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黒鷺のお話(8)

 爛――洛中を恐れ戦かせた解体殺人鬼は、村雨とルドヴィカ・シュルツの手により拿捕された。

 当人達としては、政府に身柄を引き渡すのもどうか――おそらくは後ろに狭霧兵部の影が覗くのだろうと――悩みもしたが、他に殺人鬼を、拘束しておける場所が思い当たらず、『錆釘』を通じて、厳重な監視の元、牢に叩き込んだ。

 暫くは裁きを待つ身柄となった爛ではあるが、当人の罪状を顧みれば、死罪は免れない。後はそれが、早いか遅いかの違いでしかなかった。

 その牢は、京の南側に有った。

 首を落とした際の流血が、洛中を流れぬようにと定められた、ほぼ寒村に近い端の端である。

 堀は深く塀は高くの、小城にも似た建物の中に、爛は囚われていた。


「……ふふ、く、く、くく……ふふふふ」


 虚ろな声が響く。然し、目は死んではいない。

 寧ろ爛は、己が生きているという事実が、愉快でたまらぬ様子でさえあった。

 ――成る程、あれは確かに負けた。

 二人相手とは言っても、実際にやりあったのは殆ど一人。技量では遠く及ばぬのは、あの短時間で重々理解した。

 然し、負けながらも自分は生きていて、腕も脚も動く。潰れた鼻も、窒息せぬようにか、簡素な手当てをされたと見えて、痛みは幾分か引いて居る。

 武器は無い。然し、両手の指が有る。

 いずれ、刑場へでも引き立てるか、或いは公平に裁きの場へ連れ出そうという時に、必ず自分の牢に誰かが入る。

 錠はそれまでに壊しておいて、指で迂闊な看守を刺し、得物を奪って逃げれば良いのだ。

 爛ならば、それが出来る。いや――そうして生きてきたのが、彼女であった。



 彼女の両親は、小心な人間であった。

 夫が政府の小役人であり、決して貧しくは無かったのだが、二人の子を抱えての将来に不安を感じ、蓄財に励んでいる人間であった。

 然し、大きな稼ぎは無い。財は緩やかに重なって行くが、いつかたった一度、子供が大病などすれば、消し飛ぶ程の財でしかなかった。

 そんな夫婦に、博打の勝ちを教えたのが、狭霧兵部和敬である。

 酒の席で博打を開かせ、言葉巧みに僅かの銭を出させて、そして大勝ちさせた。

 翌日も、その翌日も、酒は飲まずとも博打の場を設けられ、そして夫は勝ちを重ねた。

 夫が持ち帰る小銭が増え続けるのを見て、妻の堅実が揺らぐまでは暫しの時間を要したが、然しひと月とは掛からなかった。

 そこからは、坂を転げ落ちるが如し。

 積み重ねた勝ちは数日で消え、数年に渡っての蓄財も、十日も持たずに消え去った。

 時折は勝つ。勝ちを増やそうともう一度挑めば、負けて、結局は懐を空にして帰る。

 金貸しを訪ねて、博打に使う金を作り、そして一晩で失っては、次の朝には金貸しの元へと出向く。

 そうして、家も着物も全て失って、それでも借金ばかりが残った夫婦に、狭霧兵部は言ったのだ。


「おう、まさか俺の部下がここまで身を持ち崩すとは思わなんだ。初めに誘ったは俺の責だが、然し表で叫ぶ借金取りを、これ以上抑えておく術も無い。奴らはきっと、お前も妻も、二人の子も殺すだろうよ。

 だが。お前の妻君は美人だな? 子供もきっと、見目良く育つ。何事も幼いうちから仕込めばこそ大成するが、それは今のお前では叶わぬのだ。ならば――どうするね、どうするよ」


 役所の門を開き、雪崩れ込む借金取り達を背に、和敬は右手の指を立てる。


「子供二人、幾らだ! 値を付けろ、さあ競り落とせ!」


 元より算段は決まっていた。夫婦はなるように欺かれ、全ての財と我が子を奪われた。

 狭霧兵部が得たのは、ただの愉悦のみ。実利の一切は、付き合いも短い闇商人にくれてやった。

 小役人の夫婦は、今もまだ生きているが、死んでいたとて何も変わらぬような生である。日々の業務を粛々とこなしながら、給金の半ばは今も奪われ続け、かろうじて命ばかりを繋いでいるという有様だ。

