死戦(1)
月がもうじき目を閉ざすだろう、夜。
雪月桜は目を覚ました瞬間から、自分の意識が澄み渡っている事を自覚していた。
半端に眠って起きた時の、後を引く眠気が無い。目を開いた瞬間に、天井板の節の数まで数えられそうな程、桜の意識は明瞭であった。
吐く息は白い。
一人寝には広すぎる部屋の中、寝間着代わりの襦袢を脱いだ桜は――晒を解き、普段より硬く、布を二枚使ってぶ厚く締め直した。
小袖を纏い、長い黒髪を頭の後ろに纏め、紐で束ねる。普段は耳を隠す髪が、今は額さえ隠さず、全て背に流れている。
そして、刀二振りを手元に引き寄せた。
脇差『灰狼』、呪切り太刀『言喰』、何れ劣らぬ美刀である。その鞘より刃を覗かせ、雪灯りを頼りに顔を映した。
脂の曇り一つ無い刃は、桜の氷の面貌を余さず、過たず映す。己の顔より何の感情も読み取れぬ事を確認し、桜は廊下を出て、音も無く歩いた。
行き先は、狭霧紅野が使う部屋。襖の前に立つと、その隙間から、蝋燭の火が零れて廊下を照らしている。
「入るぞ」
「ああ」
夜も遅くではあったが、紅野は眠ってはいなかった。桜は襖を開け、やはり音を立てず、部屋の内に入った。
「起こしに行こうかと思ってたんだが、あんたから来るとはな」
「……何か有ったか?」
蝋燭の灯りが一つだけの、暗い部屋の中。紅野は襖に背を向け、畳の上に腰を下ろしていた。
布団の類は、この部屋に無い。座布団が一つ、壁際に置かれているだけである。
紅野は、そこで寝る。この傷だらけの少女が、まともに横になって眠っている姿を、桜はついぞ見た記憶が無かった。
「まぁ、座ってくれ」
促されるまま、桜は紅野の横に、どっかと胡坐を組んで座った。
蝋燭の火を頼りに、紅野は何か手を動かしている。桜はその様を覗き込もうと、座ったままで背を丸めて――
「……お前」
驚き、それだけを言う。
紅野は己の左脚を、膝から下を〝取り外して〟磨いていたのである。
普段は衣服に隠れているそれは、艶こそ無いが、確かに鋼造りの義足であった。
「それは、何時からだ?」
「三年前か、四年前か――四年だな。ちょっとした捕り物で、追いかけた相手が魔術師だった。左足を凍らされてさ、石畳みに貼り付けられて動かせなくなって、だから自分で斬った」
「聞いておらんぞ」
義足の可動部を磨く紅野の横で、桜は口を尖らせ、不平を零すように言った。
すると紅野は、きょとんとした顔で、目を丸くするのである。
「あんたのせいじゃない、四年前の事だよ。気に病む事は無い」
紅野は、桜の言葉の趣旨が分からぬと言いたげに、幾度か瞬きを繰り返す。
そんな紅野に対し、桜は溜息を吐き出しながら、不平の続きを言うのである。
「気に病みはせんさ……だが、何故言わん。そうと知っていれば、お前の横で刀を振るう時に、その足を補う動きが出来るでは無いか。敵に伏せるなら分かるが、私に黙っている事も無かろうに」
「……そっか。そうだな、悪い。隠したつもりじゃないんだが、気が回らなかった」
義足を膝の下に装着し、幾度か持ち上げて外れないかを確かめてから、紅野は律儀に桜の方へ体を向けて詫びた。
深々と一度頭を下げ、戻す――育ちが良い娘なのだと、桜が何処かずれた思いを抱く程、丁寧な仕草であった。
「やっぱ駄目だな、私。うちの隊長にも、随分前に似た事を言われてたよ」
「あの鬼か?」
「ああ。『たかが賊徒一人を捕えるが為に、脚を捨てるなど以ての外』ってぶん殴られた。おかげで奥歯も一本、差し歯になってさ……そうだよなぁ」
