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最早残兵に非ず(2)

 満月の夜空を仰ぎながら、雪月 桜は、京の北を歩いていた。

 一度、比叡の山から東へと旅立って、奥州まではるばる向かい、立ち返るまでにふた月と半。かの地の雪を見ていれば、この地の積雪など、如何程のものにも見えない。

 街は、暗い。

 家々は早々に灯りを消して、しんと息を殺して眠っている。

 その中を抜けて、桜は夜の道を、神山へ向かっている。

 村雨が、奥州への同行を拒んだ時、予感は有った。あれは自分より強く成ろうと言うのだ。

 それが叶う場所は、洛中には一つしかない。

 松風 左馬の亜人嫌いは、桜も知る所である。生まれついての強者である亜人は、積み重ねて来た左馬とは、決して相容れないのだと。

 だが、引き留めはしなかった。

 もはや桜に取って、村雨は、一方的に庇護し愛玩する相手では無い。一個と一個の命として、向かい合うべき存在であるのだ。

 村雨がそう望み選んだ道は、今、どう伸びているのか。

 それが知りたくて、桜は、足早に歩いていた。

 夜の山は、雪灯りの他に、何も光を放たない。風も弱く、木々が揺れる様さえ見えぬ、山の静かな夜である。


「土産が無いな……構わんか」


 普段なら美酒の一つも持って行くのだが、洛中に入った時点で、既に日が暮れていた。酒屋を無理に開けさせるのも気が引けて、手ぶらのままで桜は山を登り始めた。

 すると、直ぐに何か、奇妙に気付く。見たというよりは、音やら空気の流れやらで総合的に計る、経験則の一種である。

 立ち止まり目を細めると、山の上から少女が一人、こちらも早足で山を降りてきた。


「お……? おうい、どうした、そこの」


 まだ遠い内から、桜は少女へ呼び掛けた。

 見覚えの無い顔で、また武芸者のようにも見えない。この山にはとても似合わぬ姿だ。

 静かな山であり、呼び掛ければ直ぐに向こうも桜へ気付く――と、足を更に速めて来る。

 


