蝶のお話(4)
また、十日ばかりが過ぎた。
一風変わった集団生活も、十日目という事である。
「ちょっとー、さーくらー!」
部屋の外、障子を開いて飛び込んできたのは、さと。早朝というにもまだ早い、日が昇るか昇らぬかの時間である。
「何だ、騒々しい……」
「何だじゃないわよ、さっさと起きろ!」
「……朝から元気なものだなぁ」
ここ最近、さとは少々不機嫌な事が多い――桜を取られたとでも思っているのだろうか。
兎角、何かと理由を付けて桜に近づいては、ぎゃんぎゃんと叫んで去るのである。
桜は音も無く立ち上がると、襦袢姿からあっという間に、普段の小袖姿に着替えてしまう。左右で眠っている平太と蝶子を起こさないようにとの配慮である。
「……その二人も起こしてやろうかな」
「こらこら、やめてやれ」
桜が窘めなければ、実際にさとは、そうしかねない雰囲気であった。そんなさとを部屋の外に押しやりながら、桜も雪の上に降り立った。
一人が抜けて、少し広くなった布団の中で、平太と蝶子は安らかに寝息を立てている。
最初は二人とも、慣れぬ為に寝付きが悪かったのだが、今では此処が昔からの宿であったかのように馴染んでいる。
桜の気まぐれに付き合わされた形とはなったが、少なくとも蝶子が独りでいる時間は減ったし、平太もあちこちで食事をするような事は無くなった。
家族関係の真似事のような――桜が姉で、蝶子が次女で、平太が末弟とでも言おうか。心安らぐ時であった。
「で、さと。お前はどうした」
「どうしたもこうしたも!」
何用かなど、桜も重々理解している。浮かべた笑みもそれを物語――そんな桜へ、さとは、背中に隠した棒切れで殴りかかった。
所謂、剣術の修行である。蝶子と平太を傍に置いたのを、さとがずるいと言い立て、それを宥める為に、特別に剣を教えると言った。それ以来、ことあるごとにさとは、桜へ打ち掛かってくるのである。
木の棒の打撃を平手で打ち払いながら、桜は空を見上げた。藍色が薄れ、水色に変わりゆく最中の空だ。
「おお、良い天気だ」
しみじみと、桜は言った。
調練も終わり、夕刻。
桜の教え方は、誰に対してもあまり厳しいものではない。それでも、武器の持ち方も知らぬ者達が、構えだけでも立派に見えるようになった
伸び幅でいうなら、やはり子供達が際立っている――大人の五分の一だった力が、半分程度にまでは伸びた。
特に強いと言うなら、第一はさと。体力が元より有ったし、桜に直接学んだ時間も長い。立ち位置としては、一番弟子のような扱いで、他の子供達にも一目置かれている。
平太も、一番小柄だが、動きのすばしっこさはずば抜けている。子供同士で打ち合わせると、殆ど負ける事は無い。
この二人が一番、二番として――それから少し間を開けられているが、その次に強いのが、なんと蝶子であった。
「いやあああーぁっ!」
「おおりゃああああっ!」
調練が終わった後も、平太と蝶子は、二人して打ち合っている。
木剣を互いに一本ずつ持って、足を止めずに動き回りながら、がつがつと木剣をぶつけ合っているのだ。
数日ばかり前に始めた、言わば独学のような鍛錬であるが、確実に二人の勝負勘は伸びている。
「おー、おー、頑張ってるもんだ」
二人の打ち合いを、桜は座って眺めていて――そこへ狭霧紅野が、ふらりとあらわれて声をかけた。
こちらはこちらで調練の後。腕利きの兵を鍛えてきたばかりと見えて、冬だが軽く湯気が立ち上る程、体は暖まっている様子であった。
「中々のものだろう? 私の指導も伊達ではあるまい」
「資質の問題だろうね。平太は元々走り回る性質だし……蝶子もあれで、何かやってただろ」
「……柔術でも、剣術でも無さそうだがなぁ。さて、何やら」
桜も紅野も、武の達人である。体つきやら動きやらを見れば、その相手が、どういう技術を持っているか、なんとなく分かる。
