化けて出たお話(4)
四人がかりで屋内劇場中全てを探したが、垣右衛門は見つからなかった。舞台裏や幕の隙間はおろか、燦丸などはセリ(大道具や役者を舞台上にせり出させる仕掛け)から舞台下まで潜り込んだが、手掛かりは何もなかったという。村雨の鼻も、劇場の隅から隅まで垣右衛門の臭いが染み付いていた為、消えた場所を特定する事すら叶わなかった。
垣右衛門の狂い叫ぶ声に、大紅屋の客も幾人かは、酷く肝を冷やしてしまったらしい。その上に、更に人間の消失騒ぎ。これは店を開いている場合ではないと、大紅屋清重郎は、二日の休業を決定した。店の者達には口封じも兼ね、二日の遊興費を包んで渡したらしい。人心掌握に掛けては、やはり如才無い男だった。
落ち着かないのは源悟である。亡霊を見ちまった、このままでは一生祟られると大騒ぎし、高徳の僧侶が居るという寺まで出かけて行った。
「おかしな話も有ったものだなぁ……然し、香も塩も効き目がなかったではないか」
翌日、午前中、達磨屋二階。桜は、何時もの様に遊女高松に膝枕させ、ゆったりと時間を過ごしていた。土産話を高松に強請られ、消失騒ぎを語った所、かなりの良反応が見られた為に、いたく上機嫌である。
「……そうだよ、おかしい。絶対におかしいんだって、あれは……」
その一方で村雨は、『錆釘』宿舎に戻ってからも一睡もせず、そのまま達磨屋へ足を運び、何やら思案に暮れていた。
「何時までそうしている? もう過ぎた事だろう。いっそ、珍しいものを見たと思ってだな……」
「そうだよ、珍し過ぎる。なんで、私達はあんなものを見られたの……?」
朝から数えて、桜が声を掛けたのは四度目だ。その何れも、村雨は返事をせず、思考を一切中断しようとしない。集中が途切れる事を恐れているのか、壁と向かい合い、余計なものを視界に入れないようにさえしていた。
「はぁ……あのなぁ、垣右衛門は燦丸の目の前で消えたのだぞ? 仮にそれが生きている人間のしたことだとするならば、どうすればいい? 魔術か? 世界広しと言えど、人間一人を何処かへ飛ばしてしまう様な術、準備も無しに行える者は無かろうな。姿を消しただけならば、お前の鼻で分からぬ筈は無いのだ。残り香と本人の体臭、お前が間違える筈も有るまい?」
「……そうだよね、そういう手段で消えたわけじゃないんだ。だとしたら、もっと簡単な話になる筈で――ん、ん?」
桜からすれば、終わった話題である。村雨の気持ちを切り替えさせようと、理屈を通し、思索は無意味であると悟らせよう、という意図の言葉であった。だが、いかなる偶然であろうか。
「……桜、今の、もう一度。最初の方」
組み木細工は、やり方を間違えればどうやっても外せないが、正しい方法を知れば、驚くほどあっけなく分解出来てしまうのである。先に解体に成功したのは村雨だった。
「最初? 垣右衛門は燦丸の目の前で消えた……――あ、あ? ああー……!」
「そう、そういう事。すっごく簡単な事だった……行くよ、桜」
直ぐに理解が追いつき、膝枕から起き上がる桜。二人が向かったのは、岡っ引きの詰め所であった。
大紅屋は、今日、明日と特別休業である。店の者達は幽霊騒ぎに怯えつつも、突然降ってわいた小遣い銭という幸運に、喜び勇んで町へ出ていた。
しかしながら当然、外出は明日に回し、今日は体を休めようという考えの者も居る。燦丸もちょうど、その中の一人であった。自室代わりの屋内劇場、すっかり掃除も終わった舞台の上で、緋襦袢一枚でごろごろと転がっていたのである。振袖に結い髪は、見栄えは良いが重苦しい。仕事の無い日に限っては髪を下ろし、薄布一枚で過ごすのもまた良しと感じられた。
舞台の端から端まで転がり、折り返して逆方向に回り始めた丁度その時、閂の壊れた扉が開く。入ってきた二人の姿を見誤ろう筈もなく、燦丸は舞台の上でうつ伏せになり、顔だけを上げてそちらを向いた。
「やあ、桜に村雨ちゃん、遊びに来てくれたの? 嬉しいね、することが無くて退屈してたんだ。カルタでも花札でも、お好きなものを――」
「まーったく、騙された私が阿呆のようではないか。下らん事をしてくれたな、燦丸」
「――どうしたんだい、桜。人聞きが悪い事を言うじゃないか」
