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最早残兵に非ず(1)

 夜が来る。

 月の美しい夜だった。

 丸く、一つとて欠けた所の無い月が、雲の無い紺色の空に浮かんで、白い山を見下ろしているのだ。

 風は緩やかで、静かである。

 虫は雪の下で眠り、鳥は洞で翼を休め、獣は木陰に息を潜める。洛中の北方、神山は、気配に満ちながら静まり返っていた。

 その、頂上に近いが、少し開けた所に、一人と一頭が向かい合っていた。

 山の序列の二番に立つ亜人と、一番に立つ人間である。

 二人は数間の間を開けて、雪の上に立っていた。


「良い夜だね、村雨」


「はい」


「酒が美味くなる夜だ」


「付き合いますか」


「お前じゃ駄目だ、直ぐに潰れる」


 村雨は冗談めかして言い、松風 左馬もまた、笑いながらその言葉を受けた。

 ほがらかに笑いながら、左馬は雪の上に手を置いた。

 柔らかく、軽く、だが重なれば圧縮されて重みを増す雪。人の足が届かぬ山では、膝を過ぎるまで雪は積み重なっている。

 その硬さを、左馬の指が探っていた。

 同じように村雨が、足裏の感覚で、雪の強度を見ていた。


「書いてきたかな、遺言は」


「いいえ」


「そうかい、お前が筆不精だとは知らなかった」


 足場は酷いものだった。

 このような場所で、敵を迎え撃つなど、考えたくも無い悪条件。

 並の脚力ならば、走る事さえまま成らぬ雪。

 その上を、左馬は、まるで空に道を掛けたかのように、予備動作の無い跳躍で、村雨へと寄った。

 同時に村雨は、足元の雪を爆ぜさせて、後方へと逃れていた。


「……字を書くのは苦手だけど、だからじゃない」


「へえ、生意気を言うようになった」


 始めより、少しだけ狭まった二者の間隔。

 村雨が、雪に両手を触れさせて――堰が切られた。






 投石よりも固く重い拳が、矢継ぎ早に飛ぶ。

 その全てが、村雨の顔面を狙っている。

 人間の顔は硬いし、歯が指を傷つけると、手が酷く腫れあがる事もある。素手で顔面を殴るのは得策でないが――それは無論、常識人の範疇の事である。

 松風 左馬は常人では無い。

 巨木も自然石も、或いは鎧さえ打ち砕く拳は、人骨の強度などまるで問題にしない。左馬の本気の拳が、最良の距離で命中したら、人の頭蓋は砕けるのである。

 村雨は、両腕を前方へ思い切り伸ばし、腕で拳を払いながら、落としきれぬ分は体を左右に振って避けている。

 然し、数が多すぎる。

 始めはある程度の余裕を以て受けていた打撃が、次第に村雨の腕を痺れさせ、反応を遅らせて行く。

 このままでは被弾する――ならば、先に当てる。

 左馬の拳の嵐の中に、矢のように、村雨の右拳が割り込んだ。腰の高さから、振り上げるように撓る、独特の軌道の拳である。

 乱打では無い。狙い澄まして一閃する、磨き抜かれた太刀筋が如き拳である。そして、繰り返す事を前提にせぬ分、単純な速度と重さならば、左馬の拳一つよりは上を行く。

 左馬の左頬に、村雨の拳が当たった。


 ――手応えが。

 

 左馬の首が、ぐりんと横を向いた。

 手応えが無い。拳が触れる瞬間、首を拳と同じ向きに回して、衝撃を逃がしたのである。

 見切れる速度の拳なら、村雨も同じ事は出来る。だが、左馬の拳は、一つをそれで逃がしても、次が直ぐに飛来するのだ。

 首だけで流すのは無理だ。払うか、体ごと射程の外へ逃げるか、何れかしか無い。村雨は後者を選び、右足をほんの少しだけ後ろへ引こうと――


「らあぁっ!」


「!?」


 その足を、左馬が踏んだ。

 頑丈な靴底で思い切り、村雨の足の甲を踏みつけたのである。

 雪と村雨自身の靴が緩衝剤とはなるが、寸拍、村雨の足が地面に縫い付けられる。

 既に体重は後方へ動いていた――姿勢が崩れ、踏み止まろうと、左足が咄嗟に後ろへ出る。

 計算された動きの中の歩では無く、止むを得ず取らされた不利な姿勢を、左馬は見逃さない。大きく踏み込みながら、右手を村雨の頭へと伸ばした。

 