「お、お……? おい、どうした。お前のような知り合いは――」


「助けて! 誰か、お願いです、助けてっ……!」


 山を降りて来たのは、みつであった。

 村雨より低い背で、雪を掻き分けて――街まで出ようとしていた。

 異常を桜は知り、膝を曲げ、みつと目の高さを揃える。


「……何が有った」


「殺されちゃう、む、村雨さんが――」


 其処までを聞いて、桜は、雪を爆ぜさせて走っていた。

 みつは、その場に置き去りにしたが――抱えて行くよりは余程優しいのだろう。

 雪も、木々もまるで異に解さず、桜はただ真っ直ぐに突き進む。枝が圧し折れる渇いた音は、直ぐに遠ざかって、みつには聞こえなくなった。






 樹上より逆さにぶら下がる左馬は、拳を解いていた。

 戦意の喪失では無い――用いる技の段階を、一つ上にしたという事だ。

 手首から先で放つ打撃には、多数の種類がある。

 まず、誰もが思いつく、原始的なものが、拳。

 手を痛めない為に用いる技としては、手の平――掌底。これは硬い部位を打つのに良い。

 指先を揃えて突けば、脆い部位へ突き刺す貫手。

 曲げた指で引き裂く虎爪。

 更に指を深く曲げて、手の平と指の甲を打ち付ける熊手。

 指を解き放つだけで、狙える箇所と方策は無限に増える。

 左馬は、それらを全て解放した。

 枝にぶら下がったまま、膝を縮める。重心が持ち上がり、枝がぐわんと撓んで――逆方向、地面へ向けて撓り返す。

 その時、左馬が、地面へ向けて跳んだ。


「――っ!?」


 枝の反発、重力、跳躍。全てを乗せた速度は、普段の踏み込みの比では無い。

 突き出す右手は虎爪――五指全てを緩やかに曲げて、その先端を村雨へ向けている。

 村雨は、咄嗟に後方へ飛んだ。前髪にかすらせて、それこそ紙一重、雷槌は雪に突き刺さった。


「ひゅっ――」


 息を吸って、吐いた。左馬の口から発した音だ。

 左馬は足を付かず、寧ろ片腕で体重を支えたまま、両脚をごうと振り回した。

 頭、肩、胸。立て続けに三度、爪先で刺すような蹴りを放つ。

 これまでとはまるで軌道の違う蹴りに、さしもの村雨も、全て防ぐ事は出来なかった。


「くっ……!」


 右肩を酷く蹴り付けられながら、自らも蹴りを打ち返す村雨。

 然し、その蹴り足の上を、左馬は片腕で跳躍して超えた。

 後方へ一歩退いて、そこからまた跳躍――先とは違う木の枝に下がる。


 ――これが、師の技か。


 頭上からの攻撃へは、反撃が難しい。

 加えて、落下の速度を己の打撃に乗せられる。

 地上に立っているのなら、どれ程の技量が有れども、十割の体重は、拳に乗らない。足が必ず地上に接しているからだ。

 左馬の秘拳は、重量を全て腕に乗せ、敵へとぶつけられる。

 反動は、無論、極端に大きい。並みの鍛錬であれば、肩も肘も手首もいかれてしまう。

 それを左馬は、易々と衝撃を吸収し、寧ろ腕だけで跳躍さえやってのける。

 もはや人の域の技に在らず。

 松風 左馬は、人外への憎悪を糧に、人外の域へと踏み込んでいるのだ。

 また、次が降る。

 先と角度を変えて、村雨の首筋を狙い、右手中指を付き出しながら、左馬は自らを地面へと打ち出した。


「か……このっ!!」


 村雨は、迎撃を優先した。左腕を掲げて盾としながら、右拳を振り上げる。

 振り上げの拳は、真横へ打つよりは、威力が劣る。接近の速度も有り、最適の間合いでは当て難い。頭へ拳は命中したが、左馬が怯む事は無かった。

 手で着地し、手で跳躍し、足で殴りかかる。

 跳躍してから着地するまでの間、三つも四つも、村雨目掛けて打が繰り返される。

 頭と言わず、腹と言わず、滅多矢鱈に蹴りが繰り返され、村雨の防御を打ち崩さんとする。

 重い、そして止まらない。

 打ち返せると思った時には、左馬は上空へ逃れている。

 落下。胸を指先が狙った。

 蹴撃。次第に打撃の質が、その場で痛めつける事では無く、互いの間合いを突き放すべく、押し飛ばすような蹴りへと変わって行く。

 跳躍し、逃れる。

 同じ事の繰り返しだ。

 だが、決して破れぬ技が、延々と繰り返されるのは、受ける側には恐怖でしか無い。


 ――何処で打ち返せばいい!?


 その機が、無い。


「……は、ぁ……ふっ」


 数間向こうで漸く、左馬が両足で地上に降り立った。

 息は荒いが、殴り合いが始まった頃より、落ち着いているようにも見える。

 今しかないと、村雨は雪上を、四足で馳せて左馬へ迫った。


「おおおぉっ!」


 迎撃もまた、乱打。

 拳では無い、ありとあらゆる手形を用いて、左馬は村雨を打つ。

 尖鋭にして、重厚。

 凶暴にして、精密。

 防ぐ腕そのものを壊し、また腕を擦り抜け、その向こうの体に突き刺さる指。

 殺意の伝わる強度である。

 死ね、死ねと、一打ごとに呪詛を込めて繰り出されるようであった。

 具象化した殺意が、村雨の身を削ぐように突き刺さって行く。

 防ぎきれるものでは無い。

 腕の隙間を縫って、胸へ、腹へ、始めは中心線より随分外であったが、繰り返される度に正中線に近づいて行く。左馬の指先は刃物の如く、衣服も皮膚も、小さく刻む。

 灰色の体毛に、白い雪に、赤い血が滲んで染まり始めた。

 赤くなった雪を蹴立てて、村雨が蹴りを放った。左馬は高く高く跳んで、幾度目か、樹上へと逃れた。


 ――こうして、死ぬまで刻み続けるのか。


 痛みは薄い――傷が浅いからだ。

 これが、繰り返される毎に傷が広がって、深まって、流れる血の量が増える頃、左馬は降りて来なくなるのだろう。

 血が流れ尽くすのを、高みから見下ろしながら待つ。

 執念深い狩りのやり方は、過去に村雨がぶつかった敵とは、まるで異なる在り方だ。


「……師匠」


「軽々しく呼ぶな、半獣」


 地上と樹上で、二人は視線を重ねる。


「楽しいですね、師匠」


 村雨はまた、笑って言った。

 この言葉が左馬を抉る槍になると、分かってそう言ったのだ。

 だからこそ浮かべた笑みは、真からのものでなく、恣意的なものである。


「……ふざけるな!」


 案の定、嚇怒が返る。

 怒気が左馬を狂わせていた。


「ふざけるな、お前のような半獣が……生まれただけで強くなるような、いかれた人殺しの獣如きが! 楽しいだと!?