蝶子の動きは、完全な素人のそれとは明らかに違うのだが、然し二人の知る武の何れとも、また違うのだ。
「昔、親に習ったとは言ってたな。……何、とは言わなかったが」
「ふーん、あんたにそういう事を話すようになったか」
「あれで案外、色々話すものだぞ?」
二人の打ち合いを見る桜は、顔を横へ向けぬまま、紅野に答えた。
「あんたも〝案外に〟が多い奴だよなぁ、桜」
「そうか?」
「どこぞの母親みたいな顔をしてるよ、今。自分で気付いてないだろ」
そう言われて桜は、口元に手をやった。成程、軽く唇の端が浮いている。
楽しい、ではなく、ほほえましいという感情――桜には滅多にない心の動きであった。
「おーい、ねーちゃん! そろそろ腹減ったぁ!」
「おう、そうかそうか。なら夕食とするか」
「俺、みんな分貰ってくるわ!」
桜が自分の表情を自覚し、余計に笑みを深めていた頃――やっと平太が満足したようで、打ち合いを終え、桜の元へやってくる。
朝も夕も、誰か一人が食事を運んで、皆で食べるというのが習慣として根付き始めた頃合いである。きっちり一言報告してから、平太は食事を取りに行った。
蝶子も空腹になったか、袖で汗を拭いながら、食事という言葉に目を輝かせている。この瞬間だけは蝶子も、年齢相応というか、憂いの無い顔になる。
「いや然し、人見知りが激しかったのだな、お前」
「えっ?」
桜は、蝶子の横に立って、そう言った。
「遠巻きに見ているばかりだったが、いざ近づいてみると、喋るし笑うし、眠い時は目も擦る。布団を蹴りもするし――」
「あ、あれはっ! あれはその……暑かったから」
「ああもひっつかれてはなぁ、暑かろうて」
寝相もまた人それぞれだが、蝶子は眠っている時、近くに有るものを掴もうとする癖が有った。とある夜など、桜にがっちりと抱きついたまま、自分が被る布団は蹴り飛ばして眠っていた。
目を覚ますのがその日は幾らか遅かったが為、一日中、桜と平太にからかわれる嵌めになったのだが――
「……まぁ、なんだ。楽しいか?」
「………………」
桜は時々、そういう事を聞く。
蝶子は決して、その問いには答えない。横を見るか、下を見るか――視線を逸らして押し黙るのだ。
然し、押し黙る時の表情まで、桜は見ている。
始めは本当に暗い目をしていたが、日に日にその表情が、憂いだけではなくなっていく。その過程がまた、桜には楽しくてならなかった。
だが、楽しんでいるのは自分だけか――それが分からない。
自分が楽しむのはそれとして、蝶子にも、平太にも、笑っていて欲しい。出会ってひと月も経たぬただの子供に、そういう感情を――或いは己の救いを求めているのかも知れないが――抱いていた。
「皆、優しくしてくれます。前もそうだったけど、今はもっと優しいです、桜さんも……平太くんも。だから私、多分、凄く嬉しいんだと思います……。
時々……ううん、いつも。此処が何処だとか、自分が誰だとかまで、忘れそうになるくらいに……」
「ふむ」
だから、蝶子が肯定的な言葉を吐けば、桜は言葉よりも、はっきり顔に浮かべて笑うのであった。
「けど……私、楽しんじゃ駄目だと……思います」
「そんな道理が有るか」
軽く笑い飛ばした桜だが、蝶子の声に、戯れの色は無い。
本当に、心の底から、自分は楽しんではいけないのだと信じている――そういう風に、桜には見えた。
――何時もこうだ。
何を胸に隠しているのか、どうしても聞き出せない。
僅か十日の縁で、それが聞き出せると思う事が過ちなのだろうか。過ちであるとしても、だが桜は、どうにかしたかった。
具体的にどうしようというのではなく、ただ、現状を変えたいという願いであったが、
「駄目か、良いかではなくな。今は楽しいのか、で聞いているのだ。難しい問いでもあるまいに」
「………………」
「ああほら、また黙る」
