死戦(6)
政府軍が一時的に兵を後退し、城内には僅かだが、息を整える間が与えられた。
だが――二度の砲撃を経た城内の様子を見れば、とても安堵出来る状況には無かった。
居住区域として建てられている小屋や、武器・兵糧を保管する倉庫の内の幾つかが、着弾の余波で破砕されている。
――何をすればいい!?
狭霧紅野は、この山の総大将として、此処から状況を立て直さなければならなかった。
然し、何が出来るというのか。
破砕された建築物の修復――間に合わない。
物資の補給――外に頼る他は無く、包囲網が敷かれている現状では不可能。
負傷者の治療を急がせ、城内の動揺を鎮めるにしても――この状況下では、紅野の声さえ誰にも響かない。
「湯だ! 湯を沸かせ! 出来る限りの布を煮るんだ!」
声を張り上げ、冷静な者には仕事を与えながら、紅野は負傷者を集めている小屋――の残骸まで走った。
屋根が落ち、恐らくその下では何人かが潰れているのだろうが、潰されず外へ出られた者達は、寒空に野晒しにされたまま治療を受けている。
その治療も、素人の応急手当の延長のようなもの。幾人かが、数か月の付け焼刃で習い覚えた治療魔術を用いているが、切り傷を塞ぐ事は出来ても、大きな負傷には対応出来ていない。
「風鑑先生!」
「此処や! 手は足りん、患者なら後にせえ!」
比叡山中に、医者はたった一人――風鑑だけだ。彼は丁度、数人の負傷者を寝かせた中央に座り、一時と休まずの治療を行っていた。
一人の傷を縫い合わせ、次は別な一人の腹を開いて中身を繋ぐ。また一人の脚を根本から落とし、別な一人には――首を振り、手伝いをさせている子供に、何処かへ片付けるよう促していた。
「紅野ちゃん、あかん、手が足りひん! 怪我の軽いもんは回すな、死にそうなもんも回すな、助けられるもんだけを――」
「先生、手は止めないで良い、聞いてくれ!」
風鑑は、喉の奥から絞り出すような、枯れて消えそうな声で紅野に言った。命を救う者として、その言葉を吐きたくないのだと、顔と声の全てが語るような、鬼気迫る姿であった。
その風鑑の言葉を遮り、紅野が問うたのは――
「座主の死因は何だ!? 普通じゃない筈だ、何が有った!」
開戦前に急死した、座主――比叡山の僧侶の頂点に立つ、老僧の死因であった。
老年とは言えど、寝入って突然に死ぬ程の老いでは無く、病も無い者であったのだ。
「毒や! 腕に咬傷が四つか五つ――蛇毒や! 〝座主様は蛇に噛まれて死んだ〟!」
蛇――風鑑はそう言った。それで紅野には、完全に合点が言った。
「やっぱりエリザベートか……!」
自分や桜でなく、座主だけが狙われたのも、その故だろう。
自分達なら、寝床に蛇が近づけば気付く。武芸の道を知らず、また年老いた座主の寝床に近づくなど容易い事だろう。
恐らくは先の朔の夜、その蛇は山に忍び込んだのだ。そして――座主に噛み付き、毒を流し、殺した。
城外で見せた、あの不死の術。それに用いていたのも、蛇だった。
蛇の術師――それがエリザベートの正体か。
答えを得た紅野は、然し対抗する術に思い当たらず、槍の柄を強く握りしめる。
その横に、音も無く、雪月桜が並び立った。
「神を名乗りながら、やる事は楽園の蛇か……大した女だ」
桜はさしたる手傷も負っていないが、焦燥した顔であった。
戦いの疲労ならば、こうはなるまい。己の刀がまるで通じぬ敵と、どう戦えば良いのか、桜にも見えていないのだ。普段通りの諧謔は口にしながら、その声まで、力が無かった。
「紅野、どうする」
「………………」
「あの砲があれば、勝ち目は無い。エリザベートが直接向かって来れば、負けは無いが、勝ちも無い。この二つの札、どうして潰す?」
