黒鷺のお話(2)
「……聞いてきたんですか?」
「ああ。みつには聞かせたくない話だ、ここで言う」
洛中を北に抜けて、神山を登った、山中の小屋。左馬が戻る頃には、既に夕刻となっていた。
村雨は、床の上に胡坐で座っている。
無残な屍を見つけてから、人を呼び、その後は一直線にこの小屋へ戻った。日が昇った後も、小屋の外へは一歩も出ていない――みつを危険に晒しては、と思ったからだ。
此処まで、かの狂人がやってくるとは思えない。
好き好んで山奥を訪れて、たった一人を殺そうと考える物好きな殺人者など、考えもつかない。
だが、狂人であるならば、常道で測ってはならぬ。
村雨が、人に交わり学んだ事の一つに、そう望まぬ時に限り、物事は予測を上回っていくという事がある。
自分が横にいれば、最悪でも、みつを抱えて走り、逃げる事が出来る。そう思ったから、みつをずっと、自分の目の届く部屋に置いて、自分は耳鼻を研ぎ澄ませて過ごした。左馬が帰って来た時など、三町先から嗅ぎ付けた程である。
今、みつは隣室で、夕食の準備を始めている。包丁の扱いなど、すっかり手馴れたものである。規則的に、とん、とんと、まな板を打つ音が聞こえてくる。
「二条の城のも、やっぱり同じだ。駒鳥先生の見立てでは、同じ得物で、同じ手順で殺されているらしい。こっちも女の死体だったよ」
「同じって言うと――」
「胸を割られて、臓腑を取り出され、逆にされた肋に吊るされていた。何か、それは意味がある事なのかも知れないそうだ――先生が言うには」
「意味?」
「そうだ」
村雨は、直ぐに左馬の言わんとする事を理解して、その丸く大きな目を、きゅうと絞った。
おかしな奴程、何かに拘る。
決まった道を歩くのが好きな奴もいるし、同じ言葉を延々と呟き続ける奴が居る。それは、他者の理解は得られずとも、当の本人には意味があるのだ。
それと同じように、自分だけに理解出来る〝意味〟に従い、殺しを遂げる。
「じゃあ、やめませんね……絶対に」
「だろうね。死ぬまでそいつは、これを続けるだろう。〝あれ〟の楽しみは、これだけなのかも知れない。これからは、〝あれ〟が捕まるまでの間、日が高くないうちは、絶対にみつを街に出すな。街に出す時は、必ずお前がついていくんだ。良いね?」
「はい」
狂気は、容易くは薄れないが、容易く強まるものだ。
一度、血の中に手を浸したのであれば、その快楽から抜け出せはしない。
それを、十分に知っているのが松風 左馬であり、村雨であった。
一度決めた拘りに、付け足す事はあるかも知れないが、引く事は無い。
手口はより残酷に。
標的をより多く。
頻度をより増して。
きっと、殺しは続くのだろう。
「……村雨。こいつを、どういう奴だと思う?」
「どういう、ですか?」
左馬は、戻ってきてから、一度も座ろうとしていない。
腰を浮かせていなければ落ち着かぬという様子で、村雨は座らせたというのに、自分は部屋の中を歩き回っているのである。
それが、村雨の真正面に立ち止まって訪ねた。
「駒鳥先生は〝あれ〟を、〝剣術と医術の双方に心得のある者〟と断じた。人の体を知らないなら、ああも綺麗に分解は出来ないんだそうだ。お前、どう思う?」
左馬が問うと、
「……そんな事は、無いと思います。」
村雨は首を振って、低い声でだが、はっきりと答えた。
「そうだ、そんな事は無い。確かに生き物を解体するのは難しいだろうし、医者なら簡単にやってのけるだろう。だが、他にもやれる奴は居る。
例えば狩人、例えば人殺し。生き物を、命を尊重せずに扱えるんだったら、出来るんだ。料理人が魚を鮮やかに捌くようにね。
そう考えるとこの街は今、日の本で一番多くの人殺しが集まっている所だ。見つけるのは、簡単じゃあないぞ」