 私は必死だ、負けたくない……誰にも負けたくないと、それだけで強くなった。なのにお前は、生きているだけで!」


 膨れ上がる憎悪と殺意――霞む理性。左馬は、己が忌みながらも羨む、獣の領域に心を堕とした。


「良いか村雨、良く覚えておけ! 喧嘩に負けたくないだけで、私はお前みたいな餓鬼を殺せるんだ……ああ、殺せる! 殺してやる!」


 枝が撓み、左馬は身を縮める。樹上から狙いを定め、右手を腰にまで引いた。

 余興でも無い。食欲でも無い。義務でも無い。

 生まれて初めて浴びる、憎しみによる殺意を浴びて、


「……こっわぁ……っははは」


 村雨は頬を引き攣らせて、だが目を見開き、左馬を見た。

 狂気に満ちた顔――正気ならば顔を背けたくもなろう、悍ましさに満ちた表情。

 それを村雨は、正面から待ち構えて、


 ――行こう。


 跳んだ。

 村雨は高く、左馬よりも高く跳んで、高所の枝に立った。

 そして、左馬が地面に手から着地し、両足で立とうとした瞬間、樹上より左馬へと跳びかかった。


「なっ……!?」


 高所より振り下ろされる、村雨の踵。

 避けて飛び退き、樹上へ逃れようとする左馬へ、村雨はぴたりと追いかけてまた跳躍した。

 左馬が、枝の一つに、逆さにぶら下がる。

 その時には村雨が、左馬のぶら下がる枝の上に立っている。

 速度を上げ、跳躍し、また降りる事を繰り替えしても、村雨を振り切る事は出来ない。寧ろ、己に勝る強者を見つけた悦びが、村雨の力を増してさえ居た。

 枝から枝へ、二人が移る。

 時に離れ、時に近づきながら、己がより高みを奪おうとする。

 そうして、位置取りを繰り返し、最も高い木の一つを上りきった時――


「――やめましょう、師匠」


 村雨が突然、跳躍を止め、地上へ降りた。

 左馬は丁度、一度地上へ降りて、もう一度舞い上がろうとする直前であった。

 静かに呼び掛けられてさえ、渦巻く憎悪が収まる事は無い。

 だが、歩いて近づいて来る村雨から、逃れようとはしなかった。


「これじゃあ、朝日が昇っちゃいますよ」


 背丈と腕の長さに差はあれど、一尺も違う訳では無い。村雨と左馬が、最大の力で打ち合える間合いは、殆ど変らない。

 その距離に、村雨が足を止めた。

 足を開き、腰を落とし、示したのは一歩と動かぬ意思。


「……はっ」


 怒りに頬を歪めながら、左馬もまた、同じ構えとなった。

 互いに、左足を前に、右足を後ろに。右利きの人間が、全力で相手を殴る為の構えである。


「村雨」


「はい」


「私は、お前が大嫌いだ」


「私は、師匠に感謝してます」


 その会話が、始まりの合図となった。

 互いに振るった右拳が、互いの頬を打ち、首を横へと曲げさせた。

 嬉々として村雨は、左の拳をまた振るう。

 怒りを抱いたままに、左馬が左拳を振るう。

 全てが全て、望む侭に命中する。

 全て、渾身の打撃である。

 村雨の拳が、左馬の顎を打った。

 左馬の指先が、村雨の腹部に沈んだ。

 忽ちに互いの血が、互いの手に付着した。

 痛みの上に痛みが積み重なり、疲労が、四肢の機能を鈍らせていく。然し二人は、足を止めたまま、何処へも逃れようとはしなくなった。

 だからこそ、差が浮き彫りになる。

 全て削ぎ落とし、全く同じ条件に立って武を競えば――優位に立つのは、やはり松風 左馬であった。

 次第に、村雨の拳が届かなくなる。

 村雨の体に傷を刻みながら、同じ手で拳を払い落とし、左馬の手は休む事無く、翻り、吹き荒れた。

