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死戦(3)

「前線はどうだ、押し込んでいるか」


「伝令の言が正しければ、苦戦しているかと」


「だろうなぁ、ちと力押しには兵が足りん」


 狭霧兵部和敬は、酒で体を温めながら、然し真白の戦装束で立っていた。

 剣の達人たる狭霧兵部なら、このまま前線に出れば、数十の兵にも匹敵する働きを見せるだろう。

 然し彼は、己が作らせた国崩しの大砲〝揺鬼火〟の傍に居るのである。


「……和敬様。此処までは敵も来ないかと。お休みになられては?」


「何を言うか、愚か者。俺が紅野であったのなら、間違いなく俺に暗殺者を寄越すわ。いざという時に逃げられず死ぬでは、間抜けにも程が有ろう」


「逃げるのですか?」


「戦えばな、勝つか負けるかするのだ。戦わねば勝ちもせぬが、間違っても負けはせん」


 狭霧兵部は、己の娘がどういう戦術を取るか、十分に理解している。

 寡兵で戦うのなら、誰か暗殺者を仕立てて、敵の大将の首を取る。或いは、火や爆薬を用いて、敵の大将が居るだろう一団を、丸ごと焼き払う。

 その何れも出来ぬように、己と戦う機会すら与えぬように、狭霧兵部は後方に居るのだ。


「まずは一晩で奴らの力を削ぎ、次の夜で苦しみを与える。そして、その次の夜で皆殺しにする。悠長に戦えるようになったものだ、全く」


 屍や負傷者を見る時の――つまりは心の底から愉しんでいるような目で、狭霧兵部は〝揺鬼火〟を見上げた。

 未だに砲身は熱を持っているのか、夜の冷気の中、白い蒸気をしゅうしゅうと吹き上げている。秘匿性などまるで考えず、艶消しもされない銀の巨体は、一個の巨大な怪物のようであった。


「吉野」


「は……はいっ」


 鉄兜の側近が、狭霧兵部に酒の徳利を渡す。それを一息に呑み干し、徳利は投げ捨てて、狭霧兵部は言った。


「いずれはな、もっと遠くから殺せるようになるぞ」


「はぁ……」


「数十里も、数百里も、海を隔てた向こうからも、命令を一つ下すだけで、何処かで何千も何万も殺せるようになる。戦の行き着くところはそれだ。黒八咫や、あの無能な娘のように、一個の人間が腕を磨いて、何千の兵を指揮してというような、泥臭い方向では無いのだ。

 が――俺はな、どちらかと言えば、今の在り方が好きだ」


 狭霧兵部の言葉は、彼の側近からして見れば、唐突にして荒唐無稽な、酔いから生まれた放言にさえ聞こえた。

 だが、狭霧兵部は確信している。いつか――百年か、二百年かかるかは分からぬが、戦の形は変わると。

 己が今、戦場から五里も離れているのと同じように、戦争は戦場へ出向くものでは無くなる。人と人が殺し合うのは剣を用いてでなく、爆薬と魔術の二つを柱に、海を隔てて殴り合う事になる、と。それは思い描く事さえ難しい未来で、そして狭霧兵部にとっては――