 然しそれも、彼等の娘に比べれば、まだ幸福であったのだ。

 爛は、当時一歳になったばかりの弟を抱え、五歳で、人買いに連れていかれた。そして一年後には、弟を飢えさせぬ為、娼婦として扱われるようになった。

 身体の機能も整わぬうちから爛は弄ばれ続け、心身ともに酷く歪に成長し――その果てがこの、牢獄の中である。

 そしてこの境遇を、爛は決して嘆いてはいなかった。

 十二か、十三か、それくらいの頃合いに、飼い主を殺した頃から、世界は爛に甘かった。今回もまた、獣に食い殺されず傷を癒し、逃げ遂せる為の救いを与えられたのだから、ほくそ笑みこそすれ、嘆く筈は無い。


「……お」


 爛は、向こうから近づいてくる足音を聞いた。

 かん、こん、と鳴る音は、きっと下駄履きなのだろうと伺えた――屋内で下駄履きというのも珍しい。

 足音の主は、己の為に吉報を運んできたのだと信ずる爛は、牢の外側へ背を向け、寝ている風を装った。

 案の定、牢に掛けられた錠が、ごとんと落ちる音が。次いで、気配が牢へと入り込んで来た。

 一歩。

 二歩。

 遠慮も憂慮も無い足取り。

 ――来い。

 爛が心中吠えたままに、三歩目。


「ふっ」


 爆発的な息吐きと共に、爛は跳ね起きながら、背後に迫った気配目掛けて指を突き出した。

 相手の姿を目視せず、ただ耳が聞き取った息遣いから逆算して、然し正確に喉へ照準を合わせた突き。

 侵入者の柔らかい喉へ、爛の指先が触れる寸前、


「やっ」


 軽い気勢と共に、暗がりを白銀が一閃した。

 眩い煌めきが描いた軌道は、闇に慣れた目の中に、焼ける程の明るさを残し――そして焼け付くような激痛を、爛の右腕に残した。

 下駄の足音より重く、床板を叩く音が有った。

 爛の、斬り落とされた右手首であった。


「っひ――!?」


 生まれ落ちてから、幾つもの人体を斬り崩して来た爛だが、自分の体を失ったのは、これが初めてであった。

 痛いのは、当然だ。

 だがそれ以上に、何も無いことへの驚きが強い。

 咄嗟に脇を強く締め、手首を握り、出血を極力抑えようとした。何処を突けばどう動くか熟知している筈の人体が、今は血を流し続けて、床板に赤黒く粘った水溜りを広げた。

 その赤を、高下駄が踏んだ。

 下駄の歯は長く、〝彼〟の身に付けた華やかな着物の裾が、不調法に穢れるのを防ぐ。

 然し少年は、敢えて血だまりに手を伸ばし、真新しい赤に指を遊ばせ、袖と唇に紅を引いたのである。


「こんばんは、雁作者さん」


 女のような外見に違わず、小首を傾げて少年は言った。

 日本橋は大紅屋、押しも押されぬ一番人気の、影間の燦丸であった。


「いいい、ぎ、うぐ……お前、お前はっ……!」


「七年ぶりか、八年ぶりか、それくらいかな。何はともあれお久しぶり。元気?」


 一閃して血にも染まらぬ短刀を、白魚の如き指先で弄びながら、燦丸は爛の前に立つ。

 背は少し爛が優っていたが、高下駄と姿勢が、高低差をさかしまにしている。

 獲物を微笑みながら見下ろして、燦丸がもう一度、短刀の刃を煌めかせた。

 ひゅっ。

