鋼拳のお話(3)
それから、中三日を開けて、四日目になった。
その日は朝から暗天が続き、冷たく、また薄暗い日だった。
先に二日程雪が降った為か、路上は凍り付いているが、馬車が転倒しない程度の氷である。
寧ろ凍て付くのは、風であった。くぉう、くぉうと風が鳴いて、肌に噛み付くような寒さの日であった。
「村雨、お前には一通りの打撃は教えた。投げ、絞め、挫きはまだ不足だろうが、この近辺の道場で、お前に勝てる奴はまず居ない」
「……なんですか師匠、いきなり気味が悪い」
村雨は、左馬に付き従って〝看板通り〟を歩いていた。ここを歩くと闇討ちを仕掛けられる事は良くあるが、戦場で出くわす幾百の槍、幾千の矢には遠く及ばない腕の者ばかり。左馬ばかりか村雨も、酷く傷を負う事は無くなっていた。
それは、村雨自身も自覚している。元より人狼の身体能力、狩猟の経験は、並みの武術家の非では無いのだ。
とは言え、それを左馬が称賛するなど初めての事だった。寧ろ普段は、未熟のなんのと謗られているだけに、その裏に何が有るのか分かりかねて、探りを入れようとしていた。
「いいや、本当の事だ。この私が教えたのだから、その程度は出来ていて当然だ――が。
私もこれで、好奇心が強くてね。お前がどこまで出来るのか、試してみたくなった」
「試す、ですか?」
「ああ。片谷木 遼道という男を知っているか?」
その名を聞いて、村雨は暫し考え込んだ。確かに数度ばかり、耳にした名前であるのだ。
「……〝破鋼道場の片谷木〟……?」
「そうだ、それだ」
幾らか考えて、確か狭霧兵部が口にしていた名であると思い出す。そうすると連鎖的に、幾つか思い出す事が有った。
片谷木は、村雨達と同じ『錆釘』に所属する者である。関西方面でつわものを上げて、兵部の口から三番目に名が挙がったのが、彼であった。
「あれも、比叡攻めの招集は掛かっていた筈なんだけどね。ついぞ応じないで、京にも戻らずに居たんだが、やっと数日前に道場へ戻って来たらしい。
道場とは言うが……まあ、真っ当な弟子はあまり居ないな。武家の子弟を何人か抱えて、月謝を取って、後は『錆釘』で働いて稼いでいる。道場破りも好んでは寄りつかない」
「強いんですか?」
「私は、勝った」
〝看板通り〟の中程、これまで何度か通り過ぎた、小奇麗な道場の前に、左馬は足を止めた。村雨も興味を持って覗き込んだ事は有ったのだが、常に人の気配は無く、留守を示す札が玄関先に吊り下がっているばかりであった。
今にして思えば、奇妙な事である。主が不在の間、気性の荒い連中が、その道場を荒らす事も無かった。時折、どこぞの娘が掃除にでも来ているのか、砂埃も積もらぬ様であるのだ。
「頼もう! 私だ、左馬だ!」
がん、がん、と戸を殴りつけてから、左馬は二歩ばかり下がって待つ。少しばかりすると、床板を軋ませる重量が、近づいて来るのが、村雨にも感じ取れた。程無く向こう側から戸が開かれた。
そこには、まだ三十にはならぬくらいの男が立っていた。道着を着た、六尺程の、体の分厚い男であった。
「おう、左馬か」
「そう言っただろう、私だと。健勝かい?」
「変わらずだ、上がれ……それは?」
男は――片谷木 遼道は、細い目で村雨を見る。細めているというより、目の周りの骨が厚くなって、瞼が狭まっているのである。幾度も殴られて出来た顔であった。
村雨は、軽く頭を下げる。顔が地面に向いている間も、頭にひしひしと視線を感じていた。見定められているのが分かった。
「私の弟子だ。お前と手合せをさせたい」
左馬がそう言うと、片谷木の中で何か、恐ろしいものが膨れ上がったような、そんな気配が漏れ出した。
見れば、顔も胸も、腕も脚も、兎角分厚い――そればかりをまず思うような男である。仁王像が動き出したような、独特の威厳を背負っている。静かな顔をしているのに、その体つきが凶暴であった。だから、抑えきれぬ気配が滲むのだ。
