蝶のお話(5)
距離にして数十間、桜の足であれば十も数える前に辿り着く。然し踏破した時には既に、蔵は二つ、焼け落ちていた。
比叡山城の、城壁から離れた中央部。武器弾薬の倉庫は、幾つか並んで建てられていた。その、真ん中の一つが完全に崩れ落ち、桜から見て右手側の一つが、壁を半分も失って燃え上がっているのだ。
先の爆音は、中央の倉から。
収められていた火薬が爆ぜ、倉の壁も屋根も吹き飛ばしたのである。
そして、爆風と破片の飛礫が、右手側に立つ蔵の片壁面を砕き――
「――止めろおぉっ!」
桜は叫び、同時に、燃え上がる中央の倉へ〝斬りかかって〟いた。
周囲にいた者達の内でも幾人か、事態を理解し、逃げる者、火を消さんと留まる者、人を呼びに走る者と別れる。
倉には火薬が収められている。それが、壁面越しとは言え高熱を受ければどうなるか――倉の内の矢や弓、槍などが燃え、その炎が火薬に触れたならば。
いや、中央の倉から飛んだ飛礫が、左右の倉にぶち当たっている。壁面をほぼ失った右手の倉は、既に外側の火が、直接に内の火薬に潜り込んでいて、
「誰か!」
そして、触れた。
爆ぜる。
桜の声を掻き消し、再びの火柱が上がった。地が揺れ、倉とその内容物の破片が、熱風を伴って吹き荒れる。先程より音源に近かったが為、桜の耳は痺れ、暫し世界から音を失う。
爆発の中心近くに居た桜は、己の〝眼〟――目視範囲中に炎の壁を産む力により、傷を負う事は免れていた。だが、既に気付いていた。
視界の端に飛び散るものは、決して瓦礫ばかりでは無い。黒炭となって、或いは白い破片となって散らばっているが――
「――ぉおおおおおっ!」
桜は、凄絶なまでの太刀筋を見せた。
既に崩れ落ちていた瓦礫が、桜の剣閃により、更に細かく砕けて行くのである。
もはや火種として燃える事もままならぬ破片となり、冬の大気に冷やされ、火勢を弱めて行く。
然し、まだ有るのだ。
桜が最初の一つ、恐らく火種となったのであろう倉を斬り潰した頃には、その右手の倉が火の頂を極めて、更に隣の倉を焼き――
このままならば、全て燃えてしまうと、皆が思った。
桜とてそう思ったし、何よりも――己の周囲に散らばる破片は、〝誰〟であったものかを想わずにはいられなかった。
無論、心で何を想うたとて、体は動く。
一つ倉を斬り潰し、炎に表皮を焼かれながらも、次の倉へ正対する。
既に周囲には多くの者が、或いは雪を投げ、或いは桶で水を運び、魔術の腕に覚えが有るなら氷結、水流の術を用いて、鎮火に当たっていた。
口々に叫んでいるが、その声に纏まりは無い。家族の名を呼ぶ者、恨み言を喚く者、様々に、思い思いにである。
だから、桜も叫んでいた。
「何処だ、平太!」
答えは、返らなかった。
代わりにひょうと風を裂いて、一降りの槍が、桜の頭上を抜けて行った。
槍は、燃え盛る倉の壁面に突き立ち、きぃと甲高い音を響かせた。
刹那、大気が一層の冷たさを帯びる。
孕んだ水分を瞬時に凍結させた大気が、白く眩く、美しく輝く程の冷気は――炎を〝その形のままに〟凍結させる。揺らぐ舌、散る火の粉、凶悪に鮮やかな朱の色までをそっくりそのまま、氷の内に閉じ込めてしまったのである。
槍を放ったのは、白髪に数多の傷の少女――狭霧紅野であった。
「何が有った……?」
そう、紅野は言った。
最初のたった一声――それはまるで、泣き崩れる子供のように、力無く発せられた。
目に映る全てを信じたくない。夢であれと祈りながら目を瞑りたい。せんない願いが、紅野の声に零れてしまっていた。
「知らん!」
桜は、その声を聞いて、その意に寄り添う事はしなかった。
半ば喚き散らすように言って、刀を鞘に納め、雪の上に座す。
