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黒鷺のお話(2)

「……聞いてきたんですか?」


「ああ。みつには聞かせたくない話だ、ここで言う」


 洛中を北に抜けて、神山を登った、山中の小屋。左馬が戻る頃には、既に夕刻となっていた。

 村雨は、床の上に胡坐で座っている。

 無残な屍を見つけてから、人を呼び、その後は一直線にこの小屋へ戻った。日が昇った後も、小屋の外へは一歩も出ていない――みつを危険に晒しては、と思ったからだ。

 此処まで、かの狂人がやってくるとは思えない。

 好き好んで山奥を訪れて、たった一人を殺そうと考える物好きな殺人者など、考えもつかない。

 だが、狂人であるならば、常道で測ってはならぬ。

 村雨が、人に交わり学んだ事の一つに、そう望まぬ時に限り、物事は予測を上回っていくという事がある。

 自分が横にいれば、最悪でも、みつを抱えて走り、逃げる事が出来る。そう思ったから、みつをずっと、自分の目の届く部屋に置いて、自分は耳鼻を研ぎ澄ませて過ごした。左馬が帰って来た時など、三町先から嗅ぎ付けた程である。

 今、みつは隣室で、夕食の準備を始めている。包丁の扱いなど、すっかり手馴れたものである。規則的に、とん、とんと、まな板を打つ音が聞こえてくる。


「二条の城のも、やっぱり同じだ。駒鳥先生の見立てでは、同じ得物で、同じ手順で殺されているらしい。こっちも女の死体だったよ」


「同じって言うと――」


「胸を割られて、臓腑を取り出され、逆にされた肋に吊るされていた。何か、それは意味がある事なのかも知れないそうだ――先生が言うには」


「意味?」


「そうだ」


 村雨は、直ぐに左馬の言わんとする事を理解して、その丸く大きな目を、きゅうと絞った。

 おかしな奴程、何かに拘る。

 決まった道を歩くのが好きな奴もいるし、同じ言葉を延々と呟き続ける奴が居る。それは、他者の理解は得られずとも、当の本人には意味があるのだ。

 それと同じように、自分だけに理解出来る〝意味〟に従い、殺しを遂げる。


「じゃあ、やめませんね……絶対に」


「だろうね。死ぬまでそいつは、これを続けるだろう。〝あれ〟の楽しみは、これだけなのかも知れない。これからは、〝あれ〟が捕まるまでの間、日が高くないうちは、絶対にみつを街に出すな。街に出す時は、必ずお前がついていくんだ。良いね?」


「はい」


 狂気は、容易くは薄れないが、容易く強まるものだ。

 一度、血の中に手を浸したのであれば、その快楽から抜け出せはしない。

 それを、十分に知っているのが松風 左馬であり、村雨であった。

 一度決めた拘りに、付け足す事はあるかも知れないが、引く事は無い。

 手口はより残酷に。

 標的をより多く。

 頻度をより増して。

 きっと、殺しは続くのだろう。


「……村雨。こいつを、どういう奴だと思う?」


「どういう、ですか?」


 左馬は、戻ってきてから、一度も座ろうとしていない。

 腰を浮かせていなければ落ち着かぬという様子で、村雨は座らせたというのに、自分は部屋の中を歩き回っているのである。

 それが、村雨の真正面に立ち止まって訪ねた。


「駒鳥先生は〝あれ〟を、〝剣術と医術の双方に心得のある者〟と断じた。人の体を知らないなら、ああも綺麗に分解は出来ないんだそうだ。お前、どう思う?」


 左馬が問うと、


「……そんな事は、無いと思います。」


 村雨は首を振って、低い声でだが、はっきりと答えた。


「そうだ、そんな事は無い。確かに生き物を解体するのは難しいだろうし、医者なら簡単にやってのけるだろう。だが、他にもやれる奴は居る。

 例えば狩人おまえ、例えば人殺しわたしやさくら。生き物を、命を尊重せずに扱えるんだったら、出来るんだ。料理人が魚を鮮やかに捌くようにね。

 そう考えるとこの街は今、日の本で一番多くの人殺しが集まっている所だ。見つけるのは、簡単じゃあないぞ」


「………………」


「比叡攻めに参加して、それでも足りずに血を欲しがる馬鹿が、居るのかも知れない。もしかしたら、全然違う所に居るのかも知れない。だが――放っておいて良い奴じゃないな」