訪問の挨拶も無しに、棘のある声と共に発せられた台詞が、燦丸の言葉に僅かな間隙を生んだ。本心を表に出してはいけない商売の者として、それは致命的な失態である。自分自身を内心で叱咤しながら、燦丸は普段の様な、決して怖じない態度を繕った。
「垣右衛門の死体が上がった時に、馴染みの女が身元の確認をしたらしいな?」
「よく知らないけれど、そう聞いてるね。馴染みの女性に親族が、服装とか持ち物から確認したって」
「生粋の男色家に、馴染みの女が居たのか?」
「……さあ?」
客席から花道に一足で飛び乗り、桜は燦丸に詰め寄っていく。花道のすっぽんからせり上がるのは、妖怪変化の役目である。真っ当な主役よりは、桜という人間には相応しいかも知れない。
「四十数年、女の気配は無し。女郎屋は行かず、遊びはもっぱら陰間茶屋のみ。独身、養子も取らず。親族というのは兄弟か甥っ子だったのだな……ついでに言うなら、垣右衛門はこの店以外で遊んだ事が無い、とも聞いた」
「……岡っ引きにでも聞いた? 町の入口に張る様な立場なら、確かに豪商の遊びかたくらい、調べていそうなものだね」
「大店の店主は私人に有らず、という考えらしいぞ、傘原同心は」
「なるほど、続けてくれたまえ」
腕を顎の下で組み合わせ、枕の代わりとする。ここへ及んで余計な口出しをするつもりは、燦丸には無いらしい。最も話を聞きやすい姿勢で、普段通りの整った笑みを浮かべていた。
「燦丸だよね、死体が垣右衛門だって証言したの……勿論、証拠は無いよ?でもとりあえず、私はそう考えておく。でね、そこから話を続けていこうと思うの」
「……桜じゃなく君だね、村雨ちゃん。そこの単純馬鹿が、こんな風に頭が回るとは思えないんだ」
「認めたって事でいいね? じゃあ、親族っていうのも嘘を吐いてたって思い込む事にするよ。そうすると、垣右衛門は半年前に死んでなかったって事になる。そうだよね?」
「そうなるだろう、きっと。少なくとも、死んだと確認されてはいなくなるのだから」
村雨は、寝不足こそ目の下に響いているが、明瞭な思考と声で話す。燦丸はただ、話を進める為に協力するばかりだ。
「生きてる人間が、消える方法が無いとは言わない。でも、準備に時間が掛かり過ぎる。扉を閉じてから、桜がそれを開けるまでに、どうやって姿を消したか……考えてみたら、消えたって言ってるのも舞台下調べたのも燦丸だけじゃない」
「……あちゃー、台本が雑すぎたかな。もう少し丁寧に考えておくべきだった……」
「……直ぐに気付かない私達も私達だけどさ。垣右衛門だって、あれ、半分くらいはお芝居でしょ?」
村雨が違和感を抱いたのは、燦丸が垣右衛門にあっさりと引きずりまわされていた事である。若く健康的な燦丸が、いかに狂人の馬鹿力相手とは言え、ああも無抵抗にされるがままとなるのか。刃物に怯えていたのなら仕方がないが、刃物より数十倍は危険な人物に、この態度を崩さない燦丸が、そこまで小胆とも思えなかったのだ。
言い逃れるつもりは無かったらしい。燦丸は粛々と、最初から最後までを順番に語った。流れを再構成し、重要な事実だけを抜き出さないのが、この少年の悪癖であった。
そもそもこの茶番の理由は、垣右衛門と燦丸が共謀しての、駆け落ちの為だったのだと言う。
陰間茶屋で一昼夜遊ぼうとすれば、二両から三両の金が掛かる。更に、土産物まで欠かさない垣右衛門だ。半年の内に、家の蔵を随分と寂しくしてしまった。元が自分で稼いだ金だからと垣右衛門は言うが、店の者の生活も掛かっている。親族は大いに頭を悩ませたらしい。
困るのは燦丸も同じ事。金が無くなれば垣右衛門が遊びに来る事は出来ない。垣右衛門が燦丸に執着するのと同様に、燦丸もまた、柿右衛門に絆されてしまったと言うのだ。このままでは遠からず会う事が出来なくなる、苦悩した二人は駆け落ちの計画を立てた。厄介払いが出来るのならと、親族もうんざりしながら、その計画に乗る事にしたらしい。
半年前の雨の日、垣右衛門は、自分と体格が近い男を探し、川に突き落として殺害する。冬の川だ、溺れるまで待たずとも、心臓が麻痺すれば忽ちに死ぬ。そうしてから死体を引き上げ、自分と服を取り換えた上で、顔を出来るかぎり潰してまた川へ放り込んだ。
