血と満月のお話(1)
とある夜、一人の男が提灯片手に、川沿いの道を歩いていた。
男は、つい先月に嫁を貰ったばかりであった。幼少期から隣家に住んでいた、気が強いが愛嬌のある、少し丸っこい女である。やいのやいのと口喧嘩を重ねながら十数年、近くにいるのが当たり前の様に思っていたが、いざ嫁にもらってみると、これが新鮮でしかたがない。
遅くに家に戻っても、ただいまと言えばお帰りと返る生活は、男をますます仕事に打ち込ませた。金を稼げば妻を喜ばせられる、技を身につければ妻が自慢出来る男になれる。他人の為と思えばこうも向上心が発達するのかと、自分自身の事でありながら、男は日々驚愕を続けていた。
昔のこの男は、ドラ息子などと呼ばれる類の人間だった。年長者と社会に反発する事が粋であり、自分の為だけに振舞う事が伊達だと思い込んでいた。今の妻に横っ面をひっ叩かれるまで、自分の根性が捻じくれ曲がっていた事にも気付かなかった。自分を真人間に引き戻した妻に、男は強く感謝していた。
ならば、次は自分が、妻に何かをしてやる番だろう。その為には働いて働いて、周りに認められる事だ。そして何より、自分が自分を認められるようになる事だと、男はこれまでを取り返す様に遮二無二働いていた。この男は、幸福の絶頂に居た。
今宵の空は雲が多く、月がどうしても綺麗に見えない。帰ったら妻と酒の一杯も、と男は思っていたのだが、肴にする酒が足りない事を残念がった。月明かりが無ければ、提灯だけでは夜道は暗い。夜の早い江戸の町だ、民家の窓から零れるのは、魚油の弱い灯りだけだった。
愛する妻の待つ我が家――長屋群れの端まで、鼻歌を一通り歌えば辿り着く頃。男は何か、自分がつけまわされている様な気がしてならず、立ち止まった。
数年ばかり前ならいざ知らず、今の男は勤勉実直であり、他人に怨まれる筋合いも、心当たりもない。ならば、物取りか。見えぬ相手に振り返り、喧嘩慣れして座った肝を存分に奮い立たせる。懐には数日分の稼ぎが入っているのだ、くれてやってたまるか。
「……『見通せ』」
口の中で小さく呟き、提灯を指先で叩く。単純な強化魔術で、男は提灯の光を十数倍し、周囲の闇を掻き消した。夜の町に、局地的に昼間が訪れる。隠れ潜む気配を暴こうと、男は、照らし出された姿を睨みつけて、
「ぉあ、あ……!」
そして、見てしまった。白光の中に映し出された影の、異形の輪郭を。この世に自然に生まれる筈の無い、奇妙奇怪の生物の姿を。目を疑う、信じたくないと理性に泣きごとを言う。本能が逃げろと叱咤を返した。提灯すら投げ出し、男は走り出した。
何だ、あれは。あんなものと出くわすくらいなら、物取りに出会いたかった。それなら素直に金を渡せば、まだ話が通じる期待を持てるのに。背後の気配は、確かに男の後を追ってくる。
混乱し浅くなった呼吸では、激しい運動をする体を補助しきれない。それでも男は、自分が出しうる最大限の速度を持って、追跡者の恐怖を引き離そうとする。追いつかれてはならない、そう思った根拠は何もない。直観だ。
汗が目に入り、涙と混ざった頃、自宅の戸が見える。振り向いた、もう後ろには何もいない、助かったのだ。内側から支えが掛けてあるらしく開けられなかったが、妻の名を叫ぶと、直ぐにも戸口に妻が出て出迎えてくれた。
「おや、あんた、お帰んなさい……どうしたんだい、そんな風に汗掻いちゃってさ」
「は、ぜぇ、ひぃ……お、おう、帰ったぜ……」
妻の顔を見て、男は安堵する。ここは自分の家だ、自分の城も同然だ。逃げ込み、直ぐに灯りを消そう、あの化け物をやり過ごせる。妻の肩を押し、家の中に戻らせようとした。