つまるところ、その二手だ。
これまでも不利な戦況ではあったが、砲撃と、エリザベート自身の出陣と、この二つだけは早急に止めねばならない。
とは言え、後者はそれこそどうにもならぬ。殺せぬ敵の気まぐれに任せるしかない。
ならば――どうにかできるのは、前者だけであろう。
巨砲〝揺鬼火〟を破壊、または砲手を壊滅させ砲撃を止める――それこそが、最大に優先される事項であった。
「誰が行くか、だな」
既に桜は、結論を出していた。
一番確実なのは、自分が行く事だ。
城内の抜け穴を使い、森に紛れて山を抜け、五里を駆け抜けて砲に奇襲を仕掛ける。
桜の足ならば、五里の道程も半刻掛からず駆け抜ける。到達までに一度、城内への砲撃は有るだろうが、二度目の前に辿り着く。
「……私ならどうだ、桜」
だが、紅野はそれを良しとしなかった。大将である自分自身が、出撃すると言うのである。
「馬鹿な、有り得ぬ案だ」
「けれど、あんたを動かすのも怖い……隊長がな、来るだろうから」
「……あの鬼か」
紅野が恐れているのは、砲撃もそうだがもう一つ――己のかつての上官、波之大江三鬼である。
彼が率いる精兵部隊の攻撃を、少数で食い止められる人間がどれ程に居るか――殆どいない。
「あの人は、どれだけ嫌な顔をしたって、命令はきっちりこなす。やれと言われたら女子供まで皆殺しに出来る人だよ。……加えて、あれに勝てる人間なんか、私は二人しか知らない」
「二人とは?」
「あんたと、私の妹」
そして紅野は、乾いた声で、突然に笑い始めた。
生気の失せた目、力の抜けて落ちた肩――温度の無い声で、はは、と軽く笑ったのだ。
「そーだよ、向こうにゃ私より強い奴らがごろごろしてる。うちの親父も妹もそうだ、隊長もそうだ。あれを止められるのはあんたしかいないし、ならあんたを此処から動かす訳にはいかない。〝あんたは城に残し〟〝砲撃は止める〟と来たら、もう私しか動けるのは残ってない。分かり易い答えだろ。
……元々、そういう戦だ。あんたみたいな怪物や、反則技の障壁に頼って、それでも勝ち目のない戦だ。守りが引っぺがされたら、本当は勝ち目なんか何処にも無いんだよ……」
紅野は、堰を切ったように、無感情の声で滔々と思いを吐き出した。
勝てない。
最初から勝ち目は無かった。
それは、開戦当初から知っていて――だが口にしてはいけない、禁忌の事実である。
勝てぬと嘆く紅野の膝は、まるで初めて戦に赴く兵士のように、小刻みに震えていた。
「弱音を吐くな、紅野。私以外にも、あの老人や狩野が――」
「二人とも城の外だ、別な頼みを与えてる。……あの二人は、あんた程強くないが」
桜は、柄にもなく、直截な言葉で紅野を激励する。それ以外の言葉を見つける余裕が無いのだ。
震える紅野の肩を抑え、何処か壁を背に出来る場所を探し、引きずるように――動こうとして、桜は、背後より何か近づいてくるのを感じた。
音も無く忍び寄る気配――殺気さえ放っているというに、敵対の意思は無いように思える。少なくともこの気配の主に、自分が殺されるという気がしないのだ。
「爺、何処へ行っていた」
「大将首を探して、犬と喧嘩をしとった所よ」
しゃがれ声に振り向けば、高虎眼魔の白髪頭が其処に有った。
紅野により、敵の大将である狭霧兵部を暗殺せんと、一人夜闇に紛れて外へ抜けだした老人であるが――
「……爺さん、手」
「おお、やられたわい。なぁに、左よ、右では無い」
壁に寄り掛かって座り込んだ紅野は、高虎眼魔の左手を指差した。
その手は、人差し指から小指までがざっくりと、噛み千切られて失われていたのだ。
