積み重ねのお話(2)
村雨を筆頭に、赤羽織の亜人集団は、午後になっても雪降ろしを続けていた。
それぞれが、体力は人の非にならない亜人である。数十の人足を集めるより、余程手際よい作業風景であった。
が――その中に一人、明らかに、周囲より〝浮いた〟者が居た。
周りが羽織で統一されている中、彼女だけは、修道服を着ているのだ。
「よいしょっ、よいしょっ……!」
拝柱教の〝大聖女〟エリザベートは、幅広の鋤を用いて、民家の屋根に積もった雪を降ろしていた。
その光景を遠目に、心配そうな面持ちで見ている者達が、十数人ばかり固まっている。首に下げた十字架を見るに、拝柱教の信者達であろうが、特に年寄りが多かった。
「村雨さん!」
「ん?」
「このおうちは、終わりました!」
また別の屋根の上では、村雨が、部下に指示を出していた。その村雨に、仕事の完了を告げたエリザベートは、誇らしげな顔で背筋をぴんと伸ばしている。
見た目には、村雨よりまだ細い体格なのだが、力が有るのか、魔術の補助を受けているのか、作業は速い。下手な男の二人か三人分は働いている様子であった。
「それじゃ、次はあっちをお願いするね。いい?」
村雨もまた、個人的にエリザベートに対し思う事は有るのだろうが、それを表に出さぬように、次の指示を与える。数件離れた別な家の屋根を指差したのだ。
「ええ、勿論です。……横を失礼しますね」
するとエリザベートは、屋根から屋根へ軽々と跳躍し、自分の持ち場へと向かう。修道服姿の印象とは裏腹の身軽さであった。
だが、エリザベートが跳躍したり、雪を鋤で担ぎ上げる度に、集まっている信者達は顔を暗くする。
「エリザベート様! 危のうございます、降りてくだされ!」
「あら嘉勢じい、私こう見えて力持ちなんですよ?」
信者達の内、白髭を着物の内側に押し込んでいる翁が、エリザベートに止めてくれと訴えたが、当人にその意思は見えない。汗で髪を頬に張り付かせながらも、まだまだ疲れは顔に浮かんでいない。
「そ、そうではなくて――その、なんと言おうか……」
だが、嘉勢という老人が懸念しているのは、そこでは無いのだ。
老人の目が、いや信者達の目が、エリザベートの周囲にちらと向けられる。不信感と警戒心に、蔑みを交えた目だった。
――ああ、そういう事か。
村雨と、その部下である十三人には、馴染の深い目であった。
〝そういう〟目をしている人間は、無条件に自分達を信用しない。
そればかりか、何か自分の周囲で不都合が起こった時は、それをこちらのせいと決めて掛かるような事もある。
つまり、亜人を見る時の、保守的な人間の目であった。
明確に否を唱えて村雨達を謗らないのは、力では敵わないと知っているからだろう――侮蔑に力で応える輩だと信じているからだろう。そういう悪意を孕んだ目は、内包する意思を分かり易い程に、村雨の部下達に伝えていた。
空気の色が変わる。
亜人達の目が冷え切って行く。
そして雰囲気の変化を、拝柱教の信者達もまた、肌で感じ取っていた。
「……まったくもう」
たった一人、エリザベートだけが、変わる空気を読まなかった。
屋根から飛び降り、雪の上に音も無く着地すると、雪を荷車へ積み上げている亜人の元へと近づく。
太い腕が黒い体毛に覆われ、爪も長く鋭い、凶器が如き両腕――熊の亜人。その腕の中へ、エリザベートはすうと踏み込んで行き、
「危ない事がありますかっ!」
真正面からその亜人――倫道の体を抱き締めた。
「エっ、エリザベート様、危ないとっ!」
「だから、危ない事なんて無いんですっ! どうしても分かりませんかっ!」
倫道の胸辺りに頭を預けながら、首を目一杯後ろに向けて、エリザベートは自分の信者に反論する。
その口振りは、道を説く者というよりは寧ろ、理不尽さに立ち向かう子供のようであった。
「危ないというなら、その心持ちが危うさを呼んでいるのです! 悪意を向けられて、誰もが善意を返せると思いますか! 返した善意を踏み躙られて、笑って居られるものがありますかっ!」
エリザベートの声は、体つきに似合わず、良く通る声であった。
激して叫べば、家々の窓から、外を覗き見る顔も有る。そして声を控えても、聞き耳を立てれば、十分に聞き取れる程である。
「……右の頬を打たれたら、左の頬を差出しなさい。あの言葉は、たんに無抵抗を称えた言葉では無いのです。互いに復讐を続けていては、やがて双方とも力尽きてしまうからこそ、恨みの連鎖は積極的に立ち切るべしとの教えなのですよ。