「………………」
「比叡攻めに参加して、それでも足りずに血を欲しがる馬鹿が、居るのかも知れない。もしかしたら、全然違う所に居るのかも知れない。だが――放っておいて良い奴じゃないな」
どかっ、と音を立てて、左馬はそこに座った。
前のめりになると、村雨の額に、左馬の額が触れそうになるが、村雨は下がらずに、その視線を受け止めた。
「村雨。こいつを仕留めろ」
「……はい!」
否も応も無い。左馬の命であれば、余程の無理でない限り、断るという道は無い上に――これは、村雨の望む所でもあった。
隣の部屋、台所からは、まだ調理の途中なのか、火の粉が爆ぜる音がする。
火よりも、村雨の腹の中に閉じ込めた感情は、熱く煮えたぎっていたが、それは正義の為では無かった。
左馬は、話を聞かせぬ為と言って、みつが料理をしている間に、村雨に話をしたのだが、真実は違う。
左馬は、見慣れた顔が、きっと見慣れぬものに変わるだろうと知っていたから、そうしたのだ。
「……楽しいか、村雨」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
村雨は、酷く暗い目をして、嗤っていたのである。
理由が己の外にあれば、人は容易く暴力を振るう。
例えば、誰かを守る為という大義名分であったり、或いは上からの命令であったり、周囲の同調圧力であったり。
そういったものが集まれば、人間は野の獣よりも攻撃性を露わにして、敵の喉笛を食いちぎるのだ。
人とて、狂って、空に吠えるのである。
遠鳴きが響くのは、頬の裏側まで凍て付くような、寒い夜であった。
朝からの曇り空は何も変わらず、洛中に蓋を降ろしている。
北西から街へ吹き込む風には、雪の粒が、ほんの小さく混ざっている。
然し、徒党を組んで肩肘いからせ歩く、皇都守護の小班の一つは、積もる雪をも溶かさんばかりの熱を帯びていた。
彼等は今朝、二条城の門前に、無残な死体が置かれていたのを、自らの目で見たのである。
彼等は戦場を知っている。無残な死も、無論、知っている。
だが、彼等が見た死体は、それとは趣を異にするものであった。
その死体は、飾り立てられていた。
肋骨を外開きの橋に変えられ、先には自らの内臓を吊るされた、丁寧に壊された人体。
検死をした医師によれば、臓腑の幾つかは、素手で引き抜かれたものだという。
死んでから解体を終えるまで、きっと、数分程でやってのけたとも見ている。
死体の顔は、生前の恐怖がべったりと張り付いて、歪に変形したままであった。
誰がやったのか、何が目的でやったのか、何時の間に、どういう武器を用いて――それら全ての思考は、湧き上がらなかった。たった一つ、〝どうしてここまで出来るのか〟だけが、彼等の脳髄を埋める疑問であった。
洛中に獣は住まない。野良の猫が、塀の上を歩くばかりである。
生きる者に満ち溢れた筈の街で、動く気配は幾つ有るか――殆ど見つからぬ程に静まり返っている。
このまま何も出るなという祈りと、何か有れば我らがとの思いが、四と六に割れて、守護隊小班の腹に渦巻いて居た。
「異常は、どうです?」
「有りません、加奈さん」
「班長」
「すいません、班長」
小班が、寺の焼け跡の前で立ち止まると、班長を務める女――加奈は、部下の若い男に、周囲を確認させた。
ふた月と半ほど前に、洛中を一飲みにせんと、夜焼きが有った。狭霧兵部の命による、仏教徒の虐殺である。
それで焼け落ちた寺の残骸は、殆どは片づけられたが、こうして残っているものもある。
黒く焦げた木材やら、焼けてひび割れた瓦やらが、規則性を失って積み重なった、小さな山が、そこには有った。
場所が場所ならば、子供が昇って遊びたくもなるだろう程度には、緩やかな山である。