既に誰かの手当は受けたらしく、傷は塞がっているのだが――剣士にとって、片手を失う事は致命傷にも等しい。
高虎は、後れを取ったのだ。即ち紅野が目論んだ暗殺は、失敗に終わったという事である。
「大将首を探して歩いたが、伝令を追いかけて行ったらの、兵部卿ではなく犬がおったわ。俺もやきが回った、あと二十年も若ければ勝っていたものを……」
「犬……赤心隊か?」
「名は知らぬが赤備えよ。大将首と名乗っておったが、あれが兵部卿なる若造には見えんのう。俺の手に噛み付きおったわ」
成程、手酷くやられながらも逃げ遂せるのは、老獪な達人故の事であろう。然し、比叡山側の策は、これでまた一つ潰えて――
「……あれが大将。じゃあ、親父は指揮を取ってないのか……?」
否。
狭霧紅野は、新しく知った事実を元に、戦況の再認識を初めていた。
そう――思えば確かに、違和は多かった。
西側の三鬼達の攻撃に呼応し、東と南の軍も攻め上がって来ていれば、尚更に比叡山軍の損害は増していただろう。
砲撃の後、エリザベートの言葉で士気を削ぐ為とは言え、あの局面で兵を退くのも――理解の及ばぬ事である。
狭霧兵部の攻め手と見るなら、ぬかりが多い。
だが――視点を変えるなら、頷ける事も出て来る。
狭霧兵部和敬の悪癖として、他人が苦しんで死ぬ様を眺めるのが、何より好きだという事が上げられる。
兵を引いたのは、比叡山側に与える苦しみを長く引き伸ばす為だとして――ならば、どうする。
「……違う」
紅野は、初めてその答えに届き――当人は気付かぬながら、破顔さえして呟いた。
「違う?」
「親父が狙ってるのは、兵士じゃない。私だ! 私を苦しめたいんだ、親父は……そうか! それだ!」
あまりの雰囲気の変わり様に、桜が思わず、腰を曲げて紅野の顔を覗き込む。
だが、紅野の目に、今は他の誰も映らない。敢えて映っているものを述べるなら――此処に居ない、悪逆非道の父親の顔だ。
「爺さん、大将首だって名乗ってたのは、赤羽織の男か!?」
「応。俺より背の高い、躾けの悪い糞餓鬼よ」
「伝令もそいつの所に集まってんだな!?」
ざん、と、紅野は立ち上がった。
その目の奥では既に、幾つもの数字と、地図と、それから人間の顔が蠢いていた。
光明――細く儚い、小さな光が見えた。
「良いか、今すぐに始める、一度で理解してくれ!」
紅野は、集められるだけの伝令を集め――大博打のタネを仕掛ける。
動くのだ。桜はそう感じとり、手近な雪を一掴みして、顔と口の中をゆすいだ。
何をするかは、全容を分からずとも良い。何をしろと言われれば、その通りに動けるように、気力を整えておけばそれで良いのだ。
「……往くか」
誰に言うとも無く、桜は一人呟いた。
「待てい」
すると――それを留める声は、周囲からではなく、桜の腰の刀より聞こえて来た。
脇差では無く、太刀の方である。
絢爛の黒漆鞘に、流麗な金属細工の拵え。美女の流し目が如き美刀が、人の言葉で口を利いたかと思えば、
「風鑑も老けぬものよのう、あれは人間ではなかったかえ? 人魚の肉でも喰ろうたか、不老の仙術でも身に付けたか」
「……お前は」
常盤色の着物を纏った、女の姿に化けた。
八竜権現を名乗る、青前の山に住まう女――八重であった。
「付いて来ていたのか?」
「そなたが運んできたのじゃろ、呆けた事を。この『言喰』は我が力の写し、分霊の一つ。幼子の首を斬り、血を浴び、呪いと共に百年を経て妖怪に変じたがこの刀――故に此方は、この刀有る所にこそ、在るのよ」
「……良く分からんが、分かった」