村雨は、自分の足が後退したがるのを感じた。危険から遠ざかろうというのも、これも獣の本能の一つである。
今、この瞬間に不意打ちを仕掛けても、この男はまるで造作も無く対処するだろう。確信を持てる程に、片谷木は既に、戦場に在った。
「鍛えるのではなく、手合せか」
「そうだ、手合せだ。存分に打て、こいつにも思い切り蹴らせる。村雨――私の弟子がどうやってお前に勝つか、私はどうしても見てみたいんだよ」
「……そうか」
腹の底に巨大な獣を収めたまま、片谷木は二人を招き入れ、板張りの廊下を過ぎて、畳の道場に通した。
広くは無いが、それでも五人ばかり同時に演武を為す事は出来よう。掃除の行き届いた、人の気配の薄い道場である。
だが、臭いは有った。血も汗も、もしかすれば反吐や小便や、酷く叩かれた人間が零すもの全てが、沁みついては拭われ、沁みついては拭われして出来る臭い。村雨も道場破りを散々させられたが、これまでの何処よりも過酷な臭いであった。
「どの程度の、手合せが望みだ」
片谷木は道場の真ん中に立ち、帯を固く結び直した。
左馬や村雨が良くやるように、体を慣らすように動いたりはしない。ぬうと突っ立って、そう問うのみである。
「殺さないでくれ、それだけで良い。それ以上ならどうなろうと、私が知った事では無いからね。……村雨、用意をしろ」
「……はい」
村雨は――此処まで、片谷木の持つ空気に圧倒されていた。左馬に名を呼ばれて漸く、思考が、闘争へと切り替わる。
そして、身構える。常の様な、右肘を前方に突き出し、開いた左手で顎を庇い、右半身を相手に向ける形だ。小刻みな跳躍が、畳をしずと鳴らした。
「――良し」
片谷木もまた、構えた。
左足が前、右足が後ろ、肩幅より少し広く開く。腰を落とし、右拳を鳩尾に沿え、左手は手刀を作って軽く突き出す。呆れる程に真っ当な、奇を衒わぬ構えであった。
村雨のように、歩を細かく刻みはしない。一度構えてからは、呼吸をしてさえ胸も腹も膨らまぬ程、岩の如く、そこに在るのみである。
何時の間にか、手合せは始まっていた。
村雨は小刻みに跳ねながら、右へ、右へと回り始める。同時に、片谷木の姿を眺めた。
例えるなら、男を粗雑に扱う桜が、珍しく好む類の人間だと感じる。無駄が無く、無骨で、そして強そうだ。
どれ程強いのかと問われると、正直、村雨では測れない。ただ、相当の腕であることは、既に探りを入れて分かった。
例えば、拳を少し引き下げて防御を薄めるなり、視線をあらぬ方向に飛ばして見せるなり、幾つも幾つも、村雨は誘いを掛けた。だが片谷木は、足の前後を入れ替えず、じりじりとにじり寄るだけであった。
並の拳士であれば、膠着に耐えられず、見えた隙に付け込まんとするだろう。自制の利く強さが伺えた。
「どうした村雨、攻めあぐねたかい」
左馬の野次が飛ぶ。実際に、その通りである。何をしても動じぬ相手には、初撃が特に悩むものだ。
だが――ならば、最も確実に当たり、確実に打ち倒せる技を。村雨は、腹を決めた。
「……ほう」
すると、片谷木が感嘆の声を零した。村雨の構えが変わらずとも、何かが変わったのを鋭敏に嗅ぎ取ったのだろう。
村雨は緊張のあまり、己の頬が吊り上がるのを感じた。目が平常のままに破顔した、歪な笑顔が仕上がっている。高揚と恐怖が程よく混ざると、人の顔はこうなるのだ。
村雨の左足――後ろに置いた足が、床を押した。矢弾のように、小さな体が進んだ。
片谷木は左手刀を顎の前に運び、不動のままに待ち受ける。村雨の構えから、拳打が主武器と踏んだのだ。
それを、村雨は裏切る。最初の一打は右踵での、片谷木の左爪先への踏み付けであった。肉の防壁が無い足の指が、全体重を支えられる構造の、踵の骨で打たれた。
然し――片谷木はまるで動じない。手刀をそのまま横へ、村雨の首筋目掛け振るうのだ。
「らぁあっ!!」
村雨は吠えた。身を沈め、手刀を潜って避けながら、右肘を突き出す。空隙の生まれた、片谷木の左脇腹へである。
