表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
111/187

鋼拳のお話(2)

 松風 左馬が居を構える神山の、中腹に浅い川が有った。

 一番深い所でも膝を濡らす程度の、魚も然程は澄まない、狭く小さな川である。

 春ならば周囲を覆う木々に花が咲いて、雅やかな風情さえ灯すのだが、今は枯れ木と枯草に、それから雪が囲む山水画の如き風情であった。


「ああ、一日ぶりだ……戦場は嫌いじゃないが、血が髪を固めていけないな」


「師匠も兜被ったらいいんじゃないですか?」


「それはそれで髪が崩れる」


「崩れる程の長さも無い癖にー」


 村雨と左馬は、その川で体を洗っていた。

 別に銭湯代を惜しむような暮らしはしていないが、血塗れで武具を携えていては、そも受け入れてくれる店が無いのである。

 身に付けている衣服全て、村雨は鎧から兜から何まで、全て真っ赤。脱いで川岸に並べ、まずは自分の体から洗っていた。


「褒賞も出た事だ、舶来の石鹸でも買うかい?」


「有れば確かに良いですけどね……はぁ……」


 川底の石に脚を預け、左馬は湯船に浸かるかのように、流れに手を遊ばせている。冬の寒さなど知らぬかの如き、平穏な面である。

 その身に、九頭の龍が絡み付いている。多色を用いた刺青である。普段は袖の長い衣服を着ている左馬だが、肌を露わにすれば手首にも足首にも、全身余す所無く、龍がその身をのたうたせている。

 一方で村雨は、やはり数か月程度では特に何が変わるでも無く、大陸でも雪国だけに有るような白い肌である。傷は幾らか増えていたが、何年も残るような傷は無い。そして、やはり変わらず薄い胸を上下させ、しきりに溜息を吐いていた。


「どうした、疲れたのかい?」


「師匠が元気なのがおかしいんですよー……」


 村雨の表情には、疲労の度合いが見て取れた。夜を徹した戦の後、道場を三つも回ってきたのだから無理も無い――と言いたい所だが、然し左馬は平然と髪を洗っているのであった。


「おかしいかい? それこそおかしいな、お前は私と同じくらいは走れるじゃないか」


「そりゃ、走るのは得意ですけど」


 村雨もそう思っているからこそ、少しむくれているのである。

 実際の所、この二人の身体能力に大差は無い。いや――寧ろ、村雨が上回っている部分の方が、多いのかも知れない。

 左馬は、複合型の武術家である。当然、激しく己を鍛えているが、必要ならばそれに加え、身体強化の魔術も用いる。戦場に立つ時などは特にそうだ。何をも用いない素の性能ならば、村雨は生まれついての捕食者、人と比較など出来ないのだ。

 にも関わらず、同じ局面を潜り抜けて、左馬は疲れた様子も無い。溜息が重なる村雨であった。


「……なんだ、まだ気付いていなかったのか」


「え、何がですか?」


「お前が、私より随分早く疲れ果てる理由」


「そんなの、有るんですか?」


 幾度目かの村雨の溜息の後、左馬は、師匠らしい事を言おうとした。村雨の反応には、溜息を一度返してからである。

 耳程までの短い髪は、既に血を全て洗い流した後で、体――背から胸、腹、四肢に至るまで刺青で覆われた――を川の水で流しながら、左馬は村雨に教えた。


「お前は跳び過ぎるんだ。跳ねて跳んで、避けながら相手に近づいて打つ。悪いやり方じゃないが、動き過ぎる。

 いいかい、七寸横へ動けば、胸骨狙いの突きだって避けられる。なのにお前は、体ごと跳ね上がって上に躱したがるだろう? 確かにお前と私は、同じ人数を相手にしていたかも知れないが、お前は私の何倍も動き回ってる。疲れて当然なんだよ」


「はー……」


「だから、見切りが必要になる。三寸で良いなら三寸、一寸で良いなら一寸。動きは最少に留めて避け、最少の動きで仕留める。喉、鳩尾、相手が男なら金的。こめかみや顎の先、脇腹でも良い、眉間も悪くない。兎に角、一撃で仕留めるには的確に急所を突く必要が有るけれども、それが相手に避けられない為には、迅速な打が必要だ。

