最早残兵に非ず(3)
比叡山に仏教徒が結集し、政府軍がそれを囲んでより、四度目の朔の夜であった。
長く続く戦闘に反し、比叡山、政府軍共に、兵の数は増える一方であった。
政府軍は、国内の何処からでも徴兵出来る。職業として正規兵を選んだ者とて、万を超える数が居るのである。
だが――何故、比叡山側の兵士が増えるのか。
それは、狭霧兵部の悪辣な軍運用にあった。
月に一度、比叡山を守る魔力障壁〝別夜月壁〟が力を失う夜、狭霧兵部は比叡山の包囲網を、一箇所だけ緩めた。
緩める箇所は、その時に応じて違ったが、何れもが、仏僧の援軍の来る方角である。
僧兵は古より権力者の手を焼かせたが、芯から戦の為だけに鍛える兵士に、数でさえ劣るとなれば、勝る道理は何処にも無い。にも関わらず狭霧兵部は、彼ら援軍をほぼ素通りさせ、比叡に築いた城に篭る、反政府の兵と合流させた。
然し、荷駄は許さなかった。
数十の兵士を殺すより、米俵一つを奪い、焼き払う事を優先した。
自軍の囲まれた兵士を救うより、荷車の車輪を砕こうとした。
狭霧兵部は、己が知る、最も悍ましい死を与えるつもりであった。
干し殺しである。
「どうだ、今宵は」
「娘御殿は門を閉ざしたまま、表立っては攻めて来ませぬ。然し我らが動くを見越し、伏兵は既に仕込んでいるかと」
「そんなものは当然だ。俺が聞きたいのはだな、鬼殿よ。あの城の内がとち狂って、そろそろ無益に死にに来ていないかという事なのだ」
狭霧兵部和敬が、政府軍の本陣に在って、絢爛を誇る美食を味わっていた。
おそらくは洛中の料亭から、最良の腕利きばかりを借り出したものだろう。金額にすれば数十両――独り者なら十年も生きられよう金額になる筈だ。
肉も魚も、有り余って居る。一人の胃袋に収まる量では無い。
それを、食材一つに箸先を一度付けた程度で留めながら、狭霧兵部は比叡の山を睨んでいた。
「美味いなあ、あそこには飢えた連中が居るのだ。奴らが飢えれば飢える程、俺の飯は美味くなる。鬼殿、一つ摘まんでは見んか?」
「結構。戦場で体重が変われば、馴染んだ動きが出来ぬようになり申す」
白槍隊隊長、波之大江 三鬼は、口を真一文字に引き結んで立っている。
胡座で座す狭霧兵部と比べれば、高さは四倍もあろうかという巨躯に、ざんばら髪から覗く二本の角――鬼である。刃が子供の子供の体よりも巨大な鉞を担ぎ、源平時代の骨董品の如き大鎧を纏う姿は、最早生物では無く、仏像に魂が宿って動き出したが如き有様である。
その鬼は、ほおずきのように赤い目で、様変わりした戦場を睨んでいた。
反政府軍は、表立って打っては出ない。地形の理こそあれ、正面から政府軍とぶつかれば、装備の質も兵の練度も、蓄積した披露も、まるで違うと分かって居るのだ。
だから、散発的な奇襲に頼る。
森を抜けて、包囲網を形成する兵士へ奇襲を掛け、また城内へ戻る事を繰り返し――状況が外から変わるのを待っていた。
「そう気を張るな鬼殿よ。元よりこの戦に、俺達の負けなどあり得ぬのだ」
「……いかにも」
不遜なようでもあったが、狭霧兵部の言に、過ちは無かった。
山上の城を、数と質で勝る軍が囲み、更に補給も滞ってはいないのだ。
兵が疲れたら休ませれば良い。死ぬなら、次を送り込めば良い。そうして、比叡山の備蓄全てを吐き出させ、座主が飢えて死ねば、政府の勝ちとなる。
何もせずに待つだけで良い。それで、城の中に餓鬼道地獄が生まれ、城門は自ずと開かれる。
「信仰と、肉親が飢えて痩せゆく様と、何れが耐え難いかなど、俺は良く知っている。あの顔は楽しいぞ、己の肉を食わせようにも、骨と皮しか残っていない母親の顔は。なあ?」
贅を尽くした晩餐を前にしながら、茶碗に飯を盛って、狭霧兵部はかっ喰らう。その横には、鉄兜の側近が立って、狭霧兵部の言葉に、幾度も深く頷いていた。
