蝶のお話(3)
何事も無く、半月が過ぎた。
桜は変わらず、朝から夕まで、調練の手助けをしていた。
武器の持ち方を教えたり、膂力の鍛え方を教えたり、場合によっては兵士に武器を持たせて、自分に打ち掛からせたりもする。桜の技量であれば、素手で槍と対峙しようと、町人上がりの兵士に傷つけられる事は無かった。
然し、桜の体力は無尽蔵だが、比叡山軍の兵はそうではない。
為に、数日に一度は必ず休養日が設けられており、その時は桜も休むのだが――
「ようし、次、三吉!」
「はいっ!」
その休みの日、桜は、城中の子供達と戯れていた。
子供達に望みの武器を持たせ、自分も棒切れを持ち、打ち掛かってくるのを受け止める――つまりは調練で行っているのと同じ事をするのである。
三吉なる少年は、槍を構えて真っ直ぐ突っ込んでいくが、丸い穂先をついと反らされ、勢い余って転びかけた。
「踏み込む時に目を反らすな、却って怖くなるぞ」
「はい!」
「向こうが何をしたいか分かれば、案外に怖い事など無くなるものだ。次、小竹!」
「はーいっ!」
子供達の集団の中には、少女も混ざっていた。こちらは短い木剣を、思い切り高く掲げて突っ込んでくる。
薩摩藩の剣術にも似た構えで、年の割には打ち込みもなかなかの強さではあったが、やはり子供の技。容易く受け止めて、打ち返す代わりに、そっと頭に触れた。
「もっと強く、もっと速くだ。その剣はつまるところな、一撃で勝つ技だぞ。次、さと!」
「ええりゃああああぁーっ!」
さともまた、この集団に混ざって、桜に打ち掛かっていた。
身の丈に比してやや大きすぎる木剣を片手に、もう片手には脇差大の木剣――誰の真似事であるかは一目瞭然だが、その恰好で桜に打ち掛かって行く。
洛中で育った子供に比べれば、農作業やら雪掻きやらで、元々体力は仕上がっているのだろう。両手に得物を持ちながら、重さに負ける様子は無い。これを桜は、数合程素直に受け止めてやり、その後は少しずつ横へ動いて軸をずらし、流すように避ける。横へ横へと逃げていく桜を追って、さともまた走り回り、両手の木剣で同時に打ち掛かろうとした瞬間、額を指で弾かれた。
「ようし、一端此処まで! 汗を冷やすなよ、少し休んだら続けるぞ!」
この半月ばかりの間に桜は、子供達の体力の程度を掴んでいた。
子供というものは、一見無尽蔵の体力を有しているようにも見えるが、実際の所はぎりぎりまで動きが鈍らないという、ただそれだけの事なのである。
疲れが浮かんできたと見えるより、少し先に休ませてやる方が、娯楽の一巻としても鍛錬を続けられる。桜はどうにも、友人に比べて、師としては優しい部類であるらしかった。
さて、休憩の間も子供達は、てんでに動き回ったり、着替えに戻ったりしている。その間に桜は、集団から少し離れた所で、じっと鍛錬を眺めている少女の元へ歩いて行った。
「ぁ……」
「おう、こらこら、何故逃げる。咎めるつもりは無いぞ」
桜が近づくと、少女は、ささっと物陰に隠れようとする。小動物めいた動きがおかしくて桜が笑うと、少女は何故か申し訳なさそうに足を止めるのである。
その少女の歳の頃は、さとと同じ程度だろう――十一か、十二か。そろそろ背の伸びが止まって、体付きが丸みを帯び始める頃合いであった。
穏やかで、良く見ずとも愛らしい顔立ちをしている。華やかというのではないが、素朴で、然し地味というのでもない。露骨さが無い容姿なのだ。
名を、蝶子というらしい。
集団の近くには居るのだが、その中に混ざって何かをしている事は少ない――ただ、其処に所属しているだけという事が多い少女であった。
足を止めた蝶子の目の前にまで歩いて行って、桜は膝を曲げ、顔の高さを合わす。此処へ来てからというもの、子供達と話す時に、すっかりこの動作が馴染んでしまっていた。
