり、女一人に手出しが出来ずに居るのだ。

 だが、矜持は命に代えられない。自らも形振り構わず、後退する列に加わろうとした。

 その時、布陣を縦に割り裂いて、ひょう、と高い音が鳴った。

 八重垣のみならず、全ての兵が、その音を聞いた。

 晴天の日に、なんの予兆も無く、強い風が吹く事がある。人をよろめかせるその風は、びゅう、と唸りを上げるものだ。

 遠くから近づいて来る為だろう。最初は弱く、意識に留まらないが、近づいて来れば巨木をも揺るがす風。

 丁度、戦場に轟いたのは、そういう音であった。そして、音が去った後には、雪月桜の前に、一人の少女が立っていた。

 鞘から引き抜いて、右手で地面に引きずっている刀は、毒々しくも雅やかな、紫色の刀身を誇っている。

 狭霧 蒼空そうくう

 生きている気配さえ定かでは無い、絵巻物から抜け出たような少女であった。


「……お前は」


 この、浮世離れした少女の姿を、桜は鮮明に覚えている。

 過去から現在までの生の中で、たった一度だけ喫した敗北の相手――それが、この少女だ。

 蒼空と呼ばれていた事だけは知っている。その他には何も知らない。

 然し、知る必要が無い程に、待ち焦がれた相手であった。

 桜は脇差を左手に移し、右手を真っ直ぐ、何かを掴むように虚空へ伸ばした。開いた指を固く閉じれば、その手の中に、何処からとも無く現れた名刀『言喰ことはみ』の柄が収まっていた。


「蛇の牙が一振り。この龍の牙に勝るか、試してみるかえ」


「おう、やってみるか」


 物言わぬ筈の刀は確かにそう言い、桜も当然のように答え――構えた。

 脇差を持つ手は、まるで正道の剣術であるかのように、体の正中線に揃えて、腰より少し高い位置に。

 右手の太刀は大上段で、切っ先を背中の側へ向けて。

 桜は、構えというものをあまり用いない。己を型に当て嵌めるという事を、好む好まないというより、そも考えぬ女であるからだ。

 だが――その桜が、たった一人の敵を打破すべく、己の全てを振るえると信じて取ったのは、この形であった。


「……名前は……?」


「あ?」


 対する蒼空は、刀の切っ先を地に触れさせたままで――そんな事を、突然に問う。

 戦いの前ならば、黙殺しても構わぬだろう、脈絡の無い問い。

 だが、それを発した蒼空の目には、好奇とも期待ともつかぬが、何か輝きのようなものが有ったのである。


 ――余程、良い。


 眠たげな眼のままの子供と斬り合うより、目を輝かせた女と戯れる方が、余程良い。

 以前、意識が薄れ行く中で見た顔は、こうまで美しくは無かった。


「……暫し合わぬだけで、女はやはり変わるものだ」


 戯れめかした独り言の後、腹の底まで息を吸い――


「〝剣翁〟レナート・リェーズヴィエが唯一の弟子にして、かの剣をただ一人引き継ぎし者!

 正義も道理も知った事では無いが、気に入った女の恩に応える為、惚れた女を笑わす為、此度は遥々見参した!