そして垣右衛門は、店の地下に作った部屋に隠れ潜んだ。自分自身を死んだものとして世間から忘れさせる為である――と同時に、駆け落ちの費用を貯める期間でもあった。
一方で燦丸も、死体が垣右衛門のものであると証言するなどして、その計画を後押しした。半年会えないなど、どれ程の事もない。この仕事から足を洗い、愛する男と二人で暮らす事が出来るなら――そして、決行の日はやってくる。
燦丸が欲しかったのは、馬鹿ではないが知的労働が得意でない証言者と、社会的に発言に信用を置かれる者。つまり、桜と源悟である。村雨の存在は完全な不確定要素だった、という事だ。察知されるのがあまりに早かった為、垣右衛門だけは姿を消すことが出来たが、燦丸までは間に合わなかったのである。
「……消えたように見せたのは、二人の考えの通り、花道のすっぽん仕掛けを使ってる。あそこから舞台下に入って、更に床板を外すと、ちょっとした空洞が出来てるんだ。そこに隠れて、後は幽霊騒ぎの混乱に乗じ、大紅屋を抜け出す。簡単だろう?」
「あなた達が分からないよ、燦丸。こんな派手な事をして、無関係の人まで殺して。こんな不用心な計画、成功すると思ったの?」
「疑いはしたさ、何処かでしくじるんじゃないかって。だけどね、そんな事でやめられるとおもうかい? 僕たちには失敗の恐怖も、無関係の誰かを殺す躊躇も、何もなかったんだ」
「――っ、それは……自分勝手すぎるよ」
淡々と続いた独白が、村雨には、垣右衛門の狂叫の様に耐えがたいものだった。人間は、もっと綺麗なもので有って欲しい。穏便な手段はいくらでも有っただろうに、同族を殺害してまで自分達だけが幸福を追求する。しかも――差別的な意思は無く、ただ日の本の常識に慣れていないからだが――燦丸と垣右衛門は同性だというのに。遊びの様なものだったとしたならばまだ分かる。全てを投げ捨てて耽溺する程の愛が、同性間に生まれるという事が、村雨は理解できなかったのだ。
「そうだね、酷い話だと思うよ。どこの誰と知らない人にも、店の旦那様にも一方的に迷惑を掛けて、何も返す事なく逃げる……逆の立場なら、僕だって腹を立てた。でもさ、村雨ちゃん、分かって欲しいんだ。僕たちの様に偽りの愛を売り続けていると、貰える愛まで偽物になる。それは凄く寂しくて、空腹よりも辛いものなんだ、って」
燦丸もまた、村雨が自分の言葉に納得していない、という事を感じとっている。役者の様に舞台の上に立ちながら、声が途切れてしまわない様、腹に力を入れながら、燦丸の肩は震えていた。
「どんな恩だって未練だって、その飢えを満たせるなら捨ててしまって構わない。あの人と――垣右衛門様と居られるなら、僕は何を捨ててもいい、捨てても良かったんだ。君がいなければ……今頃は、何処かの港にでもいただろうね」
「……燦丸、あなた」
「垣右衛門様だけは逃がしたよ。あの方は人を殺してしまった、もう江戸の町には居られない。二度と会う事もないだろう……でも、それでいいんだ。僕が垣右衛門様に会えない事より、垣右衛門様が何処かで生きている事の方が大事なんだから。その為なら……僕は、なんだって……!」
たった一人で舞台の上に立つ燦丸は、もはや客席の村雨の事など見えていないようだった。虚空へと視線を馳せ、息を詰まらせながら、喉を潰すように叫ぶ。最後の言葉は紡ぎきれなかった。膝を付き、握り拳を舞台に一度打ちつけ、燦丸は涙を流した。薄紅さえも施していない今は、その涙が、女性的な彼を彩る化粧であった。
「村雨、先へ帰れ。私は暫く残る」
花道を渡りきり、桜もまた舞台に上がる。崩れ落ちた燦丸を見下ろし、呟くように下した命令に、村雨は言葉を返す事が出来なかった。踵を返した後も背に聞こえる声を振り払うように、意識的に足音を鳴らし、駆け去っていった。
午後の達磨屋二階は、熱が籠って蒸し風呂の様であった。村雨は壁際で横になり、畳にぺたりと張り付いていた。
「……なんだか、すっきりしないよ」
傍らに座す桜に、視線は向けないまま、独り言のように呟く。