「お前は混ざらんのか?」
「…………」
「軽い木剣も有るし、なんなら短刀大に削ってもやるぞ。じっとしていては気も晴れぬ、なんであれ動くのは良い事だ」
桜が声を掛けても、蝶子は視線を横へ反らすだけ。これも何時もの事なので、桜はじっと、視線の高さを合わせて待っていた。
「……私は、体が弱いから、その」
やっと答えた蝶子は、それだけ言って下がろうとする。
例えるなら鹿が、熊だの狼だのに遭遇して、顔の向きを変えぬまま後退するのに似た動きである。あんまりおかしいので桜は、膝を曲げたままの姿勢で追いかけて行く。
「ちぇっ、いっつもそれやんか!」
「ひぇっ!?」
すると、蝶子を挟み撃ちする形で――つまりその背後に、平太が立っていた。
蝶子は跳び上がる程に驚いて、おまけに腰を抜かす。それを見下ろしながら、平太は続けて言うのだ。
「鍛えないから体が弱くなるんや! ほれ、これ持って行くで! ほれ!」
「えー……?」
根性論である。
平太が蝶子に押し付けようとしているのは、大人用に丈を合わせた木剣。平太には大きすぎるし、蝶子も手に余すようなものであるが――
「ほれ!」
「う、うん!?」
勢いに押し切られて、それを掴んでしまう。
そうなったが運のツキ――正面で桜が、実に良い顔で笑うのを見た。企みが思わぬ形で適ってしまったのを、心から愉しむ顔であった。
「ようし、休憩終わり! 行くぞ!」
「え――あれ? え? ……あれぇ!?」
蝶子はどうにも、流されやすい娘のようであった。
「ようし、もう一本! 形は気にするな、とりあえず振り上げて振り回せ!」
「ぅー……えええいっ!」
暫し後。結局のところ、蝶子は子供達の調練に加わる羽目になっていた。
やらせてみれば、案外に筋は良い。まるで武術を未経験という訳でも無いのか、立ち方が安定しているのだ。
これまで調練に参加していなかった事もあり、他の子供より少し多い本数を打ち掛からせていたが、本人が言う程に体力が無い訳でも無い。
たった一つ、問題を上げるとすれば――
「……お前なぁ。私が怪我などすると思うか?」
「でも……うーん」
気性がどうにも、優し過ぎるという事であった。
桜に打ち掛かる時も、頭では無く肩を狙って振り下ろそうとするので、打の軌道が不自然になる。突きは体に届く前に止めようとするから、無理な動きでつんのめる。
桜にしてみれば、本気で蝶子が打ち掛かって来たとて容易く捌けるのだから、加減などせずとも良いと再三言うのだが、それで改められないのが蝶子であるらしい。
「こら、蝶子! 本気でやらんかい! 俺達かて真面目なんやぞ!」
一番小柄ながら、子供達の大将的な地位にあるのか――平太がそう言って、桜へ全力で打ち掛かれと命令する。
無論、それだけで出来るなら苦労は無い。調練の間、蝶子は一度も、桜の肩や腕以外を狙おうとはしなかった。
そうして夕が過ぎ、日が完全に落ちた所で調練は終了になった。
子供達の大半は、親に連れられてこの山へ来た。各々が、各々の家族の元へと戻り、休むのである。
比叡山城は、山の中に城壁を張り巡らしたものであり、城壁の内側には質素な長屋が幾つも並んでいる。そこが〝一般の〟兵士達の家代わりとなっていた――紅野や桜、或いは町人の中でも幹部扱いのものは、もう少し良い環境を与えられている。
食事は一日に二度、朝と夕。贅沢では無いが、餓える事は無い程度の量――事前の蓄えが相当に多かった上に、荷駄部隊を引きいれられたのが利いている。このままでも数か月、もう一度荷駄部隊を引き込めれば更に数か月、兵糧は持つ算段であった。
