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積み重ねのお話(4)

 罪人の首が河原に晒され、片づけられて、また数日が経った。

 洛中は相も変わらず雪ばかりで、更に空からも雪が落ちてくる。

 村雨達がやる事は、変わらなかった。

 洛中を走り回り、雪おろしなどを手伝いながら、一人暮らしの老人など、人手が足りない家が何処かを把握する。

 が――変わった事も、幾つかは有った。


「やっ、お客さん来てる?」


「ぼちぼちでんなぁ。ご家来衆の席くらいなら空いてますけど」


「いやいや、家来じゃないってば」


 〝赤の他人〟だった人間が、〝知り合い〟になったり、或いは〝友人〟となった事である。

 村雨はこの日、部下にあちらこちらを走り回らせながら、自分は茶屋の軒先に居た。

 二条の、丁度人の行き来が多い所に有る、茶屋とは言いながら食事も出すような、大きな店である。

 其処の店主は若い男で、物事に兎角先入観を持たない。亜人としての姿で村雨達が現れた時も、普通の客と同じように、注文を取りに来た程である。


「して、今日の御注文は?」


「持ち帰りでお饅頭二つと、それから何か噂話でも幾つか」


「はいはい、どちらも上等を用意してございます」


 世の中、一方的に何かを得ようというのは、虫の良すぎる考えである。

 村雨が親切の安売りをして回ったのは、自分の顔を売る為が一つと、〝こういう場所〟――人や話題が集まり、かつその話題を効率良く自分に提供してくれる場所を見つける為であった。

 洛中に、村雨は、こういう場所を何件か確保していた。そして持前の俊足を生かし、その数件に必ず、一日一度は顔を出すのだ。

 そこで、自分達が介入出来そうな話を見つければ、首を突っ込んでいく。

 力仕事なら得意分野であるし、喧嘩の仲裁ならば――公権力を用いるなり、或いは村雨やルドヴィカが宥めすかすなり、一方の損にならぬように収める。

 無論、最初から良い顔で受け入れられる筈も無い。

 赤心隊の所属である事、亜人である事の二点は、保守的な考えを持つ者には、受け入れ難いものである。特に老人達などは、未だに村雨達を見かけると、顔をしかめてそっぽを向く。

 だが、若い世代は、また違う。

 自分達に害が無いなら、普通に接しても良いと考え――そして実際に触れて見ると、亜人もさして人間と変わらぬと気付くのだ。

 そうやって村雨は、洛中に、自分の耳を広げながら、自分の存在をも広めている。


「ん、御馳走様。お代は置いとくねー」


「まいど御贔屓に、明日もおいでやー」


 あちらこちらと駆け回る為に、一所に留まる時間は短い。それでも、村雨という生き物の印象を残すには十分であった。

 そも、村雨が亜人の姿を隠さずに居るのも、敢えて赤心隊と分かるように羽織姿で出歩くのも、己を印象付ける為である。

 一度見れば忘れぬ姿で洛中を巡りながら、自分の元へと人の声が集まるように仕向けて行く。

 それは、一朝一夕には成らぬ、労力を積み重ねる事で辿り着く目的地である。

 だが――村雨には、一つ、運が向いていた。


「村雨さん!」


 二条から三条へ、南へ向かって走っていた村雨を呼び止めたのは、拝柱教のエリザベートであった。

 ざぁっと雪の上に線を引いて、村雨は急停止し、道の脇に立つエリザベートの元へと歩み寄る。


「お元気そうで、何よりです」


「まあね、健康だけが取り柄です」


 幸運というのは、エリザベートを取り込めた事であった。

 彼女もまた、市井に人と交わり、人の間に名を広める女である。無償で人の傷を癒し、人の手助けをしながら歩き回る。

 エリザベートが村雨に力を貸した事で、彼女を信ずる者が、無条件に村雨をも信用したのは、計算外の幸運であったのだ。


「おととい、三条河原を見て来ました。貴女が、あれを命じたのですね」


 そして――名声以外に、もう一つ。

 エリザベートと対話できた事そのものが、村雨の幸運であったのかも知れない。


「……そうだよ。私が決めた」


 民家に押し入り凶行を働いた、赤心隊の大藤――村雨は、彼の獄門刑を命じた。

 自分がやらねばならぬ事と信じて、村雨はそう決めた。決意の助けとなったのは、かつて村雨と激しく殴り合ったルドヴィカ・シュルツであり――


「あなたの考えが少しだけ分かったよ、エリザベート」


 ――〝大聖女〟の存在でもあったのだ。


「……分かってしまう人は、少ない方が良かったのです。貴女も、私を知らぬままで」


「あなたは本気で、人を救おうとしてる。その為に誰かが不幸になるなら、まずは自分からって考えてる。……どんな悪事を働いても、誰と手を組んでもいいから……一人でも多く、助けようとしてる」