紅野は、気恥ずかしさを感じ、それを誤魔化そうとしているように笑った。幾つもの傷で彩られた少女の顔に、その笑みは寂しくも良く似合った――似合う事が、寂しさを生んでいた。
あの父から、このように真っ当に生きる少女が生まれるものか――桜はこれまで、幾度かそう思ったが、然しその思いは誤りであったと知った。
「その程度の事で脚を落として……役に立たない私だった。今なら、わざわざ自分で斬らないでも、氷くらい溶かして追いかけるんだけどな。……隊長にゃ、迷惑かけたよ」
狂人の娘は、やはり狂っている。桜は、氷像の如き顔を更に凍て付かせ、身を強張らせた。
「……違うだろう、それは」
「違う? ……何が?」
狭霧紅野は、良識も有るし、常識的な判断が出来る人間である。
だから当然、これから言おうとしている事を、理解出来ない筈が無いのだと、桜は今まで思っていた。
違うのだ。
狂人の娘として生まれたから――では無い、が。
「私にその鬼の言葉は、『脚を失うくらいなら賊の一人なぞ逃がして良い』と聞こえたぞ。『脚を失うような弱兵は要らぬ』などと、言っているようにはとても聞こえん」
「…………!」
狭霧紅野は、その育つ過程で、静かに壊れた少女であった。
「加えるに、あの鬼が、そういう事を言うとも思えん。お前が殴られたのは、好んで自らを傷つける愚を為したからだろう。更に遡れば、そうやって傷を収集するが如き戦い方をする――その悪癖を、殴りつけたのだろう」
「……そっか、そうだよな。言われてみたら、そうだよな……悪い事したな」
本当に紅野は、この時初めて、桜の言った事に気付いたのだ。それでいて気付いた瞬間には、その事実をあっさりと受け入れ、ただただ驚愕しているのである。
心底驚き、目を丸くしたままで呟く紅野が、あまりに痛々しく――
「紅野――お前はなんの為に生きている」
その両肩に手を置き、揺さぶりながら、桜は問うた。
生きる前提が違うのだと、桜は気付いていた。
紅野は、自分が〝価値のあるもの〟だと、全く考えていないようであるのだ。
四肢は戦う為の道具であり、眼球は物を見る為の道具である。顔の皮膚は寒さを凌ぐ為に張ってあるもので、傷が付いた所で困りはしない。代替が利くならば、代替品で体裁を整えておけば事足りる――
だのに、紅野の常識は、正常なのだ。
これが他の人間の事であるなら、顔の傷一つに憂いの言葉を掛け、手足を失った者には真実からの同情を示すだろう。人が、その身の一部を失うのがどれだけ大きな事か、狭霧紅野は知っている。
そうでありながら、己が傷つくという事は、まるで顧みるに値しないものとして、紅野は扱っているのだ。
「なんの為、って――いきなりなんだ、桜」
そも狭霧紅野は、自分が労わられているという考えに辿り着かない。
自分という存在に価値を感じていないから、無駄に投げ捨てもしないが、大切にもしない。そして、他人が自分を労ろうとしていると――理屈を解かれれば理解するが、直感的な理解は出来ない。
この少女はやがて、使い込まれた道具が自然に壊れるように死ぬのだろうと、桜は思った。
壊れる事を望まずとも、まるで厭わぬが、狭霧紅野であるのだと、そう思った。
「……いい、余計な事を言った。それよりも――この、気に入らぬ気配の故を聞かせろ」
揺さぶり問うても、紅野の表情は変わらずのまま――ではあったが、然し桜がこう尋ねると、瞼がぐうと降りて目が細まった。
「座主が、死にかけてる」
座主――比叡山の僧侶、全ての頂点に立つ者である。
日の本に仏教の宗派は幾つもあるが、その内の最大級の勢力の頂点が、座主だ。
「……あの老体は、健勝ではなかったか」