この国で亜人が忌み嫌われる理由は知っています。……ですがそれは過去の事。ましてやこの人達が、貴方達に直接、害を為した訳では無いでしょう? ならばどうして貴方達は、殊更に彼等を警戒するのですか!」
雪が雑音を吸う為か、やけに静かな午後であった。エリザベートの声は、矢のように遠くまで届いた。
そして、その言葉を、村雨は屋根の上に座したままで聞いていた。
――こいつは、やっぱり本物だ。
人の感情は目に現れる。仕事柄、村雨は多くの目を見てきた。その直感が、この〝大聖女〟なる女は、本心から怒っているのだと訴えている。
「……貴方は、私を傷つけますか?」
「えっ、いや」
「貴方は、あの人達を傷つけましたか? それに……私や、他の誰かを、今から傷つけようとしていますか?」
「いや……そりゃ、無いけど……」
変わらず倫道の背に腕を回したまま、エリザベートはそう問うた。
倫道もまた、無防備に懐へ潜り込んだ女が、心から綺麗事を述べていると分かったのだろう。同じ事を他の誰かに言われたのなら、悪態と共に蹴り飛ばしたかも知れないが――何もせず、首を左右に振って答えるばかりであった。
「ほら、見なさい。この方達はよい人です」
そしてエリザベートは、また屋根の上に上がり、雪との取っ組み合いを始める。
信者達も、それ以上何かを言う事は無かった。
エリザベートは黙々と、鋤で屋根の雪を降ろしては、
「ふぅ……よい事をするのは、よい事なのですよ」
額の汗を拭い、独り言のように、だが村雨の方を確かに見ながら言うのであった。
日が落ちるまで、その作業は続けられた。
流石に冬の日没は速く、影が伸びたと思ったら、忽ちに夜がやってくる。
「はぁ~……」
五条河原の雪山の上で、村雨は溜息を零していた。
「……まっさか、最終目標にいきなり出くわすとは」
何も村雨とて、酔狂で慈善活動を始めた訳では無いのである。
人助けをすれば、感謝をされる。
感謝が集まれば、人の間を動きやすくなる。
そうして足元を固めて、一歩一歩、政府の中枢へ首を捻じ込んで行こう――そんな気の長い考えが、行動の理由であった。
桜なら、どれだけの軍勢を相手にしても、どれだけの期間でも、耐えるだろう。
その間に自分が、戦そのものを外側から壊す――それが村雨の算段であったのだ。
それがまさか、行動を始めた初日に出くわしたのが、その政府の中枢も中枢、殆ど諸悪の根源である。
「浮かない顔をしています。お悩みですか?」
「……大半はあなたのせいなんだけどね」
そして村雨の隣には、彼女の頭を悩ませる元凶、エリザベートが同じように腰掛けていた。
村雨と並んでも、どちらが年嵩であるか分からぬような、幼げな顔立ちの――女、である。
少女と呼ぶには、エリザベートには威厳が有った。
長く生きているのでなければ、とても身に付かぬ類の威厳が、霧のように彼女に纏わりついているのだ。
然し、その霧を払って見てみれば、其処に居るのは小柄な、痩身の女であった。
――もう少し、悪党を期待していたのに。
村雨が頭を抱えるのは、ひとえにその印象の食い違いが故だった。
あの日も、この女とは会った。
完全な善人面をして、人の傷を癒し、そして人が傷つく事に涙していた女――慈悲を天下の全てに向ける、神を気取った女。然し慈悲の心だけは、真実から生まれているのだ。
せめて僅かにでも、彼女の心に我欲が有ったのならば――そうすれば村雨は、エリザベートを憎悪するか、或いは敵と見なして冷淡に接する事が出来ただろう。
「私の……そうですよね。私の行いは決して許される事では――」
「そーいうのはいいから……今日何回目よ」
結局村雨は、突き放す事もできず、だが親しく接しようという気にもなれず、何とも言えぬ距離感を保って一日を過ごしたのである。
これがまた、疲れる。
主観を抜きにすれば、これ以上無い善人であるのだが――村雨はどうしても、エリザベートを信用しきる事が出来なかったのだ。
「……あなたはさ、本当に、信じてるの?」
「神を、ですか」
「あなた自身を」
村雨の不信には、多々理由が有る。だが、その内の最たる物は――
「世界の皆を助けたいって顔をして、でも、手を組む相手を間違えてる。……自分が正しいって、本当に信じてるの?」
エリザベートの言葉が抱える、矛盾にあった。
