群れのお話(1)
「誰だ。いや、覚えているぞ」
弾かれた大鋸をまだ振り翳したまま、狭霧兵部和敬は、憤怒を残して残忍な笑い方をした。
「〝九龍〟が連れていた糞餓鬼だろう。知ったような口を利いて、その実は何も考えていない獣だ。良くも俺の前に、その無様な面で現れたものだな」
罵りつつも、狭霧兵部は動かない。
意の向くままに、無礼者の斬首をするなど珍しくもないこの男が、少女一人に斬りかかっていかないのだ。
遠巻きにしている兵士達がどよめくも、その剣撃を弾いた少女――村雨は平然と、殴られて腫れ上がった顔で立っていた。
松風左馬との殴り合いから、半月程にもなる。その時の負傷は、殆ど完治している。どうにもその後でまた、どこぞで怪我を増やしてきたらしかった。
そして、その横にもう一人立つ少女――此方の顔を見ると、狭霧兵部は尚更に、唇を歪に歪めて目を吊り上げる。
「そこの毛唐。お前もまた、良くものこのこと顔を出せたものだ。あの肉団子共と同じに、眼球に釘を打たれるか、それとも腹に鋸を当てられたいか」
「どちらもご勘弁を。私は心を入れ替えまして、彼女のお手伝いをしたんですよ」
然し、役者という事であれば、もう一人の少女――ルドヴィカ・シュルツも大したものである。威圧を受け、内心でどれ程に怯えていようとも、それを顔に出す事はしていない。
動作、口調、声の抑揚が、普段より幾分か大袈裟になっているのが、自分への鼓舞であるのだが、彼女を知らぬものから見れば、大した度胸の女と映るのである。
「何をしに来た」
「さっき言った通りです」
黒太刀『斬城黒鴉』――本来なら雪月桜の背に有る筈の刀を、蝶番式の鞘に収めながら、村雨は答える。
「呼ばれていないのに来た、と」
「はい。お金が無くなってきたんで、ちゃんと雇って貰いたくって」
「金の無心なら『錆釘』にしろ。お前はそこの所属だろうが」
「あっちだと、立場も不安定ですし。また前線に立たされて、死にそうになるのは嫌ですから――」
村雨は、意識して礼を払わずに居た。
周囲の兵士や、数人ばかりいる将格の者達が、このやりとりに不穏なものを感じて、身を固くしている。
殆ど全ての者は、また一人、子供が殺されるという陰鬱な心地で立っていた。
狭霧兵部の狂熱と、相反する冷徹さは、彼等全ての骨髄にまで染み渡っているのだ。
然し――またある者は、まるで別な事を考えて、己の持つ得物を強く握りしめていた。
この少女は、暗殺者の類では無いか?
正面から堂々と入り込み、武器を携えて、兵部卿の前に立った。このまま飛び掛かり、首を落とそうという腹積もりでは無いか?
そういう、二つの思いだけが不平等に広がる群を、村雨が見回した。
ぐるうりと、右から左へ。
その目に威圧的なものは無かったが、殴られて腫れた顔でありながら、全く辛そうな表情をしない。寧ろ、これが己の化粧であると誇っているような感さえある。
それで幾人かたじろぎ、兵士達が為す列が乱れると、村雨は満足気に頷くのである。
そうやって周囲を見る過程で、村雨の視線は幾度か止まった。そういう時、村雨が見ているのは、大体が回りより軍装の豪華な、将格の者達であった。
「――誰かと変わってもらおうと思って」
そう言いながら、村雨はとうとう、一か所に視線を固定した。
村雨が見ているのは、狭霧兵部の軍中でも、際立って華やかな衣装の男であった。
西洋風の脚絆に、革の脛当てと膝当てを重ねて、腰の周囲には金属板を繋いだ草摺を、胴でなく脚絆の帯にぶら下げる。
履物は、これも獣の革で仕立てられた靴。爪先は分厚く、木槌で打つ程度ならば耐えて見せるのだろう。
翻って上半身は軽装。小袖も襦袢も無し、素肌の上に羽織を重ねるだけという、奇妙と伊達の間の男である。
名を冴威牙という。村雨とも因縁の有る男であった。
短気というも生易しい気性の冴威牙は、己に向けられた目と、言葉の意味を理解した。
お前の立場に、私が取って代わる。
村雨の言い分を端的に纏めると、そういう事になるのだ。
