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黒鷺のお話(7)

 人の街ならば有り得ぬ、濃厚な血の香を嗅ぎつけた瞬間、村雨は屋根伝いに、臭いの主の背後へ回った。

 ルドヴィカに近づき、何事か話している間も、身を低く伏せて、雪に半分も体を沈めながら這い寄った。

 そして、ルドヴィカが逃げ出した瞬間、跳躍し、爛の頭へ蹴りを打つ。

 此処までは、正に段取りの通りの手際であった。


「く、があぁっ!」


 爛は組み敷かれながらも、後方へ腕を振るいつつ、どうにか体を仰向けにする。

 然し、村雨に跨られた体勢であるのは変わらない。


「しゃっ!」


 拳が落ちる。

 躊躇せず、顔面を狙っての拳である。

 裸拳で人の顔を殴るのは、拳を鍛えていなければ、寧ろ己の手を傷つける事に繋がる。

 然し村雨の手は、前足として、岩場でさえ自重を支える強靭な物。骨も肉も皮膚も、強度が、人間のそれとはまるで違う。

 ごっ。

 鈍い音がした。

 爛が首をひねって避けようとし、拳が頬骨に当たったのだ。

 すかさず、もう一つ。もう一つ。もう一つ。

 重ねて、拳が繰り出される。


「が、ぐっ!」


 両手を伸ばし、拳を掴もうとするが、叶わない。

 闇雲に腕を振り回すばかりでは、正確に一点を突き刺す槍の如き拳を、絡め取る事は出来ない。

 村雨は酷く冷静に、拳を落としていた。

 これが、左馬から盗み取った、最大の変化と言えるだろう。

 必要な時、必要な技を、躊躇わずに敵対者へ振るう事。

 同じ実力の者が向かい合い、片方は殴る事も躊躇い、片方が遠慮無く眼球を抉りに行くなら、無論後者が勝つのである。

 武術とは、闘いに勝利する為の武器である。少なくとも松風 左馬は、そう考えている。

 弟子入りを認められ、村雨が最初に習ったのが、この事実であった。恨みも無い、適当な場所に道場が有っただけの相手を、或る者は目を潰し、或る者の喉を潰し、後々まで残る傷を他者に負わせながら、左馬は村雨に教えた。

