黒鷺のお話(6)
夕暮れから夜へと変わる頃合いの事。一人の少女が、洛中を歩いていた。
積もる雪に負けぬよう、高下駄を履いているのだが、それがどうにも履き慣れぬようで、ふらふら、よろよろとした足取りである。
すると、しきりに男に声を掛けられる。傍目に、人を心配にさせては置かぬ姿なのだ。
然し、例えば彼女を呼び止めて近づいた男は、遠目に見た印象が払われて、すこうし目を丸くする。
刺繍も鮮やかな振袖で着飾った少女は、深く広い海のような、真っ青な目をしていたのである。
薄く施された化粧の為に、元より大きな目がより際立ち、抜けるような白い肌の上で、瑠璃の玉にも似る。唇赤く、不安定な足取りも手弱女ぶりと見えて、兎角、男の心をそそる様であった。
また、体も、仕草に似合わず大人びていた。背が高く、またそれ以上に、体の線は柔らかな丸みを帯びている。特に胸は豊かで、起伏の浮きづらいゆったりとした振袖姿でも、そこらの娘より二回りは大きいのが見て取れた。
少女は、男を寄せては返し、引き寄せては追い返しを繰り替えし、そうして夜になっても歩いていた。
そして、その後方、十数間程も離れた所では、村雨と源悟が、息を潜めて少女を――ルドヴィカ・シュルツを尾行していた。
「へっ、どうでさぁお嬢さん、あたしの化粧の技は! ……いやねぇ、女人の姿に化けたって、化粧は自分でやらにゃあねぇし、着物もてめぇで着付けにゃならねえと来たもんだ。そりゃ必死に覚えましたともさ、その果てが――」
源悟が思い立ったのは、解体殺人犯を誘い出す囮に、ルドヴィカを使ってはどうかという事であった。
村雨は初め、あまりに唐突だとは思ったが、然し同時に良案とも思った。
ルドヴィカの戦闘能力の程は、村雨が良く知っている。本当に、相手を殺しても良いとまで制限を緩めたら、果たしてどこまでやってのけるのかは分からないが、並みの兵士の比ではあるまい。雷撃に特化しているが、魔術師の端くれである。
「……ああ、うん、よかったね、すごいね。みんな抉れてしまえば良いよね」
然し村雨の表情は虚ろであった。その理由は一つ、格差である。
村雨の背丈は五尺、対してルドヴィカは、源悟とも然程変わらぬ五尺と四から五寸。加えて、胸囲にもかなりの差が有った。
成程、解体殺人犯の求める要素は満たしている。胸や尻が豊かな、成熟した雰囲気を漂わせた女。目立たぬようにと選んだかつらは黒髪で、結い上げはしない、洒落気の薄いものである。
これが独り歩きをしていれば、成程確かに、与しやすい獲物と見える。村雨はそう納得する反面、己では囮の用を為さず、ルドヴィカならば叶うという事実に打ち拉がれていた。主因が体型にあるというのが、精神へのとどめであった。
「して、お嬢さん。どの辺りを探すおつもりで?」
「そうだね……」
とは言うものの、村雨は狩人であり、そして『探し物屋』である。心が荒んでいようとも、獲物を探すとなれば、思考は巡るのだ。
「……二条城の辺りで」
「ほ? 日の本政府の議場じゃありやせんか」
二条城は、洛中でも一際目だつ、大きな城である。
日の本の政治体制は少々複雑であり、まず頂点には帝がおわす。その下に日の本政府があり、政府の一組織として徳川幕府が組み込まれている。
関八州やら奥州やらは、遠方という事もあり幕府主導での管理体制が敷かれているものの、関の西側は政府直轄の土地が多い――無論、首都たる京も例外では無い。
そういう、一国の半分を直接に、半分を間接的に支配する組織の、例えるなら王城に当たるのが、二条城なのである。
当然ながら敬語の兵は、質、量とも他の城の比ではなく、また城内の銃砲弾薬は、それこそ一国分の火力を有する。
如何な無法者とて、秩序の中心たるこの城の見えるところででは、盗みの一つも働くまい――そう思うからこそ、源悟は信じられぬと言う風に聞き返したのである。
「うん。だから、かな」
然し村雨は、その政府の中枢に巣食う大悪を知っていた。
残酷を好み、血を好む、理知的な狂人。知性を有しながら本能の赴く侭を無し、本能が求めるものを、知に任せて全て成そうとする男。
――狭霧和敬。
その名を、村雨は、落とすように呟いた。
兵部卿として、洛中の兵権を預かる男の、悪逆なる本性を、村雨は知っている。
あの男ならば〝そういうこと〟をしてもおかしくはない。