「……すっげ。チビに喧嘩売られてんじゃん、俺」
「犬が相手なら、楽かなって」
「ふうん」
ずちゃっ、
ずちゃっ、
冴威牙の足音は重かった。
背丈がまず、村雨より一尺は高い上に、腰から下の重装備である。全て合わせた総重量は、村雨の倍近くも有るのではないか。
何より、冴威牙の気性は、狭霧兵部より性質が悪い。
冷静に利益を計算できるのが狭霧兵部であるなら、感情を最優先し、怒りを暴力で発散するのが冴威牙である。
侮られた、その一点だけを持ち、冴威牙は少女を嬲ろうと決めていた。
双方が、引き寄せられるように歩いていく。
場にいる誰もが、それを動かずに見ていた。
一歩、二歩――互いの間合いに入って、止まる。
「……ぶち犯してやらぁ」
「喰いちぎるよ?」
そうして二人が、顔を変えた。
瞳孔の拡大、眼球強膜の変色。歯列の尖鋭化。
目を丸く見開きながら、破顔する。
首を、腕を、背を、脚を、冴威牙は赤茶色の、村雨は灰色の体毛が覆う。
奇しくも二者の変化は、同質のものであった。
片や猟犬。
片や人狼。
亜人である。
「おい、餓鬼と毛唐」
その横から、狭霧兵部が声をかける。
「お前達の望みはそれだけか」
「そうですね、それから――」
村雨が顔を横へ向け、答えようとする。
その瞬間、冴威牙の右爪先が、火の粉が弾けるような唐突さで、村雨の後頭部目掛けて振り上げられた。
ひゅっ、と音を立てて、その足が空を切る。
村雨が身を沈め、蹴りを躱していた。
躱しながら、蹴り返す。
右足刀による、左膝への押し蹴り。
蹴り足が地面に戻る前に、軸足を潰そうという魂胆である。
冴威牙の脚を蹴った村雨は、巨木に足を打ち込んだかという錯覚に襲われた。防具もそうだが、骨と筋肉が分厚いのだ。
然しその程度なら、恐れるまでも無い。
姿勢を低くした村雨の頭へ、冴威牙は右踵を振り下ろす。
ぞっとする程の速度で落ちてくる足である。
村雨はそれを、両腕を交差させて、前腕二つで挟むように受けた。
受けた瞬間には、右手が滑り、冴威牙の右足甲を掴んだ。加えて左腕が滑り、冴威牙の左膝裏へ収まっていた。
「やっ!」
右手で爪先を引き下ろしながら、肘で思い切り、膝裏をかち上げる。
重心が急激に持ち上げられる――並みの武芸者であれば、間違い無く後方に倒れ、或いは後頭部を地面に打ち付けたやも知れない。
冴威牙は、並みでは無い。然し、後方への重心移動が間に合わず、地面に左膝を着いた。
「うぉっ!?」
間髪入れず、顔面狙いの蹴り。
これも爪先で、顔のど真ん中――鼻を狙っている。
靴の爪先での蹴りは、素足の蹴りに比べ、貫通性が極めて高い。それでいて、衝撃は落ちぬのである。
しかも狙いが真ん中過ぎて、すれすれで躱そうものなら、目でも歯でも持っていかれそうな蹴りである。
冴威牙は、両肘を合わせるようにして、両腕で村雨の蹴りを受けた。
地面に膝が触れたまま、村雨の倍は有る重量が、地面に線を残して後退した。
「ぉお? なんだなんだ、マシになってんじゃん?」
「そう? そりゃどーも」
間合いが開いて、両者とも、改めて立ち直す。
呼吸の乱れは無い。負傷と呼べる負傷も無く、まだまだ、幾らでも動き回るのだろう。
だが、この攻防で双方とも、互いの力量の一端は把握した。
そればかりでなく、周囲の兵士が、この二者の攻防を見てしまった。
困惑と、幾らかの昂揚と、そういう空気が広がっている。
冴威牙という荒くれ者の力は、本陣守護を任されるような兵の間には、十分に知れ渡っている。
その傍若無人な性格も、悪行の程も、同様にである。
敵対する事は無いだろうが――敵対する事を考えたくもない。そういう生き物が、冴威牙である。
そんなものと、短い攻防では有るが、互角にやりあう者が出たのだ。
それも、少女である。
どうにも見た限り、悪人面では無い。
背負っている得物は、見紛う事も無く、〝黒八咫〟の愛刀では無いか。
あの少女は何者だ――謎が好奇心を呼んで、そして期待を生んでいる。
勝てるのではないか?