 どかっ、と音を立てて、左馬はそこに座った。

 前のめりになると、村雨の額に、左馬の額が触れそうになるが、村雨は下がらずに、その視線を受け止めた。


「村雨。こいつを仕留めろ」


「……はい!」


 否も応も無い。左馬の命であれば、余程の無理でない限り、断るという道は無い上に――これは、村雨の望む所でもあった。

 隣の部屋、台所からは、まだ調理の途中なのか、火の粉が爆ぜる音がする。

 火よりも、村雨の腹の中に閉じ込めた感情は、熱く煮えたぎっていたが、それは正義の為では無かった。

 左馬は、話を聞かせぬ為と言って、みつが料理をしている間に、村雨に話をしたのだが、真実は違う。

 左馬は、見慣れた顔が、きっと見慣れぬものに変わるだろうと知っていたから、そうしたのだ。


「……楽しいか、村雨」


「えっ?」


「いや、なんでもない」


 村雨は、酷く暗い目をして、嗤っていたのである。






 理由が己の外にあれば、人は容易く暴力を振るう。

 例えば、誰かを守る為という大義名分であったり、或いは上からの命令であったり、周囲の同調圧力であったり。

 そういったものが集まれば、人間は野の獣よりも攻撃性を露わにして、敵の喉笛を食いちぎるのだ。

 人とて、狂って、空に吠えるのである。

 遠鳴きが響くのは、頬の裏側まで凍て付くような、寒い夜であった。

 朝からの曇り空は何も変わらず、洛中に蓋を降ろしている。

 北西から街へ吹き込む風には、雪の粒が、ほんの小さく混ざっている。

 然し、徒党を組んで肩肘いからせ歩く、皇都守護の小班の一つは、積もる雪をも溶かさんばかりの熱を帯びていた。

 彼等は今朝、二条城の門前に、無残な死体が置かれていたのを、自らの目で見たのである。

 彼等は戦場を知っている。無残な死も、無論、知っている。

 だが、彼等が見た死体は、それとは趣を異にするものであった。

 その死体は、飾り立てられていた。

 肋骨を外開きの橋に変えられ、先には自らの内臓を吊るされた、丁寧に壊された人体。

 検死をした医師によれば、臓腑の幾つかは、素手で引き抜かれたものだという。

 死んでから解体を終えるまで、きっと、数分程でやってのけたとも見ている。

 死体の顔は、生前の恐怖がべったりと張り付いて、歪に変形したままであった。

 誰がやったのか、何が目的でやったのか、何時の間に、どういう武器を用いて――それら全ての思考は、湧き上がらなかった。たった一つ、〝どうしてここまで出来るのか〟だけが、彼等の脳髄を埋める疑問であった。

 洛中に獣は住まない。野良の猫が、塀の上を歩くばかりである。

 生きる者に満ち溢れた筈の街で、動く気配は幾つ有るか――殆ど見つからぬ程に静まり返っている。

 このまま何も出るなという祈りと、何か有れば我らがとの思いが、四と六に割れて、守護隊小班の腹に渦巻いて居た。

 