「和敬様、今宵は風向きが良いです。この西本陣から、東へ向けて吹いています」
「ほう。ならばどうするね」
「少し遅いですが、飯を炊き、肉を焼きましょう。大鍋で味噌汁を沸かし、菓子もたんと作りましょう。上等の酒を開け、城門が見えるまでに運び、そこで音曲に耽りましょう」
「ふむ、俺好みだ。ならば槍を林に見たて、酒池肉林の再現などどうだ。城壁から覗き見る連中、涎と涙を流して悔しがるだろうよ」
戦とは、人の命を奪い合う行為である。
決して戯れに起こし、戯れながら続けてよいものでは無い。
然しこの主従は、戦の中にある残酷さだけを愛で、今も城壁の内に潜む者を、如何に苦しめるかだけを求めていた。
時折走り込んでくる伝令も、状況は変わらぬと続けるばかり。もはやこの戦場は、狭霧兵部和敬の掌中に有った。
だが――狭霧兵部が、四十にもならずして兵権を握ったには、訳が有る。
理屈では無い、直感の領域で、この男は危険を嗅ぎ分けるのが上手かった。
誰が、己に牙を向くのか。
誰が、己より強いのか。
誰かが己に恨みを抱いた時、その策謀が成るより先に嗅ぎ付け、踏み躙ったからこそ、狭霧兵部はこうして行きて居るのだ。
その直感が、この夜はやけに騒いだ。
直感というのは、何も超自然的な技能ばかりでは無い。周囲全ての、意識的・無意識を問わず収集した情報からなる経験則も、その一つである。
「…………」
「和敬様?」
他者の不幸を糧に美味を楽しみながらも、晴れぬ心。空にした茶碗を投げ捨て、叩き割りながら、兵部はこう言った。
「……〝目〟を飛ばせ! 全て、俺に繋ぐのだ! 奴らの陣は良い、本陣に普段の倍の目を向けろ!」
〝目〟――視覚共有の魔術に長けた術者達である。
彼らを櫓に登らせたり、あるいは大凧に括り付けたり、飛翔のすべを持つ者に担がせたりと、兎角高所に配置する。
そして、見ている情報全てを、本陣に座す狭霧兵部へと送り届けるのだ。
無論、数十人の見る情報全てを、同時に視界に移す事は叶わない。だから狭霧兵部は、一つの〝目〟につき、数秒も留まらずに切り替える。
高所より数十の目を用い、数百数千の兵士が群れなす戦場を、一歩と動かず俯瞰する。
そうして、見つけた。
「おい。あれは、何だ」
「は……?」
目を閉じ、瞼の裏に戦場を映しながら、狭霧兵部は虚空を指差した。
「本陣西、仰木が崩された! あれは何だ!」
未だ、誰の目にも見えぬ姿を指差し、狭霧兵部は憎悪に満ちた顔を晒した。
その理由は、側近にも、また三鬼にも計り知れないのだが、仰木という名前は知っている。
忠義と生真面目が強みの老将で、本陣近辺の守護を任されている。言うなれば、狭霧兵部の私兵が敷く最後の防衛線を、もう一枚、外側から取り巻く兵の長である。
それが、崩されているという。
三鬼が顔色を変えて、大鉞を手に、ずうんと足を広げて立った。八方何れから来ようとも、ただの一振りで断滅する構えである。
配下の槍持ち達が揃って、穂先をまだ見ぬ敵へ向けた。
矢をつがえる。
石を拾う。
幾人かの魔術師は、戦地に有り余る魔力を、己の身体が許容する限界にまで取り込んだ。
そこへ、女は現れた。
まだ幼い少女を、左腕に抱えた女であった。
夜の帳の中、松明の火を浴びて揺らめく姿は、緋の衣に覆われていた。
修道女の、くるぶし丈のトゥニカである。
頭巾も赤く、燃えるような、夏に大きく咲く花のような鮮やかさが有った。
腰に結ぶ紐は、穢れを知らぬ白である。
然し修道女は、十字架を携えていなかった。腰から吊り下がるべきロザリオを、彼女は何れにも身につけていないのだ。
足取りの中に、力が有った。
優れた絵描きは、作品ばかりでは無く、筆を操る姿さえ美しいと言わんばかりに、女が秘めた機能は、歩む事だけで美を産んだ。