 ――危ない。

 

 村雨は、踏み止まる足を自ら外し、雪の上に倒れ込んだ。

 左馬が何をしようとしたか、村雨は重々理解している。

 あれは、髪を掴んで引きよせようとしたのだ。

 頭髪は存外頑丈なものであり、一束も掴めば、それで人間を容易く引き寄せられる。しかも部位の構造上、指に絡めて保持し易く、また引き寄せた時は相手が、自らへ頭を垂れる姿となるのである。

 膝で顔を潰しても良い。

 後頭部に肘を落としても良い。

 逆の手で目を抉るのも、そう難しい事ではあるまい。

 童同士の喧嘩でさえ使われる技術ながら、恐ろしい技でもあるのだ。

 それから逃れて仰向けになった村雨の腹目掛け、左馬は踵を振り下ろした。

 膝で防ぐ――痛みより先に、痺れが骨の内側に染み渡る。

 踵も、また必殺の打である。

 体重を乗せて踏めば、稚児とて大の男を殺し得る。まして左馬の踵であれば、人のはらわたを潰すなどは容易かろう。

 雪を分けて転がり、手を付いて半分立ち上がりながら、村雨は師の用いる技に戦慄した。

 

 ――殺す気だ。

 

 そもそも向かい合った時、あの目がそう言っていた。

 この月の満ちた夜――己が最も不調となる夜を狙い、この師は自分の命を奪おうとしている。

 まだ一撃さえ受けずとも痛む腹を抑え、手を雪から浮かせようとすれば、再び踵が、後頭部を踏み潰さんと振り下ろされた。

 仰け反り、躱す。


「『噴』ッ!」


 落下した足が、雪に触れた刹那、軌道を変えて再び跳ね上がる。下腹目掛け、硬い爪先が、突き刺すように打ちだされた。


「ぁ――あっ」


 これも村雨は防いで見せた。

 然し、交差した両腕が下腹部に触れていた。衝撃は腕を抜け、村雨の腹に浸透する。


「っ、ぁ、あ……!」


 雪上をのたうちたくなるような、異種の鈍痛が村雨を襲う。口が勝手に開いて、音にならぬ声を、やけに喉に絡む唾液と共に吐き出させた。

 だが、動きを止める事は許されない。

 左馬の右拳が振りかぶられて、ごう、と風を引き攣れて走った。

 上段右鉤打ち。

 村雨の左側頭部目掛けて、名に偽り無き鉄拳が飛ぶ。

 間に挟んだ左腕ごと、村雨の体が雪から引き抜かれ、倒木のように横倒しになった。


「っは、あ……はっ……!」


 短い攻防――左馬が息を荒げている。

 己の拳を受け、雪に身を半分も埋めた村雨を見下ろしながら、肩で息をしている。

 戦場でさえ呼吸を乱さぬ女には、有り得ぬ事であった。

 どうしたのかと、村雨は思わず問いそうになった。

 

 ――どうしたというなら、全部だ。

 