片谷木が、右掌で受ける。
同時、左拳による鉄槌――小指側の分厚い肉を用いた、打ち下ろしの打撃が村雨の頭蓋を狙う。
村雨が、左の前腕を振り上げて止める。
そうすれば、片谷木の右脇腹が空く。村雨が、足指を踏み付けた踵をそのまま軸足にして、左膝を捩じ込むような蹴りを打つ。これが過たず、狙った箇所へ突き刺さる。
「……ふっ」
短かな吐気と共に、片谷木の右拳が動く。一度鳩尾まで引き、構えた高さから真っ直ぐに、拳を捻りながらの突き――膝蹴りを打ち終わった村雨の、肋を殴り付ける軌道であった。
丸い、左馬のそれと良く似た拳――骨も肉も皮までが硬く変じた、正しく鈍器である。誘いも掛けず、防がれぬような策も無く――然し、速い。畳など貫いてしまいそうな突きであった。
村雨は、それを躱していた。
「むぅ――」
唸る片谷木の右拳の上に、村雨は立っていた。右脚だけで飛び、左足で拳の上に降りたのだ。
直ぐ様、片谷木は拳を引くが、その時には既に、村雨はもう一度、宙空へ舞い上がっていた。
独楽を横倒しにしたが如く、村雨は縦に回った。回りながら落ち――胸に抱えた両脚を、ぐ、と伸ばした。両踵が、斧の如き重量と、矢の速度を伴って振り回される。
片谷木は、左手を掲げて受けようとした。受けた手を巻き込み、村雨の両踵が、片谷木の顔面に突き刺さる。血袋を叩いた時の、ぐしゃ、ともぐしょ、ともつかない音がした。
「あー……」
それを見ても、左馬は溜息を吐き出し、首を左右に振るだけであった。
片谷木は、直ぐに動いていた。顔に打ち込まれた村雨の両足を、左手一つで強引に――親指で左足首、中指で右足首を――掴み、床に投げ落とした。
「えっ――」
それは村雨には、全く居を突かれたものであった。
手応えは十分に有った。〝これ〟を感じた後で、敵が立っていた事は無い。狩猟に於いては野の獣、組手ならば様々な武術を学んだ者達――何れもこの手応えの後、暫くは抵抗の力を失うのである。蹴り足を引くより先に相手が動くなど、有り得ぬ事であった。
村雨はどうにか、両足から着地した。本能的に両腕を、胸の前で交差する。身体を後方へ傾け、床を蹴ろうとした。
「せやあぁ――っ!!」
逃れる村雨の身体に倍する速度を以て、片谷木の丸岩のような右拳が追い付く。
それは、受けも何も通用せぬ――〝日の本最強の正拳〟であった。
「……うわおう。片谷木、変わらないねお前」
たった一つ、片谷木が拳を振るった後――左馬は、諦めたような顔で言った。
「私は加減が下手だ」
「知っていたけれども」
村雨が、道場の壁にめり込んでいた。
後方へ身を逃しながら――相対速度をぐんと落としながら、受けた拳である。
両腕を交差した、最も強固な防御で、受けた拳である。
腕を貫いた衝撃が叩いたのは、胸だ。頭では無い。
だのに村雨は、磔刑に処された罪人の如く、壁にめり込んだまま、意識を失っていた。
「毎回、これかい?」
「大概は、最初の手刀で終わる。拳を振るったのは久しぶりだ」
「ふうん、頑張った方か。……で、修繕をどうするつもりなんだ、片谷木」
「……板で塞ぐ」
屋内という環境や、後先を考えぬ一撃。
破鋼道場と言う名には、何の掛け値も無いのだ。鋼をも打ち破る拳だからこそ、そう名乗るのである。
強さとは総合的なものであり、力も、速度も、戦術も、場合によっては容姿でさえ、構成要素と成り得る。そういう基準で比べたのなら片谷木は、左馬に一度、破れている。
だが――打たれても堪えぬ強靭な体と言うならば、片谷木に勝る者は、日の本に五指を埋める程も居るまい。
そして、拳の破壊力を比べるのであれば、恐らくは雪月 桜や波之大江 三鬼さえも凌駕して、この男は日の本一であった。
片谷木の鼻から、つうと血が垂れる。手の甲で一度拭うと、それでもう血は止まっている。
特に効いたという様子も無く、片谷木は道場の中央に正座をする。
「続けても、良いのか」
「お前が良いなら、私は部外者だ。文句は言わないさ」