「けども、不気味な場所ですね、加奈さん」
「だから」
「こんなとこには、誰も立ち止まりませんよ、加奈班長」
然し、誰も好んでは寄りつかない。
釘やら、陶器の破片やら、危険物が幾らでも紛れている山だ。
事によると、下の方には骸骨の一つや二つ、埋もれているかも知れない。
その山の麓の方、少しだけ大きな瓦礫を選んで、加奈は腰掛け、言葉で戯れようとする部下に、少し呆れたように額に手を置く。
穏やかな女であるが、腕は立つ。それで、訓練を付けて欲しいと跳ねっ返りの部下が言い出して、適当に叩き伏せたら懐かれて、この有様である。不快では無いが、周りの目の事もあり、いちいち言葉で訂正するのが煩わしい。
座ってしまえば周囲の男達に比べて、半分程の高さも無くなる加奈は、どうにも威厳という点では、長に向いていない様子である。
「はぁ……一度、此処で休憩を取りましょう。〝目〟と〝耳〟は欠かさないように」
「はっ! ……わざわざ、此処で?」
「誰も来ないなら、誰の迷惑にもならないでしょう?」
柔和な声で命じて、加奈は命じた。
刀の鞘を地面に、杖のように置いて、柄尻に手を重ねて置き、更にその上に顎を乗せる。
ぼうっとしているように見えるが、目を凝らしているし、耳を澄ましているし――部下に命じ、手は打たせた。
〝目〟と〝耳〟――探知魔術の一種の、俗称である。
単純に、遠くまでを見通せるようにしたり、遠くの音を聞き取れたりするようになる、そんな術だ。
下手な術者だと、近くの光で目を潰しかけたり、近くの音で鼓膜を痛めたりするのだが、この小班は、加奈の教えが良いのか、そういう事態に陥る者は居ない。皆が皆、全く完全に、周囲に警戒を払っていた。
十数人の監視網――訓練を受けた兵士が作る、それである。
猫どころか、鼠の一匹、蚊の姿さえ、決して逃がしはするまい。
近くの民家の中で、寝苦しそうに姿勢を変える音がする。
障子の向こうで蠢いているのは、夜間だというのに刀の素振りでもしているのか、筋骨隆々の男の影だ。
雲の合間に、鳥が飛ぶ――珍しい事に、梟である。山ならばいざ知らず、街で見る事もまず無いだろう。
小班の面々は、まるで書物に示された文字を追う如く、周囲の全てを把握していた。
然しこの夜、最初に異変を察知したのは加奈の、〝目〟でも〝耳〟でもなく、第六感とも言うべきものであった。
「樋井」
「はい?」
先程、周囲の確認を命じられた若者――樋井を、加奈が、指先を内側へ折りたたむような動きで招きよせた。
名だけを呼ばれた――来い、とは言われなかった。その異常を察して、樋井は足音を消した、猫のような歩みで、加奈に従う。
加奈は、瓦礫の山を登る。低い山を登るのに、たっぷりと、百も数えるまで時間を掛けたのは、やはり音を立てぬ為だ。
何を見た訳でも無い。何を聞いた訳でも無いが、息を殺して、登って、
「……!」
そこに、倒れている女を見つけた。
瓦礫の山の頂点を挟んで、ちょうど先程女班長が座っていた所と正反対の位置に、仰向けに、女は倒れている。
黒っぽい着物の帯が乱れ、内側の襦袢までが乱れて、肌を夜空に晒している。
胸の中央から臍を過ぎるまで、椀に溜めてぶちまけたような、くすみ始めた赤が――血が、広がっていた。
「あなた!」
加奈は一足で駆け寄り、女の上体を胸に抱き起した。
肌の色から、生きているだろうとは思うが、然し尋常の寝姿では無い。
怪我でもしていたか、或いは襲われたか――血に濡れる事も厭わず、女の胸に手をやった。
拍動は強い。触れた限り、身体の前面に怪我は無いように思える。古傷は有るが、それも一つか二つのものだ。
口元に耳を運ぶ。規則的な呼吸が、確かに聞こえてくる。
――寝ている?