 ごとん。


「ぎひゃっ、あああああああああっ!?」


 爛の左腕が、肩の付け根から斬り落とされた。

 もはや出血を抑える術は、何は残っていない。人の体内にこれ程も有るのかと、思わず見惚れんばかりに、血がこぼれた。


「気に入らない事が三つ。一つには、僕の友人を騙ったこと」


 右肩。

 右膝。


「二つには、僕を犬のように捨てて、姿を消したこと」


 左脚付け根。

 眼球。

 歯。


「三つには――」


 胸。

 縦に割った。

 その中へ燦丸が手を差し伸べて、心臓を掴み、引き抜いた。

 胸から吹き上がる血を、正面から浴びた燦丸は、嘉福の絶頂にいるようであり、


「――僕の業を、下手くそに真似たこと。さようなら姉さん、最後まで貴女は、僕の露払いでしかなかったね」


 抜き取った心臓を投げ捨て、四肢の無くなった爛の亡骸へまたがった。

 肋をへし折り剣山として、引き抜いた臓腑の花を刺す。

 艶やか、艶やか。牢には忽ち、血みどろの造花が咲いた。

 そして、その様を、数歩離れて見ていたものが有る。

 それは燦丸が捨てた心臓を拾い上げ、口をぐわっと開けると、ぞぶりと噛み千切って咀嚼し始めた。

 暫く牢には、人間が壊れる音が二種類続いた。それの片方が終わる頃――


「いかが?」


「悪くねぇ。しなやか、柔らかく、軽い。動き回るにゃいい姿ですし、面も良いとくらぁ」


 牢の外に、爛がいた。

 いいや――爛の顔をした誰かが、江戸の訛りで、己の体を褒めていたのである。

 四肢も目も歯も、燦丸が抉った筈の部位を、牢の外の爛は全て揃えている。


「それじゃあ、行きますかい。長居なんざするもんじゃねぇや」


「忙しい事だ。彼女に見せびらかしにでも?」


「おう? ……ああ、いやいやいやとんでもねぇです」


 艶やかな女の姿に似合わぬ、袖を捲った岡っ引き姿。


「村雨のお嬢さんにだけは、この面ぁ見せる訳にゃあいきゃんすめえ」


 〝八百化けの源悟〟は、爛を喰らって、奪ったのであった。






 良い事をすると、面倒に巻き込まれるのは常の事である。

 解体殺人鬼を捉え、錆釘の事務所まで引きずって行った村雨は、そのまま足止めを食らって質問責めに遭った。

 どうやって捉えただの、何故に犯人と思ったかだの、事細かく根掘り葉掘り聞かれれば、随分と時間も掛かる。

 結局その日は、夜が明けて再び暮れるまで足止めを受け――捉えた犯人が殺されたと聞いたのは、その頃である。

 村雨は、牢の臭いから下手人を割り出したいと申し出たが、村雨自身が爛の捕縛に携わっていたという事もあり、堀川卿に却下された。


「村雨さん、村雨さーん」


「んー……」


「お昼ですよー、村雨さーん」


 そうして今は、深夜の捕物から二日が過ぎた日中である。疲労の溜まっていた所に夜更かしを強制された村雨は、日が高く登るまで惰眠を貪っていた。

 布団の中で、膝を抱えて丸くなっている村雨を、みつが揺さぶり起こそうとしている。傍には、四角盆の上に、茶碗へ山盛りさっれた白米が乗っかって、もうもうと湯気を立てていた。