自分の手で臓腑を抉らずとも、他人が作った酷景に浸る事に、楽しみを見出しているかも知れない。
この確信は図らずも、ルドヴィカ・シュルツに与えられたものであった。町民は連続殺人の仔細を知らない――知っていて然るべき事を知らされていない。人の口に戸を立てるからには、外へ出したくない言葉の、十や二十も在るのではないか、と。
「……とんでもねぇ話だ、お偉い方が主導してらっしゃるってんなら」
源悟も、村雨の言わんとする所は見えたのだろう。ふつふつと沸く怒りを、喉の奥に飲み込んで、色を変えるのは声だけに留めた。
ルドヴィカは高下駄にふらつきながらも、二条城近くの通りを、大きなものも小さなものも問わず、目についた所から歩いて回る。
道の脇に店など見かければ趣味と実益を兼ねて――本国へ戻った折の書き綴るネタ集めと、犯人が見つけやすいようにとを兼ねて、ちょこちょこ立ち止まっては覗き込んだ。
和紙貼りの扇子などを見れば、ルドヴィカは思わず手に取って唸り、暫しそのまま立ち尽くしたりもした。店を出て最初の独り言は、『後進国の癖に紙の質は良い』であり、その懐にはきっちりと、畳んだ扇子が差さっていた。
そうして、洛中の夕を堪能して、夜となった。
人の気配は薄い。人家の灯りが次々に消えて行く。
まるで夜に接する事さえ厭うように、洛中は、人の街らしさを失って行くのだ。
取り残されたのは、暗く静まった道の上に積もる雪が、月光を照り返すぼんやりとした明るさである。
――月が良い夜だ。
ルドヴィカは空を眺めて思った。
西洋は、月より寧ろ星を好む。月を愛でる習慣が無かったが為、日の本の人間が夜空を見上げる姿に、この国は星占い師ばかりかと思ったものである。
月は狂気の源である。
獣の目のような月が、白と黄の合間の色で煌々としているのを見ると、訳も無く気分が昂ぶる事がある。
それは、月光が含んだ狂気が、目を通して腹に染み入るからではないのか。
狂気を悪と見るのが、西洋の在り方。この島国は狂気まで興じてしまうらしい。
取り止めも無く湧き出す思考を、敢えて奔放に放ちながら、ルドヴィカはふと立ち止まった。
気配を読むような武練は無い。その代わり、魔力を変換した微弱電流を周囲に放ち、己に近付くものを探っている。背後に二つ、何十mか離れて二人居るのも確かめた。
それとは別に、ルドヴィカの行く先に、誰か立っているのが感じ取れた。
冬の夜、大路の真ん中に立ち尽くす影が有った。
「……ふぅ」
白く息を吐き出し、ルドヴィカは道の端に寄った。それから、その場で屈んで、高下駄の鼻緒を弄り始めた。
さも夜歩きの手弱女が、鼻緒を切らしてしまったかのような――江戸ならば美人画が一枚仕上がる構図である。そうしていると、立ち尽くしていた影が、ゆったりと歩き始めた。
間も無く、白い雪の上に、黒い足袋が足跡を刻みながら、暗がりから抜け出して来た。
女であった。
夜の中に、女の手と顔だけが浮いて居るように見えたのだが、それは、女が上から下まで、黒い衣服で揃えていたからである。
ルドヴィカより一寸ばかり背が高く、幾分かは細身。袴と小袖ばかりか、堅苦しく肩衣まで重ねて、更に大小の刀を差していた。
然し、堅苦しい筈であるのに、妙にさまになる女でもあった。
三尺はあろうかという黒髪が、高い位置で一本結びにされて、馬の尾のようになびいている。それが、風で舞い上げられた積雪と合間って――
「……おおう」
ルドヴィカは呻き、立ち上がる。
血に狂う殺し屋を待っていれば、随分と雰囲気のある女が現れたのだ。
ルドヴィカが絢爛の多色刷りなら、この女は山水画である。無彩の美が、気付けば、目と鼻の先に居た。
「もし、いかがなさった」
女は芝居がかった口振りで言い、ルドヴィカに笑いかける。無彩の姿に、口だけは血を思わせる赤さである。
「いえ、鼻緒が少し……」
「切らしたのか、それはいけない。ぼくが肩を貸しましょう」
言葉の使い方だけでなく、発し方まで男のようで、男装には似合いある。左手をルドヴィカに差し伸べて、女はルドヴィカが応じるのを待った。
然しルドヴィカは、手を伸ばしはしない。
当事者でないとはいえ、曲がりなりにも戦場を見てきたルドヴィカである。おかしな人間と、本当に危険な人間の区別は着く。頻繁に身を清め、香を焚いたとて、骨身に染みる血の臭いまでは消せぬのだ。