「そういうものだろう。何事も完璧に、などは無理な話だ。つまらん芝居に引っ掛かりかけたのだから、今回は見破ったお前の手柄だぞ」
「そうなんだけどさあ……」
社会的な善悪で言うならば、殺人という事件を一つ暴き、犯人の逃走を知る事が出来ただけ、良かったのかも知れない。大紅屋に対しても、従業員が犯罪者と駆け落ちするのも阻止したのだ、感謝されてしかるべき事だろう。が、村雨は素直に喜べないのだ。
「それよりもな、ほれ。事前に約束させた礼金だが、流石は燦丸、太っ腹だ。これだけ受け取ったぞ、外国の『紙幣』だ」
「見たこと有るよ。銀行に持ってけば、小判にでも一分金にでも両替してもらえる」
「私も知っておるわ、使った事もある。いやはや、これで道中の旅費に困らんな」
束ねられた紙幣を団扇の代わりにして、桜は自分と村雨を仰いでいる。そよぐ風が頬を撫で、汗を冷やしてくれるのが、たまらなく心地良い。
「……別に、あなただってお金持ちでしょ? 今更、少しくらいの収入が有ったって変わらないじゃない」
『錆釘』の料金制度で、丸二年、昼夜問わず人間を借り受ける。そんな事を出来る桜なのだ、この程度の金額で影響など有るものか。相変わらず壁と睨み合ったまま、村雨は、少しの僻みを口にした。
「ん? ああ、言ってなかったか。私の蓄え、あれで殆ど使い果たしたぞ?」
「――は、はあ!?」
「実をいうとな、このままでは道中どころか、この宿の代金も危ないかと思っていたのだ。いやはや、私は運がいい」
返ってきた答えは、宵越しの銭を持たずの江戸であっても、無計画のそしりを免れないものであった。横になったまま螺子の様に回転し、村雨は振り返って桜を見上げる。何時もの様に平然と、桜はそこに居る。ようやく表情の見分けがつくようになってきたが、上機嫌な桜は丁度今の様に、口元が僅かに上がっているのだ。
「ついでにな、お前に着せた振袖も譲り受けてきたぞ。これで道中、少々冷えようが問題は無い」
「いや、荷物が増えるだけでしょ――じゃなくて、蓄えが無い!? じゃ、じゃあ、上方行きの旅って、どうするつもり……」
「どうにかなるだろう、というつもりだった。別に野宿でも構わんだろう? 肝心なのは遊興費だが、それは旅先でも稼ぎだせる」
「あんた、やっぱり馬鹿だ」
食費より、宿泊費より、刹那的な楽しみの為だけに金銭を確保する。現時点で蓄えがほぼ無いというのに、高級な宿である達磨屋に宿泊を続ける。これが自分の雇い主だと思うと頭が痛くなる。こころなしか、ずんと体まで重くなった様な――
「……桜、さぁ。燦丸の話、どう思った……?」
――いや、気のせいではない。昨夜から徹夜で動き回り、戻ってきてからも、あれこれと考え事を続けていた村雨だ。自覚は無くとも眠気が蓄積している。まだ聞きたい事は有ると、眠い目を無理に開けようとしているのだが、少し気を抜くと直ぐ瞼が落ちている。
「どう、とは?」
「だからー、んん……誰か好きってだけで、あんな馬鹿な事、できるの? しかも、燦丸と垣右衛門って、どっちも男で……」
「出来るだろうな。お前はそうではないのか? 好きな相手が出来れば、それが男だろうが女だろうが、そういう物だと思うのだが」
「んー、分かんない……」
村雨は、自分はまだ幼いのだろうか、と思った。垣右衛門の叫びも、燦丸の種明かしの語りも、どちらも人として何処か壊れている様に感じた。だがもしかしたら、それが寧ろ普通で、自分の認識が甘いだけなのだろうか。
「……桜ー、高松の事は好きなの?」
「ああ、好きだとも。高い金を出して、わざわざこの宿を選ぶ程には、だ」
「ふうん……」
ここで桜が言う好きと、燦丸が言っていた好きは、きっと違うものだろう。それくらいは村雨も理解していた。まだ聞いてみたい事は有ったが、気付くと何秒か、意識と記憶が飛んでいる。上瞼が下瞼と張り付いてしまったので、起きようとする事は諦めた。
「ねえ、桜ー……」
「うん?」
「……じゃあ、私はー……?」
風を仰ぐ手が止まり、桜は思わず忍び笑いを零した。こんなもの、どうせ寝ぼけた子供が夢と勘違いした寝言と変わるまい、と分かっては居るが。
「ああ、大好きだとも」
結局その日、桜は一日中、村雨の寝顔を見て過ごしたのだった。