「俺は、人殺しが好きだ。死体を見るのも、生き物が死んでいく様を見るのも好きだ」


「存じております」


「だが何時か、戦争では、人が死ぬのを見られなくなる。もしかすればこの戦こそが、人間が最後に愉しむ、相手の顔を見ながらの殺し合いになるのかも知れん」


 そう言って狭霧兵部は、次の酒を要求した。

 鉄兜の側近、吉野は、静かに首を振って、それを留める。


「御身体に障ります。もうお若くは無いのですから」


「………………」


 無言で振るわれる大鋸も、見て避けられる程の、力無い一撃であった。

 荒れている。

 戦を、誰かの死を愉しみながらも、この夜の狭霧兵部は酷く荒れていると、吉野は感じ取っていた。

 それはつまり、比叡の軍にとっては、ほんの僅かの慈悲さえ望めぬのだという事実でもあった。






 城壁東側は、夜本来の暗さを取り戻し始めていた。

 〝揺鬼火〟の砲弾が飛来する折、周囲に撒き散らした爆風が為、木々が圧し折れ、炎が散らされていたのである。

 矢を隔てる木々は無くなったが、然し敵兵の姿を照らしだす炎が消えれば、町人上がりの射手など飾りも同然。彼等はただ、攻め寄せる敵兵の声に怯えるばかりであった。


「く、来る、来ちまう……!」


「ああ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」


 比叡の城に籠るのは、狭霧紅野や狩野義濟のような、戦いを生業とするものばかりではない。

 寧ろ、山中二千人の多数を占めるのは、刀など触れた事も無かった仏教徒ばかりであった。

 彼等は正当な理由無く追われて、此処に寄り集まった。仏教徒であるというだけで、狭霧兵部の惨殺の対象となり、己の命を守る為に抗うのが彼等であった。

 矜持だとか理想だとか、そういう高尚なものは何も無い。彼等はただ、不当に殺されたくないだけなのだ。そんな彼等に、命を賭して勇猛に戦えと願うのは、それこそ死ねと罵倒するに大差無い事である。

 だが、敵軍は攻め寄せて来る。

 木々を揺らし、地を揺らして、夜の闇に紛れ、城門へと一直線に向かって来る。

 罅が入った城壁では、城門も、これまで以上に脆くなる。破城槌などを用いたのなら、あっさりと城門は開くだろう。

 そうなれば政府軍の兵は、城壁の内側へ踊り込む。比叡の軍を守っていた城壁は、彼等の逃げ道を奪う非情の壁と化して、城内は虐殺の場と化すだろう。


「あ、ああ……嫌だっ、俺は嫌だ! 死にたくないっ……!」


「馬鹿野郎、俺だってそうだ! そうだけど、逃げられねえだろぉっ!」


 だから、城門だけは譲れない。

 怯えながらも、念仏に縋りながらも、彼等は一歩たりと引かぬ構えを見せ――そしてその気概は、虚しく呑み込まれる〝筈〟であった。

 きり、きり、と、一斉に聞こえてきた音は――弓が撓り、矢を引き絞る音。まずは撃ち、その後に踏み躙るという企てらしい。無情の矢は、ざあ、と鳴って空へ舞い上がり、城門前に居並ぶ比叡軍五百の頭上目掛けて飛んだ。

