黒鷺のお話(3)
女の理から、狭霧兵部和敬は、そっくりと抜け出した生き物であった。
女の世界では、人を思う侭に損壊するのは自分であるという大前提が、深く根を貫いている
全ては世界の中心たる己の意向こそが肝心であり、それ以外の一切は、なんら権利を持たない者である筈なのだ。
だのに和敬は、その理を根底から覆す。
無法にも女が為すべき損壊を愉しみ、結果として生まれた無価値の人体部品を、世界の主たる女の前へ投げ出して笑うのである。
このような無道を、働いた無礼者は、これまでにいなかった。だから女は、どう対処すべきかを知らない。
けれども一つ、分かる事は有る。
――あれは、不愉快なものだ。
理屈を省いて、感性、直感に任せた時、決して共存し得ない者がいる。女からすれば、和敬はそういう生き物である。
寄らば侵される、毒を持つ笑い方をする男。
この時、女の中に、新たな理が構築された。
「おう、構えた構えた。酷い形だな、我流か」
女は、短刀一つを右手に持って、腕をまっすぐ、限界まで伸ばして立った。
剣術の心得など、まるで見えない形である。
が、それで良いのがこの女でもある。
触れれば、断つ。大きな動きは不要。これで十分、殺し得る。
新たに生まれた道理の中で、女は、一切の娯楽を伴わずに、和敬を殺そうと決めた。
這いつくばる虫のように、足取りに妙な重さを背負って、女は和敬へと、刃を近づけていく。
すると、和敬が動いた。
柄と鐔までは太刀にも似て、然し刃は乱杭の、大鋸を青眼に構える。奇怪にねじくれた人格に似合わぬ、正道の構えである。
そうして、左足を前にして、摺り足で進む。
ざり、ざり、と、二つの足音が近づいて行く。
間合いより、一歩か二歩か遠くから、女はその、舞手のごとき身体を躍動させた。
この速度が、歴戦の兵士達を、豆腐か何かのように切り分けたのである。
「ひゃぁっ!」
瞬き一つ程の間に、突きが三つ放たれる。鳩尾、喉、右脇腹――最後の一つは、肋の下から肝臓まで届くように、斜めに打ち出される。
和敬はそれを、丁度刃先が進んだ分だけ下がって避け、刃が戻るに合わせて進んだ。それも三度、全く同じ事を繰り返したのである。
髪一筋の見切り――目を一度たりと閉じもせず、和敬はその芸当をやってのけた。
これは並の獲物では無いと、女が顔色を変えた時には、和敬が跳ねていた。近づかれたかと思った次の瞬間には、女の鼻の先に、和敬の顔が有った。
「よう」
「なっ……!?」
一足で踏み込み、わざわざ膝を曲げ、顔の高さを合わせ、気難しげな顔立ちのくせに、和敬は見事に笑ってみせる。
その目や鼻を切り抉ろうにも、近すぎて咄嗟には手が出ない。
病毒の如き男の顔が、鼻先に張り付いている――おぞましく感じて、女は喚きながら左手の拳を振るった。
だが、これも近すぎる。肩やら腕やら、効きもしない部位を打つ手に、さしたる力は無い。和敬は防ぎもせず、女の襟を左手で掴みながら、左足で女の右膝の裏を蹴った。
「そーうら。あやしてやるぞ、糞餓鬼めが」
がくんと崩れる身体を、和敬は、掴んだ襟から引き寄せ、短刀を持つ右手の手首を掴み――
「ふん!」
思い切り、それこそ子供にやるように振り回した。
回転の遠心力で、女の足が伸びきって地面から浮きあがり、一本の棒になる。
腕を曲げ、体を和敬へ引き寄せよせたとて、この体勢で振るう拳に、猫を殺す力さえ無い。
和敬は見るにも楽しげに、女をぐるりと振り回し――突然、離す。
「……!?」
女は、近くの塀へ向かって飛んだ。
足から飛んだのが幸い、壁に立ち、直ぐに路上に下りたが――これが頭から飛んでいれば、どうだったか。
頭蓋を砕かれて死んでいたのではないか――それ程の勢いであった。
然し、凌いだ。次こそはと、刃を構えると、
「まあ、そう急くな急くな。俺はな、お前に話があるだけなのだ」