足跡さえ、足音さえ、優美である。
だのに女は力に満ちていた。
夜の中に浮かんだ赤は、ただ、静かに歩いた。
誰を害する意思も無く、誰に害される恐れも持たず、修道女は戦場を歩いていた。
「……殺せ」
狭霧兵部が、思いついたように言った。
「殺せ!」
怒り狂いながら、愉悦の予感を得て、歯を?き出しに笑って言った。
全て、つがえられた悪意が、女へと向けられた。
数十の矢、数十の石、炎も雷も、刃も、無差別に、女へと向けて放たれた。
爆薬を一息に炸裂させたが轟音と粉塵の中に、鏃が、礫が吸い込まれて行った。それは、一個の人間を殺すには、過剰とも言える力であって――
「鼓に交わり讃えよ、鐘に合わせて主に歌え。詩歌賛美を我らが主に奉じ、崇め御名を呼び求めよ。
そは戦神、魔手を挫くもの。蛇の舌を剣で刺し止め、我が道に灯りを共し、威光を以て我を陣幕へ導きたもう」
歌うような、声がした。
爆ぜた火が散った後には、炎の壁がそびえ立っていた。
矢も、石も、魔術も、全てを防ぎ焼き尽くす壁の向こう――炎が消えた時、女は化けていた。
「かの人ら、西に在り」
濡れ羽の髪に黒備え、雪月 桜がそこにいた。
女として高い背は、五尺と七寸。
袴も小袖も黒だが、堅苦しい肩衣は無し。身分など知らぬ自由人である。
帯までも、黒。
さばかりか、袖を繋ぐ縫い糸までも、黒。
夏も冬も、ただ一色、こればかりを纏う女伊達。
然し、これ程に同じ色を集めたとて、彼女の髪には到底及ばぬのだ。
長さは三尺、光を受けずとも艶めかしい濡れ羽烏の黒髪。指を通せば根本まで、一度と止まらず手櫛を通せるのだろう。指に救えばさらさらと、せせらぎのように流れるのだろう。
だが、触れる事など能わぬのだ。
右手には脇差、左手には少女。後方には脱ぎ捨てた緋の修道服。眼光鋭く、唇には諧謔。
幾百の兵を前にして、威容は寧ろ、軍勢を呑む。
「かの人ら西に在り、地に群れ無して在り! 川に堰となり、丘陵には蝗となり、山林を焼き、若人を刃にかけ、乳飲み子を地に打ち、幼子を貨と贖い、乙女を奪わんと我らに告げたり!」
「……黒八咫。やはり、生き延びていたか……!
三鬼が大股に、兵士を幾人か跨いで進み出た。
この場で桜に勝るのは、かつて力でねじ伏せた己以外に無い。
「止まれぃ! 刀を捨て、縛につけば良し。ならぬとあらば拙者、此度こそはそっ首を、兵部殿への手土産とせねばならん!」
警告――無用無価値と知っている。
ごう、と振り上げた鉞を、桜の首目掛け、三鬼は万力込めて振るった。
まともに当たらずとも良い。柄でも触れれば、人骨は砕ける。鬼とは、理由無き強者である。
「……ははっ」
桜は目を見開き、真っ直ぐに、三鬼目掛けて走った。
鉞の刃が、首へ迫る。
桜は、戦場に立つのは初めてであったが、この時に浴びた殺意には、寧ろ懐かしささえ感じた。
――見ていろ。
桜は、鉞の柄に飛び乗った。
首を飛ばさんと、鬼の剛力で振るわれる高速の、長柄の得物へと、少女を抱えたままで飛び乗ったのだ。
そのまま、馳せる。
柄の上を走り、三鬼の手へ迫り――
「む、ぬううっ!?」
手首、肩。二か所を踏み台に、桜はまた跳んだ。
三鬼の右腕を手酷く蹴り付けながら、数間も距離を引き剥がして、振り返りもせずに走ったのだ。
三鬼の後方には、数百の兵士が、各々の得物を携えていた。
然し、二の矢をつがえる暇は与えられない。
一歩毎に、積もった雪を爆ぜさせて走る桜は、兵士達の中央へと突き進んだのだ。
「皆、捕えよ! 縄を掛け、鎖を絡め――」
「殺せ!」
追い付けぬ。三鬼はそう知って、鐘よりも響く大音声で、部下達に命じた。然し、それを塗りつぶす命を、狭霧兵部は続けて与えた。
槍が、刀が、桜へと殺到する。
そうして、火花が無数に散る中を、桜は速度を変えぬまま走り続けるのだ。
――なんだ!?