まさかと、加奈は、女の姿を改めた。
誰が、冬の寒空の下、瓦礫の上で、この姿で安らかに眠るものか。
「あなた、どうしましたか、あなた!」
強めに揺り動かしながら、背や腕にも触れる。
出血は、やはり、無いように思える。
絹の上からでは分からぬような、強い体をしているのも分かる。野生の獣は鍛えずとも、皮膚の下に強い筋肉を持つが、それに似ているかも知れない。然し、どちらかと言えば戦う為の筋肉というより、舞いを習う者が身に付けるような、柔らかく、粘り強い生木のような体である。
背は、女としては高い。樋井が五尺と六寸あるが、それと然程変わらない。
その背を完全に覆って、腰を過ぎる程、女の髪は長い。
指に通せば、指の隙間から水のように零れて行きそうな、見事な黒髪である。
加奈は、実際に、その髪を手に取った。
滑らかな毛髪にこびり付く赤黒い塊は、これも、乾いた血である。
頭に傷は無い――それも、分かった。
「樋井、離れた者を呼び集めなさい! 誰か、医に長けた者が居れば――」
加奈は、女を胸に抱いたままで、樋井に命じた。
事情は知らぬ。奇妙ではある。
だから一人で当たりたく無いと――臆病も少し、顔を覗かせたものだろう。
女が怪我人であるのか、或いはそうでないのか、自分では測りきれぬという事も有る。
応と、樋井が走り去ろうとして、
「加奈さん!」
止まり、樋井が叫んだ。
班長だ、と何時ものように訂正しようとして、加奈は、声が出せない事に気付いた。
腹から持ち上げた空気が、喉にまで届かないのである。
息を吸いこんでみても、口から入った息が、腹まで降りていかないのである。
加奈の胸が、縦に真っ直ぐ刃を入れられて、左右に切り分けられていた。
「ぁ、……ぇ?」
喉をせり上がる筈だった血は、其処まで届く前に、途中に開けられた胸の穴から、間欠泉のように噴き出した。
その泉に、女は左手を突き込む。
加奈の胸の中で、肉が千切れる、ぶつんという音が幾度も聞こえた。
膝が崩れ、加奈が瓦礫の山の上で、頭を麓に向けて、仰向けに倒れる。
その胸の中から、女は左手を引き抜いた。
女の左手には、まだ温度を残したままの、加奈の心臓が有った。
「きっ――貴様ァッ!」
樋井が、声を裏返らせて、瓦礫の山を駆け上がった。
掛けながら、腰の刀を右手で抜き、併せて左手を前方に突き出す。
怒りというのも生温い、煮えたぎった感情に動かされながら、樋井は冷静に、口の中で言葉を紡いだ。
単言による詠唱――魔術の行使。
用いたのは、身体の硬化術である。
時間を掛ければ、全身を鋼のように変えられるが、片腕だけで良いならば、ただの一言で済む程度には、樋井は魔術に長けている。
女の武器が何であるか、樋井はまだ見ていない。
だが、人間の胸を容易く裂いたならば、相当に切れ味の良い刃物であろうとは踏んでいる。
それを、この左腕で受ける。
多少は斬り込まれるかも知れないが、例え斧を持ってしても、斬りおとす事は出来ぬ筈だ。
その間に、右手の刀で、女を斬る。
確実に殺し得る算段である。
「しぃいいいいい――」
噛みあわせた歯の隙間から、漏れ出す息もそのままに、樋井は突き進む。
女は、眠たげな顔を見せてから、右手を持ち上げた。
それを、樋井は見た。
女の得物は、短刀が一振りである。
殺せる。
「――いいいいいいっ!!」
短刀目掛け、左手を突き出す。
同時に、女の左脇腹目掛けて、刀を振るう。
裂帛の気勢を拭き出した樋井の踏み込みは、氾濫した川の如しである。
一方向に進む事だけを思っている、そして何があろうと止まろうとは考えない、濁流が、樋井である。
女は、その流れに、逆らいも飲まれもしない。。
斜めに一歩、樋井のそれと同等か、それ以上の速度で、突き出された左腕の外側へ抜けて、
「くふっ、ふふ」
女が笑う。
すると、ごとん、と樋井の左腕が、肩ごと落ちた。
痛みを覚えるより先に、女の短刀は、樋井の背骨と首の骨を、背後から三度、突き刺した。
悲鳴などは上がらぬ、上がる筈も無い、迅速な殺人劇。
然し、加奈をそうしたような、過剰の破壊は与えない。
女は手短に、樋井を殺してのけた。
「なっ……!?」
異変を察知して、やや広く展開していた小班の面々が戻ってくる頃には、女は瓦礫の山を降りていた。
得物はやはり、短刀が一つ。
刃は、六寸よりは長いが、七寸も無い程度の、凡庸な刃物である。
既に二人の血を啜って、たんと赤くなった刀身に、女は口付けた。
女は、唇に紅を差していたが、血の赤は元の色よりも鮮やかに、女の冷たい顔を彩る。
そうして、べったりと赤が広がった顔で、毒々しく女は笑うのだ。
それが、皇都守護の小班の、戦士たる精神を逆撫でした。
「っぎ、ぃいいいいいおおおぉっ!」
叫ぶというよりは、吠える。
同時に二人、同じように大上段に構えて、女に斬りかかる。
受けた刀ごと相手を両断せんばかりの剛剣が、二つ同時である。
挟むように向かった――左右に逃げ場は無い。
然し女は、当たり前のように、横へ飛んだ。
二人の男のうち、自分の左手の側から攻め込んだ相手へ、胸の中へしな垂れかかるように潜り込んで――男の脇腹から、一目で致死量だろうと知れるだけの血が、噴き出すのではなく、椀を倒したかのように、ごぼっと零れた。
右手側の男が、空ぶった刀を今一度振り上げて、女の頭蓋へと振り下ろす。女が一歩だけ足を進めて短刀を振るうと、右手側の男の両腕が、肘で斬られて、路上に落ちる。
「ぐう、ぅがあああぁっ!?」
耐えられる筈も無い激痛に、吠える声も、長くは続かない。女は次の一振りで、右手側の男の首を、花を抓んで手折るかのように、訳なくすとんと斬り落としたのだ。
黒い着物の間に見える、白い肌――胸も腹も、脚も股も、赤の濡れ化粧が施されて、女は高らかに喘いだ。
抱かれて果てる時の、切羽詰まった声にも似せて、殺しの喜悦を女は歌う。
身をくねらせて、淫らに舞うように。
身に燻る熱を、寒空へ逃がそうとするように。
左手で己の体を愛撫しながら、女は鳴き、随喜の涙さえ流した。
伸びやかな嬌声で、兵士達の耳を犯しながら、女は一度、強く身を震わせた。
――これは、何だ?