 救済を、現実的に考えると、どうなるか。

 目に映る全ては助けられないとして、それでも人を救いたいと願うのなら――どうするか。エリザベートが辿り着いたのは、少数を害してでも、多数を救うという道であった。

 そして、それは――法だとか規律だとかで、罪人を罰して社会を成り立たせるのと、本質的には変わらないのではないか? 村雨は、そう思ったのだ。

 罪人を野放しにして、良民は安らかに暮らせない。だが、罰する事そのものが、誰かの負担になるのなら――その負担は、自分で負う。

 その為に、一人を殺したのが自分で、今までに幾千人も殺してきたのがエリザベートなのだ。

 村雨の理解は、完全では無いのかも知れない。けれども、自分が為すべきは何かと考えるようになった一助は、間違いなく、エリザベートであるのだ。


「でも、あなたは間違えた」


 けれども。

 理解した上で、寧ろ理解したからこそ、村雨はエリザベートを否定する。


「……私は、間違えてはいません。全ての人を救いたいからこそ、私はこの国を、まずは呑むのです。

 この国を足掛かりに、世界全てを、私の夢の元に一つにする。恒久的に争いの無い世界を、私が作るのです。

 誰一人として差別されず、神の元に平等の――人が苦しまず、傷つけられず、尊厳を保ち生きていける世界を」


「私は、あなたに支配されたくない」


 選ぶ立場になって、村雨は知った。

 結局自分がやった事は、多数を選び、少数を捨てるという選別――上から下へと押し付ける傲慢であるのだ。

 悔いてはいない。それが正しいと思って選び、実行したのだ。そこに悔いは無い。

 ただ――人の為にという言葉は、発する者の身勝手であると、実感したに過ぎない。

 村雨は、それで良いとも思っている。

 自分は身勝手に、気に入った人間を助けるだろう。そうして助けた人間も、最も優先する一人の為なら、喜んで切り捨てるだろう。

 然しエリザベートは、心から、自分の行いが世界の為であると信じているのだ。


「私は、私が好きになった人と生きて行きたい。その人は多分、あなたの考える世界に馴染めない」


「……〝黒八咫〟ですか?」


「あの人、性格悪いから。……けど、私には大切な人」


 エリザベートは心を痛めながら、世界の為に、人を選別し続けるだろう。

 村雨は、その選別に残る自信が有るが――雪月桜はきっと、エリザベートに選ばれない人間であろうとも、思う。

 理屈をどれ程に重ねようとも、その一点で十分。


「あなたの勝手で、桜を殺されたくない」


 村雨は決して、エリザベートの理想とは相いれない。

 これ以上無い晴れがましい顔で、村雨は、〝大聖女〟への敵対を宣言した。


「……貴女と、分かり合いたいと思いました。人に非ずして、人の中で生きる貴女……人と交わる事を望む貴女と。それは叶わないのですね」


 己の理想を、己の全てを否定され、尚もエリザベートは、慈悲に満ちた微笑みを浮かべていた。

 目尻に涙を滲ませながらも笑っているのは――きっと、村雨という生き物の心が、成長した事を、真実喜んでいるのだろう。

 何処までも善意だけで、エリザベートは生きている。そして善意を以て――この日生まれた敵を、除かねばならぬとも決意した。


「私は、あなたの邪魔をする。あなたに賛同できない人を集めて、内側から、戦いを止める」


「私は、私の目的を遂げましょう。比叡山を落とし、その内にある宝の力を以て、世界の果てまで神の威光を知らしめます」


「必ず」


「必ず」


 二人は、互いに背を向けた。

 不思議と二人に、互いへの憎しみは無く――だが、悲しみも無かった。

 有るのは、果たさねばならぬ望みだけ。

 村雨は、まるで巨大な獣に飛びかかる寸前のように、血が昂るのを抑えられなかった。






 二条城の天守の屋根に、冴威牙は座していた。

 村雨が自分の部下達をからかった時、寝床に使っていたのが、此処だ。


「……いーい眺めだなぁ」


 成る程、絶景であった。

 洛中広しと言えど、そして如何に西洋風の街並みなれど、二条城より背の高い建築物は存在しない。冴威牙は今、洛中で最も高みにいるのだ。