今日もまた、答えは聞けず終いか――そう思っていた桜ではあったが、違った。
部屋へ戻ろうとした桜は、視界の端に、蝶子の姿を見た。小さく頷いた彼女の姿を、決して見逃しはしなかった。
「食べたら、今日もさっさと休むぞ。山で夜更かししてもろくな事は無いからな!」
「……はい」
「……少しくらいの昔話なら、してやらんでもない!」
「はいっ!」
良し。
満ち足りて、桜は食事にありついた。
その日は誰の心をも映すように、晴れ空と曇り空が混ざり合う、色を名付け難い空であった。
朔の夜まで二日――戦が近づき、比叡山城内には緊張が走る。
調練の間も、皆の顔の強張りはきつい。
此処数日は、子供達の調練は緩やかなものであった――加えて、桜もそちらは見ていない。前線で実際に戦う事になる可能性の有る者へ、生き残る為の技を教えていた。
即ち、不意を突く技術。
敵の武器を奪う為、敵の目を奪う為、どういう手段が有るか――死体やら、死体が手にしていた武器やら、何を使ってでも生き延びるにはどうしたらいいか。正道の剣でなく、生き残る為の邪道を教えていたのだ。
その合間の、休憩中の事である。桜は適当な岩を、腰掛けの代わりに使っていた。
「おーい、ねーちゃーん!」
「お? おお、平太か」
平太少年が、棒切れを持って走って来た。
何処かで鍛錬をしていたものか、顔中汗をびっしりと掻いている。手にしている棒切れも、普段より少しばかり長いもので、中々に疲労の度合いも色濃さそうだ。
「相手をあまり酷く打つなよ、その得物では痛かろう」
「そんな事しぃひんわ! 加減くらい覚えたもん、俺!」
「おお、そうか」
近づいて来た平太の髪を、がしがしと掻き乱してから、桜は平太を隣に座らせた。
「どうだ、近頃は?」
「どうって、見たら分かるやろ? 茶碗に山盛り三杯も元気や!」
「うむ、全く見当も付かんが、元気という事は分かった。が、そうでなくてだな」
拳をぐん、と突き上げて健康を誇る平太だが、然し桜の関心事はそれでは無い。平太の頭を引き寄せ、耳元に口を運ぶと、
「率直に聞くが、蝶子との仲はどうだ?」
「なあっ――」
率直にも程が有る問いであった。平太は口を開いたまま、顔を真っ赤にして硬直してしまった。
いや、顔の赤さは運動の為も有るのだろうが、それだけが理由でないのは確かであった。
桜は意地悪い顔をして、平太の肩をゆすぶりながら、なあ、なあ、と問う。
「隠さんでも……いや、お前の場合は分かり易過ぎるが。知っているぞ、お前があ奴を好いている事くらいなぁ……ふっふっふ」
「な、な、な――何言うてんねーちゃん! 俺はそんな、そういうんとちゃうし――」
言い訳はしても、桜は訳知り顔である。実際、誤魔化せるものでもなかった。
蝶子が独りで居たのを、皆の元へ寄せようとしたのは平太であった。
子供達の中でも、平太は所謂、頭のような存在である。彼と、それから桜が親しくしている者を、周囲も邪見にする理由は無かった。そして一度輪に入ってしまうと、調練で見せる意外な腕――に加えて、見目も良い。人気が出るのに、時間は掛からなかった。さとなど、自分と同世代に同性という事で、平太と並んでちょくちょく腕試しを挑んでくる程である。
それを桜は見ていたし、もう一つ。蝶子が別の誰かと話している時、平太の顔に嫉妬めいた感情が浮いているのも、桜はまた見逃さずに居たのである。
「――……あいつ、いっつも寂しそうやったもん」
「ああ、そうだな」
平太は俯きながら、そして自分の言葉を気恥ずかしく感じている風に、ぼそぼそと言った。桜はその横で、じいっと平太を見ながら言葉を続けた。
「お前は良い事をした。二人ばかり助けたのだからな」
「……二人?」
「蝶子と、私とだ。一人で飯を食うのは……どうにも、寂しかった」
桜は堂々と、自分の弱みを、平太に見せた。