「異常は、どうです?」


「有りません、加奈さん」


「班長」


「すいません、班長」


 小班が、寺の焼け跡の前で立ち止まると、班長を務める女――加奈は、部下の若い男に、周囲を確認させた。

 ふた月と半ほど前に、洛中を一飲みにせんと、夜焼きが有った。狭霧兵部の命による、仏教徒の虐殺である。

 それで焼け落ちた寺の残骸は、殆どは片づけられたが、こうして残っているものもある。

 黒く焦げた木材やら、焼けてひび割れた瓦やらが、規則性を失って積み重なった、小さな山が、そこには有った。

 場所が場所ならば、子供が昇って遊びたくもなるだろう程度には、緩やかな山である。


「けども、不気味な場所ですね、加奈さん」


「だから」


「こんなとこには、誰も立ち止まりませんよ、加奈班長」


 然し、誰も好んでは寄りつかない。

 釘やら、陶器の破片やら、危険物が幾らでも紛れている山だ。

 事によると、下の方には骸骨の一つや二つ、埋もれているかも知れない。

 その山の麓の方、少しだけ大きな瓦礫を選んで、加奈は腰掛け、言葉で戯れようとする部下に、少し呆れたように額に手を置く。

 穏やかな女であるが、腕は立つ。それで、訓練を付けて欲しいと跳ねっ返りの部下が言い出して、適当に叩き伏せたら懐かれて、この有様である。不快では無いが、周りの目の事もあり、いちいち言葉で訂正するのが煩わしい。

 座ってしまえば周囲の男達に比べて、半分程の高さも無くなる加奈は、どうにも威厳という点では、長に向いていない様子である。


「はぁ……一度、此処で休憩を取りましょう。〝目〟と〝耳〟は欠かさないように」


「はっ! ……わざわざ、此処で?」


「誰も来ないなら、誰の迷惑にもならないでしょう?」


 柔和な声で命じて、加奈は命じた。

 刀の鞘を地面に、杖のように置いて、柄尻に手を重ねて置き、更にその上に顎を乗せる。

 ぼうっとしているように見えるが、目を凝らしているし、耳を澄ましているし――部下に命じ、手は打たせた。

 〝目〟と〝耳〟――探知魔術の一種の、俗称である。

 単純に、遠くまでを見通せるようにしたり、遠くの音を聞き取れたりするようになる、そんな術だ。

 下手な術者だと、近くの光で目を潰しかけたり、近くの音で鼓膜を痛めたりするのだが、この小班は、加奈の教えが良いのか、そういう事態に陥る者は居ない。皆が皆、全く完全に、周囲に警戒を払っていた。