言葉に応じながら腰に手をやれば、鞘の内より『言喰』が消えている。成程、刀が八重に化けた、いや八重が刀に化けていたと言われても頷けよう――頷けるだけの不思議を、北の地で見たのだから。
「して、何をしに現れた」
「言うたじゃろ、言喰は呪切りの刀と。何を斬れば良いか、見定めねばならぬと思うての」
緑の着物の裾を翻しながら、雪に足跡も刻まず、吹く風に髪も乱さず、八重は何処か世界の外に居るような有様であった。
その足が向かう先は、本堂――地下には座主の亡骸が安置されている。
誰が教えたでも無い筈だが、惑いの無い足取りであった。
「今暫し待ちやれ。蛇の牙と竜の牙、何れが勝るか、さて、魅せようぞ」
そうして、八重は本堂に入り――恐らくは隠し階段から、地下にへと降りていった。
「……成程」
桜は何事か、得心が言った様子で頷くと、適当な刀を一降り、死んだ兵士の亡骸から拝借した。
そして、紅野の策に従い――今暫しは城内で、身を休める事に専念するのであった。
「報告! 報告!」
政府軍の本陣――とは言うが、陣幕も何も無い、比叡山北側斜面。伝令兵が一人、雪を蹴立てて走っていた。
人が〝急ぐ〟という時、その急ぎ方にも種類がある。出来る限りの範囲で急ごうとするのと、全力で目的まで向かうのと。この伝令兵の場合は、自分の全力より更に一歩先へ行ってでも、この事実を伝えねばという決意を漂わせていた。
「おう、なんだ!」
暗殺者を退け身を休めていた冴威牙は、さしたる傷も負っていない。伝令が近づいて来たのを臭いで察知すると、跳ねるように起き上がって迎えた。
伝令は暫し、雪の上に膝を着いて息を整えた。それから、口を可動範囲のぎりぎりまで開き、一度思いっきり息を吸ってから、こう伝えたのである。
「東側の陣にて、黒八咫を見たと報告有り! 監視を続けていた抜け道の一つより、黒い衣に身を包んだ女が現れ、幾人かを斬り捨てて駆け抜けたとの事!」
「黒八咫……出たか!」
冴威牙が待っていたのは、この報告であった。
まさか比叡の城内に、砲を止める為に纏まった兵数を送る余力はあるまい。定期的に行われる狙撃を止めるには、黒八咫――雪月桜を動かす他は無い。
比叡の山中に於いて、波之大江三鬼を足止め出来るのは二人。戦って勝てるとなれば、桜の他には居ない。その最大戦力が、五里先の目標に到達するまでは、完全に戦闘から排除される――好機である。
「うっし、全員で攻め上がるぞ! 伝令が届いた端から進ませろ! 俺達は東側の連中に合流して攻撃する!」
「うーっす!」
陣とも呼べぬ本陣には、冴威牙の部下が十数人――と、死体が幾つか。生きている者も、その半分程は顔を酷く腫らしていたり、痣を作っていたりする。そして冴威牙に応じる声も、何処か怯えが混じっていた。
高虎眼魔との一騎討ちで、ヤジを飛ばすばかりで加勢もしなかった部下達を、冴威牙が蹴り倒したのである。
ならずもの上がりの兵士が十数人では、束になろうと勝てる相手では無い。叩き伏せ、今一度の忠誠を誓わせたのだ。
無論――そのような事をせずとも、命さえ賭けて従う者も一人居る。有翼の女、紫漣である。
「冴威牙様!」
「おう!」
紫漣は、遂に己の主が討って出るのだと、昂揚に満ち輝いた顔であった。
故に――本来なら、彼女がこの小集団に於いて参謀を務めなければならないが、その任を十分に果たせなかった。
「南と東は兵を二手に分けさせろ! 正面から行く連中と、抜け穴を塞ぐ連中とだ! 落城まではさせるな、出来る限り痛めつけて、その後のお楽しみのお膳立てをしてやらぁ!」
比叡山城を囲む兵士の群は、ゆったりと動き始め――そして一度動いた後は、決して止まらぬ濁流と化すのであった。




