黒鷺のお話(1)
無惨な亡骸が、路上に打ち捨てられている。松風 左馬は、天を仰ぐ虚ろな眼球と、視線を重ねていた。
屍に触れず、眺める。生きていれば、愛嬌があると言われたのであろう顔が恐怖に引きつって、大きく開かれた口の中には、屍自身の内臓が押し込まれている。――子宮であった。
胸を左右に切り分けられ、肋骨が裏返って、肉の間から突き出している。胸骨は外側に無い――おそらく、内臓を取り出して作った空洞に、落とし込んだのだろうと思われた。
そして、体の外側へ露出し、湾曲した剣山のようになった肋骨の先には、女の内臓が吊るされていた。心臓に始まり、肺も、胃も、腸も――。
殷の紂王は酒池肉林を楽しんだと言うが、内臓が垂れ下がる肋骨は、白木に掛けられた肉にも見える。然し池を為すのは、酒では無く、咽せるような血の香であった。
風向きが故とは言えど、何故、この臭いに気づかなかったか――訝る左馬は、足音を二つ聞いた。
「師匠、今……っ!?」
「……あら、死体ですねぇ……これは酷い」
正しく猛獣のように跳んで来たのは村雨、その後を女医者が、口と鼻を布で覆いながら歩いて来た。
「村雨。〝今〟と言ったか?」
「え……は、はいっ!」
左馬は、村雨の顔を見ず、視線を屍に向けたままで問うた。
応が返って、考える。多少風向きが悪くとも、これだけの血の嵩、人狼の鼻が嗅ぎつけぬ筈は無い。
人体の胸を開いて臓腑を掻き出すなどすれば、一里先からだろうが、嗅ぎつけかねない鼻なのだ。
「駒鳥先生、そこの死体を――」
「もうやってます。……うわぁ、ざっくりと」
女医者――名を、駒鳥という――は、屍の開かれた胸の中に、右手を突っ込んでいた。
血と肉を、指で掻き回す音がする。液体に空気が混ざって、ぐじょ、ぐじょ、と攪拌の音――気味が悪いと、左馬は思った。
「……温かいですねぇ、とても」
然し、駒鳥が発する言葉の方が、まだ幾分か気味が悪かったかも知れない。
「温かい……? その、死体が、かい?」
「とっても。冬の夜なのに、切り開かれた胸の奥まで、まだ温かさが残っています。流れ出た血も同様ですから、この人が死んだのは――早くても数分前でしょうねぇ。
殺し、開胸し、そこから内臓を引き摺り出して……〝華やかに飾り付けた〟んです」
強烈な臭いに、村雨は鼻を抑えていた。人狼たる村雨には、これも食欲を掻き立てる、馥郁たる香りだ。だが、人間に焦がれる理性が、それを許さないのである。
血塗れの手を引き抜いて、駒鳥は、爪に挟まった肉を落とす。それから、服の裾で手の血を拭って――額に浮いた汗を、手の甲で拭う。冬の夜であるというのに、女医者の額には、汗がじわりと滲んでいた。
「松風さん、ちょっと行けば皇都守護隊の詰所が有ります。人を呼んでもらえますか?」
「……いや、村雨に行かせよう。村雨、南に走れ、灯りが有る所までだ。その後は――」
言われるまでも無く、村雨はこの場を離れようとしていた。
これ以上、飾り立てた死を眺めていては、毒される。
ただの死ならば、戦場に幾つも転がっている悲劇である。村雨はもはや、悲劇の看過に慣れてしまっていた。
だが――こういう死の作り方は、何処にでもあるものではなかった。
道楽目的で製造された屍――殺す事そのものが目的の、殺人行為。それ以外の目的を何一つ持たない、無益な、非生産的な死。
だのに、その死には情熱が込められていた。
そればかりでは無い、情熱の所以を、村雨は理解出来てしまいそうだったのだ。
「――その後は、みつの無事を確かめたら、日が昇り切るまで絶対に外に出すな。分かったか?」
「はい、必ず……!」
最短距離――通りではなく、屋根の上を走らんが為、村雨は跳躍する。
未だ色濃い血の香りが、村雨の後ろ髪を引いた。
それから程無くして、市中を見回りする兵士達が、村雨の通報で駆け付けた。
惨たらしい死は見なれている彼等だが、酷く壊された死体には、動揺を隠せずに居た。
人目につかぬ内に、死体は片づけられた。暗い夜であったのが幸いした。
そして、今は、翌朝となっていた。
先の昼に降った雨が土に凍みて、夜の底冷えで凍り付いた、白い朝。靴で大地を踏むと、霜がぱきぱきと折れて、足運びに合わせて鳴る。
空には鉛の雲が圧し掛かっている。分厚くて、重そうな、水の粒をたんと含んだ雲だ。
そのうち、雪になるのやも知れない。洛中の冬は愈々厳しく、人の頬を打ち据えた。
「――では、死体を見つけたのは」
「ああ、私だ。私が誰かは、狭霧兵部殿にでも聞けばいい。私のやり口じゃないとも言ってくれるだろうからね」