「ならば」
片谷木は目を閉じて、静かに待つ。血が脈打つ音まで、聞こえそうな静寂が降りた。
しんとして座して、さてどれ程か、百も数えぬ辺りだろうが、村雨が息を吹き返す。
これが戦場であれば――仮定の話は虚しいが、仮に思うならば。村雨は幾度、殺されていただろうか。
首をかかれるか、心臓を突かれるか。いずれにせよ、数度、死んだ。
だが、村雨は、己が殺されたという自覚どころか、何を受けて意識が跳んだかさえ定かではないような、虚ろな目で立った。
埋まった体を、壁から引きずり出す。
足がもつれて、今にも倒れそうになる。両手を床に置いて、耐えた。
「――っは、かぁー……っ」
床に四肢を全て着けたまま、村雨は息を吐き出した。
左腕が紫色に変色している――折れてはいないが、骨に罅が入っていた。右腕も痺れていて、まだ拳が作れない。それ故、開手で床に触れさせる。
「良く立つものだ」
「そりゃあ、私の弟子だもの」
ふいごのような呼吸音を聞いて、片谷木は目を開け、右足から立ち上がる。岩の如き拳を握りしめ、また愚直に、初めと同じ構えを作った。飽く迄も、迎え撃つ形であった。
対する村雨は――両足とも、踵を浮かせた。両肘を曲げ、頭を低くする。それは、もはや人間の取るべき構えでは無かった。
瞳孔が拡大し、眼球の強膜は水色を帯びる。顎関節の可動域が増し、犬歯は肥大化し――口元にべったりと、血のように笑みが張り付いた。
「……左馬。殺さねば良い、と言ったな」
「間違いない。そうしなければ好きにしろ」
「おう」
片谷木の拳から、みき、と音がした。鋼を凌駕する拳を、更に握り込んで固めた音である。村雨はその音を、心地良さげに聞いていた。
ようやっと、村雨の中の獣が目を覚ました。
「っはは、あは……ぁあ、あっ!!」
後ろ二足が床を蹴る。村雨の体は床を這うように、低く、低く馳せる。その背が、片谷木の腰より低い程だ。
低く入る獲物には、打つ手が限られる。片谷木はこの時、最も簡単且つ、実践的な手を選んだ――踏みつけである。
左足が浮き、打ち下ろされる。人間の頭蓋など容易く潰せる衝撃に、床板が爆ぜる。
村雨は、膝の下を潜るように片谷木の足から逃れ、その足の外側にすうと立った。
「ふんっ!」
片谷木が、左腕を振るった。裏拳でも肘でも無く、前腕を丸ごと叩き付ける、技とも呼べぬ打撃である。
村雨は、水を掻き分けるような動きで、その腕を右手で受け流す。
流したとて、並々ならぬ衝撃である。
もはや、痛むという認識では無い。腕の中に火が燃え上がって、骨や肉を焼くような感覚だ。
指の力が抜ける。拳は作れるのだが、固めた拳に残る筈の力が、肘から抜けていく錯覚に、村雨は襲われている。
だが拳など、無数の武器の一つに過ぎない――それが、松風 左馬の教えだ。
「――ひぃいやっ!」
村雨が、笛のような声と共に、右爪先を跳ね上げる。たった今、自分を叩いた左腕の、付け根にそれは吸い込まれた。
靴の爪先が、脇の下にねじ込まれる。肉の守りが薄い上に、打たれて鍛える部位では無い。骨をごりっと押し上げる感触が有った。
肺を外から打つ蹴り――呼吸を阻害し、大男を跪かせるだけの効果は有る部位だ。さしもの片谷木も、僅かに動きが鈍るように見え――
「ぐ……っ、さあぁっ!」
――だが、止まらない。
右掌底が、村雨の蹴り足の膝を横から叩いた。膝関節が生木のように、めり、とも、みし、ともつかぬ音がした。
折られる前に村雨は、自ら右脚を外へ振るって、騎馬立ちになる。馬の鞍に跨るような、腰を落とした構えである。重い突きを放つのに向いた型であった。
脚が開き、腰が落ちる、そうして生まれた加速に乗り、村雨は左肘を、片谷木の鳩尾へと突き出す。罅の入った前腕が悲鳴を上げたが、それは戦闘の昂揚に紛れて失せる。
肘が届くまで近づけば、手脚の長短の利は入れ替わる。
左右の肘で打つ、膝を跳ね上げる。或いは肩さえ武器にして、村雨は只管、片谷木を打った。