 自分の動きを最小にする――お前にはまだまだ、無駄が多いんだよ」


 この日の左馬は機嫌が良いらしく、川の中で立ち上がると、村雨が取るのと似たような構えをした。

 架空の敵に対して左足を引き、半身になる。膝はほんの僅かに曲げて、踵は浮かせる。右拳を腰に添え、右肘を敵に向けて突き出す。左手を開手として、顎の前に置く。

 おおよそ拳法だとか柔術だとか、古来の伝統には似つかわしくない立ち方であるが、それは村雨が、組み技より打撃を得手とするからである。足運びで相手の拳足を躱し、手で打を与える組み立てとなっていた。手に刃物を持てば、そのまま鎧にも対抗できる形である。


「まず、お前が、こうだ」


 左馬の左足が、川面に爆ぜた。慎ましく――とは言うが三尺程踏み込み、右足が激しく水を蹴立てて着水する。 前進する勢いを前足が殺し、上半身が前へ出て――右肘が跳ね上がる。右手首が撓る。右拳が虚空に奔って、ひょうと鳴いた。

 それは確かに、村雨が得手とする、踏み込みからの右拳上段振り上げ突きの形である。拳面を相手の顎に突き刺す、背の低さを補う為の技であった。


「飛び跳ねて打つ、これで一度、お前は動いた。次の相手に向かって行く時は、また跳ねなきゃならない。三人を相手にするのに、お前は三回跳躍する――と、しよう。私ならこうする」


 左馬はもう一度、同じ構えを作った。

 だが、動きは違う。わざと大袈裟にしているのかも知れないが、前足――右足を、腰より高く持ち上げ、


「――かっ!」


 水面へと振り下ろす――川の水が寸刻、逆巻く滝のように舞い上がった。そして左馬は、三挙動を一呼吸の間に終えていた。

 一つ。身を沈めながらの右拳膝打ちと、同時に背後を攫う左裏拳。

 二つ。伸び上がりつつ、両拳をそれぞれ、斜め上方に突き上げる。

 三つ。左腕を振り下ろし、何かを掴んで引くような動作――に合わせ、右爪先が高々と、恐らくは人間の首を想定した位置へ、側面から突き刺さった。


「これで、三人だ。分かったかい?」


「――――」


 答えが無い。


「……おい、村雨」


「は――あ、は、はいっ!」


 村雨は――目を奪われていた、というのが正しいのだろう、左馬の三挙動を目に焼き付けたまま、まばたきもせずに居た。

 過去の己であれば、今の動作の意味も、何故左馬が一連の技を見せたかも分からなかったはずだ。今は、分かるからこそ戦慄している。

 最初の左右打は、何れも低く放たれていた。沈墜の勢いを力に変える、隣国の拳法風の打ち方である。正面に立つ相手の膝を砕きながら――時には股間なり、臍を打つ事もあるだろうが――背後の一人の、胴を強かに打つ。

 次いで、両拳の突き上げ。初撃で崩した相手の顎を打ち上げるものだ。先に沈めた体を跳ね起こしながらの打撃は、踏み込みは無くとも、重い。

 そして、最後の二動作。左腕を振り下ろして空気を掻いたのは、突きを想定してのものである。拳であろうが、凶器を手にしての突きであろうが、手首を掴んで引き寄せ崩し――上段への蹴りで終いとする。

 即ち、左馬が想定していたのは、三人を相手にしての、〝囲まれた前提〟での立ち回りであった。


「相手から近づいて来るなら、相手に動いてもらえば良い。私は迎えて打つ――だから疲れない。あと二つや三つ、道場を潰して回ってもそれは変わらないさ」


「……はい」


 これも幾度目かの、思考の革新であった。

 自分の中には無かった概念を与えられる度、村雨は、目の前の女の、武技の深さに圧倒される。そして、この粋に達するまで、どれ程の壁が有るのかも見えなくなるのだ。強さという道は、霧中に千里を行くが如しであった。