 十数人の監視網――訓練を受けた兵士が作る、それである。

 猫どころか、鼠の一匹、蚊の姿さえ、決して逃がしはするまい。

 近くの民家の中で、寝苦しそうに姿勢を変える音がする。

 障子の向こうで蠢いているのは、夜間だというのに刀の素振りでもしているのか、筋骨隆々の男の影だ。

 雲の合間に、鳥が飛ぶ――珍しい事に、梟である。山ならばいざ知らず、街で見る事もまず無いだろう。

 小班の面々は、まるで書物に示された文字を追う如く、周囲の全てを把握していた。

 然しこの夜、最初に異変を察知したのは加奈の、〝目〟でも〝耳〟でもなく、第六感とも言うべきものであった。


「樋井」


「はい?」


 先程、周囲の確認を命じられた若者――樋井を、加奈が、指先を内側へ折りたたむような動きで招きよせた。

 名だけを呼ばれた――来い、とは言われなかった。その異常を察して、樋井は足音を消した、猫のような歩みで、加奈に従う。

 加奈は、瓦礫の山を登る。低い山を登るのに、たっぷりと、百も数えるまで時間を掛けたのは、やはり音を立てぬ為だ。

 何を見た訳でも無い。何を聞いた訳でも無いが、息を殺して、登って、


「……!」


 そこに、倒れている女を見つけた。

 瓦礫の山の頂点を挟んで、ちょうど先程女班長が座っていた所と正反対の位置に、仰向けに、女は倒れている。

 黒っぽい着物の帯が乱れ、内側の襦袢までが乱れて、肌を夜空に晒している。

 胸の中央から臍を過ぎるまで、椀に溜めてぶちまけたような、くすみ始めた赤が――血が、広がっていた。


「あなた!」


 加奈は一足で駆け寄り、女の上体を胸に抱き起した。

 肌の色から、生きているだろうとは思うが、然し尋常の寝姿では無い。

 怪我でもしていたか、或いは襲われたか――血に濡れる事も厭わず、女の胸に手をやった。

 拍動は強い。触れた限り、身体の前面に怪我は無いように思える。古傷は有るが、それも一つか二つのものだ。

 口元に耳を運ぶ。規則的な呼吸が、確かに聞こえてくる。

 ――寝ている?

 まさかと、加奈は、女の姿を改めた。

 誰が、冬の寒空の下、瓦礫の上で、この姿で安らかに眠るものか。


「あなた、どうしましたか、あなた!」


 強めに揺り動かしながら、背や腕にも触れる。

 出血は、やはり、無いように思える。

 絹の上からでは分からぬような、強い体をしているのも分かる。野生の獣は鍛えずとも、皮膚の下に強い筋肉を持つが、それに似ているかも知れない。然し、どちらかと言えば戦う為の筋肉というより、舞いを習う者が身に付けるような、柔らかく、粘り強い生木のような体である。