 ひょう、ひょう、と風が鳴った。拳速に煽られて、積雪が花と散り、煌めく。

 月夜に在ってこの殴り合いは、もはや幻想的な趣さえ有り、


「――おお」


 それを見て、呻き、眩暈さえ感じた者が居た。雪月 桜であった。

 割って入る為に山を馳せた筈の桜は、今、二者の争いに介入出来ず、音を殺して近寄るばかりであった。


 ――どうした事だ。


 松風 左馬は、桜の古い友人である。二者が友人たり得る理由は、互いの力を認めているからである。

 武器を持てば桜が勝ち、素手で争えば左馬が勝つ。何れも、相手に勝らぬと知っているからこそ、何時か超えんとしながら、互いを尊重して並べるのだ。

 桜は、左馬の力に、絶対の信頼を抱いている。

 この国でただ一人、己に勝る存在。それと村雨が――最愛の女が、正面から打ち合っているのだ。

 止めるべきやも知れなかった。

 数歩の距離まで近づいて、見て、分かる。左馬の目には殺意が浮かんでいる。桜自身が人を殺す時の、無造作な目では無い。こいつを殺してやると、絶対の意思の元に技を振るっているのだ。

 既に死んでいても、おかしくない。

 とうの昔に屍となっていても、おかしくなかった。

 だが、村雨は生きていて、今、こんなにも楽しそうに戦っているのだ。


 ――強くなった。


 桜の予想を遥かに超えて、強く、強く。

 桜を恋に焦がれさせた、美しい獣の姿のまま、村雨が望んだ、人の理知を抱いた顔で。

 血を流そうが、顔を腫らそうが、止める事などは出来ない。

 汗の雫が飛ぶ距離、気付けば桜は立っていた。殴り合う二人は、桜の顔を見なかった。


「しゃああぁっ!」


「おおおおぉっ!」


 雄叫びを上げて、二人は打ち合っている。

 決着は間近であろう――この侭ならば、左馬の勝利でだ。

 然し、そうまで追い詰められても村雨は、何時かの夜を思い出していた。






 弟子として扱われて、一月も経った頃だろうか。

 左馬は気分屋で、新しい酒が舌に合った時など、特に上機嫌になる事が有った。

 そういう夜に、村雨は、左馬に連れ出されて、神山の一画へ足を運んだ。


「此処なんかが良い、此処にしよう」


 その日、左馬は、昔語りをした。

 桜と知り合ってから、互いの技を見せ合ったり、互いに教え合ったりをした時の話だ。

 その中で、打撃の質に関する話題が有った。

 左馬の用いる打撃と、桜の用いる打撃は、種類が違うという話だ。

 村雨がその説明を求めると、左馬は意気揚々と、太い樹が生えている所まで歩いて来た。


「いいかい。桜が打つ拳は、こう」


 そして左馬は、木の一つへ、思い切り振りかぶった拳をぶつけた。

 打撃点を中心に、すり鉢状のへこみが、樹皮へと刻まれる。

 破城槌で殴りつけたとて、こうはなるまいという威力である。


「あいつがやると、これでこの木が折れる。馬鹿力に任せて圧し折る――潰す、砕く。そういう種類の打ち方だ」


 それから、次の木を選ぶ。

 先に殴ったより、一回り太い樹である。


「私がやると、こうなる」


 全ての関節を連動させ、起点から直線的に放つ拳。

 左馬の拳が、手首まで、樹皮を貫いて幹へ埋まった。

 引き抜けば拳痕の断面は、刃物で削ぎ落とされたが如き鋭さであり、


「私の打は、刺すものだ。速度と拳の強度で……貫くんだよ、人間を。防ぐ腕を、あいつは砕く、私は斬る。自慢じゃないけどね、人間の腹に指を刺して、腸を引きずり出した事だってあるよ私は。いやあ、あの時は手が熱かった。人間の腹の中は熱くて、熱くて――」