 戦の華の一騎打ちにて、手折られる覚悟が有るならば――」


 戦場を揺らす大音声。

 己を鼓舞し、また衆目を一所に集める声は、絶域の戦いの開始を告げるもの。


「雪月桜、我此処に在り! 心地良く舞おうではないか、蒼空とやら!」


 桜は、凶暴に破顔した。






 そして、日の本一の剣劇が始まった。

 蒼空はまるで、落とした筆を拾うような気軽さで、桜の首目掛けて刀を振るっていた。

 踏み込む足も、振るう手も、遠目にする兵の誰にも映らぬ一閃であった。

 受けた桜の脇差と、蒼空の刀の間に、火花が幾つも散る。

 間髪入れず、桜の太刀が、蒼空の頭蓋目掛けて振り下ろされる。これも目に影さえ留めぬ剣閃である。

 それを蒼空は、身に掠らせもせず、瞬き一つ程も掛けずに数間を後退し、回避していた。

 歩いて寄れば、十歩以上も掛かる距離。

 その距離から蒼空は、たった一挙動で桜の懐へ飛び込み、刀を振るう。

 右肩から左の脇腹へ。

 右脇腹から左脇腹へ。

 的が大きく、また動きにくい胴体目掛けて、立て続けに二度の斬撃である。桜は太刀を逆手に持ち替え、それを払い、自らもまた蒼空目掛けて踏み込んだ。

 桜の怪力を、全て脚へ注いで直線的に進む――瞬間的にであれば、名馬をさえ上回る速度ともなろう。だが蒼空は、それを易々と上回る。


「おぉっ……!」


 蒼空は桜を正面に見据えたまま、後ろ向きに走り、桜の速度を上回って見せたのだ。追う桜が感嘆する程の光景であった。

 間合いを過剰に詰めさせず、飽く迄も、己の刀を最も振るい易い位置へと留める。理想ではあるが、互いが間合いを奪い合う戦いで、容易く出来る事では無い。


 ――これは、追い付けぬ。


 速度では到底敵わぬと悟った桜は、足を止め、迎撃の体勢を取る――その、構えの変化すら間に合わぬ内に、蒼空は動きを変える。

 後退していた筈の蒼空は、たった一歩で完全に静止し、次の一歩で前進――最高速度に達し、桜へと迫ったのである。


「む――!?」


 運動の方向が変化する時は、必ず減速と加速が有り、それが動作の予兆となる。だから武に携わる者は、その予兆を如何に殺し、また読むかを磨くのだ。

 狭霧蒼空には、それが無い。

 少ないのではない――殆ど、皆無と言っても良いのだろう。

 物体はこう動くべきという法則が、この少女に限って言えば適用されていないような動きをするのである。

 松風左馬の、極限まで鍛え上げられた技術が生む速度とは違う。

 村雨のような、生物種として高位にあるものの、身体の優位性すら超えている。

 人知の領域から明らかに外れた、一代一人のみの、異能が生む速度であった。

 その異常性が、四肢全てに適用され始めた。

 腕も、肘も、手首も、全ての関節が、可動を開始した瞬間には最大速度に到達している。そこから生まれた斬撃は、並み居る強者を討ち果たして来た桜でさえが、未だ体験した事も無いものであった。

 首を狙う、斬撃五つ。

 同一箇所へ、ほぼ同時に到達するそれは、受け止めた太刀を握る腕の、骨の芯まで衝撃を浸透させる。

 右足首、右膝、腰、脇腹、右肘、右肩、首――合わせ一挙七連の高速斬撃。

 片手では防げず、太刀と脇差の双方を防御に回し、やっと防ぎ得る絶技であった。


 ――これが、この娘か。


 桜は内心、舌を巻いた。

 過去に己が斬られた時など、この少女はまるで本気になっていなかったのだ。

 いいや、今も、これが底であるかは分からない。

 だが、一つだけ言える事は、〝剣技であれば〟狭霧蒼空は、自分を上回っているという事である。

 間合いの把握と維持の技量、そして休む暇も無い斬撃の雨。気を抜けば一太刀で斬り殺される。

 そして何より――見破られている。

 体の右側ばかりを執拗に狙う剣撃を、両手の刀で防ぎながら、桜はそう感じていた。

 桜の右目は、実は殆ど見えていないのだ。

 蒼空が持つ紫の刀で斬られてより、エリザベートの〝呪い〟が身を蝕んだ。それは一度、右目まで達したが、呪いが解かれた後も、目ばかりは完全には戻らなかった。

 傷と同じだ。桜は、その程度に考えていた。

 手や足を怪我しても、時が立てば直る。だが眼球に傷が付けば、治りはしない。それと同じだから、深く思い悩む程の事では無い、と。だから、己以外の誰にも、村雨にさえ知らせていなかった。