人を救う為の教えを解きながら、人殺しと手を組み、人を殺して道を作る。その矛盾に気づかぬ筈が無いのだ。
村雨に指摘されたエリザベートは、慈悲交じりの寂しげな微笑みを浮かべて俯いた。
「……貴女は、迫害された事がありますか?」
「え?」
「その、〝周りと違う〟姿を理由に、遠くへ追いやられた事は」
エリザベートが指しているのは、〝亜人〟に対する差別の事であった。
村雨は、小さく左右に首を振る。人狼は、最も恐ろしい捕食者であると同時に、最も人に近く化ける種族でもある――願わぬ形で正体を暴かれるなど、滅多に無い事であるのだ。
だが、全ての亜人が、村雨と同じに生きて来た訳では無い。事実、日の本では、周囲の目を欺きながら生きている者が多いのだ。
「私は……あまりに多くの悲劇を見て来ました……同じく神の子である兄弟達が、互いに憎み合い、殺し合う姿を。だから自信を持って言えるのです、〝神は誰にも平等に無情である〟と」
そして、エリザベートが吐いた言葉は、聖職者を名乗る彼女には似合わぬ悲観的なものであった。
「私は神を信じています。世界の全てを作り、生けとし生きる者全ての父である神――その存在を。ただし、神の裁きは厳正でないし、また神は慈悲を私達に下さらない。神は世界を作った後、私達に干渉しない事を選んだのです。
けれども……どうして私達の父を責められましょう。父を信じる子に、貴方達は救われないと言えましょう。……ならば私が、救えば良いのです。
遠く万里の果てまで、遍く神の威光を以て照らし出し、そして私の目に映る全てに、私の全ての力を注いででも救いを与える。それこそが私の生まれた意味であり、生きている意味であり、死ぬ意味なのです」
いつか桜が、エリザベートを評して〝神気取り〟と言った。
「……無理に決まってる」
村雨もまた、その時の桜と同じ事を思った。
この女は、自分が神になるつもりだ。
それも――神という地位に成り代わるのだとか、崇拝の対象となるのだとか、そういう事では無い。
救済を齎す制度としての神に代わって、自分が世界に救いを齎す
そしてきっと、その救済されるべき世界の中に、エリザベート自身は含まれていない。エリザベートの目に、エリザベート自身は決して映らないのだから。
「そんな事、あなたじゃ出来ないに決まってる!」
村雨は、彼女には珍しく、悲観的に喚くように叫んでいた。その声もエリザベートは、寂しげに微笑んで受け止める。
「誰かを救うなんて言って、今日まで何人を殺したの! 何人も傷つけて……私も、桜も、みんなを苦しませて、〝救う〟だなんて! 無理に決まってる!」
「……ええ。今の私では、無理な事かも知れません。けれど兵部卿と共に在るのなら、叶わぬ夢では無いのです」
「兵部卿なんて、誰よりも悪辣な人殺しじゃない! 人殺しと手を組んで、人殺し以外の何が――」
「私も、人殺しです……同類が手を結んだだけ、と思ってください」
ぽつ、と零した言葉は、いやに重い響きを以て、村雨に圧し掛かった。
こうして、善意の塊のような顔をして生きている女でさえ、誰かを殺した事が有る。その事実は、その罪は、死ぬまで付き纏う。
もしかすればエリザベートが、自分自身を救済の対象に含めないのは、己の罪を清算する為なのかも知れない。宗教画のように美しく俯いたエリザベートに、怒りなのか困惑なのかも区別のつかぬ感情をぶつけながら、村雨は知らずの内に立ち上がっていた。
そうして、頭の位置が高くなって――合わせて、洛中の風向きが変わった。
先程までは、東から緩やかな風が吹いていたのだが、西からの強い風に入れ替わったのである。
大橋を挟んで西側、近代的な建物が並び、石畳の引かれた、様変わりした洛中。其処から流れて来る臭いは、油に鉄、雑多な食糧やら、人やら――
「……っ」
――血、やら。
村雨は弾かれたように駆け出し、エリザベートもすぐさま、それを追って走った。
「どうしました!?」
「血の臭い……かなり強い! 怪我だとか、そんな量じゃない!」
村雨は、全速力で駆けている。それに平然と追随するエリザベートは、然し血の臭いと聞いて息を呑んだ。
雪の上を、二人は行く。
近代的な都市と言えど、夜に灯りをともしている建物は少なく、細い月が雪に落とす光が道標。ぼんやりと明るい道の上を、灰色と金色の、二つの髪の色が、音も無く抜けて行く。
戦いか?