その、美味いとも不味いとも言い難い夕飯を、桜は一人で取っていた。共に喰う相手がいないのだ。紅野は大概の場合、町人衆と何事か相談しながらの食事であるし、余所の家族の団欒に混ざるのも居心地が悪いという事らしい。
本来なら僧侶が詰めるであろう本堂の一角で、一人夕食を終えて、何気なく外を見る。冬の日は落ちるのが速く、もう空には星が浮いていて――月は日に日に細く変わって行く。
あの月が消える夜、また戦が有る。その夜はこうして静かに飯を喰らう事も出来まいと、感傷に耽ろうとしていたその時であった。
「……まだ、居たのか」
桜が夕食に箸を付ける前から、本堂の外に二つばかり気配が有った。それがまだ、外をうろついているのを感じて、桜は気配の主を物陰から覗く。
夜の暗がりに紛れるようにして、外を歩いているのは――片方は、蝶子。そして、それを平太が追いかけ回しているように見えた。
「……だから! 飯食うくらいええやん! 早う行くで!」
「でも……」
「でも、やないわ!」
二人の声量があまりちぐはぐなので、始めは聞き取るのが難しかったのだが、どうやら何処で夕食を食べるでもめているように聞こえた。基本的に、配給を受けた後、それを何処で喰うかは自由。屋外で握り飯を喰らおうが、畳の上で喰らおうが、城壁から出なければ良い。
平太は確か、殆ど何時も、周りの子供達の誰かと共に食べていた筈だ――そういう話を聞いていると、桜は思い出していた。
「なんでそんな嫌がるん? そんな俺達が嫌いか!?」
「そ、そうじゃないけど……」
「なら、ほれ!」
平太が蝶子の腕を掴んで、灯りの有る方へ――つまりは長屋の方へ引っ張って行こうとする。
体格だと、蝶子の方が一回り大きい。加えて、蝶子は自分の言う程に非力で無いのか、傍から見るにびくともしない。無理に引いていこうとする平太が、目に見えて疲弊していた。
「はぁ……何をしているか、お前達」
じれったくなって、桜もつい、動いてしまった。
引っ張り合いを続ける二人の元まで歩いて行き、横から呼びかけて初めて、二人は桜に気付いた様子であった。
「あっ、ねーちゃん! こいつなぁ、俺達と飯喰うのが嫌や言うて――」
「そんな事は言ってないのに……」
「ああ、分かってる、聞いていたからな……全くお前達、少しは落ち着かんか。特に平太、お前は女の口説き方がなっておらんな」
とりあえず二人を引き剥がし、桜はその間、雪の上に胡坐で座った。
武に生きる者の常、桜の視野は存外に広い。常に多くの物を見て生きているので――気付いていた事もある。
「……寂しくなるものなぁ」
「はぁ?」
しみじみと言った桜に、平太は、何を言うかと言わんばかりの声を挙げた。桜を挟んで反対側、蝶子は――暗い目を、更に暗くして、何時ものように視線を逸らした。
「いや、私もな、覚えが有るのだ。仲の良い者の集まりに、一人だけ外様のように混ざっていると、仲間外れにされているような気がしてな。向こうがその気が無くとも、どうにも居心地が悪くて、結局逃げ出してしまうという――」
「そんなの、ただの思い込みやん!」
「おう、鋭いぞ、平太」
平太がそう言うと、桜は平太の肩に手をやって、まるで寺子屋で教える先生めいた顔をした。
「そうだ、思い込みだ。だがこの思い込み、簡単には晴れてくれんぞ……何せ自分の腹に根付いている。周りが共感の安請け合いをした所で、当人としてみれば、『お前に何が分かるか』という気になるばかりだ。まぁ、拗ね者の根性だな」
それから桜は、いきなり、左右に立つ二人を、両脇に抱き寄せた。桜の胸の前で、平太と蝶子の頭がぐっと寄せあわされて、その上に桜の顎が来るような形である。冬の夜ゆえに厚着はしているが、それでも衣を通して、人の熱は互いの体に染み渡る。
「なぁ、蝶子。羨ましくてならんものなぁ」
「……っ」