 酔人特有の饒舌を振るいながら、更に一つ、左馬は別な木を選んだ。

 その木に背を向けると、一歩、また木から離れたのだ。

 そして、左回りに振り向くと、虚空に右拳を走らせた。

 外から回しこみ、横へ薙ぎ払うが如き拳――それに続き、左裏拳がやはり、虚空を打つ。

 村雨がその時に見たのは、勇壮に振りかざされる拳では無い。左拳が空を薙いだ瞬間、木へ向かって滑り進んだ左足であった。

 その左足が、軸となった。

 右足が地面を蹴り、左馬の回転が、更に加速した。

 始めの右拳で半回転、次の左裏拳で四分の三だけ回転――最後の半回転が、ただ殴るばかりではあり得ぬ速度を生む。

 身体全ての部位が、たった一つの目的の為に連動する。

 届かせる事。

 つまりは貫く事。

 人域の外に有る速度を纏い、槍にも勝る指先が、樹木の中央へと突き刺さった。

 いや――刺さって、突き抜けた。左馬の腕は、直径が二尺も有りそうな樹木へ、肩まで突き刺さっていた。


「これなら、桜も殺せる」


 左馬はそう笑って、圧し折れる木を見ていた。






 村雨は、左馬から遠ざかるように後方へ跳ねのき、左馬へ背を向けた。

 左馬がそれを追い、がら空きになった後頭部へ、肘を叩き込もうとした。

 振り向きざま、放たれる右拳――鉤突き。

 側面から頭蓋を打ち抜かんとする拳は、左馬の左腕に払い落とされる。


 ――重量、速度とも申し分無しながら、不足。


 この一撃では倒されない。余裕を以て左馬は迎撃し、右手の指で、村雨の喉を刺しに行った。

 その手を、村雨の左手が払った。体を回転させながらの裏拳である。

 二度の回転で、村雨の体は、恐ろしいまでの速度を得ていた。


 ――これは。


 左馬が気付いた。気付き、そして、怒りよりも恐れよりも、驚愕だけが有った。


 ――出来るものか!?

 ――真似など出来る技か!?


 形ばかりなら出来るだろう。然し――いや、惑うべくも無い。

 左馬は必死で腕を引き戻し、肩と腕を上げ、頭をその影に庇った。

 見栄えを捨て、優雅を捨て、実利だけを求める形。


「あああああぁぁっ!!」


 拳であった。

 人狼の全ての筋力が、速度に転化して放たれる、最速最重量の右拳。

 防ぐ腕の外からでさえ、左馬の頭は激しく揺さぶられた。

 視界が乱れ、景色の中に星が乱れ飛ぶ。空を見ているのか、地面を見ているのか、それさえ暫しは分からなくなった。

 然し、何をされたかは分かる。

 震える足で踏み止まりながら、左馬は歯を食い縛って、


 ――殴ったのか。


 疲れ果てた体を動かす、怒りを更に湧き立たせた。


 ――こんな、紛い物の技で。


 本来ならば、指を伸ばし、人体を刺し貫く技である。

 村雨の指ならば、それが出来る事も、左馬は良く知っていた。

 此の期に及んで村雨は、己より技量で勝る左馬を気遣ったのだ。


 ――私を!


 左馬の足が、地鳴りする程に地面を踏みつけた。


「がああああああああぁっ!!」


 そして、左馬の体が宙に舞った。

 短い距離を、予備動作も無く――そして地を離れた瞬間には、既に回転が始まっていた。

 先に村雨が見せた技とは、軸を直角に交わらせる、縦回転。

 渾身の打を放ち、姿勢を崩した村雨の頭へ、左馬の両踵が落ちた。

 跳び前転踵落とし。

 何時か村雨が、片谷木かたやぎ 遼道りょうどうへと用いた技は、奇しくも左馬がもう一つ、村雨に見せず隠していた技と同形であった。

 雪の上に、左馬は膝を着いた。

 立っていられない――視界は未だに揺れている。左馬でなければ、跳ぶばかりか、一歩と歩くさえ出来なかった筈だ。

 それでも、村雨もまだ、意識は有る。俯せに崩れながら、手が地面を探り、体重を支える場所を探している。


 ――とどめを。


 這うように進む左馬の前に、黒い影が割り込んだ。


「……そこまで!」


 刀の切っ先が、左馬の喉へと向けられる。

 雪月 桜は、抑えきれぬ歓喜に満たされながら、片手で村雨を抱き上げていた。

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