「急に血を吐いて倒れた。風鑑先生が看てるが――」
「助かるか」
紅野は分からないと言って首を振ったが、然し彼女が軍装を整えているのが答えでもあった。
夜気に、桜は耳を澄ませる。
そこかしこで人が起き上がる気配と、忍び泣きのような声が、冷えて澄んだ空気に乗って届いて来る。
何故か――皆、知っているからだ。
この山の障壁は、座主を鍵として発動する。
勤行の末に秘伝を継承し、加えて帝よりの認可を得るという、いうなれば儀礼的肯定を経て、ただの僧侶が、神代の奇跡を起動する者となるのだ。
裏を返すならば、それが無ければ、比叡山の障壁は発動しない。
即ち――朔を待たずしてこの山へ、敵対勢力は、思うが儘に踏み込める事となる。
「城壁の外へ出る」
「……待ってくれ」
「西側の城壁は、私一人で十分だ。他の三方を固めろ」
誰よりも先に、桜は戦場へ赴こうとした。
然しその袖を、紅野が掴み、引き留める。
「待て。少しだけ待て……あんたは私の事を、〝我らの大将〟って呼んでくれただろ。
……打つ手が定まるまで、少しだけ待ってくれ……」
「……応」
掴まれた袖から伝わる震え――桜は、首を縦に振った。
そうして、今にも逃げて行きそうな夜の中で、何もせず居る事に、暫し耐えた。
すると、廊下をぎしぎしと、早足で軋ませる音が、紅野の部屋へと近づいて来て、襖を開けた。
「死んだ」
風鑑は端的に、それだけを告げ、後は紅野の声を待つように、何も言わず立ち尽くす。
座主が死んだ――この山の守りは、既に消えている。
望むと望まざるとに関わらず、もう戦は直ぐそこまで、声が届く程に近づいていて、
ぐわっ、と、山が揺れた。
比叡山を包囲する軍勢は、この夜、優に六千を超えていた。
最初の比叡攻めに用いられた兵数と、ほぼ同等か、それよりやや多い程の兵力である。
一度目の攻撃は、秋の事であった。
備蓄を存分に用いた迎撃の罠と、狭霧兵部の損害を顧みぬ采配とで、優に千三百――五分の一以上が戦死するという惨事であった。
無論、比叡山側も無傷では済まされない。
戦死者、負傷者と合わせて、開戦当時より兵力は減っているし、矢弾・火薬の備蓄も著しく減っている。
そこへ、武装を完全に整えた、政府の兵が攻め入るのである。
「宣告通達の通りだ。この戦、俺は一武将でしかない。軍の総指揮権は冴威牙に委ねる、つまり――」
狭霧兵部和敬は、普段のように脇息に寄り掛かるのではなく、具足をつけて立っていた。
白槍隊が身に付けているものと同じ、真白の、死に装束とさえ見紛うような一式である。
得物の大鋸は、開戦前に既に血を吸っているようであったが、その血が誰のものかを問う程、愚かな将は此処に居なかった。
「――冴威牙の命は俺の命であり、従わぬならばその場で首が飛ぼうが腸を抜かれようが文句は言わせん、という事だ。精々殺されんように、きりきり敵を殺して回るように」
鋸の刃を袖で拭い、早々に白装束を穢した狭霧兵部は、それだけ言うと後方に下がる。入れ替わるように、冴威牙が、兵の群の中から進み出た。
常のような伊達に狂った姿では無く、この日の冴威牙は、見事な戦姿であった。
鎧具足を身に纏い、使わぬだろうが大小の刀を伴い、陣羽織は鮮やかな緋、兜を飾る鍬形は一尺六寸も立ち上がっていた。
元より筋骨たくましい男ではあったが、戦場に似合いの姿に化ければ、尚の事引き立つ偉丈夫である。狭霧兵部の代わりに兵の前に立てば、並び立つ者が皆、無意識に居住まいを正した。
そして冴威牙は、まるで殴り合いを始めるかのように足を開くと、
「……ぅおおおおおおおおおおおおおおおおお――――」