 目が、耳が、鼻が、此処では地上より数段も冴える。遠く人の行き来する姿を、冴威牙は一人で、何をするとも無しに眺めていた。

 普段ならばぞろぞろと引き連れている部下は、今は一人しかいない――有翼の女、紫漣だけである。他には誰一人、この高さまで付いて来られる者はいないのだ。


 ――遠いもんだ。


 冴威牙は、彼の声としては似合わぬ程に重苦しく呟いた。

 高低差、距離ばかりの問題ではない。彼と部下達とは、悲しい程に距離が有った。

 冴威牙の部下は、合わせて二十人ばかり。その全てが、強さという基準で見れば、冴威牙には遠く及ばない。

 二十人全員が武器を持って、素手の冴威牙を殺せるかどうか――いや、それも叶うまい。大なり小なり負傷させたとしても、冴威牙は、自分の部下達を皆殺しに出来る自信が有る。

 知恵はどうか――無いに等しい。だからこそ、力だけで従えて来られたのだ。

 人間としてではなく、生物として見た場合、冴威牙はかなり優れた部類に入る。だが、彼の部下は、悲しい程に彼と遠く――力でも知恵でも、劣っていた。

 たった一人、紫漣だけは、少なくとも知恵働きで冴威牙に勝る。だが、それだけだ。自分が作り上げた群れは、極論、自分と紫漣だけが居れば事足りる。


「冴威牙様! このような所で、何を無為に!」


 彼の副官である紫漣は、朝から一時と休まらず気を荒立てていた。


「長である貴方がそのようでは、下に示しが付きません! 一刻も早く、赤心隊を元の在り方に正さねば――」


「……ふぅん」


 ごろり、と屋根の上で、冴威牙は仰向けになった。

 何処までも広がっている――行こうと思えば、本当に好きなだけ遠くに行けそうな、広い空だ。

 然し、二本の脚で地上を歩く冴威牙には、決して届かない空でもあった。


「〝ふぅん〟じゃありませんっ! 貴方の部下達は、大藤が殺された事に怒り狂っています! 貴方なら止められた筈だ、貴方は何もしなかったと――声は上げませんが、抱いている不満は隠せません!」


「……あいつはドジったんだよなぁ。馬鹿が、ヤってる所にとっ捕まりやがって」


「その程度の事、幾らでも黙認してきたのが貴方でしょう!? 貴方の部下は、何も忠義から仕えているのではない――利と恐怖で、貴方に従っているのです! 身勝手を許されないとなれば、何時まで貴方に従っているか……!!」


 そして今、冴威牙は、己の作った群をどうするか、決めかねていた。

 端的に言えば――守る理由が、薄れて来たのである。

 そうしようと思えば冴威牙は、大藤を牢から出し、何処かへ逃がす事も出来た。そうする事で冴威牙が罰せられる筈も無い――狭霧兵部はそのような善良さを持たない。

 邪魔立てをするとしたら、形式上は副隊長として、冴威牙の下に居る村雨くらいのものであろう。


「あいつ、思ったより強えんだよなぁ……」


 人狼。

 自分に近いが、遠くかけ離れた種族――臭いでその事は分かっていた。だが、初めて出会った時は、軽くあしらえる程度の相手だったのだ。

 それが何時の間にか、本気で殺し合えば、いずれが生き残るかも分からぬような獣に育っていた。

 加えて部下が十数人、いずれも亜人。村雨が持つ戦力は、現時点で、冴威牙の持つ戦力を上回っている。

 意思を通すのは、強い者の特権である。

 大藤を処断するという村雨の意思を、仮に冴威牙が阻もうとしたら――十数人の亜人と、二十人に満たないごろつきが、互いに意思を通そうとぶつかったらどうなるか。

 自分は負けないかも知れない。だが、自分の部下は負ける。事によれば、手足の数本も飛ぶかも知れない。一方で村雨の部下は――二人か三人、殺せれば運が良い方だろうか。それ程の違いが有ると、冴威牙は見ているのである。

 つまり、力を以て好き放題の狼藉を働いていた赤心隊は、同様に力を以て、既に実権は移ったも同然なのだ。それに気づかぬのが冴威牙の部下達であり、彼等は未だに己等の理が通ると信じて、大藤を〝殺した〟村雨へ復讐せよと、冴威牙を突き上げているのだった。