 村雨は、良く分からぬまま、山の頂上まで歩かされた。そして、左馬と向かい合った。

 その時に初めて、左馬の言葉は戯れでもなんでもないと、自分を殺したいのだと理解した。

 然し、その理由が分からない。

 疎ましくなったのなら、蹴り出せばいい。

 ただ殺すなら、他に手は有るのだ。何故、こうして、自分に抵抗の余地を与えたのか。

 鍛錬の趣向の一つかと、村雨も思わないでは無かった。

 然し、目の中に浮かぶ憎悪は、決して偽りで帯びられるものでは無い。


「……立つな」


 左馬が、そう言うのが聞こえた。

 普段と逆の事を言っていると思えば、命を狙われているというに、村雨は少しばかり笑みを浮かべてしまう。

 普段の左馬ならば、村雨に散々の無理を強いた後、それでも立てと言うのだ。

 思えば、好き放題に殴られ蹴られる所から、村雨の修行は始まった。

 防ぎ、躱し続けて、痛みから逃れる術を体に刻まれて、それからやっと技術を学んだ。

 だから村雨の武の根幹には、防御という巨大な根が通っている。


「立つな、二度と……!」


 左馬の呪詛を受けながら、村雨は立った。

 拳は受けたが、片腕を間に挟んだし――着弾の瞬間、拳と逆方向に、僅かにでも跳んだ。多少視界は揺らいでいるが、致命打にはなっていない。


「……師匠、なんで」


 村雨が問うも、答えは無い。

 代わりに左馬が、雪を蹴立てて迫って来た。

 駆け寄る速度を乗せた、右拳。形よりも重さを重視した、潰す為の打撃。

 これは防げない。上体を低く沈めつつ、村雨は左拳を打ち返す。当てる場所は何処でも良い、当てて後ろへ押し返せればそれで良かった。

 だが、その拳を左馬は、更に体を接近させる事で、距離を潰して威力を殺した。そして、村雨の首を、上から脇に抱え込もうとした。


「ぅわわっ!」


 ――折られる。


 死を予感させる首への接触。

 村雨は全力で首を引きながら、右足を思い切り振り上げ、左馬の顎を狙った。

 左手越しに、その蹴りは当たった。然し左馬は、膝を揺らしもしない。崩れた姿勢と、足場の悪さが、蹴りに本来の威力を与えなかったのである。

 そして、雪の中で、左馬の右足が進んだ。

 雪の下にある土を、靴底で噛むようにして踏み込み、足首が回った。

 膝が回る。

 腰が回り、胴が回り、胸が回る。

 肩が、肘が、手首が回る。

 全ての旋回が拳に結集し、積もった雪を巻き上げ、渦となった。

 刹那に村雨が感じ取った幻想やも知れないが、兎角、左馬の拳は吹雪を固めたかの如く吹き荒れた。

 それが、村雨の胸の中心を、強かに叩いた。






 ――眠っていた。


 どれ程の時間だろう。

 いや、時間が経っていないのは分かっている。自分の体がまだ浮いているからだ。

 下が雪なのはありがたい。痛みは幾分か抑えられるし、俯せになれば殴られた箇所を冷やせる。

 けれども、落下の間隔は、どれだけ経っても慣れないものだ。

 そうら、落ちるぞ落ちるぞ。

 どさっ。


「ぐっ……!」


 背への衝撃。元々空になっていた肺は、これ以上吐き出すものも無いが、それでも声だけは漏れた。

 仰向けに落ちて、空を見るのも、もう幾度目になるのだろうか。

 立ち上がって打ちかかれば、また転がされて、空を見て――そういう事を幾度も繰り返して来た。

 自分は強くなったと思っていたし、いや実際、かなり強くはなったのだ。

 このまま続けていれば、もう少し強くなれる筈だ。

 けれども、そのもう少しは、何処まで伸びている道なのか。

 

 ――変な事を考える自分だ。

 