いいや、勝てるとまではいかずとも――
例えばでかい顔をしているあの荒くれを、少しでも大人しくさせたりは出来ぬものか。
行き過ぎた無道を、抑えられはせぬものか。
そういう思いを、大なり小なり抱えている兵士達が、次第にどよめきを大きくしていくのである。
「やめろ、冴威牙」
そのどよめきを掻き消したのは、狭霧兵部であった。
このまま戦わせて、己に益は無いと、獣より利く鼻で嗅ぎ付けていた。
あと少しでも、この声が遅かったのなら、再び攻防は始まっていた。そうなると冴威牙も、言葉一つでは止まらなくなるのだろう。これ以上は拙いという気配を、読み切った声であった。
「おい、『錆釘』の餓鬼。名は堀川の狐から聞いた、村雨というらしいな。俺は一度見た顔は忘れぬ、覚えているぞ、お前が〝黒八咫〟と共に居た事を」
「はい」
糾弾の響きさえある狭霧兵部の言葉を、村雨は肯定する。
自分は反政府の勢力であったと認め――だが村雨は、堂々としていた。
最たる理由は、まずいとなった時、自分は此処から逃げ切れると確信している為だ。
兵士の数が最も少ない方角――狭霧兵部の居る側へ走り、兵部の横を走り抜け、そのまま何処かへ行けば良い。
どれ程の軍勢が居ようと、完全な包囲網が敷かれておらず、手が届く場所にいないのなら、恐れるまでもない。
寧ろ、敵の大将の喉元へ喰らい付ける自分こそが優位に有るのだと――そういう打算が有った。
「昔の事は、昔の事です」
「ならばこれからは、比叡攻めの軍に入るか」
「いいえ。前線は嫌です」
そして村雨は、我儘を通す。
戦場で何を言うかと、色めき立つ兵士も少なからず在った。だが、彼等が、この少女は駄目だと見切りを付けるより早く、
「赤心隊の隊長職を頂きたいと思います」
「んだとこらぁ!?」
まず、冴威牙が吠えた。それから十数人ばかり、赤備えの若い兵士が、同じように喚いた。
赤心隊――冴威牙を隊長とする、狭霧兵部の完全な私兵である。
無道、無法を免じられる特権を――公的では無いが黙認という形で――与えられ、洛中をのし歩く彼等は、真っ当な人間ならば、例え兵士であろうとも関わりたがらない存在である。
男は殴り、女は犯す。一言で言うと、そういう連中である。
その長に立たせろと、村雨は言ったのだ。
一触即発の空気が流れる。このままならば冴威牙の部下が、一斉に村雨に襲いかかるだろう。
然し、その空気をまた、散らす別なものが飛び込んだ。
「ああ、いやいやごもっとも、成果の無い人間を高い官職に着けるなんて、五指龍の帝国の故事がいいところですよね? そういうお声もあると知っておりまして、わたくしちゃあんと取材はして参りましたとも」
ルドヴィカ・シュルツの、道行く人間を呼び止めるような、賑やかに良く通る声である。
声量で場の注目を引いた瞬間、ばさっ、と何かを投げ、周囲に散らばらせた。
それが何なのかと、場が意識を奪われた時には、それを兵士達から見える位置にも、これ見よがしにばら撒いたのである。
写真。
遥か西の大帝国でも、ここ十数年ばかりでまともに使えるようになった近代技術の粋。
白と黒の濃淡のみではあるが、風景や人の姿をそっくりそのまま切り取って、一枚の絵にしてしまう不思議の業である。
それに映っていたのは、村雨と、それから幾つかの道場であった。
看板通りの風景である。
「さーあ拾った拾った、『つぁいとぅんぐ』も今日ばかりは無料ですよ! 天地無双流、古甲斐流、仙山流に貫槍流、名だたる武芸者が軒並み療養所送りと来たもんだ! 誰がやったかって? そりゃあもうお察しの通り!」
ルドヴィカが並べ立てたのは、何れも看板通りでは名高い道場の流派である。
どういう事か――その答えは、ばら撒かれた写真が述べている。
白黒の絵に映り込んでいるのは、殴り倒された道場主と、真っ二つに圧し折られた看板。そして、勝ち誇った村雨である。
無論、無傷では無い。四種の写真の内、特に一種では、顔が酷く腫れて、片目が塞がり掛けている。
だが――道場というものは、一対一で戦って、勝てば良いというものでもない。