皇都守護隊の詰所は、民家よりもなお隙間風の入る、粗雑な作りをしていた。ふすまが傾いていて、ぴたりと閉じないのが主因である。
そのせいで殆ど吹き曝しの部屋に、左馬は居た。
聴取を担当しているのは、守護隊ではそこそこに地位の高い、髭の濃く長い男である。戦地には出されないが、度胸のある男という事で、危険極まりないと噂の左馬に宛がわれたのだ――まっこと運の無い奴であった。
「おかしな音を聞いて、外へ出た。そうしたら、もう〝飾られた〟死体が有ったんだ。死体と逆の方向に、女が一人歩いていった。私が見たのはそれだけだ」
「早業だな」
男は、左馬の言を信じていないような口ぶりで言うのだが、然し目はと言えば、左馬を信用はしていないものの、眼前の女に疑いを向けているという風でも無かった。
人間を酷く殺すのは、男の場合が多い。何年も一国の首都を守っていれば、人殺しの傾向は読めるものである。
松風左馬は凶暴で、確かに狂気を孕んだ人格ではあるが、〝こいつ〟では無い。こいつならもっと誇るように、堂々とやるのだろうと、守護隊の男は思った。
「先生、どう見ますか」
「この駒鳥 荒辺が保証しますが、刀傷の一つでほぼ即死ですねぇ。首から胸に掛けてを真っ直ぐに、一太刀で切り分けられています……刃は三寸以上も沈み込んで、胸骨も左右に割って。血は間欠泉のように噴き出したでしょう。
その後、肋骨や内臓を用いて〝飾り付け〟ていますが、これは――」
女医者の駒鳥は、詰所で風呂を借りて、今はすっかり綺麗な手になっていた。細筆を手に、幅広の紙に、つらつらと達者な文字を並べている。
硯で墨をすりながら、駒鳥は暫し、発すべき言葉を選ぼうとした。そのままに伝えて、錯誤は生まぬものか――
「――素手で、解体されています」
「素手……?」
どうなろうと、良しとしたか。言葉を半ばで区切ってから、残りを一気に吐き出した。
「つまり……切り開いた胸から手を押し込んで、内臓を丁寧に指で切り分け、傷つけたり潰さないように引き出し、同じように折り返した肋骨の先に引っ掛けて――邪魔な筋肉は、多分これは、指先で押し裂いてますねぇ。
嫌な言い方をすると、人間のお腹の中に手をつっこんで、ぐちゃぐちゃに掻き回した後、中身を引っこ抜いた……これを、体温が死体から奪われる前に済ませた。以上が私の見解です」
「う、ぉ」
守護隊の男は、声を詰まらせた。駒鳥の見解は十分以上に理解出来たが、そういう事を仕出かした何物かが理解出来ぬ――そういう、混乱の呻きであった。
一体どんな恨みが、人をここまで変形せしめるのか――そう思う程の、激しい損壊である。
しかも、それの一部は素手でやったと言うのだ。
「……これは、またやるな」
「やるでしょうねぇ、ええ」
男が続けて呻くと、駒鳥が同意する。どちらも、確信に満ちた目である。
「こういう人間は、愉しみを捨てられない。一度始めたならば、必ず次をやるでしょう。捕まるか、自分の胸を同じように切り開くまで、もしかすると直ぐにでも――」
駒鳥が言い終わる前に、がたん、と物音がした。
ただならぬ気配に、守護隊の男が腰を浮かせるが、それが立ち上がりきらぬうちに、青い顔をして、若い女が飛び込んでくる。
「どうした!?」
男が訊くと、
「二条の城の、門に」
駆け込んできた女はそれだけ言って、畳の上に膝を着く。
全速力で駆け込んできたのだろう、息も絶え絶えになって、ぜえぜえと喉を鳴らしている。これ以上の言葉は無かったが、寧ろその事実が雄弁に、この場に居る皆に告げた。
「……恐ろしく、踏み込んだな」
「外の門か。それとも堀を超えた内門か……さて、私を此処で足止めしておく理由は、無くなったんじゃあないかい?」
左馬はいつの間にか、縁側に足を出して靴を履いていた――見に行くつもりであるらしい。
守護隊の男が、髭をばさっと羽打ち鳴らして頷き、
「二つ、訊く事がある。死体から離れるように歩いて行った女とは、どんな姿をしていた?」
怖いくらいに目をひん剥く。近くでは何人か、記録役の下っ端役人が、筆を持つ手の甲に汗を滲ませて、一言も聞き落とすまいと構えていた。
「……遠目に見たから、正確な背は分からない。低くは無い――少なくとも私よりは高いように見えた」
語り始める左馬は――明らかに、表情が険しくなる。
それは、自分が続けて言おうとしている言葉が、どういう反応を呼ぶか分かっているからであったのだが、
「男物の着物だったと思う。血を浴びても濡れては見えないような、真っ黒だったから、意匠までは見えない。けれど……足の動きが見えなかったから、袴を穿いていただろう。