狭霧兵部はまた、女の鼻先まで踏み込んで、更には顎をがしと掴んでいた。
兵部の右手首へ向けられる短刀――短刀が届く前に、女の右手首を、左手で掴み、塀に押し付ける。
手首と顎を掴まれており、間合いの為に蹴り飛ばす事も出来ず、女は殆ど、磔にされたような有様で、
「ぐ……くう、ぅうう、ううっ!」
「……犬か猫か、何れにしても野良だな。躾けが出来ん類の獣だ、くだらん。くだらんが、お前にも耳は有るのだろう、まあ心して聞けよ。その首が今宵無くなるか、これからも楽しく人間をバラして遊べるかの瀬戸際なのだ」
易々と狂人を取り押さえた狂人は、視線を一度、女から外した。
視線の向こうから、鉄兜で顔を隠した、狭霧兵部の側近が歩いて来る。
その手に有るのは――
「おい、女。あれに着替えろ」
「……は?」
着物が一式と、装飾も豪奢な鞘に収まった刀二振り、それから桶であった。
着物とは言ったが、男物だ。小袖に袴、肩衣と、武士の正装で――これが見事な黒備え。安物の黒では無く、艶を消した上等の絹である。
刀はと言えば、太刀と脇差で一揃えだが、これの片方だけでも町民の家族が一年ばかり生きていけるような、これも高級品である。
当然だが、何を言われたかが理解出来ぬという顔で、女は兵部の顔を見上げた。
「そのみすぼらしい姿をやめて、あれに着替えろと言っているのだ。分からんか!」
すると、狭霧兵部は嚇怒し、顎を掴んでいた手を離すと、女の胸倉を掴み――着物を引き千切りながら、路上へ投げ倒した。
「あ、っつ……!」
「おい、どうにかしてやれ!」
狭霧兵部が側近に言うと、
「はい」
側近は短く答えて、女の傍に立った――抜け目なく、短刀は踏みつけて、拾い上げられないようにしてだ。そして、女の頭の上にで桶を引っ繰り返すと、大量の水が、女の頭に降り注いだ。
「ひっ……!?」
「抵抗は構わんが、ずたずたの服に濡れた体。お前がどれだけの術者だろうが、夜明けまでに死ぬかも知れんぞ。……なあに、案ずるな。俺はな、人殺しは大好きだ。同好の士を無碍には扱わんよ」
そういう兵部の視線の先で、側近は何度も、桶を傾けた。不思議と、一度逆さにして水を全て吐いた筈の桶は、元に戻す度に、また並々とした水が戻って来る。
雪降る夜に眠っていたような女だ、始めは顔色こそ変わらないが――次第に、唇が紫色に変わって行く。
熱を発し体温を保つような術でも使っていたのだろうが、その熱を上回る程、水で体を冷やされる――水攻めは拷問の基本である。
頭から足先まで、豪雨を潜り抜けたかの有様になってから、側近が、女を石鹸で洗い始める。
襤褸衣になった黒い衣を剥ぎ取って、その下、乾ききった血の汚れを、指先と爪で削ぎ落とす。
「ひ、ひ……」
「動かないでください。手が滑って首を絞めてしまいそうですから」
体中、濡れている箇所一切――それこそ、頭頂からつま先まで、側近は、野良犬を洗うように女を洗った。鉄兜の下に有るのは、嫌悪か、それとも無表情なのか。何れにせよ事務的な声の中、一匙ばかり毒を混ぜて、側近は言う。
それから、着物とは別な布で、水気を拭き落とす。それが終わると、血の衣を捨てた女の体は、その罪業に似合わず、あでやかであり、また華やかであった。
立たせ、着物を纏わせる。小袖、袴、肩衣――腰に鞘を通させて、髪は紐で結い上げる。そうして〝仕上がった〟様を見て、
「……馬子にも衣装だなぁ、流石は俺の見立て。後で鏡でも見ておけ、自分がどういう面になったかを」
狭霧兵部は、満ち足りた顔で頷いた。
その満足の理由も、愉快な見世物を見物したという、それだけではない。
これから起こる出来事が楽しみでならない、そういう顔だ。
「それでは、和敬様」
「おう」
側近が呼び掛けると、狭霧兵部は、女に背を向けて歩き始める。その後を側近が、小走りで追い掛けていく。