殴りつけるような声――紅野は直ぐに、己を取り戻し、もう一度、役目をやり直した。
「何が有った! 見ていた奴は!? 番兵はどうした!」
勇ましく、大将らしく。幾千の軍勢にも怯えぬ将の仮面を被り直し、紅野は状況を把握せんと、辺りを見渡す。
倉二つが爆ぜ、完全に燃え尽きた。
その倉に納められていたのは、弓、矢、鉄砲、舶来の大筒、弾丸、そして火薬。その火薬が為に、倉が完全に吹き飛んだのだ。
爆風に焼かれ、倉の破片の飛礫を受け、負傷した者も見える。一人か二人、不幸にして頭を飛礫に貫かれたか、雪の上に伏して死んでいる者が居る。
惨状――そうとしか呼べぬ風景に、呼吸が止まるような錯覚を受けて、紅野は空を仰いだ。
「……番兵は、ここだろうよ」
桜は、変わらず地に座して、地を眺めていた。
倉や内容物、つまり木やら漆喰やら、鋼やら鉛やらの他にも、爆発痕に散らばっているものが有った。
黒く焦げていても、形状を保っている部位は有る。或いは肉だけが剥がれたか、白さを保ち落ちているものも有る。
人の骨。
或いは、頭。
顔こそ焼けただれて誰とも分からぬが、紅野が探している番兵とは、恐らくこれではあるまいか――彼等は武器倉の門前に立っていたが為に、恐らくは誰より近くで爆風を浴びたのである。
一つ、また一つ、悲哀と絶望から嗚咽が零れだす。陰りが満ちた中で桜は、一つ、焼け焦げた腕を拾った。
小さな――子供達と比しても、まだ小さな腕であった。
「……ぁ」
桜は、嘆かなかった。
拾い上げた腕を掴んだまま、後方より近づく気配を感じ取っていた。
既に皆は、〝それ〟の顔を見て、どよめいていた。然し桜は動かない。
雪の上に座して、焼けた小さな腕を抱いたまま、微笑みさえ浮かべているのである。
だが、他の誰も――紅野でさえも、桜に寄れない。声を掛ける事さえ能わない。
そして、〝それ〟は桜の背後に立つと、血濡れのクナイを逆手に持ち、振り上げた。
振り下ろされた切っ先が、桜の首筋に届くより先に、桜はクナイを掴む手を、蝶子の背に捻り上げた。
「っはは、は……まさか、お前か……」
桜は渇ききった目のまま、唇を歪に引き攣らせて、蝶子の持つクナイを奪った。
「お前が……!」
「……ごめんなさい」
幾人かの真新しい血で濡れた凶器と、爆ぜた武器倉。敵わぬと知って尚、狙った首。
雪の上に組み伏せられながら、蝶子はそれだけを言った。
「……悪いな、集まって貰って。もう皆、話は聞いていると思うから……まあ、細かい事は省略しよう」
比叡山の本堂に、城内の幹部格の者を集めて、紅野は話を切り出した。
誰にも、誰も、覇気が無い。議題を知っているからである。
城内に、政府方の内通者が居た。その為に、生命線の一つとも言える武器倉を二つ――備蓄残量の四割も失った。
たった一人の内通者で、四割である。
「〝別夜月壁〟に頼りすぎたんや……もっと番兵を増やしてれば」
幹部格の者の一人、西橋という男が言った。特に城内の者の争い事を仲裁する、体格の良い男である。
あまりにも態勢が杜撰であったと言わざるを得ない。然るべき防備を取っていれば、防げた事態であったのだろう。
然し起こってしまった――故に皆は、原因を求めていた。
何か原因が有ったのなら、それを取り除けば、もう二度と、このような事態は起こり得ない。そういう〝建設的〟な行動を、少なくとも幹部格の者達は取りたがっているのである。
「おっと、そういう話は無しだ」
紅野の目的は、違う。
疲れ切った、強がりの中に諦観の混じる笑顔を浮かべて、紅野は穏やかに、西橋の言葉を遮った。
「犯人を捜すなら、一人は私にしてもらおう。それ以外の結論は禁止……いいな?