 その矢は一つたりと、彼等を傷つける事は無かった。

 彼等に矢が届くより遥かに手前で、空に立ち上がった炎の壁が、矢を悉く受け止めていたのである。

 何の予兆も無く、政府軍の魔術師ですら感知出来ずに発動した術が、闇に返った戦場に、再び灯りを齎す。


「……さて、ゆくか」


 その姿を、両軍が見た。

 城壁の上から、数丈も下の地面へ無造作に飛び降りた、黒装の女の姿。

 三尺の黒髪を翼の如く靡かせ、雪の地面へ降り立った、雪月桜であった。


「お前達、引け。此処は私が引き受けた」


 そう言いながら桜は、右手には太刀を、左手には脇差を、それぞれに構えて進み出る。


「引け!」


 その命は――果たして、味方に言ったものか、敵に向けたものか。

 兎角、雪月桜は単騎で、城門の前に進み出たのである。

 矢、第二波。

 第一波を上回る、風切りの羽根の音。

 城門前の民兵を狙った矢は、然しやはり、遥か前方で炎の壁に捉えられる。

 〝眼〟――桜の目が持つ、魔術とは別種の異能、〝代償持ち〟などとも呼ばれる力。それは桜が目視した地点に、物理的に強度を持つ、炎の壁を精製する。


「お前達の矢は、届かぬ」


 幾度繰り返そうと同じだと、桜は言い、そして大笑した。身を仰け反らせ、己は此処に在ると示しながら、存分に政府軍を笑い飛ばしたのだ。


「攻め寄せて来い。一人一人斬り捨てて、割れた城壁の代わりに積み上げてやろう」


 矢は無意味。銃弾も無意味。自分を殺し得るものは、刀と槍だけである。桜は戦場を、そういう物に規定してしまった。

 桜の後方では、城門が一度開き、兵士達を内側へ避難させる。五百の兵を城内に呑み込んだ後、城壁は内側から硬く閉ざされた。

 政府軍、六千。それが四方に、幾分かの偏りを持って配分され、そして開幕の火と射で幾分か減った。

 それでも、東側の城門を狙う兵は、千を超える。


「……おお」


 その兵達が、一斉に吠えたてながら、手に手に武器を振り翳して、自分を殺そうと向かって来る様は圧巻であった。

 待つ。

 踏み込んでは行かず、先頭の兵士が、自分に届くまで待つ。

 近づいて来る顔を、桜はじっと見つめていた。

 恐怖と昂揚と我欲と、あれこれが混ざってぐしゃぐしゃになった、恐ろしく醜い顔が其処に在った。


 ――これなら、殺せる。


 五本の槍が、顔や首、胸を狙って突き出された次の瞬間、桜は五人の敵兵を胴から両断し、その死体を払いのけていた。


「おおおおおおぉっ!!」


 吠えて、次。雪崩の如く襲い来る敵兵目掛け、両手の刃を振るう。

 左手より刀の兵。首を落とす。

 右手より刀が一人、槍兵二人。武器を斬り、返す刀で頭を割り、首を斬り、胴を断つ。

 後ろの兵に押されるように、自分の足だけでは埋めぬ速度で、まだ幼いとも言えるような顔の兵が突っ込んできた。蹴りを合わせると、数人を巻き込み、その兵士は吹き飛んで行った。胸に残った足型は、胸骨を完全に砕いていた。

 背後は城壁。完全に八方を取り囲まれる事は無い。それでも常に桜の周囲には、複数の敵兵が居る。

 それを、斬る。

 一時と休まず呼吸の合間にも手を止めず瞬きの最中にも息継ぎの際にもただの一瞬たりと倦まず飽かず、

 斬る、

 斬る、

 斬る。

 たちまちに桜の黒装は、敵兵の血で真っ赤に染まった。

 頬を伝う返り血を拭わず、桜は近づいて来た兵を斬り、その屍を毬のように蹴って、別な兵を打ち殺した。

 十か、二十か。その程度も斬ると、足元の死体が邪魔になる。敵の近づいて来る方向が限定される。

 桜は脇差を鞘に納め、片手を開けた。太刀は変わらず右手のみで振るうのだが、然し雑兵が両手で刀を振るうより、何倍も、或いは十倍も勝る剣速は変わらない。

 わっ、と集まる兵士が、数人纏めて死体になった。その死体を桜は左手で掴み、思い切り投げ捨てた。そうして、死体の壁で身動きが取れぬようになる事を避けながら、淡々と殺人を続けた。

 一人斬るごとに、何かを思っていられる戦場では無い。

 視界に敵の姿が映った時、桜はもう、その敵を殺して次の獲物を探している。

 気付けば城門の周りには、斬られて投げ捨てられた死骸は、五十か、或いは百も積み上がっていた。


「次」


 桜は左手で雪を掘り返し、下の方でまだ血に汚れていない部分を拾い上げると、それで顔を拭った。

 殺到した敵兵は怯え竦み、誰も好んでは攻め寄せようとしない。

 それを見届けた桜は、踵を返して跳躍し、罅を足掛かりに城壁を駆け上がる。


「撃て。今なら当たる」


 城壁の上には、弓や銃を携えた兵達が、息を潜めて伏せていた。それが、桜の言葉を合図に、一斉に立ち上がって、城門前で固まり動けずに居る政府軍兵へ、矢継ぎ早の射撃を行ったのである。

 こうなると政府軍と言えど、脆いものであった。

 前進し、城門へ辿り着くまでに、この矢と銃弾で死人が増える。そうして犠牲の果てに城門を破ったとて、その向こうには雪月桜が――忽ちに百人を斬殺した化け物が待っているのである。