殆ど全ての兵が、計り知れぬ事態を、ただ見る事しか出来なかった。
桜の斬撃は、おおよそ肉眼で捉えられるものでは無かったのだ。
身に迫る槍の穂先、刀の刀身、全てを全て、皮膚ばかりか髪にさえ届かせる前に、神速の斬撃で斬り落とした。
鎧も、兜も、併せて割っていた。
然し、血は、ほんの一滴も零れてはいないのだ。
「殺せ!」
四度目の号令に、白備えの兵士達に割り込む、異装の集団が有った。
これがまた、見事な赤備えの、若い兵士達である。
規律を問うならば、先の兵士達に著しく劣る。だが、戦地を恐れぬ事であれば、彼らが勝る。
彼等は、鎖の先に鉄球が取り付けられた凶器を、十数人がかりで保持し、そして一人が振り回していた。鎖で絡め取り、全員で引き倒す、馬でさえ縊り殺す兵器である。
人の頭蓋より二回りも巨大な鉄球が、桜の顔目掛けて放たれた。
「然して我らが全能の主、女の腕以て彼等を退けたり!」
目に影さえ写さぬ速度で、脇差は鞘へ帰った。そして桜は、飛来する鉄球へ、右拳を真正面から叩き込んだ。
ただの一撃。
鋼の塊が砕け散り、破片が飛散する中で、桜は鎖を掴み、右手に巻き付けた。
それでも、走る事は止めない。
鎖のもう一端を掴む十数人の、横を駆け抜けても、止まらない。
数歩を行き、鎖が伸び切った。それでも、桜は止まらなかった。
「う、わあああっ、あああああっ!?」
「なんっ、止まらねえ、クソがぁっ!!」
ほんの一時と、踏み止まる事は出来ない。
桜は十数人の男達を、立ち上がる暇も与えない程の速度で引きずった。
石や木の根との摩擦で、男達の鎧が削れ、陣羽織が千切れる。三十間も行く頃には、鎖を掴んでいた者は、皆が皆、手の力を失って脱落していた。
「かっ――何してんだ穀潰し! くそ、止めろ!」
赤備えの兵士の中から、一際の異装が、桜を追いながら毒づいた。
赤心隊の長、冴威牙という、若い男である。
上半身こそ、素肌に十徳羽織を重ねただけの軽装であるが、腰から下は草摺に獣革の靴。脛も膝も、これも獣の皮革で守っている。そしてこの異相からも見えるように、脚が自慢の男であった。
た、た、たと、小気味よく音を刻んで、困惑する兵士の群を抜けて、冴威牙は桜を追いながら、
「紫漣! あいつを止めろっ!」
「はいっ!」
上空、〝翼を広げて旋回する女〟へ叫んだ。
空色の振袖の背を、右肩から大きく切り込みを入れて、そこから白翼を広げている女である。
亜人でも有翼の種族は、日の元には珍しい。かつて、村雨とも浅く因縁を持った、紫漣という女であった。
さしもの桜も、翼には速度で劣る。正面へ、紫漣は容易く回り込んで、
「……あれを殺せば、褒めてくださいませね!」
錐にも似ているが、更に長く太く、鋭かろう凶器を構えて、桜の心臓目掛けて飛翔した。
ただ真っ直ぐに走る桜。その正面から、決して軌道を譲らず、加速して行く。
衝突。
いや、桜が上へ避けた。
「!?」
「お――紫漣!」
桜は、鎖を掴んだままで走っていた。
その鎖を、紫漣の頭上を飛び越える瞬間、翼と腕に巻き付け、瞬時に縛り上げたのである。
墜落、加速そのままに転がって、十数間も先で止まった。兵士の幾人かが血相を変えて、鎖を解こうと、転がったまま動かぬ紫漣へ群がった。
「てめぇ、このアマァッ!!」