無防備に晒された背中――追って、刃を突き立てられるだろうか。そう思った女は、押し付けられた刀を抜いて――動けず、蹲った。
寒さだけでは無い。それ以上に、体が震えて、足で体重を支えていられない。
「そういえばな、お前の顔は見覚えがある。親父とおふくろは元気か?」
言い残した狭霧兵部を、ついに女は、追う事が出来なかった。
それから、暫し後の事。
二条の城の地下で、狭霧兵部は脇息に凭れ掛かり、その横で側近が正座していた。
「和敬様。あれだけで、良いのですか?」
「他に何が必要だ。俺と格は違うが狂人だぞ? 命じたように動く筈も無い、放し飼いで十分な人種だ。……が、まあ、脅した意味は有るだろう」
「有るんですか?」
「有る。次に俺に噛み付く時にな、あいつ、尻尾を腹に巻いたままで来る筈だ。何を言おうとも、狂気で取り繕おうとも、あれの骨まで叩き込まれた負け犬根性は消えんだろうさ」
確信を持って、狭霧兵部は断言する。
常々自信家である上司とはいえ、何故、此処まで断言するのか――側近はそれが気になり、訊ねた。
「何故、そうとまで断言を」
「あの女、見覚えがあるのだ。十五年も前の事だが」
「随分前ですね。あの子達が一歳か、二歳か、それくらいの頃ですか」
「おお。逆算するとあの女、今はどうやら二十という所だな……確か、五歳だった。俺は、一度見た顔は忘れないが、あの頃から良く整った顔をしていたな。おかげで高値で売れた」
側近の動きが、舶来の写真のように固まった。鉄兜の下の困惑を読み取り、狭霧兵部は腹を抱えて笑う。
「そうだ、売った。ああ、俺じゃあないぞ、あの女の両親だ。いかさま賭博に連れ込んだら財産全部使い潰しても、返しても返しても借金だらけだ。夫婦揃って命を取られるか、子供二人を売るかと問われて、後者を選んだのが、あれの親だ。
いや、まさか生きているとは思わなんだなぁ。生きていたとて狂って壊れているかと」
「実際に、狂ってはいますが」
「言葉は発するし、まともに手足も動くだろう。それにな、俺の楽しみの為に走り回ってくれる。
あの恰好で、あの刀の腕。きっとな、俺が押し付けたあの服を、暫くあいつは使い続けるだろう。服従するのが生きる術だったのだから、解き放たれようと、強い相手には尻尾を振る癖が抜けまいて。
それでな……あれが、女を殺し続けると、どうなるね、どうなるよ?」
こういう時の兵部の問いに、問いとしての意味が無い事は、側近も良く知っている。
黒備えで着飾った剣士が、女を狙って殺し飾り立て、居合わせた者もただ殺すという異常事態。
その犯人が誰なのか――その目で見ていないものなら、或いはと、勘繰るやも知れない。
「本家がつられて出てきても良し。出ぬなら出ぬで、人死にが見られるから良し。俺にとっては、何の損も無い話では無いか。なあ?」
「ええ、確かに」
側近が同意すると、狭霧兵部はけたたましく笑った。
洛中と江戸は、何れも都会では有るのだが、やはり違いは多々ある。
江戸は飽く迄も、日の本の町。火の見櫓より背の高い建物など、城の他には存在しないし、石畳などまず何処にも無い。洋装も外国人もあまり一般的とは言えないので、異国の商人が歩いていると、良く視線が集まったものである。
洛中には、全てが有る。
おおよそこの国で、全ての古いものを残していくだろう町が大江戸八百八町であり、全ての新しいものを取り込んでいくだろう街が、京なのである。
そう考えると、村雨に似合いなのは江戸では無く、この街であるのかも知れなかった。
大陸に特有の白い肌も、黒くない髪も目も、この街ならば溶け込んでしまえる。老人に言わせると、男か女か分からないような服装も、一切の奇妙が無い。
街に溶け込んでしまった村雨は、人の群を追い越し、擦り抜けながら歩き回っていた。
追い抜く時、擦れ違う時、村雨は鼻を小さく動かす。
吸い込んだ臭いからは、その人間の生き方が分かる。