人に交わると、人が恋しくなる。平太や蝶子は、周りの皆を見て家族が恋しくなり――桜もまた、旅の伴侶を思い出した。
家族の真似事をした十日間は、少なくとも、その寂しさは薄れていた。代わりに有ったのは、なんとも言えぬ心地良さ――暖かさであった。
「……もっとこうしてたい、皆で」
「そうだな」
些細な望み。持たざるものには、尊い望み。
「朝に、行ってきます言うて、夜にはただいまって言うて、食べる時も寝る時も、誰かに、何か言いたい……!」
「ああ、そうしよう」
平太は喉を詰まらせながらも、ただの一度も淀み無く、思いの丈を吐き出して行く。
「それで、それで……それを言うんは」
こういう弱音は、滅多に吐かぬ子供であった。寧ろ、泣く仲間を窘めるような立場の、年少ながら強い子供であった。
強くなければならなかったのだ。
子供が弱みを見せられるのは、同じ子供にではなく、大人にだけである。
平太には今まで、身近な大人が居なかった。
洛中の動乱で平太が失ったのは、遠縁の親戚。両親祖父母はもっと前に亡くしている。物心ついてより平太は、親というものに触れず、だが他の子供には親というものが在る事を、ひしひしと感じながら育って来たのだ。
そんな平太が、泣いている。そして、望むのは――
「蝶子と、ねーちゃんと……二人に、言いたい……!」
「……ああ」
桜も、それ以上に多くの言葉は返せなかった。返せば自分まで泣いてしまいそうだったのだ。
どうにも奥州を訪ねてから、涙腺が緩んだ気がしてならぬ。歳を取れば涙もろくなるというが、老いた自覚も無い。つまるところそれだけ、人と交わるようになったという事なのだろう。
「……そろそろ、戻る。お前も戻れ、平太」
「おう! また勝ってくるで!」
空を見て、涙を抑え、桜は言う。一方で平太はもう、涙は頬に残ったままだが、すっきりと晴れ渡った空のような明るさを取り戻していた。
ばたばたと平太が駆けだしたのは、子供達が集まりに使っている開けた場所より、少し違う方角。
「おーい、何処へ行くのだー?」
「ちょい兜借りて来る! 木剣なら壊さんやろ?」
「程々になー!」
武器庫に、兜を取りに行こうというつもりらしい――本格的な事だと、桜は呆れたように笑った。
背後に、遠ざかる足音。前方数十間先には、調練を再開した町人兵達。
戦も近く、陰鬱な気持ちでは有ったが、桜はきっと、己は戦に耐えられると確信していた。
まず、自分が生きる。外で待つ村雨の為に、必ず生き延びる。
それから、さとを無事に生かす。生かして、日の本の広さを、余す所なく見せてやりたい。
その二つに、もう一つ、望みが加わった。
平太と蝶子の、行く末を見たい。
戦が終われば、二人は何処かで、生業を選んで生きていくだろう。それから十年か二十年の後、あの二人は共に居るのか、それともそれぞれに伴侶を見つけているのか――それを見届けたい。
平太はきっと、直情的だが、情け深い男になるだろう。
蝶子は慎ましく、感情を示すのは下手でも、素直で芯の強い女となるだろう。
「……その頃、私は何歳だ……?」
指折り数えてみると、些か憂鬱になる問題でも有ったが、然し美しく歳を重ねるのも楽しみの一つかと、己を騙す。生きる楽しみは幾らでも――そう、幾らでも有るのだと、桜は浮き上がるような気分になりながら、足を速めた。
その時、であった。
まず始めに桜は、世界が揺れるのを感じた。
地震では無い。山が、大気ごと、大きく身震いしたのである。
そして直ぐに、それは自分の錯覚であり、実際は馬鹿げて巨大な音が比叡山城内を駆け巡ったのだと悟った。
音源は、後方。
振り向くより先に、桜は、膨大な熱を首筋に感じていた。
――平太。
心中で桜は、少年の名を呼んだ。
桜が振り返った先では、天を突かんばかりの火柱と噴煙が――武器弾薬を収める倉庫から、ごうごうと立ち上がっていたのであった。