「何もしねぇよ、俺は。……分かってんだろう、真正面から喧嘩になるより、一人死んだままの方が良いって事くらいは」


「……分かります。ですが、分かるのは私だけです! 他の者達は貴方を、子供に怯えて尻尾を丸めた弱虫とさえ――」


 溜息が零れた。冴威牙への支持が急速に弱まっているのは、他ならぬ当人が感じていた事なのだ。

 自分の群と、村雨の作った群をぶつけたくないと、一人の犠牲――法に則った妥当な捌きなのだが――は、目を瞑った。そうしたら、庇った筈の連中から非難されているのだ。

 だから、群を守る理由が薄れた。

 もはや赤心隊という環境、狭霧兵部の庇護と狼藉の特権は、冴威牙が魅力を感じるものではなくなり始めたのである。


「逃げちまうかぁ?」


 せせら笑うような響きも、豪放さも何も無い――本当に、弱音のような呟きが零れた。


「はぁ……?」


「洛中を出て、関を超えて、江戸まで逃げてよぉ」


 冴威牙は、紫漣の腕を掴んで、自分の体の上に重なるように引き倒す。そして、狼狽する紫漣の頭を、がっしりと胸に抱いたのである。


「なっ、――!?」


「港から船に乗って、新大陸を東に突っ切って、また船に乗って帝国の本土まで。この国の連中が誰もいねえ所まで、俺とお前だけで逃げちまうか。

 怖え兵部卿もほっぽって、馬鹿な子分どもも捨てちまって、ぎゃんぎゃん吠える狼に知らん顔してよぉ。海の上じゃあ海賊で、丘に上がったら山賊だ。そうやって、好き放題しちまおうや」


 頬を赤らめ身をこわばらせ、身動きとれずにいる紫漣をよそに、冴威牙は夢を見る少年のような顔をして言うのだ。

 その目は遠く、本当に海の向こうを見ているようであった。

 狭い島国を抜け出して、大陸の大地を馳せる事に、思いを飛ばしているようであった。

 それを、乾いた音が立つ。

 紫漣の右手が、冴威牙の頬を打った音であった。


「情けないっ……それが長の吐く言葉ですかっ!」


 そして、もう一つ。手首を返し、小気味好い音を立てて頬を打つ。

 非力である――少なくとも冴威牙に比べれば。

 傷一つ残せぬ、ただの平手打ちだ。


「お前……」


「貴方はどうして、人の里まで降りたのですか……人の中でのし上がり、やがては一国一城の主になろうと企てたからこそ、狭霧兵部のような男に屈しているのではないのですか!?

 私はっ、貴方が成り上がる様を見たいからついて行くのです! 貴方が尻尾を巻いて逃げる姿を見る為に、海を超えるつもりなどありませんっ!」


 然し、爪痕は残した。

 紫漣の、慟哭にも似た叫びは、冴威牙の矜持に突き刺さり、激しく揺さぶる。


「わ、私はっ……貴方を、王にする為にっ、ひ、ぐ、うっ」


 紫漣は、童のように泣きじゃくりながら、非力な拳で幾度も、冴威牙の分厚い胸板を殴りつけた。

 もはや盲信にも等しい執着――なれど紫漣には理知が有った。自分が見込んだ男が、何処までも上り詰めるのを支えて行きたいという望みが有った。

 自分の理想形から遠ざかる冴威牙を許せない、そういう自分本位な思いも、無かったとは言えぬだろう。然しそれ以上に紫漣は、冴威牙が強く在る事が――単純に嬉しかった。

 恋い焦がれる男と二人、異国に逃げるより、冴威牙が野望を果たす事を幸福とする――献身こそが、紫漣であった。


「……ひっははははっ」


 冴威牙は何時ものような、浅薄とも取れる笑いを浮かべて――


「いーい手が浮かんだぜぇ」


 天守の上に、立つ。

 座していても良い展望であるが、立ち上がって見れば、更に目の位置が高くなる。

 冴威牙は仁王立ちで洛中を見下ろした。そして、紫漣の腰を掴むと、米俵か何かのように、ぐいと肩へ抱え上げた。


「――はれ?」


 頓狂な声を上げた紫漣を余所に、冴威牙は屋根の縁に立つと、


「兵部の旦那に掛け合ってくらぁ、着いて来い!」


 跳んだ。

 両足で屋根を踏み切って、真下にある堀の、冬の寒さで表面に薄く氷さえ張った水へ向かって、跳んだのである。

 風を重量物が切り分ける、ごうごうという音を聞きながら、冴威牙と紫漣は落下した。そして、堀の水は、荒れた海のように、盛大に波を立てたのである。

 何事かと、城内の兵が集まって来るが、辿り着いた彼等も、自分が見たものに理解が及ばぬという顔をして、堀に飛び込んだ阿呆を見ていた。


「……ぶっ、っげほ、冴威牙様、何を――ぅ、寒っ、寒いっ……!」


 翼と手足で水面を叩き、紫漣が、堀から逃げるように上がった――が、そこも雪の上だ。その後から、一度水底まで沈んだらしく、頭から足先までずぶ濡れの冴威牙が浮かんでくる。