ぐわっ、と、山が揺れた。
冴威牙が地鳴りの如き大音声を張り上げたのである。
数里先の山まで届くのではという咆哮は、木々を叩き、枯葉も残らぬ枝を揺らした。
山に住まう大小の獣が、近づく異常を察知し、雪を巻き上げて逃げ始める程である。
夜も明けぬ内から、鳥が空へと逃げて行く。然し無数の羽音さえ、冴威牙の咆哮に掻き消される。
政府軍も、恐らくは比叡の山に在る者も、一人残らず叫びを聞く。
まして近くに立つ者は、咄嗟に耳を塞いだが、頭蓋の内側をやたらに殴りつけられるような音であった。
悍ましい程の叫びである。
だが、戦の前の昂揚と重ねると、不思議と血の沸き立つような声であった。
「おおおっ!」
「おおおっ!」
「うおぉおおっ!」
兵士の幾人かが、冴威牙に唱和し、夜天へと声を上げ始める。数人、また数人と広がる輪は、やがて政府軍全体へと広がって行った。
「ぅうぉおおおぉおおおっ!!」
数千の軍が、獣のように吠えている。
拳を突き上げ、足を踏み鳴らし、目を見開いて、牙を剥き出しにして、犬のように吠えている。
或いは恐怖より逃れる為の、熱狂であったのかも知れない。
だが、所以が何れであろうと、この軍は既に、一個の獣の群であった。
理性や良心より、殺し、生き残る事を良しとする、獣の集団と成り果てていた。
「――――おおおおおおおおぉおおぉぉおおぉっっっ!!!」
冴威牙は刀を抜き、雪に突き立てた。
刃の煌めきが合図となり、中央から広がるように、吠え立てる群が静まって行く。
だが、咆哮を浴びる前と、彼等の顔は違うのだ。
それは腹を空かせた犬の顔である。食いつく為の餌を、彼等は求めていた。
「首一つで十両――首一つで十両だ!」
すかさず冴威牙は、餌を見せびらかす。耳目が熱気を纏って、冴威牙へと向けられる。
「誰の首でも良い! 女だろうが餓鬼だろうが、赤ん坊だろうが構わねぇ! 首なら全部、十両で買い取ってやる! 首が二つなら二十両、十あれば百両、百あれば千両だ!
死体に貴賤は無ぇ、死ねば全部腐った肉だ。〝大将首だろうが子供の首だろうが〟全部十両、嘘は吐かねぇ!」
但し、と、冴威牙は言葉に続けた。
「首が身体の上に乗っかったままなら、話は別だ!
男より女、老人より子供、ブスより美人、高く買ってやる! 女の餓鬼なら五十両! まさかたぁ思うが、向こうの大将なんざ捕まえてきたら――千両箱、どぉんとくれてやらぁ!」
千両――真っ当に生きるなら、使い果たせぬ金額である。
遊び呆けたとて、数日や一月で潰せる額では無い。夢を見る事さえ無いだろう、正に桁違いの金額であった。
「てめぇらは何の為に生きている! やりたい事でもあんのか、ただ死にたくねえのか、それとも何かになりてえのか!
なんでもいい! 金を手に入れろ! てめぇらに悩みがあるんなら、そりゃ全部金でどうにかなるもんだ! 賊の首を取って叶う夢なら、今日で叶えちまえ!」
大義ではない。
道理でもない。
思想も宗教も、何も絡まない。
有るのは争いの根幹、最も低俗で根源的な理由――我欲である。
「……ほう。痩せ犬が存外に。いや何より何より」
夜空へ向かい、獣に成り下がった兵の群が吠えるのを、狭霧兵部は聞いていた。
そうして、理性が抜け落ちた戦場に立つ喜びを噛み締めながら、怨敵の待つ山を睨む。
「出来の悪い方の娘よ。この父がこれより、たんと褒美をくれてやろう」
比叡の山は漸く目を覚まして、迎撃の用意を整え始めていた。
嘆きの声は遠く、獣の叫びに紛れ、とても聞こえはしない。
然し狭霧兵部の耳は、怨嗟の声を確かに捉えて、心地良く飲み干していた。