「あらら、あらら、本当にどうしたん――――ぃや、あ……!」
男を家の中に迎え入れようとした妻は、外の闇の中に、ぎらぎらと光る目玉を見つけてしまった。男の背後に、息を殺して立っていた、異形の生物を見てしまった。
「いやあああああああっ!? 誰か、誰か来ておくれぇ!!」
「逃げろ、急げ!!」
男は、化け物を突き飛ばそうと、肩から体当たりを仕掛けた。この家に戸は一つだけ、ここを化け物に塞がれていては妻が逃げられない。妻の声は近所に聞こえたろうが、この化け物を見て、助けに入る者など居るものか。
化け物は微動だにしない。予想出来ていた事だ、この距離に入る事が出来たのなら十分だ。化け物の腹に両手を触れさせた男は、両手を必殺の刃を化すべく、持てる魔力を全て掻き集めた。
「『千刃にて』『引き裂』――」
術を発動する前に、男の腕は、肘から先を失っていた。苦痛に絶叫しようとした、声が出る前に化け物の腕が、顔面へ迫ってくるのが見えた。逃げる、防ぐ、化け物を殺す、どれも間に合いはしない。
ああ、逃げる方向を間違えた。首の骨から切り放された頭が、壁に叩きつけられるまでの僅かな時間、男は後悔を深く噛み締めた。
大紅屋の幽霊騒動から三日が過ぎて、旅の用意も万事が整った。
近年の街道の設備充実で、数十年前に比べ、担がねばならない荷物は随分減っている。身分証明に関所の通行手形、後は少量の着替えに銭。慣れた服を着て草鞋を履いて、雨に備えて頭に編み笠、手拭いも一つ二つは欲しい。
だが、食糧や水に関しては、まったくと言って良いほど持ち歩く必要性が無いのだ。このご時世、箱根八里の頂上でさえ、軽食屋が進出している。
「これで、用意するものは最後。何時でも出られるよ」
「では、明日だな。今宵は満月、江戸の月の見納めには丁度良い」
早朝、桜と村雨は、最後の荷物確認を終えていた。今日が江戸の見納め、次に戻るのはどれ程後になるだろう。京まで歩くだけならば、のんびり歩いたとしても三月は掛かるまい。だが、ところどころ寄り道をするのならば、その行程がどこまで伸びるのか、この時点で予想がつかない。
行って戻って、往復半年。それが村雨の、現時点での見通しである。
「戻る頃には冬、かぁ……」
生き馬の目を抜く江戸の町だが、時代の流れだけは遅い。半年くらいではきっと、町は何も変わっていないのだろう。住む人間がほんの少し年を取って、幾らか赤ん坊は増えている、その程度の違いだ。帰る場所が変わらず存在する保証は、旅への不安を払拭し、期待を倍増させた。
突然、階段をどかどかと駆けのぼる音がした。この宿の者で、その様な無遠慮の者などはいない筈だ。誰だろうかと村雨が向かうも、先に廊下の側から襖が開けられた。
「あ、ああ、姐さん、大変でさぁ!」
顔を青くして飛びこんできたのは、岡っ引きの源悟であった。幽霊騒ぎの時と、顔に浮かんだ危機感の種類が違うのは、村雨の目にも一目で分かった。実体不明の何かに恐怖するのではなく、起こってしまった出来事に戦慄する表情だった。
「……どうした、源悟。端的に話せ」
明らかな異常を悟った桜は、この瞬間に斬り合いを始められる程に気を張り、立ち上がる。背からさえ受ける気迫は、殺気の領域に達していた。汗が冷え、背骨に氷柱を刺された心地になり、村雨は思わず身を震わせた。
「……殺しです、しかも手口が半端じゃねえ。お力添えをお願いしたく」
「分かった、案内しろ」