 ――武術を身に付けるのは、武器を持つ事と同じだ。

 刀を首へ振るえば、人が死ぬのは当たり前だ。同じように、拳もまた、人を殺すに足る凶器である。

 然し、凶器は、持ち主の技量で加減する事も出来るのだ。

 村雨は冷静に、戦力を削ぎつつも殺さぬよう、爛の顔を殴りつけて行く。

 狙うのは鼻、それから目の周り、唇の上。呼吸の阻害、視界を狭める、そして歯を食い縛れぬように叩き壊す腹積もりであった。

 爛が体を反らせ、村雨を振り落とそうとする。爛の胸に左手を当て、馬を乗りこなすように体重を移動し、村雨はあっさりとそれを避けた。

 然し、その左手を、爛が両手で握っていた。

 ごきん。


「く……ぁっ!?」


 村雨は、爛の顔にもう一度だけ拳を落としつつ、左手を無理やりに引き抜いて飛びのいた。

 ほんの僅かに触れただけであったのだが、爛は、村雨の左手首を外していた。

 間合いが開いた隙に、爛はしなやかな獣の動きで跳ね起き、懐から短刀を取り出した。

 鞘を投げ捨て、左手に構える。右手には、立ち上がる際に雪を拾っていたようで、それで顔を冷やし、目の周囲の腫れを抑えようとしている。


「……痛い、痛い、痛い」


 恨み言を述べながら、爛は村雨の方へ足を向けた。

 低く跳ぶように馳せた。身体能力に任せて、上体から突っ込んでいくやり方である。

 短刀の切っ先は、村雨の左胸へ向いている。


「殺された人は、もっと痛い!」


 切っ先が届く寸前で、村雨の体が、爛の視界から消えた。

 刃の外側――爛の左側へ、体を反転させつつ回り込む。勢い余って爛が、その前を一歩通り過ぎた。

 其処から、村雨の方へと振り向くまでに、村雨の右拳が二度奔った。

 顎へ二発。


「おっ……!」


 脳を横に揺さぶられ、爛の膝がガクガクと揺れる。

 力を入れず、速度重視の打撃ながら、当たり所さえ間違えねば、十分すぎる程の威力を与える。

 爛が体勢を立て直そうと、両足を突っ張った時には、もう眼前に靴が迫っていた。

 村雨の左足が翻り、爛の頭を打ち抜いていた。






 まだ爛は倒れない。然し、見るからに手足の力は弱まっている。

 一方で、まるで疲労を感じていない村雨は、己の力を改めて自覚した。

 ――自分は此処まで動けるのか。

 解体殺人鬼は、ほんの一太刀で、獲物と定めた人間を、部品に切り分けたという。どれ程の物かと、酷い緊張を抱きながら、村雨はこの戦いに臨んだ。

 どうという事は無い。

 成程、動きは早いが、この程度ならどうという事は無い。

 外された手首を己で嵌め込み、指を動かす。左手で拳を作り込めば、その中に力が握り込まれるのが分かった。


「ぐ……ぎいぃ、いっ!」


 村雨の喉目掛け、爛が短刀を横薙ぎにする。袖がはためき、髪が風で舞い上がるかの如き一閃である。

 それさえも、村雨が見るならば、遅い。

 迫ってくる左手の手首を、村雨の右肘が突き刺す。痛みに手が開き、取り落とされた短刀は、すかさず蹴り飛ばされて、雪の中に埋もれて消えた。

 左拳喉打ち。

 右拳鳩尾打ち。

 右下段膝蹴り。

 右振り上げ顎打ち。

 右中段振り打ち。

 一呼吸に五連撃を放ち、まだ疲れを感じない。そして目の前の相手は、一撃ごとに疲弊していく。

 これまで、道場破りに連れ回された事は有ったし、そこで武芸者気取りを叩きのめしもした。

 だが、その時は全て、左馬が近くで見ていた。いざとなれば乱入し、助けるでは無いが漁夫の利を拾いに来る師は、心強い後ろ盾であった。

 今、村雨は、自分一人で戦っているが――まるで負ける気がしない。

 左貫手、右肩へ。

 右手刀、左肩へ。

 左拳、左胸へ。

 右裏拳、右上腕へ。

 左掌底、左腰部へ。

 雨霰と、両手で打撃を降り注がせる。全てが面白いように当たって行く。

 手に返る手応えの重さも、重さを受けて揺らがぬ自分の腕も、全てが真新しい感覚であった。

 ――まだ、まだ、もっと。

 反撃を許さずに繰り出される拳は、何時までも、何時までも続けられそうに思える。それ程に村雨は、気も体も充実していた。

 さて、幾つを叩き込んだ事か。

 だが爛は、まだ二本の足で立っていた。

 ――何故。

 右拳、左肩に突き刺さる。

 初めて村雨は、この違和に気付いた。

 自分は相手を仕留める為の打撃を放った。狙ったのは顎か喉――正中線上に有る部位である。

 だのに、狙いがずれている。

 思えば、先の五連打も、一つとして致命打にならぬ場所へ吸い込まれていた。

 左拳、爛の右肘に刺さる。

 外されている。

 そう村雨が気付いた時には、爛の右手人差し指が、村雨の胸を軽く突いた。


「がっ……!?」


 ただそれだけで激痛が走った。

 呼吸を阻害する程の激痛――骨の内側から這い出して、周囲の内臓に染み入るような痛み。

 例えるならそれは、分厚い針で貫かれたようなものだろうか。

 痛みを超えて、熱ささえも感じる程。

 その痛みに蹲る間に、爛は後方へ跳ねのいて、幾分かの間合いを開けた。


「……この、この女が……!」


「あんたも女でしょうが……ったた」


 呪詛を込めて呻く爛を睨みながら、村雨はまだ痛む胸を抑えた。

 そして、こう思う。

 ――こいつは、人体を知りすぎている。

 村雨は幾つも打撃を放ったが、爛は途中から、その大半を、急所からずらして受けていた。