 背は、女としては高い。樋井が五尺と六寸あるが、それと然程変わらない。

 その背を完全に覆って、腰を過ぎる程、女の髪は長い。

 指に通せば、指の隙間から水のように零れて行きそうな、見事な黒髪である。

 加奈は、実際に、その髪を手に取った。

 滑らかな毛髪にこびり付く赤黒い塊は、これも、乾いた血である。

 頭に傷は無い――それも、分かった。


「樋井、離れた者を呼び集めなさい! 誰か、医に長けた者が居れば――」


 加奈は、女を胸に抱いたままで、樋井に命じた。

 事情は知らぬ。奇妙ではある。

 だから一人で当たりたく無いと――臆病も少し、顔を覗かせたものだろう。

 女が怪我人であるのか、或いはそうでないのか、自分では測りきれぬという事も有る。

 応と、樋井が走り去ろうとして、


「加奈さん!」


 止まり、樋井が叫んだ。

 班長だ、と何時ものように訂正しようとして、加奈は、声が出せない事に気付いた。

 腹から持ち上げた空気が、喉にまで届かないのである。

 息を吸いこんでみても、口から入った息が、腹まで降りていかないのである。

 加奈の胸が、縦に真っ直ぐ刃を入れられて、左右に切り分けられていた。


「ぁ、……ぇ?」


 喉をせり上がる筈だった血は、其処まで届く前に、途中に開けられた胸の穴から、間欠泉のように噴き出した。

 その泉に、女は左手を突き込む。

 加奈の胸の中で、肉が千切れる、ぶつんという音が幾度も聞こえた。

 膝が崩れ、加奈が瓦礫の山の上で、頭を麓に向けて、仰向けに倒れる。

 その胸の中から、女は左手を引き抜いた。

 女の左手には、まだ温度を残したままの、加奈の心臓が有った。


「きっ――貴様ァッ!」


 樋井が、声を裏返らせて、瓦礫の山を駆け上がった。

 掛けながら、腰の刀を右手で抜き、併せて左手を前方に突き出す。

 怒りというのも生温い、煮えたぎった感情に動かされながら、樋井は冷静に、口の中で言葉を紡いだ。

 単言による詠唱――魔術の行使。

 用いたのは、身体の硬化術である。

 時間を掛ければ、全身を鋼のように変えられるが、片腕だけで良いならば、ただの一言で済む程度には、樋井は魔術に長けている。

 女の武器が何であるか、樋井はまだ見ていない。

 だが、人間の胸を容易く裂いたならば、相当に切れ味の良い刃物であろうとは踏んでいる。

 それを、この左腕で受ける。

 多少は斬り込まれるかも知れないが、例え斧を持ってしても、斬りおとす事は出来ぬ筈だ。

 その間に、右手の刀で、女を斬る。

 確実に殺し得る算段である。


「しぃいいいいい――」


 噛みあわせた歯の隙間から、漏れ出す息もそのままに、樋井は突き進む。

 女は、眠たげな顔を見せてから、右手を持ち上げた。

 それを、樋井は見た。

 女の得物は、短刀が一振りである。

 殺せる。


「――いいいいいいっ!!」


 短刀目掛け、左手を突き出す。

 同時に、女の左脇腹目掛けて、刀を振るう。

 裂帛の気勢を拭き出した樋井の踏み込みは、氾濫した川の如しである。

 一方向に進む事だけを思っている、そして何があろうと止まろうとは考えない、濁流が、樋井である。

 女は、その流れに、逆らいも飲まれもしない。。

 斜めに一歩、樋井のそれと同等か、それ以上の速度で、突き出された左腕の外側へ抜けて、


「くふっ、ふふ」


 女が笑う。

 すると、ごとん、と樋井の左腕が、肩ごと落ちた。

 痛みを覚えるより先に、女の短刀は、樋井の背骨と首の骨を、背後から三度、突き刺した。

 悲鳴などは上がらぬ、上がる筈も無い、迅速な殺人劇。

 然し、加奈をそうしたような、過剰の破壊は与えない。

 女は手短に、樋井を殺してのけた。


「なっ……!?」


 異変を察知して、やや広く展開していた小班の面々が戻ってくる頃には、女は瓦礫の山を降りていた。

 得物はやはり、短刀が一つ。

 刃は、六寸よりは長いが、七寸も無い程度の、凡庸な刃物である。

 既に二人の血を啜って、たんと赤くなった刀身に、女は口付けた。

 女は、唇に紅を差していたが、血の赤は元の色よりも鮮やかに、女の冷たい顔を彩る。

 そうして、べったりと赤が広がった顔で、毒々しく女は笑うのだ。

 それが、皇都守護の小班の、戦士たる精神を逆撫でした。


「っぎ、ぃいいいいいおおおぉっ!」


 叫ぶというよりは、吠える。

 同時に二人、同じように大上段に構えて、女に斬りかかる。

 受けた刀ごと相手を両断せんばかりの剛剣が、二つ同時である。

 挟むように向かった――左右に逃げ場は無い。

 然し女は、当たり前のように、横へ飛んだ。

 二人の男のうち、自分の左手の側から攻め込んだ相手へ、胸の中へしな垂れかかるように潜り込んで――男の脇腹から、一目で致死量だろうと知れるだけの血が、噴き出すのではなく、椀を倒したかのように、ごぼっと零れた。

 右手側の男が、空ぶった刀を今一度振り上げて、女の頭蓋へと振り下ろす。女が一歩だけ足を進めて短刀を振るうと、右手側の男の両腕が、肘で斬られて、路上に落ちる。


「ぐう、ぅがあああぁっ!?」


 耐えられる筈も無い激痛に、吠える声も、長くは続かない。女は次の一振りで、右手側の男の首を、花を抓んで手折るかのように、訳なくすとんと斬り落としたのだ。

 黒い着物の間に見える、白い肌――胸も腹も、脚も股も、赤の濡れ化粧が施されて、女は高らかに喘いだ。

 抱かれて果てる時の、切羽詰まった声にも似せて、殺しの喜悦を女は歌う。

 身をくねらせて、淫らに舞うように。

 身に燻る熱を、寒空へ逃がそうとするように。

 左手で己の体を愛撫しながら、女は鳴き、随喜の涙さえ流した。

 伸びやかな嬌声で、兵士達の耳を犯しながら、女は一度、強く身を震わせた。

 ――これは、何だ?