「いいえ、名も知らない方の手を借りるなんて」
「おや、名を知っていればいいのかい?」
「名も教えられない人が、どうしてその人自身を教えてくれるでしょうか。一会の縁の、一期も無碍にする人が」
「はは、違いない」
ルドヴィカは言葉で戯れながら、伸びてくる手をひらりと躱す。
下駄の鼻緒は切れていない。
眼前に翻る鮮やかな振袖を見て、女は少し薄暗く笑った。
「ぼくは爛というんだ。これでもう知らない人じゃあない」
逃れようとした方向を遮るように、爛と名乗った女は腕を伸ばし、ルドヴィカの背後の塀に左手を着く。
二つの顔が、鼻先が触れ合う程に近づいて、互いの目だけが視界を埋める。
「綺麗な目だ」
「あら、嬉しい」
ルドヴィカが下駄を脱ぎ捨てて、足袋だけで雪の上に立つ。
「この目を抉ろう」
爛の右手が、腰へと伸びた。
ルドヴィカは咄嗟に、両手で拳を作り、目の前の女の、何処でもいいから殴りつけようとした。
外科手術で、骨の代わりに鋼を埋め込んだ腕である。何処に当たろうと構わぬ、鈍器の如き重量と強度がある。
然しその拳が爛に触れるより先、爛の左手が、人差し指だけをぴんと立てて、ルドヴィカの右肩を軽く突いた。
「あっ……!?」
ルドヴィカの右肩に激痛が走る。
指で軽く触れただけのように思えたが、その指先は僅かの内に、皮膚と肉をへこませ、出血させぬままで関節の継ぎ目を叩いていたのである。
たったそれだけの事で、右腕が動かなくなる――損壊は無いが、痛みで感覚が無い。
爛はこれ見よがしに、腰の大小の内、太刀を引き抜いた。装飾も鮮やかな鞘から抜け出す刀身は、月より、雪より強く輝く白刃である。
ゆったりと、高く掲げた。
掲げるまでの間、爛はじっと、ルドヴィカの青い目を見つめていた。
――今までの獲物にも、こうして来たのか。
目に滲む感情が、困惑から恐怖、絶望へ切り替わるのを、堪能してきたのだろう。
「ひぃいやっ!」
刃が落ちる。頭蓋にではなく、ルドヴィカの胸目掛けて、である。
胸を割り、心臓を引き抜き、それから腹を手で裂いて飾り付ける――蛮行の手口はいつも同じだ。
だから、ルドヴィカは、最初に何処を狙われるか分かっていた。
ぎぃん。
金属音が、振り下ろされた太刀を弾いた。
「おっ……?」
爛は、音に驚いて三歩ばかり後退した。
太刀の刃が欠けて、そこに、鉄の文鎮が一つ張り付いていた。
「なんだこれ、なんだ……む、う……?」
爛が引き剥がそうとしても、文鎮はどういう訳か、刀身に吸い付いて剥がれない。僅かに浮かせたとしても、直ぐに勢いよく戻って行って、何時までも纏わりつくのである。
己の所有物が、己の意に沿わぬようになるのは、爛には耐え難い事だ。なんとしても外してやろうと、やっきになって文鎮を掴んだ。
「……『Anmachen』!」
その瞬間、ルドヴィカが動いていた。
痛みが残る右腕で胸を抑えながら、左手を伸ばし、爛の持つ太刀の刀身に触れさせ――指先が触れた瞬間には、直ぐにまた、次は脇差へ鞘越しに触れた。
かしぃん、と高い音がした。
脇差が、鞘に収まったままで跳ね上がって、爛の太刀に張り付いたのである。
「へっ、掛かったわねバーカ!」
すかさず踵を返し、ルドヴィカは、女が来たのと逆方向へ走り始めた。
爛の太刀を封じたのは〝磁力〟である。
初撃は胸に来ると知っていたルドヴィカは、振袖の懐に、横に長い文鎮を幾つか入れておいた。
その文鎮は、魔術によって持続的に帯電させ、磁力を持たせたものであった。
加えて、太刀と脇差に触れたのも、それと同じ。環状に電気を流し込み、刀身二つを巨大な磁石に変えてしまったのである。
これでは、思うように切れない。重さも狂い、ただの棒切れとして振り回すにも、邪魔なだけの代物である。
爛は、太刀を捨てた。
そして、そうせざるを得なくしたルドヴィカに対し、憎悪の感情を燃やした。
ゆらり、ゆらりと体を揺らしてから、左足を前に出し、足袋で雪をがっしりと掴む。赤い唇が半開きになり、す、と息を吸い込んだ時――
「いっ、やあああああぁっ!」
「!?」
背後より、強い衝撃が、爛の後頭部を打ち据えた。
正面へ、受け身も取れずに倒れ込む欄の背へ、容赦無く跨って押さえつける者が居る。
村雨であった。