 それから、兎肉が少々と、喰える野草を乾かしておいたもので、吸い物が腕に一杯。寝覚めの飯には程良く軽く、だが空腹を煽るには十分の美味な香りである。


「ほら、もう、起きないと片付けちゃいますよ? えーいっ!」


「分かった、分かった、起きるし食べるから……食べるから引っ張らな、……ぅふわぁあ」


 みつが布団をぐいと引くので、気の抜けるような欠伸と共に、村雨は体を起こした。

 そうして、寝間着の帯を解きながら、改めて己の体を見た。

 大きな傷は無い。打撃を受けての痣さえ、この数日で薄れて消えてしまい――解体殺人鬼と戦って、目立つ負傷は無い。

 傷は命の軌跡である。村雨はまじまじと、己の肌を眺め続ける。

 腕、脚、腹も胸も、致命打は何一つ浴びていない。

 幾人もの兵士を惨殺した狂人に、自分は勝利したのだという自覚がある。


「……はっ!」


 湧き上がる高揚を散らすべく、村雨は跳ねるように立ち上がりながら、爪先が己の背面を指す程の起動で脚を振り上げた。

 体にかぶさっていた布団が、半脱ぎだった寝間着ごと天井まで舞い上がる。それが落下に転ずるのを、挙げたままの足に引っ掛け、手に引き寄せた。

 心身共に万全。今宵が満月である事さえ、今の村雨は恐れていなかった。


「ん、いただきまー……」


 器用に布団を畳み、寝間着は肩に引っ掛けるだけにして座り込み、箸に手を伸ばし、


「……みつ?」


「気にしないでください!」


 己へ向けられているみつの熱視線に気付けば、寝間着の前を左手で合わせた。

 そうして、暫くは黙々と飯を食う。

 ふた月も家事を続けていると、みつの料理の腕も随分と上がったものである。米の炊き具合も良いし、吸い物もまた、寝起きの体を温めるには程良い、ほっとする味付けである。

 茶碗が空になる頃、みつは村雨の横に座って、しゃもじと米櫃を構えている。


「はいっ」


「ん」


 村雨が、茶碗に残った最後の一粒を平らげた瞬間、その手から茶碗を掻っ攫い、再び白米を山盛りにする。

 食に於いては、高給取りが二人いる事もあり、かなり豊かな環境にある。村雨が満腹になるまで、みつはきっちり見計らって白米を焚いていたと見えて、食事が終わる事、丁度米櫃が空になった。


「美味しかったですか?」


「大変美味しゅうございました、ごちそうさま」


 食べ終わると、みつはちょこちょこと小走りで、米櫃から茶碗から、一切片づけを始めてしまう。

 以前は村雨も片付けを手伝っていたのだが、この暮らしが始まってひと月もしてからは、仕事を取るなと厨房から追い出されるようになった。でも、と食い下がった村雨に対し、その時の名言は随分なものであった。


「殿方は台所に入らないんです!」


 思い起こす度、村雨は頭を抱えたくなる。


「……みつー、頑張りすぎじゃない?」


「村雨さんが言うことじゃないですよ。……あ、お夕飯は何か食べたいものは」


「お肉」


「何時もと同じって事ですねー、美味しいの作りますよ!」


 若妻を気取るみつと、この会話も何時もの事。心地良いが、罪悪感も無いではない。

 村雨も、人間を何人も見て来た。みつから向けられている好意の種類が、恋愛感情から少し外れているという事も気付いている。

 物語の人物に恋するように、みつは村雨を好いている。

 若侍が悪人をやっつける、年頃の娘に受けの良い読み本の主役――みつが村雨に被せているのは、そういう似姿であるのかも知れない。

 村雨は、みつにどう接して良いのか分からない。物語との混同であれ、純粋な恋愛であれ、一方的にそういう感情を向けられた経験は、たった一人分だけなのだ。

 ――然し、その一人分だけで十分だった。


「これから、どうする?」


「お夕飯の用意を途中までしてから、ちょっとお洗濯をします」


「そうじゃなくて」


 満腹になった村雨は、寝間着から普段の服へと着替えて、みつの直ぐ背後に立っていた。

 音も無く近づかれても、驚く事も無く、振り向きもしない。そこに居るのが当たり前だという顔をして、みつは洗い物を続けている。

 村雨もまた、この平穏に馴染み始めていた。

 日夜鍛錬を続けて、月に一度だけ命懸けの戦をして、良く喰い、良く眠る。

 毎日戦場に立つでも無い。

 城壁の中、何時解けるともしれぬ包囲網に、怯える日々を過ごすでも無い。

 平和で無いながら、この小さな小屋には平穏が有った。

 然し何時かは終わるのだ。

 何時か、〝並び立てる〟と自分に確信を抱いた時、村雨はこの山を去る。

 そして――


「村雨、起きてたか」


 ――その終わりは、近いらしい。

 松風 左馬は酔いも無く、恐ろしく冷えた顔で、小屋の玄関口に立った。


「日が落ちるまでに、一筆したためておきたまえ……桜にでも当てて。今夜から鍛錬を再開する」


 街に下りて買って来たものか、上等な紙と墨を、小屋の丸机に置いた。


「死人はもう、口を利けない」


 みつが、茶碗を取り落とした。

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