元々、武器倉の守備なんて、私達のような戦屋がやるべきだった。〝子供の顔に騙されて闇討ちされるような〟奴を置いておくのが間違いだったんだ。采配を改めなかった私の原因さ」
穏やかな声――言葉には棘が混ざっている。然し、咎める者は誰も居ない。
「役割を見直そう、調練は私が居なくても出来る。平時も城兵は私が直接指揮し、調練に関しては狩野に任せる。……今後一切、武器に関わる部分に関しては、私が認めた奴以外に触れさせないように。もう平等の真似は終わりだ、いいな?」
そうして紅野は、何事も無いかのように、触れてならぬ所にまで触れた。
「……おいおい、お嬢。どういう意味や、それ?」
西橋は、川の底石の如き目玉を、ぐうと細めて、低い声で言った。
平等の真似――人が集まれば順列が出来る。紅野は、その力量故に比叡山の大将となっているが、敢えて戦いに疎い町人達までを幹部格に取り上げていたのは、平等感の演出であった。皆で等しく苦しみ、等しく手柄を上げるという名目の元で、実際は紅野を中心とした兵隊上がりの者達が、物資管理も夫人も、城壁修復の指示も、防衛の指揮も執っていたのである。
「これまで、あんた達とは、良く合議をしてきた。色々と参考になる意見も有ったけれど――悪いがあんた達、やっぱり戦の事には素人だ。
今回の事で良く分かったが、常識が違う。番兵が白槍隊だったら、二人も居て、こんな子供にやられたりはしない。そもそもこいつだとか、あー……平太みたいな子供を、火薬の有る所に近づけさせない」
その誤魔化しを、辞めようという。
「これからあんた達は、食事の分配と、身内の揉め事だけに気を払って貰う。兵糧倉は私の指揮で守らせるから、その中身を上手く使う事を考えてくれ。仲間内の喧嘩で、誰かが死んだりしないように気を付けてくれ……それだけだ」
「納得いかんな、お嬢」
西橋が立ち上がり、紅野に詰め寄る。
頑固な男だ――良くも悪くも曲がらない。だから紅野も、この男には信を置いていた。
「それだけ、やと? 阿呆が、お嬢が二人も三人もいるんかいっちゅうんじゃ。お前は一人やろうが、五人分も働けるかい!」
それを突然にお役御免、後は自分でやると言い出す暴挙――流石に誰も騙されなかった。紅野の独裁宣言が、どういう意図で発せられているものか分からないで、小集団と言えど幹部格に取り立てられる事は無いのだ。
確かに紅野は、平等という欺瞞を取り除いて、自分を頂点とした命令系統を作りたがっている。
だが、人数として多数派である町人達を、彼等を纏める幹部格の者達を、その命令系から外す事は出来ない。
紅野は、服従しろと言っているのだ。
自分の命じる通りに戦い――或いは、命じる通りに死ね、と。全ての史資に残る功績は、その上に狭霧紅野の名を冠する物にせよ、と。
その代わりに、全てを負うつもりでもいる。籠城の苦しみ、戦の痛み、餓えによる怨嗟も全て、自分に向けさせようと。
〝皆で決めたから〟こう動くというのは、もう終わりにする。
〝狭霧紅野が決めたから〟という大義名分と、憎悪の理由を与えようと言うのだ。
「悪いが戦の事だったら、私一人で、あんたらの五十人分は働けるさ。
ははっ、何も恰好付けて言ってるんじゃない。私は多少の無茶くらい耐えられる人間だし、この戦はあんたらに噛ませられるものじゃなくなった。……いいか、お前達」
二人称が、変わった。
同格の者として、親しげに接する事を捨てて、上から下へ一方的に言葉を押し付けるような、高圧さを滲ませる。
「私の親父を舐めるなよ、死ぬぞ」
奇しくもその口振り、声の冷たさは、彼女の父親である狭霧兵部和敬に瓜二つであった。
「ああ、確かに私の身体は一つだとも。あんたらに、私の部下になる義理は無く、どんな勝手をする権利はあるだろうとも。
だが舐めるなよ? 政府軍の頭は、誰あろう兵部卿――私の親父だ。それが本気になっちまった以上、私らが想定する地獄より、必ず上を行く最悪を用意してくるに決まってんだろうが!