だとするならば、却って血の量が少ないようにも思える。
仏教徒狩りの命を、まだ狭霧兵部は撤回していない。或いはその流れでの虐殺やも知れないが――だとして、村雨がそれを見逃せる道理は無い。
元々、そういう争いを見逃せないと、桜に駄々をこねて洛中に残ったのが村雨であった。此処で足を動かさぬというのは、己と桜の二人を謀る事になる――選び得ぬ事であった。
そうして辿り着いたのは、大きな通りから路地の方へ逸れた、江戸にもまま在るような長屋の一つであった。
「無事ですかっ、誰か――」
エリザベートは、長屋の前で立ち止まり、体躯に似合わない声を上げた。だが、返る答えは無い。
「動くなっ、赤心隊だ!」
一方、村雨は躊躇わず、幾つか並んだ戸の一つを蹴破り、長屋の中へ飛び込んで行った。
村雨の嗅覚は、戸の向こうに誰かが居る事を嗅ぎ付けていたし、聴覚が故にその誰かが、下卑た笑いを零しているのも聞き取っていたのである。
完全な闇の中、村雨は、その笑い声の主に打ち掛かり、頭部を思い切り蹴り抜いた。倒れた相手の頭と腹にも、それぞれ一撃ずつ蹴りを入れ、更に腕を背中へと捻り上げて完全に拘束する。
「……エリザベート、二人――違う、三人居る! 助けて!」
「はい!」
光の無い長屋の中、村雨はやはり鼻に頼って、其処に居る人間の数を知った。
だが――その内の二人は、助からぬ者とも思っていた。
血の量が多すぎる。
人の出歩かぬ夜中とは言え、そして人狼の嗅覚とは言え、相当に離れていても届く血の臭いである。
そしてまた、捕食者の目は迅速に、色濃い闇に適応する。視界の端に映る、倒れ伏した人間は、明らかに体の一部が、胴体から切り離されて転がっているのだ。
村雨は激しく憤り、その怒りを、無法者にぶつけたいとさえ思った。実際、自分の拳が人を殺し得る狂気だと知らなければ、感情の侭、抑え込んだ無法者の後頭部を殴りつけていたかも知れない。
その代わりに村雨は、無法者を長屋の外へ引きずり出し、雪と月の灯りに手伝わせてその顔を拝み――
「――っ!?」
目を見開き、声を失った。
「村雨さん! 二人とも命は保ちました、けれどそちらの方は……誰か、人を呼んでください!」
村雨の後方ではエリザベートが、まるで何事もなかったかのように、命を救ったと告げている。
仮に村雨が振り向いていれば、そこには、切り離された手足を元のように繋ぎ、穏やかな顔で寝息を立てている、中年の男女の姿と――衣服を乱し、顔や体のいたるところに痣を作った、まだ若い女の姿を見ただろう。
だが村雨は、振り向きはしなかった。自分が容易く蹴り倒した無法者の顔を、吸い込まれるように見つめていた。
「……村雨さん?」
様子がおかしいと、勘付いたのだろう。
エリザベートは村雨の隣に立ち、その男は誰なのかと問うた。
問うて直ぐ――その問いが虚しい事を知る。
「形式の上では、私の……部下、になるのかな……」
その無法者の名は、大藤と言った。
村雨と同じ、刺繍のきらびやかな赤い羽織を身に付けていたこの男は、冴威牙の取り巻きの一人。つまりは村雨と所属を同じくする、赤心隊の一員であるのだ。
村雨はその時、完全に、大藤の凶行の全容を理解した。そして――周囲の家々が、息を潜めつつ、戸の隙間から自分達を見ているのにも気付いた。
「……確かに、神様は無慈悲でいらっしゃるね」
村雨は夜空を仰いで、精一杯の皮肉を零し――道の険しさを知る。
己が暴いた悪行は、己の為す善行を全て掻き消し、尚もあまりある物であったのだ。
背に、女の啜り泣く声を聞きながら、村雨は暗澹とした面持ちのまま、暫し虚空を見つめていた。