へえ、と答えが終わる前に、源悟は廊下に消えていた。桜がその後を追い、階段に到達した辺りで追いつく。
「今日、か。嫌な日だな……」
初動が遅れた村雨は、蝉の声に消される程小さく、小さく呟く。先を行った二人に追いつくのは、店を出て数歩も走った頃。先を行く源悟は、長身痩躯の男の姿に化けていた。僅かにでも早く走る為の姿。普段の様な軽口は、ただの一つも零れなかった。
今日の桜は、村雨に、付いてこいとは言わなかった。
「酷いな、これは……」
「うわ、ぁ……これ、何が……?」
数十間も離れたところで、既に村雨の鼻は、酔い潰れてしまいそうな血の臭いを嗅ぎつけていた。だが、実際に目にした際の衝撃は、長屋の壁も床も染めた赤の強さは、桜をさえ言葉に詰まらせる程であった。
死体は二つ。何れも首を飛ばされている。玄関先には、男の胴体と女の首。奥の壁際には、女の胴体と男の首。天井と壁に吹き付けられた血が、床に滴り落ち、家財まで赤黒く染めている。ちゃぶ台は破砕され、微塵の木片となっていた。
「鳶の平吉と女房のお町、昨日の夜に襲われたらしいが、隣人も外に出られず申し出たのは朝方……うおぇ、肝の小せえのがもう二人ほど、朝飯を川にぶちまけていきましたよ」
源悟は血の海に草鞋で踏み込み、吐き気を堪えながら、状況の説明をしている。桜達を呼ぶ前に、既に幾らかの調査は済ませていた様で、現場を荒らす事は躊躇っていない。桜も、玄関先の男の死体の脇――やはり、血の海――にしゃがみ込んだ。
「……源悟、屍の検分は終わったのか?」
「へえ、医者を呼んで早々に……とは言っても、調べる事なんざそう有りませんがね。首を飛ばされて死んでる、それくらいのもので……後は、腕や脚に噛み痕が有ります」
「飛ばされた首の方は……顔の横に傷痕。人の力で無いのは確かだな。私に爪が有れば或いは、という所か……」
「あぁ、そいつは――」
桜は、男の屍の傍に転がった、女の首を拾い上げる。右の頬から強く叩きつけられて、顔の部品の右半分は潰れて無くなり、左半分は大きく歪んでいる。高所から転落すれば、このような死体が出来上がるか。その点についても調べは終わっている様で、源悟が説明をしようとしたのだが。
「熊の爪痕だよ。それも、この辺りに住んでるツキノワグマじゃない。あれのより爪が大きい……蝦夷のヒグマ」
家の中の惨劇に背を向けたまま、屍に一歩も近寄らず――屍の傷すら見る事なく、村雨は断言した。
「――その通り、ヒグマだそうで。蝦夷で猟師やってた奴が、岡っ引きに居ましてね。立てば八尺近くになる特大のヒグマだってえ見立てでした。傷跡の爪の長さと、傷同士の間隔から測って……重さも百貫は有るんじゃねえか、との事です」
「でかいな……この国の熊は、もう少し小さいものと思っていたが」
桜が言うように、ツキノワグマはそう大きくは無い。立ちあがっても五尺から六尺、体重は三十貫から四十貫。重さは有るが、魔術を使える者なら、撃退する事も難しくは無い程度の動物だ。
「……が、八尺だと?戸を潜るにも一苦労、腕など振り上げれば……天井を叩き壊しはせんか?」
「あたしもそいつが気になっておりました。この爪痕、真横から頭に叩き込まれておりやす。んなでかいなら、斜めに打ちおろすように傷は付くんじゃねえでしょうか?」
「ヒグマの体格と、場が合わんのか……」
桜は、自分が呼ばれた意味を十分に理解している。それは、調査に協力しろという事ではない。この惨状を生んだ何かを殺せ、壊せという事だ。屍の首をそっと置き、源悟の他にもう二人ばかりいた岡っ引きから濡れ手拭いを受け取り、手の血を拭いた。