あいつはな、一人の人間を苦しめる為に、十人を無駄死にさせて笑っているような奴だ。暗殺者にわざわざ子供を選んで、殺す事より、私らを抉る事ばかり考えてくるような奴だ! 武器庫が燃えた煙くらい、あいつは見届けただろう。桜の暗殺なんか失敗するに決まってると、笑いながらこの山を見てただろうよ! そんな人間にあんたらみたいな素人を立ち向かわせたら、針の先程の希望まで潰れちまうんだ!」
紅野は、槍を手に立ちあがっていた。武器には愛着を抱かぬ性質であるのか、無銘の、一平卒が使うのと同じ槍である。
その動きを合図として、紅野の腹心である狩野が、蝶子を本堂の中心へ投げ出した。
踵の腱は、左右とも切っている。跳ぼうとすれば、人の頭上を飛び越えかねぬ少女である。
桜も紅野も、他の誰も、この少女の技量を見誤ったは――ひとえに彼女が、欺く事に長けた者だからであった。
忍び。
人の間に紛れ、夜に伏せる者。古くには情報の奪取や武将の暗殺など、影の任に携わった者だが――狭霧兵部は、その一派を掌握していた。
最も、掌握とは言っても、酷く乱暴な形では有ったが――
「蝶子……本名か?」
「はい」
畳の上に転がされた蝶子へ、紅野は槍の穂先を向けた。
心の動きを見せぬ淡々とした声で、蝶子は短く答える。
「お前は、自分がした事を分かってるか?」
「はい」
短く言い、蝶子は、手で体を起こして胸を張った。
「番兵は二人いました。脚を見せて誘ったら、槍を置いて近づいてきた――喉を抉りました。それで倉庫の中に入ったら、平太くんが兜を選んでいました」
「……殺したのか」
「はい」
集まる者達の中から、呻き声が漏れる。幼い少女があまりに簡単に、人の命を奪ったと認める――異常であると感じずにはいられなかったのだ。
「先に殺したのか、それとも爆発で殺したか」
「先に殺しました。抱きついたら戸惑ってたから、そのまま首の後ろを刺して殺しました。血は後ろに向かって吹き出したから、私が隠し持ってた油紙は濡れません。油紙は十分に長かったので、倉の入り口から火薬の所まで導火線にして、火を着けて直ぐに走って逃げました。死体が砕けるのは見ませんでしたけど、誰かが巻き込まれるのは――」
「もういい、分かった。……狭霧兵部の算段か?」
「はい」
腱を斬られて立ち上がる事も出来ず――麻酔は無い、酷く痛むだろうに。それでも蝶子は、自分の行為を何一つ隠さず、それどころか広く知らしめようとするかのように言葉を続けた。
その言葉が一つ発せられる度、居並ぶ者の憎悪と困惑が強まる。
何故、このような子供を使ったか。
十一か、十二か、まだ背も伸び切らぬ子供に大事を任せたか――
「……兵部卿は、これが成功したら、姉さんを助けてくれると約束しました」
――扱いやすいからだ。
この言葉を聞いた瞬間、紅野は顔を右手で覆って、柱に凭れ掛かり座り込んだ。
「私の姉さんは、私と同じ技を習ってました。けど……一度、何かの時に、大きな失敗をしてしまったそうです。殺されてもおかしくない程の。……それで、私が選ばれました。
命令されてたのは三つ。武器倉庫を焼き払って、桜さんと、それから座主様を殺す事でした。……一つでも成功して戻れば、姉さんを助けてくれるって」
父も母も無い――だが、姉ならば居た。
確かに蝶子は孤独な身の上であったが、たった一人、血を分けた姉妹があった。狭霧兵部はそれを盾に使ったのである。
蝶子に、他に選ぶ道は無かった。
やれといわれ、否と答えたら、狭霧兵部は蝶子も殺していただろう。だが、運良く成功して帰れば、二人揃って生き延びる目も有る。
洛中の動乱に乗じ、比叡山に逃げる人の群に混ざり、機を窺う。何か月を掛けてでも、或いは何年を経てでも、目的を果たす――〝忍ぶ〟のである。