「ひっ、引けえ! 引けえーい!」


 恐らくはこの方面の指揮官なのだろう老将が、声を張り上げ、兵士達を後方へ下がらせる。

 彼等には、命懸けでこの城壁を突き破る理由が無い。

 それは〝揺鬼火〟に任せれば良い事であり、死を運ぶ凶鳥と対峙しながら、屍を積み上げつつ為すべき事では無い。

 攻め寄せた時とは裏腹に、陣形も乱れ、方法の体で後退していく政府兵達の背には、比叡の兵が上げる勝鬨が、暫くの間叩きつけられていた。


「桜!」


 城内に戻った桜を最初に迎えたのは、青前の村長の娘、さとであった。

 十二歳という年齢よりも幾分か小柄なさとは、二枚重ねて着ている白い着物を、赤々と濡らしている。

 さとの血でないのは、桜には見て取れた。敵兵の血でない事も、同時に理解していた。

 何処か、北か南か西か、敵兵の矢で負傷した者も出ているだろう。その治療の手伝いに、さとは奔走しているのだ。

 その合間を縫って、抜けて来た――それは、桜の事前の言いつけが為でもあった。


「用意は出来ているか?」


「勿論!」


 早足で歩く桜と、走ってそれに並ぶさと。その行く先には、大きな窯に、並々と湯が湛えられていた。

 水は幾らでもある――雪を溶かせば良い。それを沸かして置くように、桜は言いつけていたのだ。

 歩きながら桜は、血に濡れて体に張り付く衣を、引き裂くように脱ぎ捨てる。それから、さとから桶を受け取って湯を掬うと、頭から湯を被った。

 二度、三度と湯を浴びても、全身の血の全ては落ちない。だが少なくとも、固まりかけていた髪が、再び風で靡く程には清められた。


「よし、良くやった! やはりお前、良い女になるぞ、さと!」


 そして桜は、さとが用意していた代えの衣を纏うと、帯を結びながら城内を、西門まで一直線に走り始めた。

 眉から目に滴る血も無ければ、衣に浸みて動きを鈍らせる重さも無い。

 十全の体勢を、短時間の行水で整えて、黒い八咫烏は飛ぶのであった。


「死ぬんじゃないわよ! 絶対に死なないでよ、桜!」


 祈り縋る声に、応じる事も無く。

 桜は城内の階段を駆け上がり、城壁から外へと躍り出た。






 比叡山の北側は、他の三方に比べ、攻め寄せるには難しい地形であった。

 傾斜が急な事と、それにより雪が崩れやすくなっている事などもあり、多数の兵で一気に攻め上がる事が困難なのだ。

 狭霧兵部の采配であれば、或いは此処には一兵も進ませず、飽く迄も麓だけを封鎖し、比叡の兵が逃げて来るのを待ち伏せるだけともしただろう。

 そして現在、全く同様に、この北側の斜面には、軍勢と呼べる程の兵は居なかった。

 居るのは、獣と、その部下のやくざ者ばかりであった。


「紫漣、どうだよ周りは? そーろそろ城壁に届いたりしてんじゃね?」


 冴威牙――赤心隊の長にして、今はこの山を攻める軍の全権を、狭霧兵部に譲渡された男である。

 重い鎧具足の姿は、普段の伊達な衣装よりも寧ろ、彼を偉丈夫に飾り立てている。

 直ぐ背後の樹上には、副官である紫漣が枝に立っており、時折は背の翼を羽ばたかせて、周囲の光景を見渡していた。


「先程見た限りでは、東側は怯えて山の中腹まで後退。南は拮抗して城壁に近づけず、西側がどうにかという程度かと。」


 鳥類の視力は、人の比では無い。夜闇に紛れて紫漣は幾度か飛び、上空から戦場を俯瞰し、戦況を把握していた。

 それでいて、報告は簡素。元より冴威牙は知に生きる者でなく、詳細な報告をしたとて、そも理解する素養が無いのである。


「おー、やっぱ鬼は怖えなぁ。んじゃ、南側も退かせるかぁ……おう、ちょっくら飛んであいつら下がらせて来てくれや」


「……何故ですか?」


「今回の戦いは、槍や刀で必死こいて勝つもんじゃねえって事よ」


 然し、素養は無くとも、冴威牙の嗅覚と勘は鋭かった。

 自分の指揮官としての能力は低く、仮に兵と兵を正面からぶつけるような戦を選べば、自分は狭霧紅野に劣るだろうと、そうも知っている。


「兵部の旦那が用意した大砲を、あと三つか四つも打てば、城壁の東側はお終いだ。本気で攻めたけりゃその後で良いし、今の時点で無理に攻め込んでも仕方がねえ。そういう力任せの面倒な仕事は、鬼さんに任せておきゃいいじゃねえかよ、な?」