 見える所に上限など有るものか。目の前の女でさえ、強さの底が見えやしないと言うのに――それ以上の化け物と、旅を共にしてきたのだ。

 それでも、限りに届かずともようやっと、あの化け物と並んで歩けそうな気がする、それまでは鍛えた。

 昔ならば、今の拳だけで動けなくなっていただろう。

 今ならば、立てる。それだけでなく、まだまだ戦える。

 至福の中に、戦いはある。如何に血を忌もうとも、翻って受け入れようとも、純然たる事実は変わらない。


 ――私は、戦うのが好きだ。


 村雨は月を見て独白する。

 自分はどうしようも無く、血みどろの争いを好む性質に生まれて、その性質を一切矯正できぬままに育った。

 抑えれば抑える程に、血を望む本性が空腹を増す。己は生粋の人殺しである。

 そう生まれた自分が、自分をさえ意思の侭にする道具こそ〝強さ〟なのだと思い、それを求めて師を定めた。

 然し、どうにもそれは、終わりにしなければならないらしい。

 倦みが見えた。

 あのまま留まって、ゆるゆると力を積み上げるのは、きっともう、無益な事なのだ。

 誰が為にも、終わらねばならない。

 誰の為にも、終わらせねばならない。

 きっと師匠も――左馬も、それを嗅ぎ取ったから、ああなったのだ。

 自分は嫌われていた筈だ。それが何処かで、そうでなくなり始めた。

 私を嫌えなくなった事を、きっとあの偏屈も、何処かで気付いてしまったのか。

 本当の所は、何も分からない。

 それでも、何も困らない。

 今、自分は殺されようとしているが――


「っ、はは、っははは、あはははっ、あははははははっ」


 楽しい。

 たのしい。


「――死ぬ気がしないね」


 拡大する瞳孔。

 水色を帯びる、眼球の強膜。

 関節の可動域が増し、周囲の腱が、筋肉が太く強く、加重を凌ぐ強度になる。

 咥内に並ぶのは、歯では無く、牙。

 心拍数が増大し、四肢の隅々まで、大量の酸素を供給する。

 首を、腕を、足を、灰色の体毛が覆った。

 何時かの夜、兵士三人を惨殺した、あの時の姿をそのままに、


「師匠! 悪いけど、私が勝ちます!」


 心は鎖に繋ぎ止めて、村雨は雪の中へ両手を付いた。

 凍土の王者、最強の狩人――人狼が、月下に目を覚ました。






「……やっと出たか、半獣め」


「その呼び方、嫌いなんですけど!」


 両手を地面に触れさせ、腰を僅かに浮かせ、顔を獲物へ向ける。獣の構えをした村雨へ、吐き捨てるように、左馬は言った。

 雪の中に在ると、何を狙うにもやり辛い構えである。

 横からの打が、雪にぶつかり、僅かにでも速度が落ちる。十全の威力をぶつけるなら、正面か、もしくは上から打つしかない。

 そしてこの構えの利点を、村雨自身も、勿論知っている。上や正面からの打撃は、普段以上に警戒しているとなれば、そう容易く痛打は与えられない。そして打ち下ろすとなれば、拳を自分の腰より低くへ放つというのは、力を乗せづらいものなのだ。

 だが、最大の脅威は――


「しゃあっ!!」


 両脚に、両腕までを加えた、『四足歩行』の踏み切りである。

 それこそ、先に倍する速度で、村雨は左馬目掛けて跳びかかった。

 打撃では無く、体全体でぶつかりに行っただけだが、速度が尋常では無い。


「ぐっ!」


 左腕で受けながら、右拳で殴り付けようとした左馬であるが、衝撃は予想以上――片腕で支えるのは難しい程。固めていた拳を開き、左腕の後ろに当て、村雨の体重を推し留めた。


 ――腕が塞がったなら。


 右膝で、受け止めた村雨を打とうとする。

 高く膝が上がる。

 然し村雨は、その膝を踏み台にして、左馬の後方へと跳んでいた。


「このっ!」


 振り向きざまに左裏拳と、左後ろ蹴り。村雨が立っていれば、喉と鳩尾に突き刺さったのだろうが、これは村雨の頭上を過ぎる。

 ざがっ。

 雪が、大量に舞い上がった。

 両手を雪に突き刺し、思い切り腕を振り上げただけだが、周囲も白銀、視界に飛び込むのも白雪。ほんの一瞬、左馬は距離感覚も、方向感覚も失った。

 それでも、村雨が再び攻撃に転じていれば、その気配を迎撃する事は出来ただろう。然し村雨は、左馬に打ちかかるのではなく、更に構えを低くして、積雪の中に身を潜り込ませたのである。