理解の及ばぬものを、人は恐れる。
人か――いやいや、まさか。
獣か――いやいや、そんなものでは。
ならば、鬼か――鬼ならばまだ、分かろうものだ。
兵士達の理解に於いて、この女は、もはや何にも属さぬ一個の怪物であった。
「ひ――ひゃあああぁっ」
誰からでも無い。皆が、ほぼ同時に、女に背を向けていた。
悲鳴が上がったが、それは女の声だけでなく、男の声も有る。
良く知った道――詰め所への道を、彼等は走った。意識的にか、無意識にか、皆、帰ろうとしたのだ。
つまりは、同じ方向へ走ってしまった。
「ふふっ、ふふ、ふふっ」
また、女が笑った。
体の芯から悦が湧き上がって、喉を通り、唇を押し上げた時、初めて声に切り替わった、そんな声だ。
その声が聞こえた時、最後尾を走る一人が、首を落とされた。
首を失ってから、その兵士は二歩だけ走ったが、その横をすり抜けて、女はまた別な一人に斬りかかっていた。
ころり、ころり、人の部品が落ちていく。
左右を問わず、腕が落ちる。
背の肉の隙間から、切り離された背骨がはみ出して、落ちる。
頭が、空を睨んで、或いは大地を睨んで、落ちる。
骨と肉を切り離しながらも、女は全く力を使っていないような軽い足取りで、兵士の群を追い続けた。
残りは、二人になっていた。
体が大きく、特に体力のある二人である。だから逃げられたのだが、それも長くは持たないだろう。
そんな二人の行く先は、丁度二股に別れていた。
左右、どちらの道も薄暗く、足元は悪く、何れに逃げても同じであろう。
大男二人の内、髭面の男は、右へ。皺の深い男が、左へ逃げた。
女は、躊躇わず右へ走った。
「ぃ、い――ぃいいいいっ、いいいいいいい!」
足音が離れていかないと分かって、髭面の男は、泣き喚きながら、手足をがむしゃらに動かした。
刀も、舶来物の銃も、弾薬も、何もかも投げ捨てて、逃げていこうとした。
知った道である。何処まで走ればいいかを、良く知っている。助けを得られるまでの道程の、その長さを知っている。
「ひいいいいいいっ! ひっ、ひいっ! ひいいっ!」
大の男が上げるような悲鳴では無かった。
女子供でさえ、こんな声を出す事は、まず無い。
この声を出せるのは、負けたものだけだ。
完膚なきまでに、己の負けを認めた者だけが、全ての尊厳と共に口から吐き出すのが、この音だ。
戦いを放棄して、髭面の男は逃げていた。
その右腕が、肘から先だけ、地面に落ちた。
それでも、足を止めない。
次は、右肩から先が落ちた。
重さのつり合いが崩れて、脚の運びが狂う。
それでも、足を止めない。
左手首、左肘、左肩。右膝までをバラされて、漸く髭面の男は倒れた。
その首を、女がさくりと刈り取って、頭を毬のように蹴り飛ばした。
倒れこむ体の脚を、付け根から切り落とす。
膝を切り、足首を落とす。
髭面の男の残骸から、女は胴体だけを選んで掴み、仰向けにさせて跨る。
変わらず、帯も結ばぬ艶姿――然し、血みどろの凄絶な色香である。何人分とも分からぬ赤に染まった左手を、女は、むくろの腹に置く。
体を倒して、胸の、心臓の真上に口付けを落としながら、女はむくろの胴体を、逆手持ちの短刀で抉る。
小さな肉片を、幾つも飛び散らせて、ようやく女は、この玩具に飽きた。そうすれば、残りは一人――遠く逃げて行った、顔に深い皺を刻んだ男だけが残る。
女は軽い足取りで、道の分岐点まで戻ると、その風情を一変し、正しく狩る側の顔になって、恐ろしい速度で走り始めた。