桜が何処を見るとも無く言った言葉が、蝶子の喉を詰まらせた。
「父が居て、母が居て、兄や弟や、姉や妹が居る。そういう家を見ると、羨ましくてならんからなぁ……私もだ、私もそうだった」
何処を見ていると言うなら、桜が見ていたのは、昔々の自分の姿だろうか。
蝶子は自分と同じ、親の無い子供なのだ――本人は何も言わないが、誰もが気付いている事だ。然し、それに触れたのは桜が初めてだった。
桜は思い出していた。
雪の降る土地の、人里から少しだけ離れた低い山の中。師と二人で小屋の中、黙々と食事を摂っていた。父のような、然し父では無い人との食卓は、気遣われていると知っていても、うら寂しいものだった。
寧ろ、誰かと共に居る程に、自分が独りなのだと思い知らされるようで――同じ境遇の者が居ないかと、近くの里まで出向いては、何も見つけられずに山へ戻った。そんな記憶を、雪の寒さで思い出していた。
「お前だけやない!」
追憶を掻き消したのは、平太の叫び――桜に頭を抱き寄せられたままの声は、直ぐ近くで聞かされた蝶子の目を白黒させた。
「そんなんお前だけやないわ、阿呆!」
「……平太、お前もだったなぁ」
突如の大声にもたじろがず、桜は平太を腕の中に、すっぽりと納まるように抱き寄せた。
「蝶子、お前は知らんだろう、あまり周りと関わらんからな。平太もな、どうやら私達と同じだ。親がおらんで、独りでこの山に居る。が――まぁ、こいつの強い事、強い事」
「……平太も?」
蝶子が、直ぐ近くにある平太の顔をまじまじと見る。
戦の辛さを微塵も感じさせぬような、普段の陽気さが影を潜めて――蝶子のような暗い目をしている、平太。
彼が食事を摂る時に、決まった場所は無い。遊び相手の誰かと、その家族と共に食べている事が多い。
「俺かて、父ちゃんも母ちゃんも居のうなってなぁ! 一人で飯食ってたんやぞ! 一人で寝てたんやぞ! けど、みんなと居るんや!」
実際、そういう境遇の者は多いのだ。
何も蝶子や平太が特別なのでは無い。家族を失って、身一つで逃れてきた者など、決して珍しくも無い。
桜が声を掛けたのも、偶然に近くに居たから――それだけの理由である。
「お前一人だけやない、俺かて一緒や! ……お前一人、俺達から離れてる意味があるかい!」
「…………」
全ての零れ落ちた者を、拾い上げるなど出来はしない。
然し、敢えて誰か選んで手助けをするとしたら――こういう〝気骨のある〟者が良い。
桜は平太少年を、中々に気に入っていたのであった。
「お前達、お互いに相手を知らんのだなぁ……いや、それだけではない。言葉も足りんぞ」
「うわっ!?」
「ひぇっ!?」
桜は、蝶子と平太と、二人を纏めて抱え上げる。すると二人とも、計ったように同時に、頓狂な声を挙げた。
「な、何や、どこ行くん!?」
「妥協点にな」
二人が揉めていた場所は、桜が与えられた部屋からそう離れていなかった。二人を抱えて戻る先は、其処である。
桜はとうに食事を終えているが、その部屋の畳の上に、二人を無理に座らせて、
「まず、平太。お雨は素直でないなぁ……そういう時はこう言うのだ。『もっと自分達の近くに来い』と」
「う……」
「蝶子も、蝶子だ。何事もはっきり言わんから伝わらん。寂しくなるから、辛くなるからと、それくらい口にしても良かろうに」
「…………」
軽い説教のような真似をしてから、もう一度二人を抱き寄せて、言った。
「暫く、家族の真似でも試してみるか? 寂しい者同士でな」
二人が直ぐには、否とも応とも言わぬのを見て、
「良し、決まり。飯は此処で喰え、寝るのも此処だ、それ以外は好きにしていいぞ」
桜は一方的に善意を――或いは己の望みを押し付けて、かかと笑ったのであった。