「これくらいじゃなきゃ、ならねえよなぁ!」


 そして冴威牙は、紫漣の腕を掴んで引き寄せると、周囲の兵士に聞かせるように吠えた。


「へっ――さ、冴威牙様……?」


「男を成り上がらせる為に、その男の面をひっぱたく! そうでもねえと、俺の女は務まらねえよなぁ!」


 髪も袖も、体の芯まで凍り付かせる程に冷たい水で濡れて、絞りもせず。冴威牙は紫漣の腕を引いて、狭霧兵部の私室へと歩いて行く。

 歩幅も歩く速度も、まるで紫漣に配慮せぬ、自分本位のもの。腕を引かれる紫漣は、寒さに震えながら、小走りで着いて行くしか出来ない。

 だが、それで良かった。それが良かった。顧みぬ主であれと、他ならぬ紫漣が望んだのだから。


「紫漣!」


「はっ、はいっ!」


「俺はまだ、てめぇの惚れた男だなァ!?」


 目尻を濡らしたのは、沢山の水に交じった、ほんの僅かの感涙。

 何憚る事無く、当然のように、傲慢に扱われる事が喜ばしかった。


「はいっ! 一生……一生を賭して、貴方様にお仕えします!」


 同じく濡れた侭の袖で拭って、紫漣は冴威牙に半ば引きずられながら、走り続けた。






 二条城の地下に存在する狭霧兵部の私室は、亜人には、酷く居心地の悪い場所であった。

 極めて清潔な、埃も塵も見当たらない空間だと言うのに、色濃く血の臭いがこびり付いているのである。

 新品の畳の下、床板の中まで、幾人か、幾百人かの血が沁み込んで、もう消える事が無い。柱に跳ねた血が、万遍なく染み渡ったが為に、そういう色の木材であるようにしか見えない。掛け軸を染めた、みすぼらしい黒まで、人の血である。

 呼吸一つをするごとに、肺の奥まで、鉄の臭いが入り込む。呑み込む唾液までが、部屋に満ちた空気に毒され、赤く染まっているのではないかと錯覚する。

 狭霧兵部の私室は、死で塗り固められた独房であった。


「相変わらず、つまらん顔だ」


 脇息に寄り掛かったままの狭霧兵部は、呼び寄せた部下達の顔を見て、欠伸混じりにそう言った。

 呼び集められた面々は――何れも、戦装束である。

 白槍隊の長、巨躯の鬼、波之大江三鬼。

 赤心隊の長、犬の亜人、冴威牙。

 同じく赤心隊、有翼人、紫漣。

 同じく赤心隊、人狼、村雨。

 この部屋に真っ当な人間は、狭霧兵部と、その腹心の鉄兜しか居なかった。それ以外の四名は、皆、純粋に人間であるとは言えぬ者達であった。


「お前達に、命令と――告げておく事がある」


 床に座る部下達――冴威牙以外は足を崩さずに居る――を、狭霧兵部は、殆ど寝転がったような恰好の侭、睨むような目で見ていた。

 然し、その目には、上機嫌が浮いているのだ。

 声も心なしか浮かれている。常に不機嫌を撒き散らしているような男が、何かを楽しみにしているのだ。


「兵部の旦那よ、つまり」


「おう、冴威牙。お前の提案を、全面的に認めてやろう。兵も金も爆薬も、好き放題、湯水のように使って良い」


 座ったまま、膝で身を乗り出した冴威牙に対し、なんと狭霧兵部は、平凡な上司のように笑い掛けさえしたのである。

 尋常では無い事が起こっていると、波之大江三鬼と村雨は感じていた。


「……兵部殿。それは、如何なるお言葉にござるか」


「どうもこうもない、言葉通りの意味だとも、鬼殿よ」


 三鬼は渋面を作り、狭霧兵部に問う。座したままでも、並の男が立った時と、さして変わらぬ位置にある顔は、戦地ならば睨みだけで人を殺さんばかりのもの。然しそれでも、狭霧兵部の笑いは止まらないのだ。