染料の臭いは染物屋、油と肉の臭いは料理屋、鉄の臭いは兵士かも知れないし、兎角様々な生き方の人間と擦れ違う。
然し、村雨が探している人間は、見つからない。
「………………ふう」
最初の〝飾られた〟死体が見つかってから、もう七日が過ぎているが、手がかりは依然として見つかっていない。
街の方々でも、黒装の剣客の噂は流れている。恐ろしく腕が立ち、酷く残虐で――ついでに噂に尾ヒレが付いて、誰もが目を奪われる絶世の美人だとも言われている。
夜、一人歩きの女を狙い、悲鳴を聞いて駆け付けた時にはもう遅い。
あの夜から、死体はまた、幾つか増えた。最初の一件以降、目撃者は誰も生き残っていない――見事に、遭遇した者全て殺されている。
どだい、この時間に探そうというのが無理なのか――高く天頂に届いた太陽を仰いで、村雨は嘆いた。
自分が獲物を狙うなら、やはり夜にやるだろう。天性の狩人は、そう確信している。
昼間はねぐらに隠れて、夜の闇と吹雪に紛れ近づき、獲物の喉笛を噛み裂いて、喰う。これなら、群を作らずとも、獲物を取れる。故郷の雪原では、積雪を掘り進んでの奇襲さえもやった。
だからきっと、〝この〟殺し屋も、同じ事をするのだろう。
「……やっぱり、夜に出て来ようかなぁ……」
村雨は、道端に落ちている政府広報を拾い、質の悪い髪の皺を広げた。
記述は単純で、昨夜は何処で人が死んだと、そういう事実を淡々と書いてある。
どういう死に方をしたかは書いていないが、自分の目で見たあれと、さして変わらぬ躯だろうとは予想がつく。
皆は、あれを、損壊を主として見た。
どうすれば人間が、あれだけ酷く人間を壊してのけるのか――そういう事を、脅威として見た。
その損壊が自分に及んだならばと、そういう恐怖が有るから、皆がこぞって黒服の剣客を捉えようとするのだ。
村雨に言わせれば、狂の根幹は、違う。
あれほどに損壊しながら、躯の部品が減っていない事が、村雨には恐ろしかった。
血は流れ出たし、肉は切り裂かれたが、それだけだ。
骨も臓腑も、配置が変わっただけで、ほんの一口も減っていない。
喰う為に殺すのではない。目的が有って、殺したのでも無い。敢えていうならば、殺す事が目的の殺しであった。
そういう性質の人間を、村雨は知らない訳でも無い。
同じ『錆釘』の同僚には、離堂丸という女が居る。人を斬ったり、骨を砕いたり、そういう事を無上の喜びとする女だが――あの狂気は、極めて正しく制御されている。戦場以外であの狂気が、無暗に花開く事は無いのだ。
今回の殺人者は、場所を問わずに狂う。
狂っている癖に、太刀筋も、解体の技も、恐ろしく的確である。
きっと、普段はその性情を抑えている。何か引き金を引かれると、抑えがたい狂気が溢れ出て、人を殺さずには居られないのだろう。もしかすれば日常は、健全な隣人の顔をして、この街を歩いてさえ居るかも知れない。
だから、離堂丸よりも寧ろ、本当に似ているのは――
「ありゃ……ありゃ!?」
「……ん?」
そうまで思案を回した所で、村雨は、少し離れた所に声を聞いた。
雑踏の中であったが、不思議とその声は、自分に向けられたものに思えた。
何故だろうと思い、鼻をすんと動かして――臭いと音を、同時に思い出す。
「あれっ?」
そちらを見ると、鏡に映したように村雨と同じ表情――つまり、奇縁を喜ぶより先、驚きが勝った時の顔をしている少年が居た。
村雨より五寸ばかり高い背に、気が良いようで油断の無い目――も、丸く見開かれていては形無し。
「ありゃりゃ、村雨のお嬢さん、御無事だったんで!?」
「源悟……どうしたのさ、こんなとこで」
人の群をぽうんと擦り抜けて、二人は再開を祝い、握手を交わす。
江戸の町方同心、傘原 平三郎の懐刀、『八百化けの源悟』は、底も蓋も取れたような陽気さで喜んでいた。