 だから、そういう戦いにはしない。

 兵の練度で勝り、将の経験で並び得る西側の部隊以外、冴威牙は無理に戦わせずとも良いと考えていた。

 寧ろ北と南、東の三方は遠巻きにしておき、山を抜け出そうとする比叡の兵を捕える為に用意している。

 肝心なのは逃がさない事と、明日の朝までに負けない事であり、何もこの夜に勝利する必要は無いのだ。

 兵糧、武器弾薬、兵員、おおよそ戦に必要なものは、向こうは減る一方で、此方は国の何処からでも備蓄を寄せ集められる。持久戦にすれば、決して負けない。

 だが――冴威牙は狭霧兵部に、とある提案をした。

 その提案は、狭霧兵部を大いに喜ばせ、はしゃいだ余りに畳を大鋸で引き裂いてしまった程である。

 それを実行に移すなら日が昇ってからであると、冴威牙は決めていたし、狭霧兵部も望んでいた。

 まず一戦を行い、敵が疲労しきった折を見て――〝その策〟を実行する。それで比叡の城内は、地獄となるのだ。


「うーし、てめえら! 火ぃ着けた奴らが出てきた抜け道、きっちり見つけておけよ!」


 冴威牙の周囲には、併せて二十人ばかりの兵が居る。何れも赤心隊の、ならずものとさして変わらぬ連中である。

 彼等も一応は兵士であるが、乱戦の中に放り込めば、さしたる活躍もせずに討死するだろう。だからこうして、攻防の起らぬ所に潜み、間者の真似事をさせている。

 抜け道――比叡城内の兵がいかなる手段か山中に出て、木々に火を着けたのは、既に冴威牙や紫漣も気付いていた。そして当然、その抜け道を使えば、逆に城内に攻め込めるという事にもだ。

 〝策〟を遂げた後、比叡城内の兵達は、どうにかそれを対処しようとするだろう。そうして疲弊しきった所へ、外からは砲撃、内には精兵の突撃で内外から挟み殺す。それが冴威牙の、幾つか考えている展開の一つであった。


「……冴威牙様は、前線には」


 紫漣は枝から降りて、雪上に寝そべる冴威牙に問う。


「まだ出ねぇ。……不満でもあんのか?」


「っ! いえ、そのような事は……!」


 否とは言うが、紫漣の面持ちに陰りが有る事は、冴威牙も十分に知っていた。

 戦で全権を預かったとなれば、冴威牙が前線で華々しく戦い勝利する様を、紫漣は胸に思い描いていたのだろう。知恵は働く女だが、夢見がちな所が有るのだ。


「はっ、誤魔化さねえで良いじゃねえか! まあそりゃつまらんわなぁ、今は! 俺だって退屈だもんよ!」


 そういう女であると知っているから、冴威牙はゲラゲラと笑いながら起き上って、紫漣の腕を思い切り引く。

 腕の中に引き寄せてみると、狼狽と不平が五分で混ざって、紫漣はまた何とも面白い顔をしていた。


「兵部の旦那が言ってたぜ。じっとしてるのはかったりぃが、でけぇ事をやる時にはよ、待つ事も必要なんだとよ。その代わり、待たなくて良くなった時には――紫漣、お前を連れて前線まで出てやろうじゃねえか」


「冴威牙様……」


「だからよ、餓鬼みてえに膨れてねえでもう少し我慢しろよ、な? 別にひと月もふた月もお預けだって言ってんじゃあ――」


 ざくっ。

 しゅっ。

 冴威牙の声を遮ったのは、雪の中に紛れた枝を踏みつける足音と――人の体に、刃が入って抜けて、血が噴き出した音であった。

 亜人の鋭敏な鼻が、濃厚な血の臭いで埋められる。反射的に、その臭いと気配の方へ振り返った。


「よう、武将首か、大将首か」


 其処に居たのは、老人であった。

 筋骨逞しいが、髪が真白い。

 指は太く、背筋も真っ直ぐに伸びているが、髭が真白い。

 若々しい肉体とは裏腹、顔には皺も刻まれ、声もしゃがれ――然し、並ならぬ老人であった。

 老人の足元には、不幸にも近くに居た赤心隊隊員の首が一つ、胴体と別れて転がっている。

 敵。

 そうと知れば、血気盛んな赤心隊の面々は、一斉に鬼のような顔へと変じた。


「んだコラ爺――」


「待てっ!!」


 然し、彼等を制したのは冴威牙であった。

 手を伸ばし、迂闊に動こうとする部下達を留めながら、冴威牙は獣そのものの凶暴な笑みを浮かべる。


「大将首だよ、俺が。てめぇはなんだ爺、耄碌首か?」


「価値の無い皺首よ、十と積んでも手柄には成らんが、然しおのれらを斬るには十分すぎる首でな」


 老人は髭を梳きながら、右手を胸の前に、開いたままで浮かせた。

 刀は鞘に収まっている。

 この老人なりの、独特の居合の形であった。


「我こそは高虎眼魔よ。音に聞こえた〝不知影かげしらず〟の太刀、冥途の土産に刻んで逝けい!」


 この老人もまた、単騎。若き日には数多の剣客を、果し合いの末に斬ったと言うが――然し老いて後には、その道を変えた。

 彼こそは、紅野が狭霧兵部の首を取るべく放った、正当な剣より寧ろ暗殺を得手とする刺客であった。

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