蛇は音も立てず、驚く程の速さで動いて見せるが、丁度、そういう具合である。上下に体を揺らさず、女はするすると夜をすり抜けて行った。
そうして、少し狭い道に入った。昼日中であったとしても薄暗いだろう、建物の影である。
追って居た相手は、確かにこちらへ逃げ込んだ筈だ――足音や、呼吸音や、色々で、女は確信している。
何処を通って走ったかは良く分かる、新雪に足跡がはっきりと見える。隠れる場所を探して、右往左往したのも窺えるけれど、悲しいかな、この辺りの道は熟知して居る。そうでなけりゃあ、街の中で獲物なぞ追うものか。
息遣い、汗、涙やら唾やら撒き散らしたもの、全て想像出来る。年月と共に深い皺を刻んだ顔が、どう歪んだのかを想像出来る。
――悦い。
嬲るだけでは、もう足りぬ。
掻っ捌いて、赤を浴びたい。
ぐんと速度を増した足の前に、何かが投げ出された。
人間の、腕だった。
「……?」
初め、女は理解が出来なかった。こういう事をするのは、自分の特権の筈なのだ。
自分がやりたいと思ったから人の手足は落ちるのであって、誰かが壊した中古品を、犬に骨でもくれてやるような投げ方をするのは、道理に沿わぬ事である。
「……ぉ、ぉお」
理を、女は尊重する。
これは理を乱す行為である。
また一つ、また一つ、関節部で壊された人体が、与えるように投げ出されて、女の前に積み上がる。
肉も骨乱雑に、然し短時間で斬ったと見えて、肉の内に血が残っている。それが重なると、重さで血が染み出して、忽ちに雪を赤で染めた。
これは、女の理を、無茶苦茶に踏み躙る行為である。
「おおおぉおぉおおおおぉおぉぉぉ……っ!!」
女は、これ以上の狼藉に耐えられなかった。
積み重ねられた部品の山を蹴り飛ばし、視界から消し去ろうとする。
赤く変わった雪を踏み散らして、元の白に戻そうとする。
そういう無駄な試みをする女の元へ、歩いて近づく者があった。
「喧しいぞ、手間を省いてやったのだ。……然し、良いなぁ、解体は。生きている間にやるのが、最も良い。だろう、お前」
その男は、三十は軽く超えて居るが、まだ四十にはならぬ程の歳であった。
髪に白いものが混じってはいるが、顔の皺は少なく、背筋も真っ直ぐ伸びている。胸や腕や脚が、常人と比べれば分厚いので、背丈自体も高いが、それ以上に背が高く見える男である。
顔立ちも、かなり整っている。背丈と合わせて見れば、西洋の人間とも間違えかねない、鼻筋の通った顔なのだが、表情というよりはもっと根本的な、雰囲気ともいうべき部分で、気難しそうな内面がにじみでている。
何よりも、男は〝こわい〟。
恐怖に理由は無い。生きる為に培われた、これに近づいてはならないという本能の警告が、恐怖である。
この男は、ただ其処に立つだけで、その警鐘を激しく鳴らす。
男が歩くと、その周りの夜が色濃くなったように見える。男が消えた空間から、夜の色が薄れたようにも見える。
近づいてくる夜の色に飲み込まれれば、二度と無明より抜け出せぬやも知れぬという、根源的恐怖を、従者として引き連れた男である。
「……で、誰だ、お前は。俺の街で何をしている」
白髪混じりの男は、左手に掴んでいたものを、高く投げ上げた――女の狂刃から逃げていた、皺の深い男の生首である。
高く、高く、女の背丈の何倍も上がって、落下を始めたそれを、
「殺すぞ、女」
狭霧兵部和敬は、右手の大鋸で二つに割った。
脳漿の雨を浴びて心地良さそうに、偉丈夫は、災禍の笑みを撒き散らした。