 それを、僅かの攻防で見破られている。

 きっと、十年の後には、もう狭霧蒼空の剣を、三度と受け止める事さえ出来ぬようになるかも知れない。それ程に桜は、己とこの少女――いや、『狭霧蒼空』と『それ以外』の隔たりを感じていた。


 ――だが、今なら勝てる。


 桜は、蒼空がそうしたように、体の正面を相手に向けたままで後退した。

 地を蹴り、低く飛ぶような、尋常の達人程度では到底追い付けぬ速度である。

 無論、蒼空なら、欠伸を噛み殺しながらでも追い付ける。それだけの速度の差が有る。

 だからこそ――桜は確信を以て、小さな罠を仕掛けた。

 それは、他には誰も気付けぬ程に小さな、足の動きであった。

 あともう一歩だけ下がるように〝見える〟後方への足の動き――逃さぬと、蒼空は更に加速して飛び込んで来る。

 その予測を完全に裏切り、桜は正面へ、蒼空を迎え入れるように踏み込む。

 二人の額は、触れ合わんばかりに接近した。


「よう、追い付いたぞ」


「……っ!?」


 予想を大きく上回る速度で近づいた顔――蒼空は、童のような目を更に丸くして驚愕した。

 近すぎる――刀を振るうには適さない。こうまで近づく意図は、蒼空には無かった。

 彼女にして見れば、相手の動きを予想出来るというのは、ものが上から下へ落ちる事や、太陽が東から昇る事と同様に、当然の事実なのである。その予想が裏切られたのだ。

 だが、その次は予想出来る。自分の左手側に回り込んで来る筈だ。そう〝読んだ〟蒼空は、右手側へと逃れようとし――


「待て待て、逃がさんぞ」


「ぁ……あ、っ!?」


 桜は同時に、その方向へ回り込んでいた。

 何をしたのか――これも単純に、誘いを掛けただけである。

 如何にも左へ行くぞと、思わせぶりに足を動かしながら、右手側へ動く。武術に於いては珍しくも無い、虚実の攻防である。

 然し、その虚の技が、並ならぬ腕であった事と――誰の目にも見えぬ小さな動作さえ、決して見逃さぬ蒼空の目が、この時ばかりは祟った。

 蒼空は、桜を中心として、円を描くように馳せる。背後を取って斬りかかろうという試みであるのだが、桜が踏み出す度、その円の形が崩れる。大回りに背後を取ろうとする蒼空に追い付くのに、桜はただ、真っ直ぐに一歩踏み出すだけで良かった。

 目と、足と、僅かな手の動き。それに反応して蒼空は、自分が動く軌道を変え、そして起動の変化に合わせ、桜は蒼空を追う。

 速度差は歴然であるのに、どうしても振り切れない――どれだけ動いても必ず追い付いて来る。

 その困惑が、神域の剣閃を鈍らせ――また桜の左目も、蒼空の速度に慣れ始めた。

 次第に二人の刀は、中空で、幾度もぶつかり合うようになり始める。一方が斬って一方が防ぐのではなく、互いに刀を振るい、中間距離で切り結ぶのだ。

 そして――そういう事をすれば、日の本で雪月桜に勝る生物は居ない。

 桜の武器は、速度・技量・悪知恵・経験、その他幾つも有るが――最たるものはやはり、力なのだ。

 刀と刀がぶつかる度、蒼空の腕には、膝を伸ばして高所から着地したような、関節全てを押し潰すが如き痺れが走る。対して桜は、己の力の反動など、まるで意に介さず暴を振るう。


