鋼拳のお話(1)
京の都の、北西に、一風変わった通りがあった。
二条の城から一里も歩くか、金閣寺よりも少し西。殆ど衣笠山に踏み込みそうな所である。
兎角、店が無かった。反物、骨董のような高価なものは言うに及ばず、紙やら筆やら、或いは軽食やら、生活に根付く何もないのである。宿も無く、遊女屋も無く、そして民家も無かった。
代わりに並ぶのが、道場である。
道の左右にぎっしりと、道場の看板が詰まっている。
剣や柔術は言うに及ばず、拳打を極めたと豪語するものやら、蹴術日の本一を謳うやら、無双の槍使いと声高に叫ぶやら。兎角、道場ばかりなのである。
風流が無い。村雨にしてみれば、京に居るというより、江戸に舞い戻った錯覚さえ抱く程だ。大八車を引く若者が声を張り上げていそうな、そんな通りなのである。
そして、治安が悪い。
とは言っても、命を取られる事は、まず無い。物取り、スリの類も少ない。その代わり、暴力沙汰が呆れて多いのだ。
例えば、旅のものが、道場帰りの若者の集団と擦れ違って、肩をぶつけたとする。きっと若者の一人が、ドスをたんと効かせた声でおいと言う。それに直ぐ詫びれば良いが、一言でも言い返そうものなら、拳が飛んでくるのだ。
この通りを歩いていると、道端に人が倒れている事がある。それを見つけた者は、まず倒れた男――ほぼ九割九分、男だ――の顔を覗き込み、それから手を見る。そして、傷があれば放置する――どうせ立って帰るだろうと思うからだ。寧ろ傷が無い方が、急病では無いかと、焦りを覚える程である。
定まった名称は有るのだろうが、誰も正当な名では呼ばない。〝看板通り〟などと呼ばれていた。
「……ししょー。もう狙われてるみたいなんですけどー……」
「ああ、向こうの路地に四人くらい隠れてるね。後ろにも二人か……私の美貌は羽虫まで引き付けるらしいね」
さて、そんな通りを、村雨と左馬が歩いていた。左馬の斜め後ろに、村雨が付き従う形である。
比叡の山攻めを終えた、衣服には血がたんと付いて、具足も幾らか残ったままの姿である。尋常の仕事をする者なら、決して近寄りたくないであろう格好だ。
だと言うに、この日、二人は尾行され、そして待ち伏せを受けていた。
「……意趣返しだろうね。顔は見えないが、覚えはあるかい?」
「えーっと、えーっと……二十日くらい前の、だと思います。柔術道場に、師匠が酔ったまま飛び込んだ時の」
「ああ、あの時の……うっかり床板まで踏み抜いた時のだったっけ。ボロ道場だったなぁ」
姿が見えぬでも、分かることは有った。
例えば、伏せている連中からは、血と汗が幾度も染み付いて、洗っても完全には抜けなくなった道着の臭いがする――これは左馬の鼻でも分かる。
村雨だともっと直感的に、これはいついつに何処で出会った誰某の臭いだと嗅ぎ分ける。加えて、普通に暮らすより少し色濃く、鋼の臭いもした。
背後の足音は、かなり足早に近づいて来ているが、気配を消そうという努力も窺える。前方、路地に隠れている四人ばかり隠れているのは、呼吸音やら身動ぎが生む微音やら、そういうもので分かる。
腕前の程は――図るまでも無い、以前に見たばかりだ。未熟者どもであった。
「ところで、村雨」
「なんですか?」
「江戸は銭湯が多いが、こっちは随分少ないね。何処か、おの格好で行っても良いような所は――」
「幾ら江戸でも、この格好は無理だと思いますけど。岡っ引き呼ばれますよ師匠」
「火事と喧嘩は江戸の華なのに?」
「赤すぎる桜は気味悪くないですか?」
二人は殊更呑気に構えていた。戦場帰りの事ゆえに、鎧具足も、得物も携えたままである。
世にも物騒な二人連れの女――村雨は、両手指を頭の後ろで絡めて、左馬は左手で欠伸を抑えながら、左手側の路地の前をとおりすぎようとしていた。
その時、路地の暗がりの中から、一条線を引いて飛んだものがあった。拳より大きな石であった。
左馬は面倒そうに首を傾けたが、そうしなければ確実に、左目を潰していた軌道である。躊躇の無い奇襲であった。
飛んで行った石が、通りの向こうの塀に当たるより早く、少し後ろを歩いていた村雨の後方から、二人の男が鬼の形相で走って来た。何れも手には短刀を握っている。短いが鍔の付いた、刺しても手の中で滑らぬ短刀である。