 理解の及ばぬものを、人は恐れる。

 人か――いやいや、まさか。

 獣か――いやいや、そんなものでは。

 ならば、鬼か――鬼ならばまだ、分かろうものだ。

 兵士達の理解に於いて、この女は、もはや何にも属さぬ一個の怪物であった。


「ひ――ひゃあああぁっ」


 誰からでも無い。皆が、ほぼ同時に、女に背を向けていた。

 悲鳴が上がったが、それは女の声だけでなく、男の声も有る。

 良く知った道――詰め所への道を、彼等は走った。意識的にか、無意識にか、皆、帰ろうとしたのだ。

 つまりは、同じ方向へ走ってしまった。


「ふふっ、ふふ、ふふっ」


 また、女が笑った。

 体の芯から悦が湧き上がって、喉を通り、唇を押し上げた時、初めて声に切り替わった、そんな声だ。

 その声が聞こえた時、最後尾を走る一人が、首を落とされた。

 首を失ってから、その兵士は二歩だけ走ったが、その横をすり抜けて、女はまた別な一人に斬りかかっていた。

 ころり、ころり、人の部品が落ちていく。

 左右を問わず、腕が落ちる。

 背の肉の隙間から、切り離された背骨がはみ出して、落ちる。

 頭が、空を睨んで、或いは大地を睨んで、落ちる。

 骨と肉を切り離しながらも、女は全く力を使っていないような軽い足取りで、兵士の群を追い続けた。

 残りは、二人になっていた。

 体が大きく、特に体力のある二人である。だから逃げられたのだが、それも長くは持たないだろう。

 そんな二人の行く先は、丁度二股に別れていた。

 左右、どちらの道も薄暗く、足元は悪く、何れに逃げても同じであろう。

 大男二人の内、髭面の男は、右へ。皺の深い男が、左へ逃げた。

 女は、躊躇わず右へ走った。


「ぃ、い――ぃいいいいっ、いいいいいいい!」


 足音が離れていかないと分かって、髭面の男は、泣き喚きながら、手足をがむしゃらに動かした。

 刀も、舶来物の銃も、弾薬も、何もかも投げ捨てて、逃げていこうとした。

 知った道である。何処まで走ればいいかを、良く知っている。助けを得られるまでの道程の、その長さを知っている。


「ひいいいいいいっ! ひっ、ひいっ! ひいいっ!」


 大の男が上げるような悲鳴では無かった。

 女子供でさえ、こんな声を出す事は、まず無い。

 この声を出せるのは、負けたものだけだ。

 完膚なきまでに、己の負けを認めた者だけが、全ての尊厳と共に口から吐き出すのが、この音だ。

 戦いを放棄して、髭面の男は逃げていた。

 その右腕が、肘から先だけ、地面に落ちた。

 それでも、足を止めない。

 次は、右肩から先が落ちた。

 重さのつり合いが崩れて、脚の運びが狂う。

 それでも、足を止めない。

 左手首、左肘、左肩。右膝までをバラされて、漸く髭面の男は倒れた。

 その首を、女がさくりと刈り取って、頭を毬のように蹴り飛ばした。

 倒れこむ体の脚を、付け根から切り落とす。

 膝を切り、足首を落とす。

 髭面の男の残骸から、女は胴体だけを選んで掴み、仰向けにさせて跨る。

 変わらず、帯も結ばぬ艶姿――然し、血みどろの凄絶な色香である。何人分とも分からぬ赤に染まった左手を、女は、むくろの腹に置く。

 体を倒して、胸の、心臓の真上に口付けを落としながら、女はむくろの胴体を、逆手持ちの短刀で抉る。

 小さな肉片を、幾つも飛び散らせて、ようやく女は、この玩具に飽きた。そうすれば、残りは一人――遠く逃げて行った、顔に深い皺を刻んだ男だけが残る。

 女は軽い足取りで、道の分岐点まで戻ると、その風情を一変し、正しく狩る側の顔になって、恐ろしい速度で走り始めた。