片谷木は、避けも受けもしないで打ち返す。村雨に二度打たれる間に、一度、掌打を放った。
村雨が、片谷木の膝を蹴る。
片谷木が、村雨の胸目掛けて貫手を放つ。
上体が天井を向く程に反り返り、村雨は、貫手の下を潜り抜けながら、片谷木の顎を蹴り上げた。首が太く、足を振り切る事は出来ない。入れ違い、手刀が二つ同時に、反り返った村雨の腹へ落ちた。
「ご、ぉごっ……!」
少女の物とは思い難い程、濁って潰れた音が、村雨の喉から漏れた。
突きを避ける為に反らせた体が、瞬時に逆に折れ曲がり、背中から床に落ちる。追撃は下段蹴り――頭部を狙う片谷木の足は、下駄のように大きい。村雨は右肘で受け止め、苦痛に呻きながらも床を転がり、片谷木から離れて立った。
既に村雨は、満身創痍であった。
左前腕に罅、右腕も痺れていて、或いは手首の腱がいかれているかも知れない。右膝は折れる手前まで軋まされ、胸も腹も鈍痛が纏わりつく。
それでも、村雨は笑って、立つ。口の中を切ったものか、剥き出しにした牙が赤く染まって、人を喰らった後のような顔をしていた。
「……左馬、これ以上は」
「続けろ。村雨が立たなくなるまで、続けてくれ」
片谷木は――躊躇わぬ男の筈であった。
道場破りも殆どおらぬが、年に幾度か、物好きな男が立ち会いを挑んでくる事がある。その時、片谷木は容赦なく、その男の骨を圧し折り、路上まで叩き出した。
手ごわい男に当たった時は、目を潰した事もある。そうしようと狙った訳では無いが、拳の軌道がずれ、眼窩を叩き壊したのである。
貫手――指先での突きで、肩の腱を引き千切った事も有った。武術家としての生を断つ技である。
だが、それは飽く迄も、互いの同意の上での事だと、片谷木は考えていた。
目の前の少女が――村雨が、片谷木には理解出来ずに居た。
見るに、武術に命を捧げたとも見えない。命じられるままに拳を構え、些か未熟な技術で打ちかかって来た――それでも、十分な礼として、正拳を返した。戦いに故が無いなら、それで終わりだろうと思った。
それが、立つのである。
嬉々として立ちあがり、激しい痛みをも意の外に置いて、鋭く打ちかかってくるのである。
一体この少女は、自ら望んでいるのか、別な何かに動かされているのか、片谷木には分からなくなった。
痛む筈の右脚で、村雨は蹴りを打つ。間合いの外から飛び込んで、爪先で目を狙う、打点の高い前蹴りである。片谷木は額で受けた。
右足が床に降り、村雨がぐうと踏み込む。頭突きでの迎撃に対し、自らも頭突きを返さんとしているかの様に、背をのけ反らせての踏み込みである。それに片谷木が、右拳を合わせた。
すると、片谷木の視界から、村雨は忽然と消えていた。
「ぬ……!?」
突き出した拳を引き戻し、速度をそのまま、右肘に乗せて背後を薙ぐ。手応えは無い。村雨は、片谷木の拳の下を、上体を反らしたままで潜り抜け、背後で屈んでいたのである。
頭上を片谷木の右肘が薙ぎ、髪を擦りながら戻って行くのを感じた時、村雨は跳ねた。両脚を片谷木の胴に巻き付け、罅の入った左腕を、片谷木の首にあてがった。右肘の内側に左手を当てて、右手を片谷木の後頭部に置き、両腕で首を絞りながら、右手で片谷木の頭を、俯かせるように押し込んだ。
「おう、裸絞めか」
左馬が、持参した酒を煽りながら言う。左馬の見立てでは、血管を押し潰すに足る角度であったが――村雨の腕と、片谷木の首を思えば、瞬時には落とせぬと分かっていた。
事実、片谷木は動いた。
両手を背後――村雨の頭蓋へ伸ばし、掴む。両手合わせ十指――人の肉を千切り取る指である。耳でも鼻でも――望めば目でも、親指で潰せる位置であった。
村雨の瞼に、片谷木の爪が触れた。僅かに力を入れれば、眼球が砕ける。容易く光を奪いとる事が、出来る筈だ。
然し――それまでであった。
片谷木は村雨の頭を掴んだまま、膝を床に着いていた。開いた口から、舌が垂れ下がっていた。