二人の男は、歩幅に差が有った。ひょろりと背の高い男が、村雨の背に刃を突き出す、村雨は振り返りながら、右籠手で男の右手首を強かに打ち――左肘を、男の顎に掠めた。
かこっ、と軽く乾いた音がした。男の膝が崩れ、どしゃっ、と地に落ちた。尺取り虫が歩む最中のように、ぐにゃりと曲がった、不恰好な倒れ方であった。
その辺りでようやっと、二人組のもう一人が追いついて、そのまま村雨の胸へ体当たりを仕掛けて来た。肩をぶつけながら、腹を短刀で抉るつもりなのである。
ぐいと突き出された分厚い肩を踏んで、村雨は高く跳んでいた。跳躍の最後の踏切で、丁寧に男の頭を蹴り飛ばしてである。頭を酷く打たれぐらついた男――の頭上へ、村雨はそのまま両足から落ちた。都合二度踏みつけられた男は、胡座を掻いたような格好で動かなくなる。がぁがぁと、いびきのような呼吸が零れて居た。
「ああ、驚いた。女相手に不意打ちとは情けない、臆病者め」
左馬はここまで何もしていないが、妙に勝ち誇った顔で、暗がりに笑いかける。それが気に入らなかったか、四人の男がぞろぞろと出て来て、村雨と左馬を囲んだ。
最初に出てきた二人は、怒りで体が膨れて見える。一人は、何を考えているのか良く分からない顔だ。最後の一人は、既に気後れが見えている。
「………」
「だんまり、か。でも素性は分かる。確かあっちの――」
男達の殺気に構う事無く、左馬は少し背伸びをしながら余所見をした。通りの、ここから数十間ばかり離れた所にある、ボロ屋根を見たのである。露骨な隙であった。
「うおぅっ!」
「あ、井川、馬鹿――」
息巻いていた男二人が、同時に前に出た。ぼうっとした顔の男が忠告したが、間に合わずであった。
井川――この群れの首謀者、血気盛んな男である。背は低いが、骨が太くてごつい男であった。頭を両腕で囲って、守りながら左馬へ突っ込んで来た。
同時に出てきた。これも大柄とは言い難いが、左馬よりは背の高い男――柳と言う。柳は、左馬の襟を掴もうと手を伸ばしていた。
意図してのものかどうかは分からぬが、今回は中々の良手であった。左馬の背後には、背中合わせに村雨が立っている。後ろへ下がれないというのであれば、左右か上にしか逃げ道は無いが――右手からかぶさるように手を伸ばす柳と、左手から潜り込む井川。挟み撃ちの形になっていた。
この日の不幸は、左馬が戦帰りだった事である。
井川の両腕の防御の上に、左馬が、八尺の金属棒を、掬い上げるように叩き付けた。そうしながら、もう一端で柳の右鎖骨を、此方は沈めるように殴っていた。
棒とは、中々に器用な武器である。真ん中を持って回すように振るえば、一端が浮く時、もう一端が落ちる。これで、二面を同時に打てるのだ。
利き腕の根元を砕かれ、柳が反射的に体を丸めた――丸めようとした。下がる顔面を、左馬の足の甲が迎えた。足裏が天頂を向く、派手な蹴りであった。
柳が昏倒し、倒れる。その間、井川は腕の痛みにのたうち苦しんでいた。
骨を、防具も無しに強打されたのである。指を箪笥にぶつけるのとは訳の違う激痛が走った。恐らくは、前腕の骨が折れていた。腕を潰されて戦う程の気骨は、襲撃者には備わっていなかった。
「あー、あー……止めとけって言ったのに……」
さて、六人の襲撃者が、これで残りは二人だけである。
ぼうっとした顔の男が、倒れ伏す同輩を眺めてため息をついた。仲間が殴り倒されるのを黙して眺めていただけの、肝の太い男である。
この顔は、村雨にも左馬にも覚えが無かった。六人組のうちの五人は、顔もなんとなくだが覚えがある。道場破り道中で、実際に殴り倒したり、壁際に並んでいた者達である。
「そこのお前、お前。こいつらのお仲間かい?」
「んん。一応」
のっそりと、男は頭を下げた。――頷いたらしかった。
表情は締まらぬままである。目を瞑れば、そのまま寝てしまいそうな、だらけきった顔だ。
「この前は、何処にいた」
「……寝坊して、家で寝てた」
「へぇ。お前、のんびりした男なんだね」