そして今――その策は、成った。もはや蝶子に、残す悔い、秘すべき事実などは無いのだ。
「……ごめんなさい、みんな」
然し、たった一つ、悔いでは無く、言葉を残すなら。
「ごめんなさい、騙して……! 寂しい子のふりをして、みんなに同情させたりして、大事にしてもらって……なのに私、何人も殺しちゃった……ごめんなさい……!」
蝶子は、安らぎに満ちた笑みと、涙を同時に浮かべながら詫びた。
堰を切ったように、蝶子は謝罪を繰り返した。
「本当は私、ずっと待ってたんです! 皆が私を、暗くて嫌な奴だと思って、見向きもしなくなる時を! でも、一人ぼっちのふりをしてたら、逆にみんなが優しくなって……すっごく楽しかった、懐かしかったから……! こうやって楽になれるのを、ずっと、ずっと!」
その言い分は、酷く身勝手なもの――と、立ち切るのは容易かろう。
だが、この理屈を吐いたのは、十二にならぬ少女であった。
父も無い。
母も無い。
たった一人の身内と引き剥がされて、数か月を、敵の群の中で過ごした。
そんな娘が涙ながらに、全てを諦めて吐く言葉なのだ。
誰も、何も言えず、動けもしなかった。
「……私は、どうなるんですか……?」
「それは――」
その答えを、紅野が言おうとした、その時であった。
全てを遮るように桜が立ち、本堂の中を真っ直ぐに、蝶子の元へと歩み寄った。
両腕を広げ、何時かのように――
例えるなら、夕食を三人で食べようとした時のように、か。
それとも、一つの布団にぎゅうぎゅうと入り込み、身を寄せ合って眠る時のように、か。
蝶子は、ほんの十日ばかりの事を思い出していた。
たった十日でも、数か月の孤独を埋めるに足りる日々だった。
人のぬくもりが有った。
人の声が有った。
そして、それを甘受する時はいつも――
「桜、さん」
――この、慈母の如き微笑みが有った。
桜は両腕の中に、蝶子の小さな体を迎え入れた。
冷え切っている――身も、心までもきっと、冷たく凍えたのだろう体を、
「――おやすみ」
別れの言葉と共に、桜は強く、強く、抱きしめた。
異音が響いた。
巨木を束ね、一息に圧し折るが如き異音。
肋が、背骨が、腕が、肩が――蝶子の体が、砕ける音であった。
「こ、ひゅっ」
蝶子の口から、血が溢れた。
体を潰され、臓腑の悉くを引き裂かれ――蝶子は最後に一度、咳き込むように体を震わせた。
それでも桜は、蝶子を強く抱き続けた。
痙攣が止み、拍動が消え、体から暖かさが抜け落ちるまで――桜は蝶子の体を、軋む程に抱き続けた。
「……要は、殺せばいいのだろう」
それから、桜は言った。
「これよりは、狭霧紅野が我らの大将。その命に従わぬもの、背く者、悉く」
抱き、絞める腕が――指先が遂に、蝶子の骸に突き刺さる。皮膚を破り、肉に沈み、遂にその体を貫いて――背から胸へ、桜の腕が突き通る。
「悉く、このように殺せば良いのだろう?」
無残な屍を掲げて、桜は吠える。
桜は氷の面貌を取り戻し、恐らくはこの場の誰よりも冷静に――己の役目を、之と定めた。
「ああ」
狭霧紅野が、その言葉を引き継ぐ。
「今日、この日から、全ての決定に合議は不要だ。私が決めて、私達が実行し――死にたくないお前達が従う。いいな?」
否、の声は上がらなかった――上がらせなかった。紅野は既に槍を構えていたし、彼女の側近たる狩野も、他に白槍隊から流れ落ちた兵士が幾人か、その手に武器を構えていた。
こうして比叡山城の全権は、極めて穏やかに――加えるに、従となるものの同意さえ経て、狭霧紅野の手に渡る。
集合体としての全ての機能を、戦の為だけに。
一匹の蝶を生贄に、この日初めて比叡山城は、戦の備えを完了した。