「さて、ところで、だ。今回の〝歩かない踏み込み〟を、お前には教えていなかったね」


 左馬は、思い出したように言う。この日は本当に機嫌が良いのだろう、普段ならば言わぬ事まで、細かに言うのである。


「踏み込みというよりは、その場を踏み締める――捻り、沈むという風に捉えた方がいいかも知れないな。意識としては、そう――」


「っ、はい……」


「――上から五頭目の、右足のあたりを開いて沈める感じだ」


「はい……?」


 言うには言うのだが――然し、あまり上等でない教え方ではあった。己の身の刺青を目印にして、左馬は言うのだが――


「えーと……この辺り、ですか?」


 村雨が、自分の右脚の外側、膝より少し上を指差す。

 僅かに沈黙。そして、ごつん。左馬が拳骨を飛ばしていた。


「何で分からないんだ!?」


「分かるかそんなもん!」


 九頭の龍が複雑に絡み合う刺青である。どこからどう数えて五頭目なのか、右足とは前足なのか後ろ足なのか、まっこと言葉の足りぬ教えであった。暫し師弟はぎゃあぎゃあと喚き合い、何故か其処から殴り合い――という名目で、実際は左馬の折檻が始まる。双方五回程拳を放って、命中したのは左馬の打ったものが二つだけであった。


「うう、理不尽だ……、ん?」


 村雨は我が身の不幸を嘆きながら、殴られた肩と頭を流水で冷やしていた。

 ――と、その時である。風上――川が流れて行く先、山を降る方向――より微かに、覚えのある臭いが漂って来た。

 人ではなさそうな気がしたが、然りとてこの臭いを嗅いだ村雨が思い出すのは、少し賑わった町なのである。どういうことかと首を傾げていると、ますます臭いは強くなった。

 どちらかと言えば、山野に似合いそうな臭いである。悪臭では無いが、骨身に染み付いて抜けない、獣臭があった。はて、何処で出くわしたものかと考えて、


「……あっ!?」


 それがどこか、雪原を思わせる臭いであると思い至るや、村雨は川岸の服を抱いて、真っ先に目についた茂みに飛び込む。それと、中折れ帽にこれまた返り血を浴びた男が、のっそりと現れたのはほぼ同時であった。


「……今、なんか居たな」


 茂みに逃げ込んだ影を、目で追う。六尺六寸の長身が、首も曲げずに目だけで追うのだから、見下ろす角度はかなり急である。

 背は高いが、でかいというのも、また違う。柳のように撓る体を持つ、長身の男である。


「小さな鹿、とでもいうことにしてくれたまえ。……何用かな」


 洋風の丈の長い外套と、中折れ帽。襟を立てて顔を極力隠す。葛桐の格好は、冬でも夏でもまるで変わらなかった。

 昨夜の戦闘にこの男も加わって居たと見えて、洗い流しても血臭はまだ消えていない。体毛にまで染み込んでいるのでは無いかと言う程だ。

 左馬は、あからさまに良い顔をしない――亜人を半獣と蔑む性質である。上機嫌も忽ちに消えて、眼差しにこわい物が混ざった。


「届け物だ、二つ。一つは松風 左馬……お前にか。もう一つは村雨、あの餓鬼だ。あいつは……」


 そういう目には、慣れているのが葛桐である。気にした様子もなく、空を見上げ、鼻を二度程鳴らした。

 人狼程では無いにせよ、クズリも人より鼻は良い。探し人が――いや人狼だが――隠れている草叢に歩み寄った。


「何やってんだ、村さ――」


「やあ! 久し振りだね! どうしたの!?」


 葛桐が草叢をあばこうとするよりほんの僅かに先、早業で着替えを済ませた村雨が、そこから立ち上がった。体も拭かずの早業であるので、立ち上がると髪がべったり顔に張り付き、ズボンの裾から裸足に水滴が滴り落ちているのである。