「それから、腕や脚の噛み痕。こいつなんですが……」
源悟は、まだ手の血を拭わない。屍の胴体の、袖を少しめくり上げる。
「これは……おい、どういう事だ?」
「見ての通り、歯型ですが……こいつはどう見ても、人間の歯型です。確かに肉に食い込む程、力を入れて噛みついてやがる。怖えですね、傷から血は出てる、熊が去った後にやったんじゃない。死んで、まだ血が体内に残ってる間に、誰かがガブリとやったんだ」
獣の牙ではなく、人の歯型。上下合わせて二十数本、肉に刻まれた痕はかなり深い。軽く歯を触れさせるのではなく、万力込めて噛みつかなければ、この様な痕は残らない筈だ。だが、喰われてはいない。肉の一部が食いちぎられているが、すぐ近くに吐き捨てられて残っていた。
「分かった、もう良い。真っ当な相手は期待できない……それは十分に理解した。後は、探すだけだ」
「そいつが、また……足跡もねえんですよ。熊の足跡が無え、見つかったのは草鞋の跡くらいのもんで」
手掛かりは、殆ど無いに等しい。血や体液を用いて、その本来の持ち主を呪う術ならば有るが、それは対象を明確に認識していなければ効力が薄い。死亡して直ぐ、血が頭から抜けきる前ならば、脳髄から記憶を抜き取る事も出来たかも知れないが――夏、一晩放置されてしまった死体。鮮度など、望むべくもない。
「そっちの通りを、熊の臭いが半分くらいまで進んでる。足跡は人間のものだけど、臭いは熊だよ」
再び村雨が、やはりその方向に顔も向けず、一歩も踏み出さないまま告げた。
「臭いは……途中でスパっと消えてる。屋根とか地中とかに逃げたわけじゃない……魔術的な何かで、いきなり消えたんだと思う」
「村雨、どうした? お前、今日は何か……」
「気にしないで。それより、夕方まで寝てくる。夜に、あそこの火の見櫓で待ってるから」
背の高い建築物が増えるに伴い、櫓もまた高さを増した。事件現場の長屋近くには、五丈の梯子から昇る櫓が設置されている。それを指差した村雨は、桜の問いに答えを返す事なく、達磨屋の方角へと歩き始めた。熊の臭い、人の足跡、突然の消滅。推測の理由の一切を、村雨は語ろうとしなかった。
「……どういう事でござんしょう。あのお嬢さん、占いなんてやっておりましたかい?」
「占いで犯人など見つけられるか……本当に、どうしたというのだ……?」
桜には、村雨の背が、見慣れないものに感じられていた。それはまだ、行動を共にして一週間も経過していない。自分の知らない部分はいくらでも持ち合わせている筈だ、と理解はしている
そういう次元ではない部分で、何かが違うように感じたのだ。昨日まで鉄で作られていた筈の刃物が、鞘から引き抜いたら石に変わっているのを見てしまったように、本来の有り様から離れ過ぎていると思わざるを得ない程に。
「源悟、五人以下では行動するな。索敵、逃走に長けた者だけで見回りを行え。今夜中に片付けるつもりではいるが……」
「見つからなけりゃあどうにもならねえ、万事心得ておりまさぁ」
いずれにせよ、この凶行の主は、半端な腕の者ではどうにもなるまい。場合によっては傘原同心を通じ、幕府お抱えの始末屋集団でも借り出すべきではないか……然し、それが可能になるとしたら、今夜ではない。今夜一晩は、駒は自分しか無い。
自分本位、命を奪う事を躊躇わない桜ではある。さりとて救える命なら、それが自分に不利益を齎さないのならば、正体不明の怪物と一戦交える程度、如何程の事も無かった。総じて雪月桜という人間は、矛盾多き悪人であった。