頭をばりばりと引っ掻きながら、男は少し恥ずかしそうに答えた。怠惰を恥じる気性はあれど、その正常な感性が、恐怖を覚えてはいない――どうにも、一風ずれた男であるらしかった。
それが、左馬にはいたく気に入ったらしい。肩を小刻みに振るわせて笑った。ぐつぐつと煮えた鍋の湯気が、蓋を浮かせるような笑い方であった。愉悦が腹の底から湧き上がって来たのである。
「我流、松風 左馬。手合せを願おう」
気取って名乗り、金属棒をその場に落とした。両手とも拳を作って、軽く掲げ、踵を浮かせた。
たん、たん、と小刻みに跳ねる――西洋の流儀の格闘術である。左馬が〝自分のやり方〟としているものではない。
伊達に飾るのが好みの女が、どうしてこうも実戦本意に構えたかと言えば――敵に敬意を払ったというのが一つ。そして単純に、負けたくないというのが一つである。
「……く、ふ、ぐふっ、ふ」
男は、気味の悪い笑い方をした。締まらぬ顔の侭で笑って――懐から、寸鉄を取り出した。五寸程の金属に、中指を通す輪を付け足した暗器である。
指を輪に通して握り込むと、拳が重くなるのに加え、中指を金属の輪が覆うのと、拳の左右に金属が突き出す。ただ殴るのも良いし、鉄槌――握った拳の小指側、手の肉の厚い部分を落とす打撃――などすれば、突き出した金属が刺さる。
然し、構えは柔術なのだ。足をべたりと地面に触れさせて、両手とも体から少し遠くに置く。腰は低く、でかい図体を無理に縮めたような構えである。
「五銭流柔術、北条 六……受けた」
この男、北条もまた、修羅であった。
ざりざりと、靴の底を路上に引きずって、左馬に迫る。北条が詰めた間合いの半分だけ、左馬が下がる。これを三度繰り返すと、男の拳が左馬の顔に届く距離となった。
それでも動かない――僅かに間合いが遠いのだ。寸鉄を携えながら、北条は飽く迄、柔術で左馬を仕留めるつもりであった。
北条は、牛に似ていた。力は有るが、外から見る姿は温厚で、普段はのったりと動く。だが、脚や肩の起りを見ると、内に秘めた力が垣間見えるのだ。
鈍牛の周りを、左馬が回り始めた。細かに飛び跳ねながら、横へ、横へ。止まらず、動き続けた。
北条は、その動きを、自分も体の向きだけ変えて追い掛けていく。背後に立たれたい相手では無いのだから、当然の事だ。
時ばかりが過ぎるように思えた。間合いは変わらず、北条の拳が、左馬の鼻を潰せる所にあった。
然し――何も変わらないように見えても、それは飽く迄、傍目の事。当事者二人の間には、奇妙な一体感というか、同じ場を共有する者同士の調和が有り、それが変化を読む事を容易くしていた。
例えば――北条の瞼を伝う汗、左馬に蓄積した疲労と眠気、風向き、遠くの人の足音。その他、意識を外へ引っ張る一切に加えて、互いの呼吸。意識して読むのでは無かった。動物的に、嗅ぎ分けていた。
先に動いたのは、北条であった。対峙してから幾分かの――洋風の言い方をすれば〝五分程〟の――時間が過ぎてからである。
柱の様に太い脚が、左馬の左膝目掛けて振り抜かれた。下段の回し蹴り――こちらも、日の本の技術としては珍しいものであった。
左脚を上げ、脛の部分で、左馬はそれを受けた。見た目を裏切らぬ衝撃が骨まで届く。これを機と、北条は一気に距離を詰め、寸鉄による諸手突き――両拳同時での打撃を、左馬の喉元へと放った。
受けなかった。弾きもしなかった。左馬はほんの一歩、斜めに踏み込んで、
「〝阿〟ッ!!」
突いた。右拳で、喉であった。狙われた場所へ、左馬は返礼をしていた。
北条の体がゆらりと傾いて、仰向けに倒れる。意識は無い。時折咳き込むが、口の端から零れるのは、気道から上る血であった。 これで、六人組は、残り一人。とはいえ、その一人は完全に怖気づいて、左馬にも村雨にも、一歩も近づけぬ様子である。
「片付けを頼む。良い男だ、死なせないでくれたまえ、いいね?」
その臆病者に、背を向けながら言い残して、左馬は何事も無かったかのように歩いた。
投げ捨てられた金属棒を拾って、村雨がその後を追った。
この日、二人が訪れた道場は三つ。看板を奪われた所は無い。叶わぬ相手には、金銭で話を付けるのが、賢い連中のやり方であった。