 蛇は音も立てず、驚く程の速さで動いて見せるが、丁度、そういう具合である。上下に体を揺らさず、女はするすると夜をすり抜けて行った。

 そうして、少し狭い道に入った。昼日中であったとしても薄暗いだろう、建物の影である。

 追って居た相手は、確かにこちらへ逃げ込んだ筈だ――足音や、呼吸音や、色々で、女は確信している。

 何処を通って走ったかは良く分かる、新雪に足跡がはっきりと見える。隠れる場所を探して、右往左往したのも窺えるけれど、悲しいかな、この辺りの道は熟知して居る。そうでなけりゃあ、街の中で獲物なぞ追うものか。

 息遣い、汗、涙やら唾やら撒き散らしたもの、全て想像出来る。年月と共に深い皺を刻んだ顔が、どう歪んだのかを想像出来る。

 ――悦い。

 嬲るだけでは、もう足りぬ。

 掻っ捌いて、赤を浴びたい。

 ぐんと速度を増した足の前に、何かが投げ出された。

 人間の、腕だった。


「……?」


 初め、女は理解が出来なかった。こういう事をするのは、自分の特権の筈なのだ。

 自分がやりたいと思ったから人の手足は落ちるのであって、誰かが壊した中古品を、犬に骨でもくれてやるような投げ方をするのは、道理に沿わぬ事である。


「……ぉ、ぉお」


 理を、女は尊重する。

 これは理を乱す行為である。

 また一つ、また一つ、関節部で壊された人体が、与えるように投げ出されて、女の前に積み上がる。

 肉も骨乱雑に、然し短時間で斬ったと見えて、肉の内に血が残っている。それが重なると、重さで血が染み出して、忽ちに雪を赤で染めた。

 これは、女の理を、無茶苦茶に踏み躙る行為である。


「おおおぉおぉおおおおぉおぉぉぉ……っ!!」


 女は、これ以上の狼藉に耐えられなかった。

 積み重ねられた部品の山を蹴り飛ばし、視界から消し去ろうとする。

 赤く変わった雪を踏み散らして、元の白に戻そうとする。

 そういう無駄な試みをする女の元へ、歩いて近づく者があった。


「喧しいぞ、手間を省いてやったのだ。……然し、良いなぁ、解体は。生きている間にやるのが、最も良い。だろう、お前」


 その男は、三十は軽く超えて居るが、まだ四十にはならぬ程の歳であった。

 髪に白いものが混じってはいるが、顔の皺は少なく、背筋も真っ直ぐ伸びている。胸や腕や脚が、常人と比べれば分厚いので、背丈自体も高いが、それ以上に背が高く見える男である。

 顔立ちも、かなり整っている。背丈と合わせて見れば、西洋の人間とも間違えかねない、鼻筋の通った顔なのだが、表情というよりはもっと根本的な、雰囲気ともいうべき部分で、気難しそうな内面がにじみでている。

 何よりも、男は〝こわい〟。

 恐怖に理由は無い。生きる為に培われた、これに近づいてはならないという本能の警告が、恐怖である。

 この男は、ただ其処に立つだけで、その警鐘を激しく鳴らす。

 男が歩くと、その周りの夜が色濃くなったように見える。男が消えた空間から、夜の色が薄れたようにも見える。

 近づいてくる夜の色に飲み込まれれば、二度と無明より抜け出せぬやも知れぬという、根源的恐怖を、従者として引き連れた男である。


「……で、誰だ、お前は。俺の街で何をしている」


 白髪混じりの男は、左手に掴んでいたものを、高く投げ上げた――女の狂刃から逃げていた、皺の深い男の生首である。

 高く、高く、女の背丈の何倍も上がって、落下を始めたそれを、


「殺すぞ、女」


 狭霧兵部和敬は、右手の大鋸で二つに割った。

 脳漿の雨を浴びて心地良さそうに、偉丈夫は、災禍の笑みを撒き散らした。

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