「う、ぅっ……!」


 先程まで攻め立てていた筈の蒼空は、一転、冷や汗を頬に流し始めた。

 一方で桜は、無尽蔵の体力を以て、蒼空へと刀を振るい――


「――頃合いか」


 その暴剣をふと緩めて、一歩、後退した。

 この二人に一歩の距離など、無いも同然であるが――この距離こそが、今、桜が欲しいものであった。

 何故か。

 進む為に、必要だからだ。

 更なる加速を得て、刃を届かせる為、桜に必要なのが、この〝一歩〟という距離であった。


「お前は、見事だ」


 桜は惜しみなく蒼空を称賛しながら、異形の構えに転じた。

 左足は後方に伸ばし、曲げた右膝に上体を大きく覆い被せ――背など、殆ど地面と平行になっている。

 その背に、更に脇差と太刀を、腕を肩越しに背へやる事で、刃を空へ向けて重ねる。

 例えるなら、一頭の獣。

 肉食獣が敵に飛びかかる寸前の、低く撓められた形を模した構えであった。


「――ぁ、ぅ、ぅう……っ」


 蒼空は、その構えの意味を知り――だが、打つ手を見いだせず、狼狽する。

 そして桜は、慈悲を一切見せず、前へ出た。

 開いた間合いを、歩幅を小刻みにして、二歩で埋めた。その二歩で桜は、最大速度に到達していた。

 その速度から、二刀が同時に、蒼空へと振り下ろされた。


「くうぅっ……!」


 蒼空はそれを、刀を横にして受け止めたが、衝撃で後ずさる――到底踏み止まれる威力では無い。

 それでもせめて反撃をと、体勢を立て直そうとした蒼空へ、次は左右から挟み込むような形で、低い斬撃が迫る。

 その間も、桜は前に出る。

 蒼空は後退し続ける事を余儀なくされる――留まってぶつかれば、力では決して叶わぬからである。

 逃げ続ける――桜の剛剣を防ぎ、体勢を崩した侭で。

 桜の剣は、上下左右あらゆる角度へ――然も異常に低い起点より放たれる。

 蒼空も時折は反撃を試みるが、極度に低く構えた桜を狙うには、殆どが斬り降ろしの斬撃となる。どの角度から刀が迫るか分かっていれば、桜の技量ならば、防ぐ事など訳は無い。

 一度刀を降ろし、斬り上げで顎や肩を狙おうともする。然しその刀は、振り下ろされた桜の脇差に抑え込まれる。

 側面よりの斬撃を放つには、桜の体勢が低すぎて、狙える箇所が絞られる。

 そして攻撃へ転じれば、常軌を逸した低さより、怒涛の如く剣閃が叩きつけられるのである。

 これぞ正道の剣術に収まらぬ桜が、唯一、師より譲り受けた秘剣であった。

 日の本風に呼ぶなら、名を『刃への弔い』となる。

 名の由来は定かでない。

 この剣が振るわれたのは、たった一度であると聞いている。

 この剣が葬ったのは、たった一人であるとも聞いている。

 即ち、天下の誰も知らぬ剣。

 もはや桜の放つ斬撃は、剣術として名付けて良いものでさえなくなっていた。力に任せ、圧倒的な速度で、触れれば斬れるように刀を振るうだけであった。

 然し、その名付けられぬ斬撃全てが、三つ胴、或いは五つ胴さえ為す剛剣である。桜は思うまま、その斬撃を繰り出し続けた。

 無形こそが、桜の秘剣であった。

 それさえ、蒼空は防ぐ――辛うじて。

 軌道も力も理解が及ばぬ剣撃に対し、加速を伴わぬ超高速を以て、防御を成功させ続ける様は、やはり天賦の才と言えようが――


「ぅ、っく、ぐ……ううぅ……っ!」


 色白の顔を耳まで真っ赤に染めて、蒼空は桜の剣に抗していた。

 困惑で塗り潰された赤い顔の、両目にはじんわりと涙が滲んでいる。

 次第に振るう剣からも精密さが失われ始めた。

 癇癪を起こした子供のような荒っぽい剣で、蒼空は桜に張り合い、剛と迅の剣が、数十も数百も打ち合わされた果てに――


 ――がきん。


 と、蒼空の刀が圧し折れた。

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