「……お前がどうした、村雨」


「どこかの誰かが配慮してくれればこんな事にはなってないんだけどね! で、届け物……?」


 髪の水を絞りながら、村雨は無配慮に憤然として立ち上がり、葛桐に話を促す。そうする間も、時折は首を振って水滴を弾き飛ばしている――ちょうど雨に濡れた犬猫のように、である。


「大したもんじゃねえがな……給金の明細だ。振込済み、み月分」


「へ? ……ああ、そうか、全然機会が無かったっけ……あんまり働いて無いしそんなに――って高っ!?」


 村雨が所属する人材派遣業『錆釘』は、給与は手渡しが多いのだが、どうしてもその機会が無い場合に備えて、西洋風に銀行を利用している。まだ町民レベルでは普及していないが、先進的であることを良しとするのが『錆釘』の気風である。村雨が渡されたのは、その口座に振り込まれた金銭の明細が、封筒に三枚、三ヶ月分収まっていた。

 村雨が驚いたのは、その金額である。

 明細の項目は一つ、〝危険手当〟だけなのだが――端的に言えば、村雨が普通に働いている月の平均給与を、五倍もしたような額面なのだ。それが、三ヶ月分なのだから、更に三倍であった。

 食事以外にさして金を使わない村雨は、灰色の目を白黒させて、金額を幾度も見直した。


「……うっわー」


「それが、命の代価だ」


 左馬の方はというと、どうも金額は知っていたらしく――時折、給金を直に受け取りに行っていたのだろうが――村雨の困惑に、理由を説く。

 村雨の表情は、にわかに固くなった。


「死ぬか死なないか、二つに一つ。その博打を繰り返して、勝てば小金が入り、負ければ貯めた金は無価値。……まあ、これでも私達はいい方だ。並の兵士の十人分は貰ってる。悲惨なのは端金で戦場に出され、然も断れない連中だ」


 命の代価――そう表せば途端に、明細に並ぶ数字が小さな物に見えた。

 死ぬか、五ヶ月分の給与か。金銭目的なら、こうも分の悪い賭けは無い。余程食い詰めた所で、乗るか降りるかと問われれば、降りる者が多いのではないか。

 ましてや、弱兵に至れば――月の大半を過酷な調練に費やし、月に一度は命を賭ける。運悪く最前線に配置されれば、それだけ死ぬ危険は増す――死んで報われる何も無い。


「出来るだけ雑に使いたまえ、村雨。こんな稼ぎ方で得た金を、後生大事に使っちゃいけない」


「……はい」


 村雨は何故か素直に頷いていて、実際にこの金は散財しようと決めていた。自分の命の代価にしがみつくのが、どうにも耐え難き事だったのだ。


「それで、お前、お前」


 村雨が豪遊の意思を固めた頃、左馬が、葛桐を呼んだ。

 何とは言わなかったが、目が、話の先を求めている。葛桐もそれを察して、外套のポケットから、封書を一つ、取り出した。


「中身は知らねえ、渡せと言われただけだ……小金になるしな」


「小間使いご苦労、どれどれ……変わらず酷い字だ」


 ひったくる様に受け取り、紙を開き、目を通す。目玉だけ左右にせわしなく動き回り、


「村雨。三日間、道場破りを休もう」


「えっ」


「戦の前準備だ。万が一にも体を痛めるものは止めて、型と空打ちだけにしておく……数日分の怪我は、一日で背負えるからね」


 何やら良からぬ事を企む顔の、左馬であった。


「……なんなんだろう」


「俺に聞くな、帰るぞ。……それとよ、村雨」


「ん、何?」


 仕事を終えた葛桐は、談笑を楽しむでもなく山を降りようとして――


「そこの女に、服を着せろ」


 思い出した様に、言った。


「何を言う、私の美しい肉体を万天に晒す事に、何か差し支えがあるのかい」


「……師匠、人としての恥じらいを――」


 鋼の如き四肢、括れた腹を見せびらかすような格好をする左馬に、村雨は無理と知って忠言をし、


「――あ痛っ!?」


「美醜の分からない奴は嫌いだ」


 拳が奔る。松風 左馬は、反省とは無縁の所にいる女であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