遂に冴威牙が、桜に追い付いた。
追い抜き、二歩先へ行った瞬間、振り向きざまに放たれたのは、蹴りであった。
例えるならば、鋼の硬度と重さを持った、撓る鞭。人の首など容易く圧し折る類の、そして並の剣撃より余程速い蹴りである。
それを桜は、何事も無いように、右手で軽く払い落とした。
足を無理に地面へ落とされ、ほんの数瞬動けなくなった冴威牙の顔面を、桜の右手ががしりと掴んだ。
「ぐがっ!? ガアアアアァッ!!!」
「あれは、お前の女か?」
顔面を指で締め上げながら――ともすれば頭蓋が歪み砕けんばかりの痛みを与えながら、桜は戯れるように問い、
「ああいう女は、縛ると映えるな。間違い無いぞ」
答えが返らぬうちに、掴んだ冴威牙の頭部を、足下の地面へと投げ捨てた――装備を合わせれば二十五慣は越えそうな冴威牙の体が、毬のように弾んだ。一度では無く、二度、三度と弾んだのであった。
群が、ただの一人に、二つに立ち割られる。
正しく無人の野を行くが如し。誰も、立ちはだかろうとは思えぬ姿――人ならば。
ついで桜の眼前に現れたは、大口径の大筒であった。
口径、三寸。
48ポンドの砲丸を、爆薬の力で射出する、舶来の兵器――カノン砲。
砲手は絶倒の確信を以て、砲身の火口に注いだ火薬へ点火した。
試射の際は、家屋を叩き潰し、巨木を数本纏めて圧し折った。それを人体へ射出するのである。
轟。
耳鼻を震わせる爆音が、戦場に轟いた。
砲は、日の本ではまだ歴史の浅い武器である。然し砲手は、西洋の技術者を狭霧兵部が招き、その下で算術からを叩き込んだ、専門の兵士であった。
兵器と、兵に、なんらしくじりは無い。
ただ一つ、計算の外を上げるならば、敵は雪月桜――凶鳥、黒八咫であった事。そして、日の本の技術で扱えるのは炸裂砲弾でなく、重量をそのままに叩き込む実体弾のみということであった。
砲口へ向け、桜は右手を伸ばした。翳した掌へ、爆炎の速度を以って、砲弾が迫り――五指が、砲弾を包む。
桜は、高速の砲弾を片手で掴み取り、そのまま右手を後方に流しながら、左足を軸に回った。
その回転で、僅かにも砲弾の速度を殺した後は――力で、衝撃を押さえ込んだ。
歩みは止まった。その代わり、桜は、攻城兵器を素手で捩じ伏せたのである。
そうして、左足が高く上がり、右腕が降り被られた時、砲手は己の持ち場を投げ捨てて遁走していた。
「そうら、返してやる!」
おおよそ六貫の砲弾――砲丸を、桜は砲身へと投げ返した。最新鋭のカノン砲は、無残にも口から腹を貫かれ、鉄屑と成り果てたのであった。
最早敵するものも無い。敵本陣を一文字に裂いて、比叡の山の斜面を駆け上がり、様変わりした山上を見た。
反政府軍の唯一の生命線、分厚く高い城壁は、日々生物の如く膨れ上がり続けている。
城壁に用いられて居るのは、戦場に残る一切である。
即ち、残留した無色の魔力。
即ち、打ち捨てられた武具。
即ち、敵味方を問わず、屍の骨。
そういったものが、怨念と共に土に練り込められ、月に一夜の戦に備え、残る時間を注ぎ改修を続ける城であった。
その西門が、桜に呼応して、向こうから口を開けた。
便乗し乗り込もうとする者は居ない。
雪月 桜は、無人の野を行くが如く、比叡の城へ入ったのであった。