「三日後の戦は、冴威牙が指揮を取り、俺が兵を動かす――つまり普段の逆だな。兵員配置も、使う兵器の選定も、全てこいつに好きにやらせる。運用するのは俺であり、白槍隊に関しては鬼殿が。他の隊も各々、隊単位で行動はさせるが、行動の方針は全て冴威牙の意思の侭だ」


 にぃ、と笑みを深め、狭霧兵部も身を乗り出す。悪意と童心を同居させた、端正でありながら、醜悪な笑みである。


「これがな、思った以上に良く出来た手だぞ。前日には鬼殿にもお知らせするが、恥ずかしながら俺が思いつくべき所を、冴威牙に先に提案された。これに乗らず、折角の興を削ぐ事だけは決して許せぬと、俺は思ったのだ」


「……仔細は分からぬながら。つまり兵部殿は、前線で指揮を取る――本陣には立たぬと」


「おうともよ。……が、冴威牙のような粗野な男が、本陣でじっとしていると思うか?」


 ついに狭霧兵部は、腹を抱えて笑い始めた。

 畳を掌で叩き、目尻に涙さえ浮かべ、喉を引き攣らせながら。側近が背中をさする間も、ひぃひぃと笑いながら、然し言葉は淀み無く続く。


「つまり、本陣は空だ! 紅野め、あいつの事だから、まず本陣を狙って兵を出すぞ! もはや本陣なぞ飾りだと言うのになぁ! 断言しよう、三日後の戦で、紅野めは手が尽きる。比叡はふた月やそこらで落ちるだろうよ」


 何時までも続く――そういう気配さえ漂う、月に一度の攻城戦。其処に狭霧兵部が、明確な区切りを設けた。

 そして、村雨を除く三名は、或る種の信頼さえ抱き、知っている。

 この男が断言する場合、そしてそれが人の死を伴う事象である場合、それは大概、正解だ。例え間違いであったとしても、狭霧兵部は全霊を以て、事象を捻じ曲げ、己の望むものを作る。

 狭霧兵部が、比叡山は二か月で落ちると言ったのなら、二か月以内の落城は定まったも同然であるのだ、と。


「……すいません、いいですか?」


 たった一人、例外がいた――村雨である。

 狭霧兵部の狂気は知っているが、然し、抵抗する者達の力もまた知っているのが村雨である。

 然し、この場合に於いて、村雨の質問は、彼我の力量などはまるで関係の無いものであった。


「朔の夜までは、まだ四日有ると思いますが……?」


 比叡山を守る魔術障壁――『神代兵装〝別夜月壁よるわかつつきのかべ〟』は、月に一度、朔の夜に力を失う。

 朔の夜以外は、完全な外からの干渉遮断――空間が無くなったかのように、敵対する一切の侵入を拒絶する。

 この障壁があるから、比叡山は、数か月に渡って籠城を続けられている。そしてその朔の夜は、狭霧兵部が開戦を宣言する三日後では無く、四日後なのだ。


「いいえ――朔を待つ必要は、有りません」


 その時、静かな、だが強く通る声が、村雨達の後方から聞こえた。

 四人が振り返ると其処には、一切の気配も臭いさえも無しに、何時の間にか〝大聖女〟エリザベートが立っていた。


「大聖女殿のお力は恐ろしい。俺もまさか、そのような事を企てていらっしゃったとは知らなんだ」


 やっと笑いが収まった狭霧兵部は、然しまだ腹が痛いのか、脇息を枕に仰向けになっている。

 その一方でエリザベートは、やはり悲しみに捕らわれた眼差しのまま――そしてほんの一瞬だけ、その目を特に、村雨に向けた。


「呪いは、成りました。三日の後、日の出と共に、比叡の障壁は消え去りましょう。……天命は、既に定まったのです」


 エリザベートは、そうまで言って泣き崩れる。それを狭霧兵部は見て、またけたたましく笑う。

 その笑いに冴威牙が唱和して、狂気が満ち満ちた地下で、村雨は拳を強く握りしめ――そして鬼は腕組みをしたまま、見るも恐ろしい顔で天井を睨んでいた。




 帝国の暦で、1794年2月26日。

 奇しくもこの時、雪月桜は、比叡山中で束の間の平和を楽しみ――

 二日後の、2月28日。春が近づきながら、然し寒さの緩まぬ夜に――蝶子という娘を抱き締め、殺す事になる。


 この年の冬は、長く冷たく、終わりを知らぬ冬であった。

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