鍔鳴りがしたし、死体の傷も駒鳥先生が言うには刀傷だ。刀を持っているのはまず間違いなくて――それと、髪が長い。こっちは揺れるのが見えたが、腰を過ぎる程の――そうだね、背にもよるが三尺は有るだろう、見事な黒髪だった」
言葉の途中から、周囲の役人達が顔色を変えたのが、はっきりと左馬には見えた。
「――黒八咫か!」
「さあ、どうだろう。あれとも遣り口が、違う気がするんだが……」
黒で揃えた男装と、それに釣り合わぬ三尺の黒髪、刀の腕。市民ならば忘れても居ようが、皇都守護隊ならば、忘れる筈も有りはしない。
三か月程前、洛中に現れた女剣士――政府を相手に大立ち回りし、果ては最精鋭部隊〝白槍隊〟隊長・波之大江 三鬼とも対等に渡り合った化け物。兵部卿の娘に酷く傷を負わされたと言うが、死体も未だに見つかっていない。
それが戻ってきたのだとしたら――人体の損壊劇は、確かに頷けるものだ。容易くやってのけるだろうと、守護隊の者達は確信していた。
「……二つ目の質問だ。次の死体の検分まで、駒鳥先生の護衛を頼めるか。駒鳥先生、ご同行願います」
「はいはい、直ぐに向かいましょう。……治せない人間は嫌いですねぇ、人は生きてるからいいんです」
丹前を二枚重ねて、その上に茶羽織――駒鳥は酷く着ぶくれて、下駄に足を通した。
夜からずっと起き通しで、顔色もあまり良くは無いが、それは身体の疲労ばかりでなく、精神の疲労に由来する点が大きい。
欠伸を片手で堪えながら外へ出る駒鳥を、左馬が追い掛け、立ち上がる。
「……あいつが女で楽しむなら、やり方がなぁ、違うと思うがなぁ。……ああ、構わない。引き受けようとも、その程度――」
既に靴は履いている。具合を確かめるように幾度か飛び跳ねて――それから、適当な石の一つに、目を付ける。
踵で、それを蹴った。
転がるのではなく、浮いて、地を這うように真っ直ぐ、石は飛んで詰所の床下へ消えた。
「……? 何をしている、松風 左馬」
「いいや、なんでも」
短くそれだけを答えて、左馬は誰よりの先に歩き始める。後を守護隊が追って、あたかも左馬が彼らを率いているような、おかしな構図が出来上がる。
彼らは白昼、街の中に有りながら、隘路を行く兵士のように気を張り詰めて、互いの間隔を狭めていた。
誰にも――松風 左馬にさえも、畏れが有った。未知への警戒は、獣から分岐した筈の人間が、僅かに残した野生であるのかも知れなかった。
そして、或る者は二条へ向かい、或る者は建物の奥へと引っ込み、詰所の縁側から人の気配が消えた頃である。
「……っしょ、よい、しょっ……ふぅ、この国の建物は床下まで小さい……!」
縁側の板張りの下から、匍匐前進で這い出した者が居た。
西洋人に特有の金髪を、男のように短く切った少女である。
年は十七か、十八か、そんな所だろう。人種の違いか、日の本の女に比べて起伏に富む体形をしているのだが、だぼっとした衣服の為に、あまり色気というものは感じさせない。
然し、健康的かどうかで問えば、全くその通りであると誰もが頷くだろう。白い肌の頬は、寒さもあるのだろうが、血色良く赤味を帯びている。
「に、しても……バレてたわよねぇあれ。おー、こわっ……!」
少女は、左腕を撫でさすりながら小声でそう愚痴めいた言葉を吐いた。
左馬が床下へ蹴り込んだ石は、過たず少女の腕を打ち据えていたらしく、赤黒い痣が出来ている。
痛みは然程でも無いのだろうが――表情は多少引きつっているものの、平常と言って良いだろう――知っているぞとばかり、石を蹴り込まれて、心底肝を冷やしたらしい。
「それにしても、それにしても、ふむ、ふむ。惨たらしい死体ですか……」
けれども少女は、不屈であった。
塀を一足で飛び越える健脚振りを披露しながら、唇に弧を描かせる昂りは、事件を知らしめねばという少々ずれた義務感と、
自らの功名心を内包した好奇心に支えられる。
「なれば今こそ! 不定期刊〝つぁいとぅんぐ〟、非公認にて復刻の時よ!」
ルドヴィカ・シュルツは虚空に宣言して――それからそそくさと、建物の影に隠れた。
この少女、過去に政府公認で『新聞』を作りながら、その紙面で政府の行為に批判的な文章を書き、販売許可を取り消されているのである。
もっぱらの悩みは、木組みで原板を作ったとして、刷る者がいないという事ではあったのだが――もはや今の彼女を留めるのに、その程度の懊悩では足りない。
ルドヴィカはこっそりと、守護隊を尾行して、二条へと向かった。た、たん、と小気味良い足音は、雪に染み込んで、遠くまで届かずに掠れて、消えた。