 無論、体は痛むだろう。負傷も疲労も蓄積するが、倒れはしない。

 そして攻撃に転じれば、身体の弱い部位を適切に、最適な力で打ち抜く。肉が薄く、神経が多く、そして骨が直ぐ下に埋まっている部位を。

 知識では無い、これは才覚だ。

 人体を一刀で解体する技術も、これならば頷けよう。脆い部位から脆い部位まで、刃を斬り通すという離れ業を、呼吸より容易くやってのけるのだ。

 徒手でさえ、十分以上の殺傷力――


「まだ、いけるかな」


 ――こういう時には、この体がありがたい。

 一人ごちて、村雨は馳せた。

 村雨は純粋な人間では無い。内臓も、神経系も、配置は似ていようと、完全に一致する訳では無い。

 同じ器に違う中身――この差異が、痛みを辛うじて、過ぎ去れば立てるまでに抑えた。

 自分は強いのだと、村雨は知った。

 昂揚が重なり、疲労せぬまま心拍数が増して行く。血が指先に至るまで、酸素と狂熱を運んでいく。

 そういえば今日は、良い月が出ていた。

 あと二日もすれば満月になる――あまり好きでは無い夜だ。

 二年ばかり前から村雨は、満月の夜が嫌いだった。月が大きくなっていくのを見ながら、暗澹とした気分に包まれていたものだ。

 月は狂気を運んでくる。

 胸の中から、抑え切れぬ衝動を引きずり出して、自分が誰であるかを否応無く知らせて来る。

 お前は獣か、人殺しだ。さもなくばこうまで狂えはするまい、と。

 そうなのだろう、自分は人でもあり、だが獣でもある。

 然し目の前の人間に比べれば、よっぽど自分の方が人間らしい。

 あれは人殺しだ。

 人間を人間と思わず、部品に切り分けて、美術品のように扱う人殺しだ。

 肝要なのは殺して飾り付ける事であり、何かを守る事でも、戦う事でも、ましてや喰らう事でも無い。

 こういう生き物は、野山には住んでいない。人の街だけに居る化け物だ。

 どうしたら良い、そうするべきか?

 このまま殴り続け、打ち倒すべきか、それとも。

 生かしておけばどうなる。血を求める衝動は消えない、それは自分が知っている。ならば、消えぬ衝動を止めてやる為には――


「……!」


 ――いけない。

 己の思考さえが狂い始めている。自覚した村雨は足を止めた。

 その両目を狙って、爛の右手指が伸びてきていた。


「おわぁっ!?」


 突っ込んだ勢いが、体を前へ運ぼうとする。それを、反射速度と背筋力に任せ、体を後方に反らせて避けた。

 爛は右腕を伸ばしている――右脇が空いている。そこへ村雨は、左脛を思い切り叩き込んだ。

 体をくの字に折り曲げた爛の背後へ、村雨の細身の体が、それこそ雪に影も落とさぬ速度で回り込む。

 背後から、両脇の下を潜らせて腕を通し、爛の後頭部の後ろで両手を重ねた。

 ――殺さない。だが、逃がしもしない。


「ルドヴィカ! 来い!」


「私に命令すんなこの!」


 逃げた筈のルドヴィカ・シュルツは、物陰に潜んで、虎視眈々と機を窺っていた。

 右腕は、肩から指先まで、真っ黒に変色している――腕の鉄骨に電流を流し、砂鉄を鎧にした腕である。

 速度ならば村雨に劣るとしても、鋼の強度と重量を持つ拳は、もはや鈍器の威力である。

 それが、ごうと唸りを上げて、爛の腹目掛けて振りかぶられた。

 磔の贄を貫く、黒鋼の槍であった。


「――っ、女共、ふざけるなあぁっ!」


「なっ……まだ、こいつ!」


 然し、それが爛を穿つより先に、爛が足を跳ね上げた。

 ルドヴィカの胸を蹴って、その反動で村雨を後方へ押し倒し、腕から逃れようとしたのである。

 だが、村雨はまた、それをさえ、後ろへ伸ばした右脚一本で耐えた。

 苦しはするまい――もがくのならば、それも叶わぬ所へ、


「しゃっ!」


 村雨は、爛に組み付いたまま、垂直に高く跳ね上がった。

 人間一人、それも自分より長身の相手を抱えたままでさえ、村雨の体は一丈半も、回転しながら舞い上がった。

 そして、組み付かれた爛が下になる向きで、村雨は落下してくる。

 体重を浴びせて地面へ落とす――成程、殴る蹴るより余程効果的だろう。

 だが、爛は両脚が自由だ。

 自分が下になって落ちるのを良い事に、足を地面へ向かって伸ばし、着地を図っていた――そしてこれは、一対一であれば防御に成功しただろう。


「は? は――はぁ!?」


 村雨が落ちて行く先は、ルドヴィカの真上であった。

 二人分の重量を乗せて落下してくる爛の顔面は、そのままであれば、ルドヴィカの頭へ、鉄槌となり降り注ぐ筈であった。

 故に、反射的にルドヴィカは腕を振り上げた――砂鉄に覆われた、鋼の右腕を。

 がつん、とも、

 ごずん、とも、

 兎も角、恐ろしく鈍く、重く、分厚い衝撃音がした。

 村雨が地面に両脚で降り立つのと、鼻が潰れた爛が、ルドヴィカの体に鼻血の線を引きながら崩れ落ちたのは、ほぼ同時の事であった。


「あっ、危な、危なっ……何すんのよこらぁっ!?」


 声を裏返し、足を縺れさせながらもルドヴィカは、己を巻き添えにしようとした村雨へ抗議する。

 村雨は、俯せに倒れたままの爛の首筋へ、手を触れさせながら、


「大丈夫、生きてる」


「私の事! こっち!」


 ずれた答えを返し、胸をなで下ろした。

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