道場破りとは、基本的に、相手方の面子を潰してはならない。
道場とは敵地であり、その中へ単身乗り込むのであれば、つまり袋叩きにされても文句は言えないという事だ。
そうならぬように、道場主の顔を立て、程良く負けるのが処世の術である。
三本手合せをして、一つ勝ち、二つを取らせ、参ったと言って頭を垂れる。いや腕利きであった、いやそなたこそと互いに称え合って、道場破りに銭をやるなり逗留させるなりして、八方丸く収めるものなのだ。
看板を圧し折るなど、言語道断。まして打倒した相手を晒し者にするなど、常識としては有り得ぬ事である。
それをやってしまっているのが、村雨とルドヴィカであった。
「ちょっと、あんた!」
「ん?」
「ん? じゃねえわよ! 考えが有るって言うからその通りにしたけど!」
いや、どちらかと言えばルドヴィカも、巻き込まれている側である。
耳打ちというには大きな声で、村雨に苦情をぶつけるが、村雨はどこ吹く風という所。
よもや、一日で道場を四つ潰して、その次の日に戦の最中の本陣へ乗り込もうとは、ルドヴィカも思っていなかったのである。
何はともあれ、はったりは存分に利かせた。
村雨に取って幸いなのは、彼女自身の外見が、決して強そうには見えない事。
小柄な少女としか見えぬ姿と、それに反する力という二面性が、どれだけ人を畏れさせるか、村雨は良く知っている。
この機だ、と村雨は思った。
今、この時、もう一度言葉を――
「良し、良いんじゃあないか」
再び狭霧兵部が、一種の軽薄ささえ伴って口を開いた。
「紫漣、お前をこの場で降格する。そこの餓鬼を後任として、赤心隊の副隊長とし、また横の毛唐も合わせて赤心隊の所属とする。良いな?」
淡々とした口調であったが、その声に含まれた意思は絶対であった。
これを揺るがす事は出来ないだろうという確信を、誰にも抱かせる声――或いは天性の将才なのやも知れない。
「……ほー」
本当は村雨も、この辺りで要求を撤回し、別な要求を突き出そうかと考えていたのだ。
例えば、そこそこの適当な部隊に加わるなり、或いは特に所属も無く、飽く迄『錆釘』よりの出向という立場を保って、街の警護に当たったり、と。
前線に出されなければ――桜と敵対するような場所に立たないのならば、それで良い。だが、政府軍の懐には入って行きたい。村雨が現状で考えているのは、それだけだった。
だから、狭霧兵部の提案を、蹴る理由も無い。
「よもや異論は有るまいな、餓鬼。気に入らんというなら、捕り物の続きだ。鬼殿と俺と、二人を相手にして勝てると思い上がる程の愚者でも無いだろう」
「……ごもっともで」
然し、飽く迄今回は、狭霧兵部がそう決定し、そう任命したという形では有るのだ。
何処の誰とも知れぬ少女に強請られ、役職を与えた訳では無い。
飽く迄も普段の気まぐれの延長で、適当な人事を行った――額面としてはそういう事だ。
「兵部卿……そんな、何故! 私に落ち度があるなら――」
意を唱える者は一人。背から翼を生やした女――紫漣という女である。
冴威牙の部下では、唯一の女。翼は飾りでなく、実際に空を飛んで、桜に打ちかかった事も有る。
赤心隊の副隊長という役職は、つい先程までは、どうやらこの女が勤めていたらしかった。
「お前は弱い。それ以上の理由が居るか、痩せ鳥」
これ以上、誰の諫言も受け取らぬ。狭霧兵部はそう言わんばかりに、紫漣の言葉に被せて断言する。
「さ……冴威牙様……?」
「………………」
紫漣は、すがるような目で冴威牙を見た。冴威牙は何も言わず、首を左右に振るばかり。
狭霧兵部の決定は撤回されないと、良く理解している為だ。
「何をしている、愚図共! さっさと被害報告に移らんか!」
空が茜でなく、確りと青になった頃合い。狭霧兵部の命に、溜まっていた伝令が揃って動き出す。
人の群が、戦後処理の為に方々へ散る間、村雨はその光景を、じっと目に映していた。
「……やってやろうじゃない」
敵は巨体に過ぎて、何処に噛み付けば良いかも見えない。
だが、そういうのが堪らなく楽しくて、痛む唇を歪め、村雨は笑うのであった。