 ――稚拙な雪遊びだ。


 正しく。雪があと一尺も有れば良かったが、この量ならば、体全てを雪に埋めても、背中の高さが目立ってしまう。

 だが、それは日中ならばの話だ。

 月こそ美しいが、夜である。

 雲が流れてくれば光も翳るし、他に光源など有りはしない。村雨の体毛も、夜の雪に紛れるには都合の良い色で、見分ける事を難しくする。

 時間とするなら、瞬き二つ分だけ、所在を掴むのが遅れる。

 それだけあれば、この二人の戦いには、長すぎる程である。

 村雨が、姿を消した場所から、ほんの二尺だけずれた所に飛び出して、左馬へ打ちかかった。左手――いや、左前足を拳にしての、膝狙いの打撃である。

 脛を上げて受け、殴り返せば、眼前から村雨が消えている。

 一瞬ならぬ二瞬後、見つけた時には、また村雨が先手を取って殴りかかって来た。

 左馬は、防御を捨てた。

 右膝を殴らせる代わり、拳を振り落とし、村雨の肩を打った。

 腹を殴らせる代わりに、胸に肘を打ち込んだ。

 頬を殴らせる代わりに、頬を殴りつけた。

 一撃に対して、一撃を返す。

 一撃に対し、一撃しか返らない。

 まるで二人の実力が拮抗しているかのような、互角の打ち合いが行われていた。

 

 ――何だこれは。

 

 殴り合いながら、左馬は、己が演じている芝居を、観客の目で見ていた。

 

 ――筋書が壊れている。

 

 十数年を武に費やした女が、たった二か月鍛えただけの子供と、互角に殴り合っている。

 拳の重さは、左馬が上だった。

 拳の速さならば、次第に村雨が勝り始めた。

 雪を隠れ蓑に、片時と止まらずに馳せ続ける村雨。疲れなど知らず、寧ろ動きは増々速度を上げて行く。

 幾つか良い手応えが有るのに、動きが鈍らない、仕留められない。

 それが左馬には、我慢がならなかった。

 元より殺す気で殴っていたし、殺しても良いと思っていた。拳は間違い無く、全力で振り抜かれている。

 だが、目の前の獣は死なない。

 武芸者も職業兵士も、何人も殺せるだろう技をぶつけて、死なないどころか動き続け、殴り返して来る。


 ――こいつは、


 左馬は、己の心が、己の望ましく思う形に凍り付いていくのを感じていた。

 一つ殴り、一つ殴り返される度、要らないと思っていた感情が抜けて、吐き出す呪詛に真実が混ざるのだ。

 立つな、とはもう言わない。

 寧ろ立ち上がり、そして打ちかかって来いとさえ祈る。

 こんな温い打で倒れるなら、積み重ねた妄執の一切を、何処へ逃がせば良いのか分からなくなるのだ。

 顎を打たれ、膝が揺れた。


 ――こいつは、嫌いだ。


 左馬の中に、己が戻った。

 整った顔立ちに、酷く醜い笑みを浮かばせて、左馬は跳躍していた。

 高く、遠く――近くに立つ巨木の、太い枝の高さまで跳んで、


「ねえ、村雨……」


 枝に、逆さに釣り下がる。

 初めて村雨がこの山に登り、その前で桜と左馬が殴り合った時も、村雨はこの姿を見た。

 人間が蝙蝠にでもなったかのように、枝の一本から逆さに下がる光景――満月の灯りを糧に、村雨はその種を見た。

 左馬は靴を脱ぎ捨て、足の親指と人差し指の二本だけで、己の体重を保持していたのである。


「……やっと、お前を殺せそうだよ」


 笑っているのか、泣いているのか、腹を立てているのか。

 どれとも付かぬ程、混然となった悍ましい顔が、月の逆光で影を纏う。


「嬉しいです、師匠」


 雪より激しい寒さに襲われながらも、村雨は、笑みだけを空に返した。

 松風 左馬は、獣になりきれなかった人間だ。

 情を振り払う為、どれだけの暗示を己に掛けて、やっとあの技を引き出したものだろう。

 村雨は、人になりきれない獣である。

 全力の感情をぶつけられるのが、堪らなく心地良くてならなかった。

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